未練
2024/09/12_改稿済み。
家の戸を蹴破ろうとしたパジャマ女を慌てて制止して、俺はコソドロのようにそろりと家の中を覗き込み、つま先歩きで音もなく帰宅した。
にもかかわらず、背後からはファラさんが踵歩きでドタドタと嫌がらせしてくるので、チーさんに対してどこか極まりの悪い俺の配慮は特に意味を成さず、また厳格なこの家の主にも早々に帰宅を悟られてしまった。
「おかえり。少しは涼めたかい。」
そしてやはり、チーさんは起きていて俺たちの帰りを待っていてくれたらしい。
リビングの食卓に腰掛けて眠気を我慢しているためか、目元に腫れぼったくクマの浮かんだ表情には、長年の苦労が蓄積されて見えた。
あくび交じりに食卓に頬杖をついており、まばたきの度に瞼が重たくなる。
手元の湯飲みからは湯気も立っていないので、とっくに冷めてしまっているのだろう。
弱弱しいチーさんを見るのは、これが初めてだったと思う。
それゆえに、俺が普段見ていたこの老人の快活で健康的な姿というのが、飽くまでも表面的、或いはいち側面でしかなかったのだと悟る。
ファラさんや俺の先行きを心配している彼の寿命は晩年に向けて、刻一刻と、確かにすり減っているのだと、嫌でも理解できた。
「ごめんなさい。ご心配をおかけしました。」
これまでの身勝手な振る舞いを今更ながら重く恥じた俺が頭を下げると、チーさんは夢見心地にゆったりと頷いた。
「あの、俺……ファラさんと行こうと思います。まだ気持ちの整理が出来たなんて、自信はないけど……でも俺は、この村でたくさんのヒトに背中を押してもらった恩を、無下にはしたくない。このまま何もできない人でなしで終わるなんて、嫌だって思ったから……。」
自分の想いを冷静に言葉へと置き換えながら、この村で多くのヒトから授かった想いを丁寧に紐解いていく。
自分の想いと大切なヒト達の想いに報いる術を、散り散りになったままの微光のカケラから紡ぎ出すために。
「そのために、自分が奇跡を授かってスチャラカポコタンに流れ着いた理由を知りたい。そして”あの夢の正体”を確かめたい。」
――自分の人生を、後ろめたい結末から逆転させるために。
「だから、旅に出ようと思います。」
チーさんは小さく頷いた。
彼の朧気だった瞳は、いつの間にかキリっと鋭い意志を持って開かれており、真っすぐに俺の視線を捉えて光がさして見えた。
「ま、こうなることは最初っからこの本に書いてあったことだから、計算通りだったがな。」
チーさんはどこからともなく例の本屋大賞を取り出すと、顔の前に掲げてニヤリと怪しく笑った。
「それは、本屋大賞の”ヒトをあやつるチカラ”……! てめえ、俺の堅い誓いを……一度ならず二度までもっ!」
「はっはっは、冗談だ。あんまり真剣な顔されると、つい癖でな、空気を汚してやりたくなるわけよ。中身のないヒトも本も使い手次第ってね。」
こんな真夜中にも関わらず、闇落ちしたサタンクロースな笑い声がこの家いっぱいに反響する。
中身のなさそうなパジャマ女も場の空気に便乗し、どのツラ下げてか俺の背中を叩いてケラケラ笑い始めた。
「これから先、知らない土地の解らない事ばかりで大変になるだろう。だがそう身構えずとも良い、安心したまえ。前もって、わしの方で色々と手配をしてある。」
席を立ち、腰をトントンと軽くたたいて背筋を伸ばすと、チーさんは気が抜けたのか、ぐがあっと大きなあくびを掻いた。
「その辺の話は今度にするとして、わしはそろそろ寝させてもらおうかな。」
***
その夜は頭が冴えて、どうにも眠れる気がしなかった。
対してお隣さんはグッスリで、いつも通りぶもーとかぐおーとか、悪夢めいたイビキを撒き散らかしている。
噴水まで俺を探して走ったことが食後の良い運動になったのか、或いはようやく先行きが決まって、彼女の方はすっきりとした晴れやかな気持ちでいるのかもしれない。
チーさんは色々と旅の支度をしてくれているようだけど、俺の中ではワクワクよりもやはり不安の方が幾らか勝っていた。
俺の傍にはこれからもファラさんがいてくれる、それは確かにとても心強いことだ。
しかし彼女のこと(主に食費のこと)を旅の中心に考えると、安心して眠れる夜にはなかなか出会えないだろうことに気付く。
初恋の中学生のように余計なことを考えていると、お隣の生演奏と相まって、今度はいつもと違う種類の耳鳴りで頭が痛くなった。
「あーもーうるせぇなあ!」
勢いあまって、俺はファラさんの顔面に枕を押し付けてしまった。
先々の不安の中心が彼女だったとはいえ、追い込まれた時の自分の言動に我ながら驚く。
一時しのぎに過ぎないかもしれないが、ファラさんは無呼吸状態に陥ったのか、イビキはピタリとおさまった。
最悪、明日の朝にはお隣さんが冷たくなっているかもしれない。
とはいえ、これでようやく空間は静かになった。
もちろん枕ごときの防音効果など、彼女の魂の大喝の前では木造建築の薄壁程度にしか意味をなさないだろうけど――。
「やっぱり、寝れね。」
案の定、ファラさんは再び地獄のメロディを奏で始めた。
それも枕の隙間から音漏れするせいで、深く不愉快な重低音が先ほどよりずっと凶悪になり、いよいよ可愛げもなく俺の鼓膜を重々しく揺らし始める。
堪らず今度は、ファラさんの顔に被せた枕を取り上げて自分の両耳を枕でふさいだ。
すると、体内を血が巡る音がごうごうと響き渡り、それは猛々しく燃え盛る火柱を彷彿とさせた。
少しだけ、気分が落ち着いた。
旅を始めたなら、自分の事は自分のちからで何とかしなければならない。
知らない土地で、まずは稼ぎ口が必要になるだろう。
宿をとるのも安くはないだろう。
これだけ多種多様なリンネが暮らしていながら、不思議と文明レベルがあまり高くないことを考えると、移動手段もえり好みは出来なさそうだ。
街から街を渡るにしたって、最悪の場合、徒歩で何日もかかることもあるかもしれない。
野営をするとなると、ヒトを襲うような害獣への備えも万全にしておかないといけないのではないだろうか。
それこそ、日本にいた時だったら、考えもしない悩みごとばかりだ。
――不安だ。
「いざとなったら、俺が雑音製造機を守らないと……。それこそ、この命に代えても……。なんて……出来るのか、ホントに。」
俺は枕という名の防音フィルターを外し、ファラさんの寝顔を見つめた。
無防備であどけない寝顔は、正に子供のように無垢だ。
そんな彼女にも、ヒト知れず背負っている想いがあって、手に入れたい理想があり、この村を発つことを切に願っていた。
――探しに行こう、一緒に。
そしてどういう巡り合わせか、ひとでなしの俺は、彼女と出会い、想いに魅かれ、手を引かれたんだ。
「守らないとな、絶対に。」
ふと浮かび上がる、なにか漠然とした、未練。
「”今度こそ”一緒に行くって、決めたんだから。」
それはきっと、この奇跡と、あの夢に起因している――そう思った。
「好き」と「欲しい」は違うので、自分に足りないものを我がままに描いているのは、私が「好き」で満足出来ない人間だからな気がします。




