ファントムの腕
SETの合同葬儀の後、日本のファントムは影をひそめた。政府は、武装警察の弾丸を浴びたファントムたちが力尽きたのだろうと発表した。
他方、アフリカや南米で暴れまわるオーヴァルの勢いは衰えることなく、日本政府は上陸を警戒して、空港や港湾での入国管理体制を強化した。
ファントムは再び現れると杏里は確信していたが、それでも平穏な日常が続くと危機感が薄れ、SETの経営もあって訓練時間が減っていた。
新たに加わった千紘は、怒涛の戦士青龍として訓練にはげんでいた。もともと運動神経の良かった彼の成長は早く、半月ほどで向日葵と同等にNRデバイスを使いこなすようになり、実践に出る機会を楽しみにしていた。
「失礼しますよ」
リンクボール・ルームにアサさんが顔を見せる。掃除以外で下りてくるのは珍しいことだ。
「何かあったのかしら?」
中央のテーブルで経営戦略を練っていた杏里は顔を上げた。
「緊急のメールが届いたよ」
アサさんがメモリーチップを差し出した。地下の研究所のネットワークは、リンクポッドのネットワークや研究データをハッキングから守るために外部のネットワークから独立している。SETの基幹システムも全くの別系統だ。インターネットの利用はアサさんかシンゴさんの頭脳を経由して行われる。彼らが電子的にも物理的にもファイアーウオール機能を果たしていた。もし、シンゴさんにハッキングが行われて乗っ取られるようなことがあれば、アサさんがシンゴさんを物理的に破壊することになっている。
日常的なメールならアサさんがスマホに転送してくれるのだが、その日は、膨大なデータを含んだメールのために、アサさんがメモリーチップに入れて運んで来たのだ。
「一応、ウイルスチェックはしておきましたよ。インターネットなんて途中で覗きこまれるかもしれないのに、福島クルミ博士は無防備だ。注意しておいた方がいいよ」
アサさんが姑のように言った。
有能な科学者は時に世事に疎い。クルミも同じでSETの専用回線を利用しなかったのだ。
「そ、そうね。今度、注意しておくわ」
杏里がたじたじと応えると、アサさんはヒューマノイドらしからぬ満足そうな笑みを作って帰った。
膨大な量のデータは、ファントムに関する福島クルミの報告書だった。それをタブレットに読みこんだ。膨大な文章と腕の構造、細胞の電子顕微鏡写真、細胞を作るたんぱく質の構造図などが並んでいる。
「切り落とされたファントムの腕の分析結果だわ」
声にしたのは、仲間に伝えるためだ。
「私にも見せて」
二つのリンクボールのハッチが開き、裸の向日葵と千紘が姿を見せた。2人のNRデバイスはそれぞれの学校で授業を受けている。
杏里の視線は千紘に向く。見てはいけない、と思っても、ついつい彼の股間に目が行ってしまう。やはり男性の肉体は見慣れない。
「……分析結果によると、ファントムはキマイラね。それも、普通のキマイラじゃない」
報告書の結論部分を読んだ。
「キマイラ?」
杏里のタブレットを覗き込む向日葵が首を傾げた。
「ファントムは複数の生物の遺伝子を結合して作られた人工生命体らしいわ。大型スクリーンに映すわね」
ファンクションキーにタッチして壁の大型モニターに映像を送る。
「いったい誰がそんなことを……」
小夜子がつぶやいた。
「こんなことができるのは、ユリアナ・トトぐらいだろうと書いてある。トアルヒト共和国出身。生きていれば35歳。16歳から25歳まで、日本で生命工学を学んでいた天才らしいわ。もっとも、可能性であって、確実な話じゃないということだけど」
杏里は画面をスクロールさせた。
「クルミ博士と同じぐらいの年齢ね。それでユリアナ・トトのことに思い至ったのかもしれないわね」
小夜子が応じた。
「これを見て、ユリアナ・トトの写真よ」
4人は壁のモニターに映し出されたユリアナの上半身の写真に目を凝らした。栗色の長い髪は緩いウエーブをつくっていて、逆三角形の顔ととがった顎が特徴的だ。黒い大きな瞳には少女のようなあどけなさがある。両肩に触れるように別人の肩が写っているので、その写真が集合写真からの切り抜きだと分かった。
「大きなダイヤね。金持ちの娘なのね」
向日葵が白衣の胸元に光るクロスを指した。その十字架が虹色に輝いているのは十五粒のダイヤが光り輝いているからだ。
「本物のダイヤならね」
水を差したのは千紘だ。
「生きていれば35って、ユリアナは死んでいるの?」
向日葵の質問をうけ、杏里は端末を操作して後半に書かれたデータを読む。
「25歳の時に首都医学大学院遺伝子工学研究室を離れ、それ以降の消息は不明」
「どういうこと?」
「私が……」
小夜子がタブレットを受け取り、モニターの正面に立った。ざっと目を通してから、ゆっくりと口を開いた。
「彼女は24歳の時、免疫的に不可能と言われていた異種間の遺伝子を接合してキマイラを作ることが出来たと学会に発表。その時に創られたのがラットとタコの遺伝子を利用した陸上でも水中でも生きられる哺乳類の受精卵だそうです。その研究は、世界中の科学者と宗教家から倫理的な批判の対象になり、メディアもバッシングに走った。……あぁ、私にも記憶があります。当時、私は高校生でしたが、連日ユリアナたたきのニュースが流れ、ユリアナが記者会見で泣いていました」
「そういえば、なんとなく私もそんな記憶があるわ」
杏里は記憶をまさぐり、幼いころに見たテレビニュースを思い出した。それは優しかった両親の姿と結びついていて胸を激しく締め付けた。
「学会にいられなくなったユリアナは帰国したと思われるが、その後に論文の発表はなく、公の場で姿が確認されたこともない。それで、生きているのか死んでいるのかもわからないということです」
小夜子が口を閉じた。
杏里は、モニターに映る美女の姿を見つめ、脳裏に焼き付けた。それが、直面する敵の開発者かもしれないからだ。
「キマイラの製作者が分かったところで、ファントムを倒せるわけじゃないよ」
千紘の乱暴な言葉が悲嘆の海に溺れかけた杏里を救った。
「ファントムの遺伝子は人間と昆虫のものが主で、他にカメレオンとタコの遺伝子の一部が見つかったらしいわ。腕に骨格はなく、外皮が骨格の代わりをしている。昆虫に近い構造だということです。内部の圧力を変えて外皮の硬度や形状を変えることができ、皮膚からはカメレオンの色素胞内と同じ透明ナノ光結晶が見つかったそうです」
「カメレオンとタコの遺伝子を持っていたら、皮膚を変化させるのはお手の物だろうね」
千紘はバスタオルを巻いた姿で腕立て伏せをはじめた。戦いに備えるためにではなく、誰よりも立派な胸筋を持ちたいという願望が動機だ。暇さえあればトレーニングをするのが習慣、いや、習性のようだ。
「外皮を変形、硬化させて刃物にするのは、私たちと同じだ」
向日葵は、NRデバイスを操って変形するのが上手くなっていた。向日葵のアドバイスで杏里と千紘も身体の一部を好みの武器に変えられるようになったが、小夜子だけは運動音痴が祟ってか、未だに武器さえ作り出せていない。
小夜子がレポートの報告を続ける。
「体温は、おそらく25度前後。生活環境と近すぎて熱センサーで捕捉するのは難しいだろうということです」
「昆虫やカメレオンの遺伝子が組み込まれているのなら、低温下での行動は苦手なのじゃないかしら?」
「それはないよ。葬儀の日は寒かったけれど、それでも強かったからね」
向日葵が大きくうなずいて千紘に同意を示した。
「少なくとも、日常的な低温下での活動には支障がないのでしょう。影響が出るとしたら、冷凍倉庫かしら」
「手の持ち主は、女性らしいわ」
小夜子が言った。
「女性?」
襲ってくる相手が、女性だと知って驚いた。子孫を増やす女が、何故、他の命を奪おうとするのか……。そう考えると切なくもあり、ファントムという存在が増々理解できなくなった。
「とても女には見えなかったな」
「メスということ?」
向日葵が抗議でもするように、腕立て伏せをする千紘の背中に乗った。
「女性かメスか。それは人間かそうでないかと言うことかしら?」
杏里はファントムと戦うようになってから、ファントムが人間だと考えたことがなかった。だからと言って、ロボットや昆虫のように考えたこともない。理屈では人間ではないと考えながら、見た目には人間の姿をしたファントムを、無意識の内に人間同様に扱っていた。そのことに答えを出すことを躊躇っていたようなところがある。今まで判断を保留にしていたものが、科学的な分析によって人間とは異なる生物だとつきつけられ、どのように認識すべきかと戸惑った。
「それならメスだ」
千紘がいう。
「見た目は人間だけど」
向日葵が釈然としない思いを言葉にする。
「遺伝子の一部は人間。外見や行動は人間。中身や能力は人間の規格外。それを人間と考えるかどうかということね」
小夜子がまとめる声は、ひどく冷たいものに聞こえた。
「人間の規格って何よ。姿かたちだって、遺伝子だって、人類が全部同じだというわけじゃないでしょ?」
向日葵が抗議するように言った。
「骨格がないんだろう? 脊椎動物じゃないなら、人間じゃないよ」
「ヒロの意見はざっくりしすぎ。それじゃ、サルも犬も人間と同じじゃない」
「ファントムは明らかに高度な思考回路を持っている。脊椎はなくてもサルや犬より優れているわ」
「思考力が人間を判断する基準なら、量子コンピューターだって人間になるな。シンゴさんやアサさんをみてみろよ。彼らの思考は人間と違わないよ」
「オスとメスの区別があるなら、繁殖できるということですね」
小夜子が新たな視点を提供する。
「シンゴさんとアサさんが?」
向日葵が目を丸くした。
「向日葵ったら、何を馬鹿なことを言うの。ファントムのことでしょ。繁殖方法までは分からないみたいね」
「葬儀の場には、別のファントムがいた。それがオスなら……」
「いやだ、えっち」
向日葵が頬を染めた。
「何を想像したんだ?」
千紘が笑う。
「増えたら大変よ」
杏里が言葉を残してリンクボールに姿を消した。SET本社で業務に当たっている白虎とデータリンクするためだ。
「どうしてユリアナ・トトは、ファントムを作ったのかしら?」
小首をかしげる向日葵を千紘は笑った。
「決まっているじゃないか。ファントムを使って、自分をいじめた連中に復讐するためさ」
「男は単純ね」
向日葵が笑った。
解明されるファントムの肉体。その想像主と思われるユリアナ・トト。
そこにファントム殲滅の鍵はあるのか?
いつも読んでいただきありがとうございます。
物語はまだ半ばです。ぜひ、最後までお付き合いください。
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