姿見の鏡
目が覚めると、俺は一人分のベッドに、一人で寝ていた。
隣にファラさんは居なかった。
見慣れた木の天井、明かりの消えた小さな球がユラユラリと不規則に揺れる。
未だ締め切ったままの白いカーテンは、長いブロンドの髪がなびくように穏やかに揺れる。
揺れるカーテンの隙間、小窓から気持ちのいい青空が覗く。
意識と感覚が乖離して、魂と肉体が半分に切り離されてしまったような。
何故だか遠い昔にも同じ天国の夢を見ていたような、そんな現実味のない、やんわりとした優しく深い抱擁の感覚が、未だ眠たい脳の裏に焼き付いている。
やはり今までのすべてが夢だったように感じられたが、見覚えのある木の天井は、これもやはり俺の知らないどこかの天井だった。
ならば、どうやらここはまだ、現実なのかもしれない。
そう考えたところで、焦燥や恐怖、不安というのは特に感じなくなっていた。
――お母さんに、会いたい。
そして、昨晩の事は、あまりよく覚えていない。
いつの間にか意識がするりと滑り落ちて、深い夢に迷い込んでしまった。
奇妙な夢の入り口で、俺は孤独な何者かの暖かい願いにそっと触れていた気がしたが、その内容は、風にさらわれた砂粒のように散り散りになり、ほとんど思い出すことは出来なかった。
ただ一つ確かのは――彼女が母親を探している――という事だけだった。
ひょっとすると、あれは俺自身が自らの脳裏に描いた、ファラさんの心の声とかだったのだろうか。
四角い部屋の扉の向こうから、ジュージューと脂ののった何かを景気よく焼く音と、カチャリ、コトン、コト、と陶器のお皿や木の食器が、テーブルの上に並べられていくような音が聞こえる。
僅かに開いた扉の隙間から流れてくる香ばしい匂いが鼻につき、嫌でも空腹を刺激した。
多分、チーさんとファラさんが、朝食の用意などしているのだろう。
「朝か……。」
俺はぼんやりと酔いが回った頭と体を起こした。
気の抜けたあくびを一つ、頼りなく背筋が曲がっていることに気づき、俺は両腕を頭上へ引っ張って、グッと背筋を伸ばした。
寝ている間に随分とリラックスしていたようで、体を伸ばすとあちこちの筋肉が良くほぐれているのを感じた。
「さて、起きるか。」
天使の羽のようなふっくら掛布団を押しのけて、重たい両足をベッドの外へ引きずり出す。
重力のままにボテッと落ちた両足から、地熱で冷えた木の床の温度がヒヤリと伝わる。
恐る恐る、バランスを探るようにぐっと力を入れて、踵を重心にゆっくりと立ち上がる。
太ももの筋肉が張り、足の裏に体重がグッとかかると、長年凝り溜まっていた何かがジュワッと蒸発するように、多幸感にも似た血の巡りを足の裏から感じた。
「立てる……んだよな。」
立ち上がってすぐに少しふらついて重心を崩しそうになった。
未だ足元がおぼつかないのも事実だが、どうやら俺は今、自力で立ってる。
この二本の細い足で真っすぐに立ち、歩くことが出来るのだ。
それを改めて実感した。
重たい頭を落とさないように慎重に歩くも、くらくらとした頼りない足取りで、八畳くらいの広い寝室の扉を押し開けるとそこは、さらに広いリビングになっていた。
俺のいた寝室の倍くらいの広さのリビング、その中心には昨晩の食卓を共にした長テーブルがあり、既に幾つかの料理が並べられている。
どうやら右手奥はキッチンになっているらしく、ファラさんがせっせとフライパンを振るっているそのすぐ隣で、太った赤ちゃんみたいな見た目のチーさんがスープかなにかを一生懸命お皿によそっているのが見えた。
「おう。起きたか、どうだい調子は。」
「おはようございます。おかげさまで、良い調子です。」
こちらに気づいたチーさんがのほほんと声をかけてきた。
俺が小さく頭を下げて応えると、今度はファラさんがフライパンを振るう手を止めて、ハァ~イと右手を小さく振っている。
俺は小さく手を振って朝からご機嫌なファラさんのハァ~イに応えた。
「もうすぐ朝ごはんだ。風呂場の桶に水が張ってあるから、向こうで顔を洗ってきなさい。着替えもそこに用意してある。」
「え?」
俺の足元から頭の方へと順繰りなぞる様に、チーさんの視線が動く。
「流石にそのボロキレでは夢見も悪かろうし、なにより外で目立つだろう。」
「あぁ、なるほど……。」
チーさんの視線を追うように、足元から自分の服装を再確認した俺は、身に覚えのない真っ白な患者服を着ていたことをスッカリ思い出した。
俺はチーさんのご厚意に甘え、洗面がてら風呂場で着替えることにした。
風呂場は、俺が寝ていた部屋のすぐ左となりに面していた。
扉を開けてすぐ、ほのかに木の香りがした。
灰色のランダムな石のタイルは、歩くたびにピタンペタンと耳障りの良い丸い音色を響かせた。
俺のいた寝室と同じくらいの広さの空間が、この家の床材などよりもずっと高級そうな分厚い木の板の壁に覆われている。
四角い小窓のついた奥の壁際に長方形の大きな木の桶があるのだが、一見すると古き良き日本家屋のような、素朴ながらも贅沢で開放的なお風呂ライフが十分に想像できた。
「うっわー、超風呂入りてー。」
思わず口から零れ出るほど俺のワクワクを掻き立てたお風呂場だったが、残念ながら桶にお湯は張っていなかった。
代わりに、俺の着替えと思しき衣類とタオルが入り口脇の小さな椅子の上に置いてあり、そのすぐ脇に水の張った丸い鉄鍋みたいなタライが用意されていた。
そして、溢れんばかりのこの入欲すらも一瞬でどうでもよくなるほど、俺が瞬時に意識を奪われたのは、壁に立てかけてある姿見の鏡だった。
俺は顔を洗うことも着替えることも放ったらかして、催眠術に掛かり吸い込まれたかのようにその姿見の前に歩み寄った。
鏡に歩み寄ると同時、爛れた幽霊の真っ白な影が写り込む。
目元まで掛かった伸び放題の冴えない黒髪は、寝てる間に好き勝手に暴れまわった寝ぐせと相まって、まるで棺桶から起き上がってきた死人のようだ。
さっと引かれた、印象の薄い無機質な眉は、不毛な焼け野原が如き、殺風景。
色白の顔はやや痩せており、大きな黒目の虚ろな瞳は、覗き込めばどこまでも深く、あらゆる光を吸い込んで飲み込んでしまいそうなほど、暗く、ただ暗いだけだった。
目の下には薄紫のクマがくっきりと浮かび、鬱血したような目元はボッテリと腫れ、とてもじゃないが見るに堪えない。
口角は定規で横線を引いたみたいに機械的なほど真っすぐで、これが笑うとはてさてどんな顔なのか、とても想像が難しいほどの仏頂面である。
ここまで自分自身に突きつけて見せてもなお、俺は自分が何者であるのかがサッパリ解らない、ピンとも来ない。
まるで知らない、会ったことすらない赤の他人の死に顔でも拝んでいるような気分になり、ただただ気持ちが悪い。
とてもじゃないが、これからチーさん達と食事をするという気にはなれなかった。
服装は、やはり見たまんまの白い患者衣。
思い起こせば、洞窟を散々這い回った挙句、ぶっ倒れるまで村中を歩き回ったが為に、身なりは既にボロボロで泥まみれ。
いや、泥はハタいて落とされてはいたがしかし、染みついて乾いた泥汚れが、なりふり構わず歩き続けた俺の記憶を十分すぎるほどに補完しているのだった。
もはや汚れなき白さなど見る影もなく、上から下まで正にボロ布のようであり、こんな姿と虚ろな調子で夜な夜な呻き声を上げてさ迷っていれば、恐らく誰が見ても悲鳴を上げて逃げ出すであろう事は容易に想像できた。
また、鏡に映る人物は、俺の予想に反して随分と若く思えた。
年齢は、高校生か、二十歳そこらがせいぜいに思える。
確かに、俺の頭の中には「高校に通っていた」という曖昧な記録のような記憶が張り付けられてるのだが、けれどその出来事は、何故だかずっと昔の事だったような気がしてならない。
とするならば、この鏡に映っているのは、本当に俺自身なのだろうか。
――この身体は、本当に俺自身のものだと言えるのだろうか……。
「ま、いいか、別に。それよりも飯だ飯。」
鏡に写る虚ろな瞳を見つめて、冴えない声でボソッと呟くと同時、ふっと、独り歩きをしていた意識がこちらへ戻ってきた気がした。
姿見から意識を逸らし、俺はタライの冷たい水を両手で掬って思い切り顔を洗った。
顔にこびり付いた古い油膜のせいで、両掌がベットリと不快感を帯びる。
そうして何度か冷水で顔をこすった後、用意されていたタオルで顔の油膜を拭うと、なんだか一皮むけたようなサッパリとした爽快感にスパッと目が覚めるのを感じた。
服を着替える時、着ていた患者衣に名前が書かれていないか隅々まで確認してみたが、悲しいほどに期待外れであった。
チーさんから用意してもらった見すぼらしい茶色いTシャツと、よれよれの白い半ズボンを嫌々ながらに着ると、まぁ患者衣よりは幾分かマシになった気がする。
最後にタライの水で、この悪印象の諸悪の根源ともいうべき寝ぐせを撲滅し、タオルで荒々しく髪の水分を掻き取っていく。
改めて姿見に向かい合ってみると、まるで別人のように爽やかな好青年へと変貌を遂げた。
まではよかったが――。
「あ? なんだこのTシャツ。」
姿見に映ったTシャツの真ん中に、白い活字体の漢字三文字で大きく「なにか」がプリントしてある。
鏡文字であるが故に解読がやや困難であったが、正しくは――。
「豚野郎……だと? なめてんのか?」
――あのジジィ、やりやがったな。
闇の中に光を見出すなんて、妄想か現実逃避以外のなにものでもないですね。