名前
――俺は今、夜の森をさ迷っている。
たった一人。
行く当ても分からず、ただこの凍てつく夜の静寂をさ迷っている。
たった独り。
空に高く昇った模様のない満月、宝石をちりばめたような満天の星空。
神聖さを絵に描いたかのような静寂の世界。
それらを以てしても、俺の心が安らぎに満たされることはない。
記憶も定かではない中、ただ一つ確かなことは、この夜が明けることは決して無いということ。
あの模様のない満月が落ちる日は、二度と来ないだろうということ。
それだけが今ある真実だと、俺は確信していた。
――それならば俺は、この足でどこへ行こうとしているのだろう。
ふと歩みを止め、空を見上げた。
幾星霜を生きる数え切れない数の星々と自分を比べて、自分とは何者なのか、生きる理由は疎か、この旅の目的さえも解らなくなったからだ。
「あ、UFOだ。」
すると模様のない満月の彼方から、ゴマ粒大の丸い円盤みたいなのがビューンとすごい速さで飛んできた。
それはあっという間に俺の頭上まで来ると、グワングワンとやたらに不快な音を荒立てて、俺をジッと見つめて品定めするように空中で鎮座した。
デカい、ユーフォ―、カッコいい。
どうやら仲間が俺のことを迎えに来たらしい。
とするのなら、俺はきっとあの模様のない月の住人だったのだろうな。
恐らく地球征服を目論んだ俺は宇宙船での航海の途中、何らかの事故に遭い、記憶を失ったままこの星へと漂流したに違いない。
そう考えるとなんか全部に納得がいく気がして、だんだん心惹かれてワクワクしてきた。
「おーい! おーい! オラはこっちだー! こっちこっちー! おーい! ひゃっほー!」
俺がありったけの大声と目いっぱい大手を振て飛び跳ねると、開いた円盤の底から紫色のタコチューが三匹、重力に反してゆっくりと落下してきた。
「わぁ助かった! 水……水をくれ! 水くらいあるんだろ!?」
俺は三匹のつぶらな瞳がキュートなタコチューに駆け寄り、開口一番に水をせがむ。
タコチューは顔を見合わせて目をパチクリとさせた。
「よう、いつまで寝ぼけてんだっちゅ、この反逆者。」
「反逆者? まさかオラが……おいおいそんなわけないだろっ……ちゅ?」
「コイツ、しらばっくれていやがっちゅ。」
「バカにしやがっちゅ。どうやらキッツいおしおきが必要らしいっちゅなぁ?」
「え。」
三匹のタコチューはどこからともなく陳腐なライフルを取り出し、ゼロ距離で俺の顔面に突き付けた。
「「「さぁ、お仕置きの時間だっちゅ。」」」
「まじっちゅか。」
――教訓その1
裏切者には、死を。
***
「んぴぃぃいいぎゃぁぁああΣΦ#仝§%’〇ぁああ+*!#Δ%$ΘΞΦぁΣぁああッッッ!!!!」
剥かれ、焼かれ、炙られ、刻まれ、刺され、掘られ、ありとあらゆるシチュエーションで弄ばれた俺の肉体と精神。
それが悪い夢であると解ったのは、バチっという、まるで電気の弾けたような音とともに突然左の頬にジリジリと痛みを覚え、訳も分からないまま奇声と共にふかふかベッドの上で飛び起きた時であった。
「あれ……まさか、今のは夢っちゅか……。いや、夢でよかっちゅ……。」
ジリジリと熱を帯びた左頬を摩りながら見覚えのある部屋の中を見渡すと、ベッドの脇に梅干しみたいな皴まみれの顔の老人が立っていることに気づいた。
俺の顔をジッと真顔で見つめており、何故かは解らないが右手のパーを振り上げている。
「いつまで寝てる気だ、起きろこのガキ。それとももう一発いかれたいか。あ?」
「は? やるっちゅかこら。」
先ほどの電撃ビンタの犯人はコイツでまず間違いないだろう。
目の前のジジィがより一層高く右手のパー振り上げたを見て、俺は反撃のポーズをとった。
しかしそんなことよりも、すぐに俺はこの老人の見た目の方が気になって仕方が無いのであった。
一見すると人のようだが、見るからに三等身の見た目には、疑いようのない不気味な違和感がある。
見すぼらしくハゲ散らかった頭部は梅干しの様に赤くシワシワでブヨブヨ、さらに寄生虫に卵でも植え付けられているのか僅かに肥大化しており、アンバランス。
脂ぎった皴まみれの顔とダンゴ鼻、ろくに手入れもされていない口と顎の白髭は、控えめに言っても不衛生に思える。
垂れ下がった白い眉、死んだ魚のようでありながら他者をゴミのように見下した目は、どこまでも真っ黒で差別的だ。
無駄に大きな頭が重いのかなんなのか、背中は前のめりに曲がっていて、茶色い継ぎ接ぎの着物みたいなのを着ているのだが、見すぼらしく膨れた腹に鼠色の帯が食い込んでいて、なんだか帯の方が可哀そうだと思った。
――で、なんなんだ、この年食っただけのバケモノは。
「もっかい良い夢見せたろか~? あ~ん?」
――ノリノリで喋ってるし。
いや、喋って尚且つ気の利いた小賢しい挑発をしてくるだけなら別にさほど驚くような事ではなかったかもしれない。
この良い感じにネガティブそうなネチッこくて低いダンディな声質よりもまず、この梅干しオバケの言語が解る、話している言葉の意味が解るという方が今は重要だろう。
なぜなら、このじいさんの口から発せられたあまりに耳慣れない言語が、それこそまるで生まれた時から知っていたかのように、あまりに容易くその意味が解るのだから。
そして先ほどから俺の言葉に反応していることを思うと、どうやら意思疎通が可能であることがなんとなく解った。
というか、俺は自分の呂律が回らなくなっているのだとばかり思っていたが、ぶっちゃけ俺の話している言語も、いつからか日本語じゃなくなっている。
それに関しては不思議と違和感は覚えなかった。
それがなんだか、寝ている間に自分が自分ではない別のなにかに創り替えられてしまったように感じられて、やけに気味が悪いとは思う。
「どーなんだこの小僧。」
「あーはいはい。で、おじいちゃん、アンタの名前は?」
「そーゆーお前が先に名乗れ。」
「あ? なんだと?」
既に一発貰って頬がジリジリと痛む苛立たし気な俺の問いに、性懲りもなくジジィはキレ気味に突っかかってくる。
たしか俺は、あまり人の言動にとやかく言う質ではなかったと思うが、しかし目の前の三等身梅干し声だけダンディの酸っぱい風体と相まって、露骨に俺に対する態度が攻撃的なのが気になった。
とはいえ、今俺が置かれている状況を鑑みれば、ここでこの梅干し声だけダンディと喧嘩をするのはあまりにもナンセンスだ。
もちろん殴り合いになれば120%勝てる自信はあるが、しかし――。
――勝ってどうするよ。
「ち、解ったよ。」
俺は老人との睨み合いの末、大人しく白旗を振った。
「えーっと、名前は……。俺の名前……。あれ、俺……。」
――そして俺はどうしてか、自分のことがよく思い出せなくなっていた。
渇き枯れていく日々にこそ、潤いは強く感じるものです。