デブリ
2024/03/14_改稿済み。
――グッドシャーロットで働き始めてから、かれこれ一週間が経過した。
養豚場の仕事にも少しずつ慣れてきたお陰か、前のめりで頼りなかった体つきも、心なしか健康的で前向きな方へと少しずつ変化しているように思える。
毎朝12時に出勤、地球の感覚で言えば朝の8時に仕事が始まって、夕方6時前にはもう家に着く。
少し早く仕事の終わる日なんかは、ファラさんの買い物や、晩御飯の支度を手伝ったりと、我ながら順調で正当な日常のサイクルを築けているのではないだろうか。
汗水たらして一生懸命働く。
熱々のお風呂に入って、ファラさんの欲望をありったけ詰め込んだ夕飯を楽しみにしながら、鼻歌交じりにゆったりポクポクと、時間を忘れてくつろぐ。
素朴ながらも暖かく、呆れるほど賑やかな食卓を、家族同然の人達と共に囲む。
ふかふかのお布団に潜り込んで、今日の出来事を思い出しながら、明日も頑張るぞって、また朝日が昇るのを楽しみにしてグッスリと眠る。
平和と平穏と平凡というただのそれだけで、俺は包み込まれるような優しい幸せに身も心も満たされてしまっている。
ここケズデッドの村での暮らしは、時間に追われることもなく、退屈と言えば退屈で、良くも悪くも淡白で質素な毎日だ。
けれど今の俺にとってはそれが無性に居心地よく、理想的なのどかな暮らしにすら思えた。
一人分のベッドは相変わらず狭いし、ファラさんの化け物じみた寝イビキは生命力をゴリゴリに削られるけど、それも怒りとか殺意とか呆れるを通り越して悟りの境地に辿り着くと、いよいよどうという気も起きなくなった。
今にして思うと、子供のように無邪気なファラさんの存在というのは俺にとって、血を分けた本物の兄弟のように親しい存在になっていたのだろう。
今日は1月の9日。
俺がこの世界にやって来てから、およそ10日くらいになる。
もしこれが悪い夢であったのならば、もうとっくに覚めているのだろう。
しかし俺は俺のまま、この白昼夢めいた空間に無意識的に留まっていて、気が付くと当たり前のように、今ある幸せな生活に身も心も馴染んで生きているのだった。
けれどそれが悪いことだとは少しも思わないし、むしろ俺は、こんなのんびりとした平穏な日々を、食卓を囲む大切な人達の笑顔を、これからも大事にしていきたいとさえ思っている。
数日前、目を開けたまま見た”向こう側”のことは未だ僅かに気がかりではあったが、しかし俺はきっと、深層心理では”まだここに居たい”と、そう願っているのだろう。
今日もご機嫌なファラさんの重たい朝食でいつものように栄養過多をして、朝の12時から出勤。
空に太陽は無く、珍しくドンヨリと分厚く重たい曇り模様で、梅雨時みたいな湿気っぽい嫌な気候ではあったが、不思議と気にはならない。
そして今は、俺を含め総勢6名のマラク班で始業前の朝礼の真っ最中である。
「あれ……そういえば一人減ってるような気がするけど……。マーシュさん、最近誰かやめましたか?」
「ん? いや、最初っからこのメンツだったぞ。りんねっちの気のせいじゃん?」
「んー、そーなんすかね?」
朝礼の最中、ふと、誰か大切なモブ仲間が一人いなくなっていた気がしたけれど、マーシュさんだけでなく他の従業員も口を揃えて「そんなヤツは知らない」と真顔で首を横に振るので、どうやら本当に俺の勘違いであることが解ったので、俺は考えるのをやめた。
やだなぁ~。怖いなぁ~。おかしいなぁ~。
「今日は予定通り、昼前にC舎の左5区画分を出荷に回す。マーシュはりんねっちと協力して準備を進めてくれ。んで、ぼくはこれからとっても大事な商談オブザイヤーがあるから、あとは任せた。」
「あ、まーたマラっさん逃げんのか。」
「じゃぁお前が代わりに行くか? ミスったら全力でドナドナの刑だけど。」
「へん、嫌だね。あした死ぬとしても御免だよ。」
「偉そうに文句言うな。はい朝礼終了、解散解散。」
マラクさんはパンパンと軽快に両手を打って半ば強引に朝礼を締めくくると、さっそく真っ黒な仰々しい布を頭からスッポリと被って、まるで顔写真付きの指名手配者のようにそそくさと裏口から飛び出していった。
「んじゃりんねっち、いこっか。」
「うーっす。いざしゅっぱーつ。」
わらわらと他の班員が動き始める中、初めての出荷作業にやる気を燃やした俺は、マーシュさんの後ろに続いて意気揚々とC舎へ向かった。
しかし何故だろうか、今朝のマーシュさんの背中は、どこか頼りなく、彼女の存在そのものが今にも蒸発してしまいそうなほど億劫そうに思えたのは。
***
「そういえばマーシュさん、今日の出荷って何するんですか?」
「ん……? あぁ、そうね。出荷は……りんねっち初めてだもんね。まぁ要するに大きくなったデブリ達を精肉場へと売り出すのさ。今日はC舎の左5区画、計25匹。せっかく育てた子たちが一気にいなくなるから寂しくなるんだけど、仕事だしね、仕方ないよ。」
C舎に到着して間もなく、ふわふわと上の空で足取りも覚束なかったマーシュさんは、俺の質問でようやくこちら側に向き直り、俺の存在が背後にあったことを思い出し、申し訳程度にそっと笑った。
けれど、虚ろに濁った彼女の瞳が俺と目を合わせることは決して無く、調子はずれのぎこちない作り笑いを浮かべて、僅かに俯きがちに視線を泳がせているだけだった。
C舎。
50頭に及ぶデブリ達は、変わらず呑気にふわふわと過ごしている。
心ここにあらずなマーシュさんの説明を受け、俺は左の五区画で過ごす呑気なデブリたちを見渡す。
ここにいる25匹のデブリの世話をするのは今日で最後になるのかと、不意に寂し気で少し残酷なことまで連想してしまったが、けれど不思議と決別の実感は沸かなくて、飽くまでも他人行儀な”かわいそう”という大雑把で無責任な感覚に留まっていた。
「まぁ、そんなわけで今日は忙しいから、さっさと始めるよー。」
「えいえいおー。」
「ははは……。」
励ましの意を込めて、俺は柄にもなく景気づけに右手を元気よく掲げて見せたが、マーシュさんは何も答えずに、ただ少し困ったように、寂し気に笑った。
その無視とも言うべきマーシュさんらしからぬ冷めきった反応は、ようやく近づけた心と心が再びすれ違って離れてしまったかのようにもどかしく、夏の終わりに転がるセミの死骸のように軽く、淡白で儚く、無性にやりきれないもので、俺は少しだけ動揺した。
声の調子は暗く低く、重たい泥の底に沈んだみたいで、いよいよ精力のカケラも感じられない。
肩には何も背負ってなどいないのに、彼女の背筋はやや前のめりに曲がっており、柄にもなく小さな頭を億劫そうにもたげている。
昨日はあまり寝れなかったのだろうか、顔をよく見れば、目の下には薄いクマがあり、僅かに濁った赤い瞳はどこか虚ろで、情熱的な色彩を失いつつある。
業務に向けて動き始めた後も、俺の前を歩く彼女は、その一挙一動が鈍く揺らぎ、足取りは、まるで太陽の光を断絶された無音の深海の底を、たったひとりで歩いているかのようにズッシリとまどろっこしい重圧を帯びていた。
珍しく空が分厚い雲に覆われていることもあり、より一層気分が落ち込むのかもしれないと、彼女の頼りなく丸まった背中を見て、だんだんと俺も彼女の精神状態が気がかりになる。
何故なら、彼女の過酷な生い立ちを聞かされた時でさえも、これほどまでに彼女が打ちのめされた様子になる事はなかったのだから。
「やっぱり辛いものですか、出荷っていうのは。」
「まぁね。生きたくても生きられない命はわかる。けど”殺したくなくても殺さなければならない命”があるなんて、私はここに来るまでは考えもしなかったし。」
俺の余計な詮索に、気だるげに前を歩くマーシュさんの声の調子は、ピリピリと鋭い反しの付いた棘を帯び始める。
「食用とはいえ、命には変わらないかんね。例え食べるために育てるのだとしても、こんな無邪気でかわいい子達をぞんざいに扱うなんて、今まで一度だって、私には出来なかったよ。」
その時、恐らくは無意識に発せられた”ぞんざい”という彼女の言葉はあまりに重たく、まるで他人行儀で軽薄な俺の態度を罪深く責めているように感じられて、俺は無性に極まりが悪く、眩暈にも似た息苦しさに返す言葉をギュッと圧迫された。
「ヒトに限らず命はね、授かったからには幸せになる権利がある。本来、”幸せになる権利”ってさ、当然、誰にでもあって当たり前なんだ。それはデブリにしてみたって同じ。」
――何者であっても平等に有する”幸せになる権利”など、俺は考えたことも無い。
「それでも初めから食べるつもりで育てるから、私はいつも罪悪感に胸を抉られ、心をかき乱される。けれど本当は、いちいちこんなことで落ち込んでたら仕事にならないんよ。それに、こんな半端で無責任な気持ちで仕事と向き合っていたら、幸せになるために生まれてきたあの子達にも、後ろめたさで頭が上がらなくなる。彼らの生きる幸せの権利を刈り取るのなら、せめて一生を尽くしても余りあるほど愛して大切にして、最後の時まで幸福の絶頂でいられるように尽くしてあげたい。せめて私の前でだけは『毎日こんなに幸せで良いのかな』って、夢見心地にそう思っていて欲しい。」
――権利の価値すら知らない、幸せの定義すら持ち得ない、そんな平和ボケした記憶喪失者だから、俺は何も答えられなかったのだろう。
「なんて、どう説明しても自分では矛盾しているように感じるけれど……それでも私はこの仕事を誇りに思っている。偽善でもいい。私にしか、この子たちを幸せにしてやれない。たぶん、皆もそう思ってるからね。」
お手伝いとはいえ、俺は無意識のうちに命を軽んじていた事を深く反省し、マーシュさんの仕事に対する姿勢を重く真摯に受け止めて、言葉を失ったまま、誰に見せるでもなくひとり静かに頷いた。
ただ、マーシュさんは、別に俺を責めているわけではないのだと感じる。
俺が俺自身の無責任な姿勢を許せなかったこと、一生懸命な彼女に対して若干の後ろめたさを感じたことが、眩暈にも似たこの息苦しさの原因なのだろうと、そう思った。
「あ、りんねっち。最初に言っとくけど、今日の豚舎の掃除は右の5区画だけでよくなるからね。それとデブリのご飯は右の区画を私があげるから、りんねっちは出荷の子たちにご飯あげといて。」
「あ……。解りました……。」
食料保管庫でせっせと荷車に穀物を積みながら、マーシュさんは出荷の指揮を執る。
しかし、今日に限って彼女の指示には明白な違和感があり、俺は脳裏に浮かんだ疑問を即座に言葉へ置き換えそうになって、口先から寸でのところでギリギリ思い留まった。
俺が気が付いた違和感の正体とは、昨日まで餌付けの作業は”マーシュさんが左の5区画を担当していた”という事実である。
もちろん、マーシュさんにどのような意図があったかは決して定かではない。
しかし今日という特別な日に限っては、彼女なりの感傷的な事情が介入した結果なのではないか――などと、余計な気を頭の中いっぱいに巡らせてしまい、どうにも思考の制御が利かない暴走気味な自分がいるのもまた事実だった。
――そして”ご飯”という、マーシュさんの慈悲深く人情味溢れ、暖かすぎる言葉の気遣いに、気落ちしていた俺の胸は、抗うすべもなくキュッとキツく締め付けられてしまうのだった。
「なんだか今日は、少しブルーだな。」
穀物で満タンになった重たい荷車をひとりで押しながら、先に餌付け作業を始めた直向きなマーシュさんの背中を見て、俺は無意識に自らの口をついた憂鬱な群青を、静かにため息に置き換えた。
***
「プー! ピーッ! プイー!」
「よしよ~し。そら、いくぞぉー。」
黙々と荷車の穀物をデブリたちの餌場に撒いていくマーシュさんに倣い、俺は左5区画の餌付け作業に当たった。
餌の時間だと解ると、デブリ達は鼻先をひくひくと掲げてピーとかプーとか甘えた声を出し、日曜限定朝市のタイムセールに押し掛けるオバサン達を思わせる凄い勢いで木組みの柵を揺らし始める。
いよいよ柵が壊れるのではないかと心配になるほどの荒々しさに、俺も最初こそ怖気づいてたじたじだったが、今ではすっかり小慣れたものである。
特に困ることなく順当に餌やりを進めていく。
「プププ、ピ。」
真ん丸のおしくらまんじゅう。
餌場を囲んで仲良くひしめき合い、夢中で穀物を頬張っては、顔を上げて満足げな視線をこちらに向けてくる幸せそうな出荷予定のデブリ達。
改めて彼らの緩みきった丸い表情を見ていると「穀物ってなんでこんな美味いんだろ~」と、丹念に舌鼓を打っている様にも思えてきて、そんな彼らの無邪気さが身近にいる食いしん坊な誰かに似ていることに気が付いて、俺は思わず笑ってしまった。
「りんねっち、これも一緒に頼んで良い?」
「え?」
大方餌付けを終えた俺がいつもより真剣にデブリたちの食事風景を眺めていると、不意に背後から肩を軽くたたかれた。
振り返るとマーシュさんが、彼女の上半身ほど大きな繊維質の袋を、両腕で抱えきれずに後ろに倒れそうになりながらも、上手に全身のバランスだけで支えていた。
「おっとっと……サンキュー。」
押し倒されそうになっているマーシュさんから、およそ2~30キロはあろうかという、中身をパンパンに詰め込んだサンドバッグみたいな袋を預かり、俺は重みの正体を確認する。
見れば、丸いカレーパンみたいな潰れた見た目の赤い果実だけがぎゅうぎゅうにひしめき合っていて、ほのかに甘くて優しい香りが鼻先をくすぐった。
「これ、リンゴ? デブリにですか?」
「うん。デブリはね、リンゴめちゃ大好きなんよ。これ全部あげちゃってくれる? 残しといてもしょうがないんだ。」
「はぁ、別にいいですけど……。」
「ありがと。あ、マラっさんには内緒ね? 勝手するとすげー怒るからさ。んじゃ、お願いね。」
マーシュさんは両掌をそっと合わせて申し訳程度に頭を下げて笑うと間もなく、空になった荷車を押して食糧庫の方へ向かった。
俺のすぐ後ろでは、リンゴの香りを嗅ぎつけたであろうデブリたちが、ピーピーと身を乗り出し、強引に前足を柵に引っ掛けて、いつなく荒々しく揺らし始める。
「うお……なんかいよいよファラさんみたいだ。」
一斉に血沸き肉踊り、黄色い歓声を上げた25匹ものファラさんの幻影に気圧され、俺は袋を抱えたまま2~3歩あとずさった。
「それにしても、このリンゴ……。」
俺は重たい袋の中身を見つめて、このリンゴが導くひとつのやり場のない贖罪に辿り着く。
実は、この養豚場にリンゴを保管している場所はない。
そもそもデブリに餌としてリンゴを与える機会が存在しないのだ。
だとしたら、マーシュさんはマラクさんに内緒で、この大きな袋いっぱいにデブリの好物を買ってきたのかもしれない。
デブリを想うあまりに、せめてもの餞別に、本当の意味での最後の晩餐に、とびきりの好物を与えてあげようと。
愚かしくも彼女は、守り切れなかった愛する者たちへ、施しを与えずにはいられなかったのではないだろうか。
だけど――。
「それじゃまるで……守れなくて”ごめんなさい”って、謝ってるみたいだ……。」
急に押し寄せたやりきれなさに目頭が熱くなった俺は、リンゴをデブリ達に分け与えながら、沸々と煮えたぎる漢の汗を力強く拭い去った。
「プ。プププ。プィププ。プ。」
シャクシャクと瑞々しい音を立てながら、デブリ達は無我夢中でリンゴを頬張る。
「うまいか……。うまいだろ……。俺も初めて食った時、すげぇ美味かったぞ……。」
誂えられた目先の幸せに囚われたまま、25匹のファラさんが間もなく食用として出荷される。
脳内でどうでも良すぎる想像力を働かせたが故に、この胸の内から沸き、溢れ、零れ落ちそうになった激動の愛おしさをグッと呑み込んで、俺は身に着けていた軍手を外し、両手でそれぞれ別々のデブリの頭を直に撫でてみた。
暖かくもちもちと弾力のある二匹の頭部に触れると、その内の一匹が耳をパタパタと振りながら顔を上げ、俺の目を見て僅かに優しく微笑んだような気がした。
その時"いつもありがとう"って、俺はそのデブリからお礼を言われた気がして――。
――なんだ■少■だけ、愛■しく思ってしま■■――――――――――――――――――― . ・ 。
***
――いつも、ありがとう。
――わたしたちは、あなたたちが、だいすきです。
心や魂は、お互いの気持ちが近づいて初めて出会えるもの。




