Negroni
いつもミントの香りがする彼は、今夜は色っぽくて綺麗な香りがした。
都内の高級ホテルのすぐ側にあるショットバーで、俺はマスターから静かに出されたゴッドマザーを飲みながらネクタイを緩めた。
「それなに?」
右隣から、ジュニパーベリーとベルガモットが混ざったような香りがする。爽やかな大人の香りを漂わせる男性が、大きな目をパチパチさせて俺に聞いてきた。
「これ? ゴッドマザー」
「強い?」
「佑樹さんはやめた方がいいよ」
佑樹さんの質問に答えてやると、彼は「うん」と頷いてストロベリーミルクを猫の一口で飲み始めた。
佑樹さんは数ヶ月に一回くらいの頻度で一緒に食事をしたり飲んだりする人で、今回は今日から二泊三日でホテルステイをしようと誘った。甘いカクテルを舐める佑樹さんを眺める。細身の体に大きな目、薄い唇、プラチナブロンドの髪。今年で四十七歳とは思えないくらいに若々しくてカッコいい。佑樹さんと一緒にいるときは、常に彼への視線を感じた。
バーが隠れ家的な雰囲気を持っているからか、二十二時を過ぎて飲み会を解散する時間が近いからか、今いる客は俺と佑樹さんだけだった。
「何杯くらいにする?」
俺が佑樹さんに聞くと「うーん、決めなくていいの?」と聞き返された。
「零時門限か」
俺は確かめるようにつぶやいた。
「零時だね」
年齢に合わない幼い声がそう言った。彼のストロベリーミルクは、マスターに差し出された時から量が変わっていないように見えた。
ロックグラスを一気に空にしてからチェイサーに出された水を飲み干すまで数秒だったと思う。佑樹さんから「ペース早くね?」と苦笑された。
「佑樹さんが満足したら行こうか」
「マジで?」
彼の端正な顔が綻びた。
十日前に見た時よりも、だいぶ顔色がよくなったように思う。ただ、彼にかかった心の負担を考えたら、まだ百パーセントではないんだろう。
「だってあの広い家いたら、佑樹さん落ち込むでしょ」
「んー……」
「……付き合うから。佑樹さんが立ち直るまで」
俺の声は、真剣だった。
俺の言葉に佑樹さんが「カッコいいーッ」と笑い声を混ぜて返した。カラカラ笑う彼からジュニパーベリーとベルガモットの香りがする。彼に褒められるのは、決まりが悪い。俺はギムレットを頼んだ。カクテルを味わうには流れがあるらしいけど、知ったこっちゃない。だって一杯目はエル・ディアブロだったし。
生チョコをつまむ佑樹さんに「ねえ、」と声をかけたら、少年のような瞳がこっちを向いた。
「やっぱ部屋一緒のが良かったんじゃない?」
「なんでだよふざけんな!」
俺が下心をちらつかせて決まりの悪さをごまかしたら笑って一蹴された。
「それは嫌だよ。まだそんな、すぐには切り替えるの無理だ。俺だって」
佑樹さんは暑いのか袖をまくった。慣れたように俺の想いを躱す彼のように、彼の前髪が少し揺れていた。
「だって俺は、ずーーーっと佑樹さんが好きだったからさ。……同性だとか二十も下とか、そんなの関係なく」
右隣からブラックティの香りがする。
「嬉しいよ。いつもそう言ってくれるのは」
だから一番に電話した、と笑う彼はセンチメンタルでセンシュアルな表情をしている。
彼のグラスに注がれていたピンク色のカクテルは半分近くに減っている。俺の好みとは違う、甘くてミルキーな酒。iPhoneの電源ボタンを軽く押すと、二十二時四十五分を知らせていた。
「やー、俺が三十そこそこで、岳が中学入ったばっかぐらいの頃からだから……」
「ね、長いね」
「うん、十五年くらいになるか」
俺の祖父母は小さな喫茶店のオーナーで、共働きの両親に代わって俺の面倒を見てくれた。東京から小旅行で俺の地元に来て、店の雰囲気に惹かれて入ったと祖母に話していた佑樹さんと、中学生初めてのゴールデンウィークで暇を持て余し、祖父母の手伝いをしていた俺。それが初めての出会いだった。
『お冷お注ぎしていいですか?』
彼の端正な顔立ちが俺の方を向いて、それでも緊張して声が裏返った俺を笑うことなく、『ありがとう』と微笑んでグラスを差し出した。そばでミントの香りがした。
その時、俺は初めて、人を眩しいと思った。
彼の向かいに座る女性のグラスにもお冷を注いで、途中だった食器洗いに戻ったと思う。思う、というのは彼の顔を見てからはっきりした記憶がないから。だけど、彼も、彼と談笑する素朴で穏やかな雰囲気の女性も、同じ指輪を同じ場所につけていたことは鮮明だった。
それからは祖母のパスタを気に入った佑樹さんが数ヶ月に一回のペースで店に来るようになった。
祖父母が喫茶店を閉めたのは、俺が高校を卒業した翌日だった。何も知らずに来た佑樹さんが、寂しそうな顔をするから、
『あの、今からウチに来ませんか? 俺もこれからご飯しようと思って……。あの、両親も仕事で、祖父母も友達とお茶行ってて、その……』
何を言っているかわからないという顔を彼はしていたけど、『おばあちゃんに教わった、和風パスタです』と言ったら少し間を空けて、『行くよ』と彼は言った。それが俺たちの始まりだった。
最初の告白はもう覚えてない。一年経つころには数えることも億劫になっていたから。
右隣からブラックティの香りがする。
「奥さんは何で出てったの?」
耳たぶを掻く佑樹さんの手が止まった。
「もう聞いても良くない?」
「……うん」
「理由は聞いたの?」
佑樹さんに聞きながらギムレットに口をつける。フレッシュライムの酸味とジンのアルコールが程よく喉をつつく。
「聞いてる……」
「……んー、でも……来月で二十回目の結婚記念日だって言ってたのに……」
「な。こんなことあるんだな」
華奢なロンググラスが、細い手にくるくると回されている。
「あいつはー、一人で悩んでたんだよなー……」
カウンターに息を多く含んだ声が落ちる。「なにを?」と聞いたら「俺も全然気づかなかったからさー……」とぽそぽそした声で返ってきた。
数秒の沈黙、ブラックティの香りがする。ストロベリーミルクを一気に飲み干して、コンッと響くくらいにグラスを強く置いた佑樹さんが「マスター、ベルベットハンマー」と言った。
「ごめんごめん! ごめんって!」
彼のオーダーを急いで止める。さすがに俺が踏み込むには早かった。
「違うの頼も! ノンアルもやってくれるし」
「うん……なにしよー」
彼は酔いがまわったらしく、声がぽやぽやと緩んでいる。
いい大人で、すごいキャリアを持っているのに、無邪気な彼。そんな彼と過ごすといつも疑問が湧く。俺はその疑問を、初めて彼にぶつけた。
「世間は、俺らを見て、どういう関係だって思うんだろう?」
シャーリーテンプルを頼んだ彼は口を尖らせている。
「親子、兄弟、親戚、上司と部下……」
一個一個上げていくごとに首を傾げる彼が、おもちゃみたいで可愛い。でも俺も、彼が挙げていった関係性に対して、どれも違う気がした。
「うん、どれでもないよね」
「雰囲気とか?」
「うん。あとずーっと前にブルガリ入ったときさ、佑樹さんが色々見てるときさ、店員さんに『お兄様もいかがですか?』って言われたよ?」
佑樹さんが幼稚園児みたいにケタケタ笑った。
くしゃくしゃに笑う端正な顔立ちに質のいい黒ワイシャツ、そのまま一眼レフで写真を撮れば広告のポスターにでもなりそうだけど、彼の心は最愛の妻が、彼の左隣にいる男よりも年下の青年を選んで出ていったことで、大きな刺傷ができている。
シャーリーテンプルがいつの間にか彼の前に佇んでいた。
「岳は結婚しないの?」
佑樹さんが突然そう聞いてきた。俺も女性と縁がなかったわけじゃない。高校時代は女友達もいたし、大学時代はバカだったからバイト先の同僚や同じゼミの中でセフレがいたりもした。彼女たちとは利害の一致があったし、彼女たちに新しい出会いがあってからは解消したから許してほしい。
でも、俺は、
「佑樹さんに会ってから恋愛やめようってなっちゃったから」
佑樹さんがシャーリーテンプルをストローで吸いながら俺を見ている。
「大学の頃は時間があったし、転職してからは、お金もちょっとあるし。……まあ自虐も混ぜると佑樹さんの、暇潰し要員みたいな感じでいようって思ったけど」
「そうなの?」
「うん……でもねー、子どものうちに大人を好きになるやつってダメだよ」
ギムレットが少し温かった。一気に飲み干して、でも新しい酒を頼む気にもならなくて、カウンターの上で手を組んだ。
「俺が大人って認められる年齢まで来て、佑樹さんも年取ってるはずなのに色っぽさとかカッコよさとかは変わらないから……下心が出てくるんだよね」
佑樹さんは「バカか」と笑った。
右隣からブラックティの香りが消えていく。しばらく考えて、俺はジンリッキーを頼んだ。
「まあ、俺も彼女のことはまだ忘れるってのは出来ないけどさ」
シャーリーテンプルを半分ほど飲んだ佑樹さんが時計を見る。俺もつられて彼の時計を見たら、時刻は二十三時だった。
「そうだね、佑樹さんの奥さんはいい人だと思うよ。俺は話聞いてるだけだから詳しいことは知らないけど、聞いてる限り、優しいし頭いいし」
「うん、俺もこんないい女に巡り会えないって思ったよ。だから五ヶ月でプロポーズしたんだよ」
ジンリッキーに口をつけると、懐かしい味がした。ジントニックとは違う、さっぱりしてジンの香りが際立つカクテル。
「奥さんが不倫した証拠はあったの? 不倫の理由も本人から聞いたの?」
「あったし、聞いたよ。なんで?」
訝る佑樹さんを、見なかったことにした。そして俺は、一つの可能性を佑樹さんに出す。
「脅されてて、言いなりになるしかなかったとか……」
右隣からウッディノートが香る。
「……そんなわけねーだろ」
ため息交じりの声は、呆れてるのか怒ってるのかわからなかった。
「そんな風に言われたら、俺はずっと彼女に期待して生きてくことになるだろ。いつか戻ってくるって。……そんな風に生きてけっていうなら、お前ホント鬼畜だぞ?」
丸い目が視線を俺に向ける。俺を責めるかのように。
「罪だって思いたくないのか? 彼女が出てったことに真っ当な理由が欲しいのか?」
真っ当な理由が、欲しいんだろうか……。
俺は佑樹さんの奥さんに、どうあって欲しいんだろうか……。
佑樹さんにパートナーがいなくなったことも喜べなくて、複雑な思いでジンリッキーに口をつける。ジュウッ、とストローが最後の一滴を吸う音がした。
「もういいよ! 新しい道に進む!」
彼は妻のことを吹っ切るように、力強く言った。
「うん、俺の人生を生きる!」
強がりのような、それでいて心を一転するような、そんな態度を取るから、抱きしめたくなる。彼がいなくなりそうで、繋ぎ止めたくなる。
「じゃあ、再スタートだ」
俺も、彼が進む道が幸せであることを願う。ずっと側にいることはとっくに諦めた。
「なんか美味しいもの食べよう」
「…フィッシュアンドチップス食べたいな! 衣がふやけるくらいビネガーかけてさ、あとビールも一緒にさ!」
じゃあ明日行こう、と約束して、iPhoneの電源ボタンを軽く押す。時刻は二十三時二十分。佑樹さんも時間を見たのか「もう行く?」と聞いてきた。
「ネグローニ飲んでからでいい?」
「…いいよ」
佑樹さんが穏やかな声で了承した。
ときどき触れる彼の肩の温かさにどきりとしながら、初恋を飲み込むためにマスターへオーダーする。
「マスター、ネグローニ」
隣からジュニパーベリーとベルガモットの香りは、もうしないだろう。
◆登場人物
菅井佑樹…47歳。有名ファッションブランドのディレクター。20回目の結婚記念日を近くにして妻から離婚を突き付けられる。15年前に岳と出会い、岳の大学進学を機に本格的に交流を始める。岳に初めて告白されたのは39歳のとき。実年齢を言ったら驚かれるほど若々しいルックスの持ち主。人あたりもいいため結婚しても変わらずモテている。
長谷川岳…27歳。都市開発系の営業マン。佑樹に一目惚れしてから恋愛や結婚はしないと決めていた。中学、高校時代は祖父母の店に来る佑樹と話すタイミングがあまりなかったが、大学進学で上京したことを機に交流が本格的に始まる。初めての告白は19歳のとき。長身でスタイルがよく、気さくな性格のため、女子にモテていた。