黒い翼
村に着く頃には空の色が明るみ始めていた。
白と水色と、天辺に僅かばかり残った紺色のグラデーション。
洞窟にいたのはつい先ほどのようにも感じたが、いつの間にか随分と時間が経っていたのだろう。
時間の感覚が鈍く、足は棒のようになり、たった一つのリンゴで凌いだ空腹も、再び絶頂を迎えている。
次第に頭がボーっとしてきて、先ほどついに視界に霞がかかったようにボヤけ始めた。
想定外だったのだ。
周辺は自然に溢れ、道中いたるところに木々が生い茂っている。
村に着くまでに、せめて木の実の一つでもと期待していたのだが、その全てが更の木とくれば、話は別だ。
これでは獣の一匹すら出会わなかったことも納得がいく。
村へ辿り着くまでに金銭や言語の不安はあった。
しかし空腹は遥かにそれを凌駕するものであった。
やがて、どうにか村の入り口にはたどり着いたものの、既に身体は限界を迎えていた。
「誰が……。誰がぃねぇがぁ……。」
蚊の羽音、或いは乾いたミイラのように、みっともなく掠れた声は拠り所を探し彷徨う。
まるで飢えた獣のようなその声の主は、俺だった。
家なき子のように惨めに助けを求めてみたが、こんな夜明け前に人などいるはずもなく。
時折風が吹き抜け、小さな虫の声が聞こえるばかりだ。
そして時間の問題だったのだろう、俺は引きずるように力任せに運んでいた両足をもつれさせ、いよいよポテリと無気力に転がった。
「うっ……。いって……。」
立ち上がろうにも、まるで金縛りでもくらったかのように四肢の先端まで力が行き届かない。
いつになく上から押さえつけるような重力が重苦しい。
もう、ピクリとも動けないらしい。
「あぁ……。」
あぁ、腹が減った……。
腹が減った……。
俺は――。
「死ぬ、のか……。」
あぁ、残念だ……。
でも、よかったな。
美味しくて、動けて、それだけで楽しかった。
この身体がピクリとも動かせないことから本能的に死を悟ったが、けれど不思議と恐怖はない。
悲しくはない、ただあるがままの今が心地よく、ひたすらに安らかだった。
そしてあのリンゴは、本当に美味しかった。
願わくば、もう一口だけでも――。
……――。
――遠ざかる意識。
ヌルっと濁った夢見心地を彷徨う最中、自動で俺の身体が地面を這っている気がした。
……――。
いや、どうやら夢でも気のせいでもない。
何かが俺の両足を引っ張っているらしいことが微かな意識の端でなんとなく判った。
恐らく、近くを通りがかった村人から、既に野垂れ死んだものだとでも思われたのだ。
きっと俺はこのままどこかへ捨てられるのだろう。
ヘドロの海を漂う泥の船の上で、そう思った。
……――。
ならばせめて最後に、得体のしれないその正体を確認しようと、薄っすら瞼を起こす。
このボヤケた視界に映ったのは――。
「う……し……?」
――ウシかよ……。
「勘弁してよモー……。」
***
目を覚ますと、茶色――木の天井、それが最初に視界に入った情報だった。
縄で縛られ、天井から吊り下げられた真ん丸の赤色灯がボーっと僅かに揺れている。
「電気……じゃない……。」
ボンヤリと揺れる赤色灯。
おっぱいで例えるならCカップくらいの真ん丸でかわいい、模様のない月のような、タマ。
はて、少なくとも電気で動いてるようには見えないが、発光の仕組みは見ただけでは判らなかった。
暖かくもどこか頼りないその明かりがユラユラと揺れるので、窓から風が吹き込んでいる事が解る。
外は暗いのか、窓の向こうから光は届かない。
静寂が穏やかで、まるで一度死んだかのように、まったりと心が安らいでいる。
おばあちゃん家のような――どこかそんな遠い昔のような懐かしさがあった。
仰向けに横たわる俺の首から下には、真っ白で分厚い布団がかけられていて、それが少し重たくもあり、反面、じんわりと疲れを吸い取ってくれているようにも感じられた。
どうやら俺は一人用のベッドの上にいるらしい。
とするのなら、ここは病院だろうか。
そういえば俺は、村の入り口で倒れて、それから――。
「俺は、倒れて……。」
記憶の線路の下り側へ自意識を走らせようとした。
けれど不思議なことに、俺の思考は真っ暗なトンネルの入り口を境に、なにか分厚く柔らかい膜のようなものにぶつかり、押し返されるようにウンともスンとも先へは進まなくなった。
「倒れて、なんだったっけ……。」
そっと目を閉じた。
冷静に、少しずつ、目が覚める前の記憶を掘り起こしていく。
赤黒い死の淵と、深い泥沼のような暗黒を泳ぐように。
それは光も届かないほど深い夢の海の底を彷徨うような、朧気で不確かで、どんよりとした不安定な記憶。
もしかしたら本当にただの悪い夢だったのかもしれない、そう思うくらいに、俺はふわふわと他人事めいた淡白な感覚を感じていた。
束の間、俺は気を失う前のことを僅かに思いだし、目を開く。
「そう、牛だ。」
断じて、ウシだろ。
一番最後の記憶は、夜明け前に力尽きた俺の体を、ぼんやりとした大きな黒い翼を背負った、白と黒のホルスタインのシルエットをが引きずっている場面だった。
つまり「うし」に引きずりまわされて、それで最終的に俺はここで寝ているということになるのだろうか。
――いや、流石にそれはおかしい。
「断じて、ウシ――じゃないだろ。」
ふぅ、と一息、俺は深呼吸をして余計な愚考をやめた。
「まさか、牛とやってないだろうな。」
――……。
「いや、きっと大丈夫だ。しっかりしろ、俺。」
一瞬、素っ裸になって変なことまで想像してしまったが、どうやら俺はまだ混乱しているらしい、ろくに体も起こせないんだ、当然だ当然。
そもそもあれが本当に牛だったのかさえ疑わしいのだから、考えるだけ時間の無駄なのは確かでファイナルアンサー。
とはいえ「ここがどこなのか」は、出来るだけ早く調べなくてはならない気がする。
「……?」
のしかかるようにやたらと重苦しい重力を億劫に感じながら、ボーっと親切な黒い翼の牛や今後のことを考えて天井を見つめていると、ふとぼやけた視界を遮るように、ふわっとした人影が俺を覗き込むようにスーッとゆっくり現れた。
果たしていつからそこにいたのかは判らないが、俺の横たわるベッドのすぐ脇に何者かが立っており、どうやら俺のことを監視していたようだ。
その野性的な影に目を凝らす。
よく見えないが、牛の女で――いや違う、これは恐らく人間のメスであると思われた。
そのグラマラスなメスは俺の顔を見て小首をかしげたのか、長い髪がふわりと優しく揺れる。
視界がぼやけていて顔はよく見えない、薄暗い部屋だし、電球の逆光のせいもある。
けれど、俺の目の色をのぞき込むように見ている、観察するような視線を感じる。
それは確かだ。
「あの、ここはどこでしょうか。」
俺は影のようなその女性に無意識に声をかけていた。
声はみっともなくかすれていて、喉は焼けるほどカラカラに乾いている。
呂律もまともじゃないと解ったし、舌も唇も毛羽立つほどに枯れ果て、とにかく無性に水が飲みたかった。
可能なら、まずはこの女性から水をたくさん貰おう――そう思えるくらいには、今は意識も感覚もはっきりしている。
「あ。」
束の間、俺の問いに何も応えないまま影はスンと引っ込み、そしてバタバタと慌ただしく無邪気な子供のような足音と扉の閉じる音を最後に、空間は再び無音となった。
再び、そして先ほど以上に強く、孤独と静寂が俺の耳の鼓膜から神経まで一気に駆け巡る。
何故だか、彼女がもう暫くは戻ってこないような気がして、最初の第一声「み……水……水を……プリーズ……」とか解りやすい感じのにしておけば良かったなと、俺はなんとなく後悔した。
とにかく喉が渇いて死にそうだ。
「けど、そうか……。俺、喋れるんだ……。」
何故だかわからないが、そのことがとても嬉しくて、とても安心する。
ただ喋れるという当たり前の事に、感動にも似た喜びを、ひしひしと感じていた。
しかし、先ほどの彼女の反応からしても、こんな俺の未だ舌足らずな言葉は通じないかもしれない。
少なくとも今いるここは、俺の知っている場所では無いとわかる。
――俺はこれからどうなるのだろう。
ふと脳裏によぎる薄暗い陰。
こうして親切にもベッドに寝かされているという事は、悪いようにはされないと思うが。
しかし意地悪なのかただ単に気が利かないのか、どちらにせよとにかく「水」を恵んで貰えなかったという事実が、俺をとんでもなくネガティブにさせたのだ。
「最後に水……飲みたかったな……。」
極度の疲労の為か、或いは安心してしまったのかは判らないが、突然ズッシリした感覚に脳が襲われ、瞼が重くなる。
きっと、俺はこのまま脱水症状でカサカサに干からびて呆気なく絶命するのだろう。
「み……水……水を……プリーズ……。」
やがて強制的に視界が暗く閉ざされると、同時に別の世界へと引きずり込まれるように再び意識が遠のいていくのを感じた。
また夢と現実がドロドロと混ざり始める。
ほのかな木の香りと温かいベッドが心地よく、そして最期には、安らかな静寂に五感の全てを奪われてしまった。
そんなに意地を張らなくても、もう誰もキミを笑わないよ。