阿鼻叫喚
2024/03/30_改稿済み。
俺にとってはモノクロで鬱屈とした帰り道。
ファラさんにとってはカラフルで快活な夕飯前の前夜祭。
家路という、ひとりでは永遠のように感じていたある種のボヤ騒ぎも、彼女に捕まってからは、味気ないほど一瞬で燃え尽きてしまった。
ファラさんは内鍵を家主に開けさせるべく、コツコツと、普段通り軽々しく扉の金具を鳴らす。
来訪者を見極めようと、ジッと沈黙する家。
断頭台のような、或いは教会にひっそりとある懺悔室みたく、重苦しく鎮座する扉。
罪に溺れ、未来に怯え、ファラさんの陰に身を隠したこの"ひとでなし"は、神とも悪魔とも形容しがたい何者かに許しを請い、刻々と迫る審判の時を前に、ただ項垂れている。
やがて、ガジャリ、と金属錠の錆びた応答は、毒々しくも鋭く鼓膜を伝い、血液から脳に浸透し、脊髄反射的に俺の心臓へ致命の一撃を予感させる。
俺よりも背の高いファラさんの陰からではよく見えなかったが、内向きにゆっくりと開かれた扉は、厳格な家主の存在を、弱気な俺に知らしめた。
「おう、お帰り。」
野太く包み込む声だけダンディな歓迎に”ただいま!”と元気に頷くファラさん、束ねた長い髪が軽快に揺れていた。
少しの奇妙な沈黙を経て、ファラさんは僅かに首だけを動かすと、視線の端と意識を、背後にいる俺の方にそっと伸ばした。
彼女はこの場で即興の相槌を打ち、俺の胆力を量ろうと試みたのだろう。
要するに、"ただいま"を、次のランナーに渡そうとしていたのだ。
「あ……。」
しかし、罪の意識で重くなった俺の思考は、ファラさんの気遣いから生まれた、ある種の強迫じみた手がかりさえまともに握れず。
根無し草同然の俺は、反射的に何事もなかった風を取り繕うも、先行きも覚束ない千鳥足が災して、慌てて口走ってしまった。
「た……”ただいま”……。」
――暗く濁り、深く沈んだ。
***
――ごめんなさい。
玄関前で極まりの悪いところを二人に見られ、帰る場所を失った俺は、薄暗く入り組んだイバラ状の空気の隙間を強引にくぐり抜け、命からがら傷まみれの標本を、寝室の静寂へと封印することに成功した。
封印と言ってもこの場合、実際には”物理的にファラさんを寝室から締め出した”ことになるのだろう。
その点については、悪いことをしたと思っている。
ただし、それでも俺が内鍵を掛けなかったのは、俺の中で未だ僅かに、罪悪感から起こる彼女への敬意と、そして居候の身でありながら、この寝室を私物化する事に対しての良心の呵責があったからなのかもしれない。
いずれにせよ、もはや優柔不断を通り越して、自分でも何がしたかったのか、いよいよ意味不明だと思った。
スレイブスコロニーの明かりを消して、沈黙と孤独を鎧として纏い、ベッドの上でひとり横たわり、無気力に蹲っていると、やがて無敵とも言うべき崇高な夜暗が降りてきて、俺はだらりと堕落した。
薄い扉の向こうのリビングからは、少し寂し気な食卓の音が、一人分少ない不安定なリズムで聞こえてくる。
それでもなお、ガツガツカッカッ!と勝気で品のない掻き込み音とか、ゴンッ!ドンッ!キンッ!と、まるで刃を交えた決闘みたく荒々しく叩きつけられていく食器類の音とかは、良い意味でファラさんがいつも通りだと解るので、なんとなくホッとした。
食卓から漂う香ばしい匂いは、閉じた扉と暗闇の隙間を、器用なネコのように音もなくするりとすり抜けて、俺の本能の入り口にそっと忍び寄る。
こんな時でも腹は鳴るし、もちろんお腹もすいていたが、既に小指の一本たりとも動かす気力を失っていた俺は、生理現象をも放ったらかしにした。
先ほどもファラさんが夕飯の席に俺を呼ぶべく、そろりそろりと寝室まで入って来たけれど、俺は問答無用で寝たふりをして彼女の善意をやり過ごした。
いよいよそこに罪悪感はなかった。
――濁る。
自動で脈打つ心臓、くぐもった重苦しい音が全身をビクン、ビクンと、不気味に駆け巡る。
ルゥぅ、ルゥぅと、羽虫のように不規則に飛び回る耳鳴り、気が付くとあっという間に死体の周りに群れを形成し、いよいよ振り払うことが難しくなった。
どこを切り取っても同じ形の不吉な思考の回路、点と点を繋いだだけの単純なコースの上を、弾力のある赤黒い大きな球体が、ひとりでにぐるんぐるんと転がり続けている。
その不気味な感覚の中で、球体は周回を重ねた分だけ余計に加速し、こ慣れ、もはや速く走り続ける事だけを快楽と知り、回路そのものに依存し、俺の自我を以てしても球体の制御が利かないところまで暴走していた。
自意識を僅かに掠った程度の死の予感は、俺の胸中で蓄積された負の遺産を餌に、すくすくと有意義に進化を繰り返す。
水面下で膨張する酒池肉林に比例して、今度は俺自身の存在意義を問うイバラのムチ打ちの拷問と、その懲役が、際限なく加算されていく。
いつもなら気持ちが安らぐばかりの理想の暗闇も、今夜ばかりはどこか調子外れに居心地が悪く、無自覚に堕ちすぎてしまう。
――沈む。
どうにか脳に酸素が行き届くようにと、意識的に鼻から息を吸い込むと、冷たい空気が体内に循環し、僅かに気が引き締まるのを感じた。
知恵熱を帯び、焼けて干乾びた額に自分の冷たい右手をベッタリと被せ、気休めに冷却作用を期待してみると、熱暴走気味だった意識は、自然と回転数を落とし、緩やかなブレーキをかけ始めた。
少なくとも思考の回路は、一時的に加速を絶たれたようだ。
仕事中に気を失い、休憩室のソファで目を覚ましてから、僅か数時間ばかし。
俺を取り囲むあらゆる人物や出来事、その情報の本質が、今の俺には途方もなく、手に余る。
この目には脆く見え過ぎてしまい、このこころには儚く読めすぎてしまう気がした。
視覚や聴覚から雪崩れ込んでくる膨大な情報の軍勢は、俺のパンク寸前の頭の中で、なおも自動で緻密に紐解かれ、記憶され、不燃物として蓄積されていく。
俺の小さな器から溢れてなお、耳鳴りは止めどなく注がれて、注ぎ口を塞いでもなお塞いだ隙間から吹き出し、ボロボロと零れ落ちては骸の山を築いていく。
突如として肥大した夜の大海原で、俺の自意識だけが波の隙間をぼんやりと漂流している。
キラキラと輝く満点の星空には、大きな美しい満月が煌々と浮かび、さざ波はただあるがまま俺の死体を癒し、穏やかなはずだった。
しかしそれ故に、いよいよこの世界にポツンと浮かんだ自分の死体が、流木やらの漂流物みたく、不浄で不吉で不必要な異物に思えてくるのだった。
――いつも、ありがとう。
「頼むから、こんな"ひとでなし"に、寄りかからないでくれ……。」
――わたしたちは、あなたたちが、だいすきです。
「これ以上”俺の罪”を、照らさないでくれ……。」
刻々と、俺の正体は、夜行性の獣の姿に近づきつつある。
不浄の結末を嘆き、恐怖しながらも、既に生還を諦めてしまった俺は、自分の運命を呪い、自らの血に飢えて、渇き尽くした笑いを飛ばした。
込み上げる絶望に笑う度、膨れ上がって張り裂けそうな胸の傷みを必死に抑え込み、剥き出しになった嗚咽を噛み殺して、深淵に呑まれた天井へと、醜い遠吠えを繰り返す。
この魂が、再び息を吹き返す時まで。
ひとり――。
――耳鳴。
産声を締め殺し、枯れ果てるまで遠吠えを繰り返す。
この魂が、再び日の目を浴びる時まで。
ひとり――。
――耳鳴。
未来への祈りともいうべき、この閻魔の阿鼻叫喚を、扉の向こうにいる"家族"の誰にも、決して知られたくなかったから。
――耳鳴。
だから俺は、ひとりで泣いてしまった。
アナタがくれた"ありがとう"は、私に"ごめんなさい"をくれました。
アナタにあげた"ありがとう"も、私に"ごめんなさい"をくれました。
だけど本当は、アナタとの間に生まれた"ありがとう"を、嘘偽りのない"ホンモノ"にしたかったんです。




