NRデバイス
杏里は改めてNRデバイスが再現した嶋小夜子を観察した。その顔や手足が本人そっくりなことは言うまでもなく、デザインネイルや黒子、股間の小さな茂みさえ、リンクボールに入った小夜子そのものだ。豊満な胸が息づく様子は、本当に呼吸をしているように見えた。
「ほえー」
向日葵がいつもの声をあげた。
妹はまだ子供だ。……杏里は不安だった。両親を失い、これからは何事も彼女と決めなければならないのだが……。期待するのは難しそうだ。
「リンクボールは私の外観をスキャンし、そっくりそのままに再現します。キューブは私の脳波を読み込んで、私の記憶や感情表現までも再現しています。今は私自身がNRデバイスを操作していますが、読み込んだ情報をもとに、AIが自律的に動くことも可能です」
NRデバイスの小夜子が説明した。
「ナノマシンは灰色だったのに、どうして髪や肌に色があるの?」
向日葵がNRデバイスの小夜子に近づく。
「不正角形のナノマシンが角度を変えて光の反射を変え、色がついているように見せているそうです」
「洋服を着たまま入ってはいけないの?」
「そうしてもいいのですが、リンクボールの中が液体で満たされているので、再現される洋服が不自然になるのです」
シュー、と音がしてリンクボール内の銀色の液体が排出された。ハッチが静かに開き、裸の小夜子が立ちあがった。
前に小夜子がリンクボールを出た時、NRデバイスは塵の山に変わったが、今度は小夜子の姿のままだった。
「えっ?」
「NRデバイスを自律モードにすれば、別々のことができるのです。分身していた時の情報は、リンクボールに入った時に共有されます」
説明したのは本物の小夜子だ。
NRデバイスの小夜子は下着を身に着けヒールをはいた。生身の小夜子はドレスをNRデバイスの小夜子に投げ与え、自分はバスタオルで身体をふいた。
杏里はNRデバイスの小夜子と生身の小夜子を見比べた。今はリンクボールから出てきた小夜子が本物だとわかるが、もし、どこかで彼女と出会ったら、本物かNRデバイスか、区別できるだろうか? 実際、彼女が車に追いついてくるときまで、彼女を本物の小夜子だと思い込んでいたのだから……。
「キューブのAIが、小夜子さんの指示に従って動いているというか、演じているのね」
「同時に二つのことができるなんてステキだわ。これなら宿題も早く終わる」
向日葵は喜んだ。
「向日葵、ズルはダメよ」
「堅いこと言わないでよ。私はお姉さんと違って馬鹿なんだから」
彼女がカラカラ笑った。
「操作に慣れたら別々の行動をとるだけでなく、身体の色や形を変えることもできますよ」
NRデバイスの小夜子が言った。
「リンクボールは、生身の脳とNRデバイス間の通信、記憶のリンクを行うだけでなく、人間の生命維持も行っています。見てください」
生身の小夜子は身体にバスタオルを巻きながら、隣のリンクボールに姉妹を誘った。
「驚かないでくださいよ」
彼女はそう注意しながら、中を見るように促した。
「えっ?」
向日葵が声をあげた。
杏里は驚きすぎて声も出ない。のぞき窓の奥、銀色の液体に浮いているのは自分の顔だった。
「お姉さんじゃやない。どういうこと?」
「ファントムに狙われていると知った社長が、寝ているお嬢様をここに隠しました。昨日のことです。リンクボールを満たす電界溶液を通じ、エネルギーの充填と老廃物の排出が行われています。二日程度はベストな体調維持が可能だそうです」
「そんな……、私、気づかなかった」
「私もよ。ずっと一緒にいたのに」
向日葵に手を握られた。感じたのはそれまでと異なる感触だった。目の前が暗くなる。
突然、杏里の身体が崩れて、灰色の塵の小山と化した。
「キャッ」
向日葵が声を上げる。
「大丈夫です。杏里お嬢様が自分の身体を自覚したので、キューブとのリンクが切れたのです」
杏里はどこか遠くで小夜子の声を聞いていた。
「お姉様、大丈夫?」
向日葵の声がする。意識がはっきりして眼を開けると、不安そうに覗き込む彼女と目があった。
上半身をリンクボールにいれた小夜子がパネルのスイッチを押すと銀色の液体が排出され、シートの背もたれが動いた。彼女の手を借りてリンクボールを出る。
「ありがとう。まさか自分がNRデバイスだったなんて……。気づかなかったから驚いてしまって……」
驚いたのと同時に、裸を見られたのが恥ずかしい。そのことは口にしなかった。バスタオルを受け取って体を拭く。塵の山の中から向日葵が衣類を取り出してくれた。
小夜子が塵の山の中からキューブを取り出し、リンクボールにあるくぼみにセットした。すると、塵に見えたナノマシンが小さな穴の中に、虫が逃げ込むように消えていく。「うぅん……」ドレスと下着に張り付いていたナノマシンが滑るように移動し、肌をさすられる快感に身をくねらせた。
「それはなに?」
向日葵が指したのは、杏里のナノマシンが消えた後に残った灰色の塊だ。
「これは、お嬢様が昨晩から口にした食べ物です。ナノマシンでコーティングされているのですよ」
小夜子は塊を拾うとダストシュートに放り込んだ。
「つまり、うんこね」
向日葵は自分で言ったことが面白くて笑ったが、杏里は顔をしかめた。
「どうして複数のNRデバイスが近づけるのですか。磁界が接近したら形が壊れてしまうと思うけど」
杏里が技術的なことを訊くと、小夜子は首を傾けた。
「ナノロボットの振動周波数が違って、干渉しないようにできているといった説明でしたが、私には理解しかねます」
困惑した小夜子の言葉は、姉妹に母親の優しい笑顔を思い出させた。
「私もNRなんちゃらとかいうものなの?」
向日葵が残りの三つのリンクボールの窓を覗いて回った。
「空っぽだぁ!」
ひどく残念そうだった。
「お父さんが私をここに入れたのは、ファントムから守るため……」
父親の顔を思い出すと胸が痛む。
「はい。人間の脳とNRデバイスのキューブは完ぺきにリンクしています。だから、杏里お嬢様は自分がNRデバイスであることに気づかなかった。NRデバイスを自分の分身として使うことは簡単です。何も意識することはありませんから」
「それじゃ、NRデバイスを使う意味はどこにあるの?」
「もともとは、宇宙空間での作業用に開発していたものです。肉体より強い力を出したり、早く動いたり、空気のない場所や熱環境の厳しいところで活動することができます。センサー感度は自由に調節できますから、危険な作業で恐怖や痛みを感じることもない。リンクボールに入っている者同士なら、ネットワークを使って直接意思疎通がとれますから、音声や無線機も不要です」
「それで小夜子さんは、車の前にも飛び出すことができたのね」
「ええ。ひかれても痛みは小さいし、ここにある肉体は死なないと分かっていますから安心して無茶ができます」
「ねえ、ねえ、小夜子さん。どうして私はリンクボールに入れてもらえなかったの?」
向日葵が口を尖らせていた。
「精神的に不安定だからと、社長が反対したのです」
小夜子が優しく向日葵の手を握った。
「お姉様は良かったのに?」
「杏里お嬢様はものごとを冷静にとらえるので、パニックを起こして誰かを傷つけることはないだろうとおっしゃっていました」
「私だってパニックなんて起こさないわよ」
「はしゃいで無茶をするのではないかと……」
NRデバイスの小夜子が含み笑いを作った。
「もう、ひどい! 私にも使わせて」
向日葵の要求に、ドレス姿の小夜子が表情を緩めた。
「そうですね。もう理解いただいたでしょうから。……でも、NRデバイスは危険な道具だということを忘れないでください。見た目は人間でも、力は象並み。早さは自動車並みです。……私は戻りますね。まだ慣れていないので疲れました。特に分身すると、これからが大変です。生身の脳が処理するデータ量が二倍になりますから」
彼女が自分のリンクボールに向かった。
「では、向日葵お嬢様。服を脱いでください。杏里お嬢様も、お願いします」
NRデバイスの小夜子が指示した。
「また?」
「ファントムから身を守るためです。今度は意識的にNRデバイスをコントロールしてください」
小夜子の言うのがもっともだ、と思った。
杏里はリンクボールの前に立って裸になった。向日葵は、といえば、嬉々としてリンクボールに入っていた。
杏里はリンクボールに入った。そこは天井の低いユニットバスといった雰囲気のスペースで、バスタブの中にある椅子に座って足を伸ばす感覚だった。
目の前に明かりのついた操作パネルがあり、ハッチの【OPEN】と【CLOSE】のボタンの他には【ON】【OFF】【W⇔S】の3つのボタンしかなかった。【W⇔S】は、NRデバイスと生身の人間が同時に活動するダブルモードとシングルモードを切り替えるためのボタンだ。
小夜子の指示に従ってハッチを閉め、『ON』のボタンを押す。シートが適切な位置に動き、背もたれが倒れて頭がへこんだ部分におさまるところで止まった。
足元から銀色の液体が湧きだし、ちょうど顎から後頭部を結ぶ高さで止まる。
「きもちいい」
電界溶液は水に比べたら重たかったが、温かくて全身を抱きとめられているような安らぎを感じた。それから、頭部にチクチクと電気が流れるような感覚が生じた。
キューブの周りにナノマシンが集まり、渦巻くようにフロアに移動する。それはすぐに人間の形を再現した。
杏里には目の前のボタンとリンクボールの外側の風景が重なって見えたが、眼を閉じると風景はNRデバイスのものだけに収斂した。
杏里はNRデバイスが自分の姿を作ったことにほっとした。
隣ではNRデバイスの向日葵が「やったー!」と飛び跳ねている。それが全裸なので見ていられない。
「この身体がロボットだなんて……」髪の毛の1本1本までが再現されているのに感動した。この機械を父親が作っていたのかと思うと涙があふれたような感覚を覚えた。しかし、頬に触れても涙はない。それがとても残念だった。
「それで、これからどうすればいいんでしょう?」
杏里は衣類を身に着けながら小夜子に訊いた。
「今日はもう遅いですから、休みましょう」
「ここで?」
「ええ。リンクボールの中は最も安全で安定した生存環境ですから心配は要りません。NRデバイスに慣れるためにも、できるだけ長時間使いましょう」
小夜子は姉妹のNRデバイスを簡易ベッドのある休憩室に誘った。そこは普段、時間に不規則な研究者たちが寝泊まりするための場所だ。
「NRデバイスにとってベッドは無意味ですが、精神的には落ち着きますから」
小夜子が説明した。
3人は横になり、部屋の明かりを消した。
杏里は何も考えないようにした。頭を使うと両親とファントムのことを思い出してしまうからだ。しかし、それは上手くいかなかった。考えまいとすれば、ますます思い浮かべてしまう。
「小夜子さん。起きていますか?」
暗闇で呼んだ。向日葵はすでに深い眠りについている。
「はい。どうかしましたか?」
「どうしてお父さんとお母さんは、NRデバイスを使わなかったのかしら。使っていたら死ぬ事はなかったのでしょ?」
短い静寂があった。小夜子が考えた時間だ。
「ファントムは、衆目の前で人を襲います」
「ええ」
「NRデバイスは、公表されていない技術です。パーティー会場で刺された時に鈴木社長が人間でないと分かったらどうなるでしょう……」
「さあ?……」パニックになるとは思えなかった。
「参加者は驚き、それから、騙されていたと思うでしょう」
「騙された?」
「人間ではないものが、人間のふりをしていたわけですから」
「命を守るためだもの、仕方がないと思います」
「人々は、社長が高価な技術を使って自分たちだけが助かろうとしたのだと考えるでしょう。その時、鈴木社長とSET社にたいする信頼は壊れます。そうしたら、パーティーでの社長の言葉もみんな嘘と……、いいえ、たとえ嘘ではなくても、自分の利益のために、社員や消費者を利用しようとする甘言だと思われたでしょう。社長と副社長は、人々の信頼を裏切らないために、生身の身体でパーティーに臨んだのです」
「信頼があっても、死んでは意味がないわ」
理屈はわかった。しかし、感情はついて行かなかった。
「信頼、命、お金、権力、名誉、愛。何が大切だと考えるのか、それは人によって違うでしょうし、年齢や立場によっても変わっていくでしょう。その人が何を大切にしているのか、それで人間性というか、品格というものがわかるのではないでしょうか。……社長は、自分の命よりも大切なものを守るためにステージに立ったのです。その意志は高貴なものです。死を回避するだけなら、NRデバイスを使わず、パーティーを欠席するという選択肢だってあったのですよ」
小夜子が語り終えると、室内には杏里の嗚咽する声だけが残った。
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