白い肌の家庭教師
「ルミル!」
声は空から聞こえた。自分の名を呼ばれて、そのときほど嬉しいと感じたことはなかった。
見上げると赤と青の認識灯を点滅させたドローンが3メートルの高さの所に浮かんでいる。そこから見下ろす知的な白い顔は、暗闇の中でもよくわかった。
「ホワイト先生!」
ルミルは声を上げた。
湯川ホワイトは、4年前からルミルの家庭教師をしている大学院生だ。国際先端技術大学細胞システム研究センター長の湯川麗子博士の娘で、まだ二十歳だが飛び級で大学院に進学した天才だ。
ドローンから身を乗り出したホワイトが、頭から落ちるように一回転して飛び降り、驚くルミルの隣に着地した。ドローンはホワイトの上空で静かに浮いたまま次の命令を待っている。
「獲物が増えたぜ」
男たちはホワイトが現れたことを喜び、新たな獲物をゼットが手にする前に確保しようと動く。足を1歩進めて包囲の輪を狭めたとき、ホワイトが膝近くまであるスカートをたくし上げて白い太ももをあらわにした。
「なんだ。積極的だな」
六芒星の男は、ホワイトがルミルの身代わりになるために降りてきたのだと思ったようだ。
「物わかりのいい女じゃないか」
髪の青い男がにやりと笑い、ホワイトの手を取ろうと動いた。
ホワイトの眼は男たちの動きを捕らえていて、髪の青い男が体に触れるのを許さなかった。長い右足が空気を切り裂き、彼の横面を襲った。
――フゲゲェ!……彼の顔はゆがみ、身体は横に飛んだ。
「キャッ」
悲鳴を上げたのはルミルだ。
ホワイトの足は地面に着くことなく隣のリーダーの顔にまで届き、鼻にぶら下がっていたアクセサリーを吹き飛ばした。肉の千切れた鼻から鮮血が飛び散り、隣にいた赤い髪の男の頬を染める。それは、ホワイトの足形をしていた。
「キャッ……」
ルミルは再び悲鳴を上げ、両手で目をふさいだ。血を見るのも怖かったし、ホワイトが暴力をふるう姿も見たくなかった。
「このやろう」
「殺すぞ」
ホワイトを取り囲んだ男たちは威嚇したが、3人の男を蹴り飛ばしたホワイトは恐れなかった。右足を浮かせたまま微動だにしない。自分の中に流れる時を感じるように呼吸さえも乱れていなかった。
フッ!……それはホワイトが胸の奥に溜まった空気を吐き出した音であり、スイッチが入った印だ。
右足が地面に着き、代わりに左足が冷たい空気を切り裂いた。ホワイトのシューズは、エンジェル団のマントを吹き飛ばし、マントを失った男が2人、ボーリングのピンのように倒れた。
「死にやがれ」
ボキャブラリーの少ない超悪魔団の4人が息を合わせて接近すると、ホワイトの拳がほほを打ち、鼻をつぶし、膝蹴りが大男の股間にくいこんだ。ボコ、ガツッという骨と骨のぶつかり合う音が響いた。
――ギャッ――
――グエッ――
――ゲェホ――
――ホゲッ――
男たちが悲鳴を上げ、のけ反り、転倒し、もだえ苦しむ。
目を閉じているルミルは、周囲で繰り広げられる暴力になすすべもなく、恐ろしく、苦しく、情けなかった。
ホワイトの背後から迫ったエンジェル団のリーダーのコメカミに後ろ回し蹴りがくいこんだ。リーダーのはじけ飛ぶ様子は、映画のスローモーション映像のように、まだ無事な男たちの目に映った。男たちが距離を取る。逃げることを考え始めているようだ。
ゼットはルミルの肩に手を置いたまま、ホワイトが男たちを蹴散らすさまをリラックスした表情で静観していた。
「ゼット、手を貸せ」
よろよろと立ちあがったエンジェル団のリーダーが助けを求めた。
「俺は、女とは戦わない」
ゼットの声を聞いたルミルは目を開け、ゼットの口元を見上げた。
「あいつは強い。それに、外から来たやつだぞ」
超悪魔団のリーダーがすがるように言う。
「だが、女だ」
ゼットは拒否した。
「外のやつを守るのか?」
「誰も守りはしない。外のやつも、女も、スラムの男たちも」
彼は冷たかった。
「覚えてろ!」
超悪魔団とエンジェル団は伝統的な捨て台詞をはいた。それから白猫にいじめられたミニチュアプードルのように逃げた。
ゼットが肩においた手をどけ、肩が解放される。ルミルは身体が軽くなるのを感じると同時に、どこか心もとないものを覚えた。
「大丈夫、怪我はない?」
ホワイトがゼットに警戒しながらルミルを引き寄せた。
「私は大丈夫」
ルミルはホワイトに抱き着くと、胸が異様にドキドキしているのに気づいた。経験した恐怖やホワイトに救われた安心感のためではなく、ホワイトの匂いがそうさせるのだ。ゼットとホワイトの匂い、そして爬虫類のような黒い瞳はよく似ていた。まるで兄妹のように。
「怪我はない?」
頭の上から声がした。ルミルは、恥ずかしくなって抱き着いていた手を緩めた。
屈んでルミルの腰に手を置いたホワイトが、「大丈夫?」と訊いた。ルミルの頭のてっぺんからつま先までつぶさに点検する様子は、まるで母親のようだ。
「どうしてここに?」
ルミルは元気を装った。ついさっきまで怯えていたことを隠すように。
「20時から授業ですよ。ルミルが部屋にいないから、GPSを追ってきたのよ」
「そっか」
ルミルは苦笑いを浮かべる。ホワイトが頭を子供のように撫でるので、少し身を引いた。ゼットが見ているからだ。
黙ってホワイトを観察していたゼットが唐突に口を開いた。
「おまえ、エクスパージャーか?」
「エクスパージャー?」
ホワイトが首をかしげる。
「いや。知らないのならいい」
それだけ言うと、ゼットはホワイトとルミルに背中を見せた。
「ゼットさん、ありがとう」
ルミルは手を振った。
聞こえているはずなのに、ゼットは足を止めることさえせずに闇の中に消えて行った。
「さあ、帰りましょう。社長が心配しているわ」
ルミルは黙って歩き始めた。ホワイトが母親を持ち出したのが面白くなかった。
ホワイトが呆れたといった表情を作った。
「私のドローンに乗って」
「私、歩きます」
ルミルは足を止めなかった。すると、ホワイトに腕を取られ、強引に彼女のドローンに乗せられた。
「この方が早いのよ。それに、速いし」
彼女が言った。
「ホワイト先生って、強いのね。知らなかった」
「そう?」
「そうよ。相手は10人もいたのよ」
「11人よ」
「そうそう。超悪魔団が6人に、エンジェル団が5人で11人」
「足し算は合格。超悪魔団とエンジェル団というのね。おかしな名前」
「もう、先生ったら馬鹿にして」
思わず笑みがこぼれた。
「家に着いたら、磁場極性とマイクロマシンのコントロールについて、をやるわよ」
「物理は苦手だな」
「それなら、歴史をやる? 21世紀の資本集中とエネルギー革命について」
「それも苦手だな」
「何だったら、やる気が起きるの?」
ホワイトが苦笑した。
「ホワイト先生みたいに強くなる方法を教えて」
「武道は精神の鍛練から入るの。きっと、磁場極性を理解するより辛いわよ」
「私も自分の身は自分で守らなければならないと思うのよ」
ホワイトがルミルを見上げた。
「人には適性があるわ」
「私は強くなれない?」
「戦って負けるのは下策、勝つのは中策、戦わなくてすむようにするのが上策よ」
「戦わなくてすむ方法なんてあるの?」
「君子、危うきに近寄らずというわ」
「敵の方から攻めて来たら?」
「攻められる理由を作ったことに問題があるのよ。そんな時は、さっさと逃げることね。逃げるが勝ちというでしょ」
「ふーん、なんだか、煙に巻かれたような気がするなぁ」
「それが、上策なのよ」
ホワイトがにんまりと笑った。それにルミルは気づかない。
「でもでも、先生はどうして強いの?」
「私は特別なのよ」
「そうかな?」
「どうして?」
「さっきのゼットという男の人も、ホワイト先生と同じ匂いがしていたわ」
「匂い?」
ホワイトが自分の袖口の匂いを嗅いだ。
「その匂いじゃなくて、雰囲気というのかな」
ルミルはごまかした。体臭を感じたと言うのが恥ずかしかったからだ。
「顔も似ていたような気がする」
「私は男みたいだというのね」
ホワイトがルミルを見上げた。
「そうじゃないけど……。エクスパージャーか、ってきいていたわよね。それって、なあに?」
「さあ、私も初めて聞いた言葉よ」
ルミルは髪飾りに内蔵したウエアラブル端末で、エクスパージャーという単語を検索した。
『該当するデータはありません』
検索結果が脳内に直接送り込まれた。
「だめだ、ネット上にもない言葉だわ」
「そう……」
それから2人は黙って歩いた。ほどなく大通りに出た。
橋につながる広い道路を、大型冷凍コンテナを積んだトレーラーが列をなして走っている。異種族の国へ遺体を運ぶコンテナだが、そのことを知る市民は少なかった。ルミルも同じだった。
路肩にホワイトが呼んだロボット・タクシーが待機していた。2人はそれに乗り込みルミルの家に向かう。無人のドローンはタクシーを追尾する。
「今日のことは、ママには内緒にしてね。ばれたら外出禁止になっちゃう」
ルミルは猫なで声で頼んだ。
「ドローンが無くなったことは、どう説明するの?」
「それくらい小遣いで買うわよ」
「社長も甘いのね。我がまま娘に、そんなに小遣いを上げているなんて」
「ママじゃないわよ。パパがくれるの」
ルミルは応じ、遠ざかるスラム街を振り返った。もう一度ゼットに会いたいと思った。
エクスパージャーとは何か? 物語の鍵になる存在です。
最後まで読んでいただけたら嬉しいです。