マーシュ
2024/02/07_改稿済み。
養豚場グッドシャーロット――場内には大きく分けてグループが2つあり、6名の「マラク班」と7名の「アラタ班」に分かれている。
労働初日の俺の印象からすると、マラク班は温和なジモティーの集まり。
アラタ班は魑魅魍魎の蔓延るド底辺の吹き溜まりという感じだった。
要するに光と闇である。
マラク班は、ご存じの通り筋肉班長のマラクさんが統率をはかっており、対するアラタ班の班長「アラタ」とは、どうやらあのぐるぐるパァの年増女のことらしい。
とするならば、自己紹介の時にアラタ班長の両脇にいたゴリラ達はアラタ班の従業員という事になるのだろう。
ちなみに俺の教育係はマラク班のマーシュさんなので、必然的に俺の配属もマラク班になった。
ぐるぐるパァの方じゃなくて本当に良かったなと思う。
そして、養豚場というからには当然「豚」を肥育しているわけだが、この星の豚は俺の知っている豚とは見た目が少々異なっている。
デブリブタ――通称「デブリ」と呼ばれるそれらは、大きさこそ地球の豚とほぼ同じ程度だが、全体的に一層丸っこく、空気をいっぱいに入れて膨らませた風船のような可愛らしい見た目をしている。
膨らんだ横っ腹を押すとバケツプリンのようにぷるぷるぼよよよ~んと見事な横揺れを起こす彼らだが、その短い四肢でノチノチと歩くと、アメリカ女のように見事なお尻がこれまたふるふる震える。
警戒心は薄く、近くで作業をしているとそろそろと寄ってきて、丸い鼻をひくひくと動かして餌をねだるのだが、猫の肉球のように柔らかなその鼻先は、安易に指で触ろうとすると餌と間違われ噛みつかれるので要注意。
しかしその点にのみ気を付けていれば、基本的には人懐っこく温和な性格をしているので、こう言っては何だが、とても「食用」とは思えない、それこそ愛玩動物のように親しみやすい生き物なのである。
養豚場の施設には、大きく分けて3つの形態あるそうだ。
繁殖用豚舎――繁殖用の豚を育てる施設。
育成用豚舎――繁殖した赤ちゃんの豚を育てる施設。
肥育用豚舎――大きくなって離乳した豚を育てる施設。
ざっくりだがそんな感じらしい。
まぁぶっちゃけよく解んないし、この辺の話は働きながら覚えればいいと思う。
さて、午後の作業に向けて俺は、名も無きニートから「駆け出しファーマー」へとジョブチェンジ。
誰かのお古と思われるグレーのツナギに着替え、手には軍手、足元は黒の長靴、気が付けばマーシュさんとおそろいの服装だが、あまり嬉しくはないペアルック。
掘立小屋の休憩室を出て歩くこと数分、C舎に到着、ここがマーシュさんと俺の持ち場だ。
到着して早々、特に何の説明もなく豚舎の掃除とデブリの餌やりを任命された俺は、いわゆる「ほうれんそう」の「ほ」の意味が何なのかも知らない新社会人であるが為に、どうやらまぁ、ろくな働き手にはならなかったらしい。
初日はチュートリアル程度に見てればいいだけだろうと甘く考えていたが、結構ハードな無茶ぶりはされるし、餌や水汲みは重いし、失敗すると「これだからブサイクは」と人権をも全否定されるし、まぁそんなこんなで、もう帰りたい。
今は一通りの地獄を巡り終え、獄卒と豚舎の入り口に腰掛けて、休憩がてら養豚という仕事と地獄について色々と話を聞いていたところだ。
「ちなみにここグッドシャーロットは”肥育用豚舎”を担う養豚場。いわば養豚の最終ステージね。離乳を終えた状態のデブリたちを育てて、市場へ出荷。それをだいたい1サイクル4か月ほどで完了するってわけ。うちの養豚場にはA~Fまでの計6舎があるんだけど、私らマラク班ではA~Cまでの3舎を担ってる。んで、各舎に2名の担当者、さっきりんねっちが餌やりと掃除をしたようで実は邪魔になってただけのこの場所がC舎ね。」
「うす。」
C舎――マラク班が管理している豚舎の一つ。
木造の巨大な舎内では、沢山のデブリブタが各区画毎に柵で仕切られて飼育されおり、真ん中の作業用通路を隔てて左右に5区画ずつの合計10区画、1区画におよそ5頭のデブリが収容されている。
また、飼育しているデブリの頭数をグッドシャーロット全体で考えると、単純計算で1舎に50頭いることになるのだが、それがA~Fの6舎あるので、総数は300頭前後が妥当な線だろう。
それにしても、俺は本当にここに居ていいのだろうか、帰っていいならもう帰りたいのだが。
「凄いですね、この養豚場。300頭近いデブリの飼育をたったの13人でこなしているだなんて、とても信じられませんよ。」
「まぁねー。けどマラク班はいっつもヒト手不足でさ、私なんか毎日仕事終わりはメンタルが死んでるね。それにアラタ班はアラタ班でキームとタークが問題ばっか起こすから、もっと大変みたいだし。」
「キームとターク……? それ、さっきのゴリラズですか?」
「おー、そーよ。私、アイツら嫌いなんだ。いい歳して弱い者いじめばっかりするからさ。ヒトの事はとやかく言うくせに、自分たちは仕事サボっていっつも遊んでるし。」
「まぁあーゆーチャランポランな奴らには目に見えて絶望的な将来が待ってますから、そう悲観しなくてもいいんじゃないすかね。そのうち路頭に迷ってどっかで惨めたらしく野垂れ死にますよ、きっと。そん時に本当の意味での社会的地位ってヤツを、あのゴリラ共の魂に刻んでやればいいんす。」
「りんねっち結構えげつないことサラッと言うね。自分もチャランポランなくせにな。」
「余計なこと言わないでくれます? せっかく励ましてあげてるのに。自覚はしてますけども。」
マーシュさんはクスクスと悪戯に笑った。
「悪い悪い。そんじゃ先に休憩室に行って軽く掃除でもしててよ、私は後片付け済ませて行くからさ。」
「はーい。」
***
掘立小屋の休憩室。
それなりに広い室内の真ん中には、恐らくご飯休憩の時に使うと思われる長テーブルが二本、それぞれテーブルを挟んで向かい合う形で座椅子が8個ずつ、計16個設置してある。
その他に、いかにも上質で大きな革のソファと、手ごろな大きさの背の低い丸テーブルが入り口のすぐ脇に置いてある。
俺は丸テーブルの上に置かれていた雑巾を片手に、室内の備品などを物色して回りながら休憩室の掃除を始めた。
裏口脇の出っ張りには、お手洗いと、その右隣にもうひとつ、鍵の掛かった謎の部屋が並んでいる。
開かずの間は物置か何かだと思われるが、扉の前まで来るとなにやらツンッと刺すような薬品の刺激臭が漂ってきて、衛生面が酷く気になった。
とはいえそのことを除けば、休憩室全体には食べ残しやゴミが殆ど落ちていないので、非常に清潔に保たれているといえよう。
続けて、壁に紙のカレンダーを見つけた。
今日はたぶん、1月の3日だ。
何故なら「3」のところに赤い丸がしてあり、なにやら赤い文字で「新人研修」と、スチャラカポコタン星の文字で書いてあるからだ。
「……って、なんでこれが読めるんだか……。」
ため息交じり、俺は落胆のような、はたまた絶望のような、ネガティブな重苦しい胸騒ぎに項垂れた。
正直、既に俺が何度か味わっているこの「不自然な未知の既知」ともいうべき違和感については、あまり余計な気を回すべきではないと思っている。
今のように、俺が俺ではない何かへと脳みそを丸ごとすり替えられてしまったような気味の悪さを感じ、目に見えてズルッと気分が下がるからだ。
ので、思考停止だ。
気持ちを切り替え、カレンダーをまとめてめくり上げ、一番下からパラパラリと一枚ずつページを落としていくと、6月分までしかページがないことが判った。
しかしどうやら月周期そのものは30日間隔で、地球とほぼ同じなもよう。
一年が180日とすると、ざっくりだが、およそ地球計算の半年で「一年」という区切りになるらしい。
ちなみに今年は――。
「龍星期、3030年……。」
――なんのことだかサッパリだ。
カレンダーのすぐ上には、赤くて丸い壁掛け時計。
文字盤には0~48までの数字と時針しかついていないのだが、これについてはチーさんの家で見たものも、まったく同様であった。
そして、ただいまの時刻は、29時……時針の位置は地球規格に置き換えると「7時」辺りの位置にあるが、未だ明るい外の様子から、実際には「昼の3時」くらいだと思われる。
どうやらこの星の時間感覚は、地球のそれとは大きく異なっているらしく、48時間で一日を区切っているようだ。
また、これは俺の体感でしかないが、時間の感覚において、おおよその参考になるのではないだろうか。
時計の針が”8”を指すころ、太陽が昇って、朝が来る。
時計の針が”20”を指すころ、太陽は空の天辺の辺りに来て、昼になる。
時計の針が”32”を指すころ、日が沈み始め、夕方。
時計の針が”44”を指すと、いよいよ空は月と星と濃紺の夜に染まる。
そして再び空が明るくなり始めるのは、針がぐるりと一周を巡り終えて、さらに”6”を指すころである。
季節による変化などはまだ解らないが、今のところはこの感覚で問題なさそうだ。
さて、この空間でめぼしいものと言えば、こんなところだが……。
「おーっす、片づけ終わったよ~ん。ついでに飲み物持ってきたー。」
数分後、いよいよ暇を持て余した俺が入り口脇の革のソファでウトウトと夢見心地に寛いでいると、飲み物のボトルとマグカップをふたつ持ったマーシュさんがドカバゴーンと扉を破壊する勢いで蹴り開けてきて、良い感じに心地よく寝ぼけていた俺は急に起こされてビクッとして流石にちょっとイラっとした。
「りんねっち、ミルクで良いっしょ?」
「え、あ……。」
「ばっかそこは”いいともー!”だろ!」
俺の目の前のテーブルにぶっきらぼうに置かれたボトルジョッキはボイ~ンと能天気な鈍い音を立てる。
ボトルの頭からは、さながら活火山のマグマのように牛乳がイヤッピィ〜!と踊りだし、さっき俺が雑巾で掃除したばかりのテーブルにベチャリと無様に落下した。
「あー、ちょっとぉ~……もぉ~……。」
「あー疲れたー。さーてと休憩休憩、ミルク休憩。内ベンケイ、アイスホッケー、真・女神転生、地雷系。ナナナナー。」
まるで気にする様子がないマーシュさんは、さっそく俺の右隣に「よっこらしょーのすけ」と身をブン投げると、鼻歌交じりにジョッキの牛乳をマグカップへ豪快に注ぎ始めた。
すると今度は、詰まり気味に注がれる牛乳がポチョンぽちょぽちょとランダムに跳ね、テーブルの上だけでなく、俺の足元にまで白い染みをつくる。
こうして、ゲリラ的に出来あがった白く綺麗な水たまりを見つめていると、クリーンな夢見心地は一転、なんだか気分がジメジメしてきて、ドヨーン……と完全に暗転してしまった。
「あーあ、マジふざけんなよ。」
思わず俺は真顔で舌打ちした。
「ん、なんか言った? てか棺桶から起き上がった死体みたいな顔して、どしたん、ウェスタン、イヤんバカん。」
「いえ、別に。ちょうど牛乳でも飲みたい気分でしたからうれしいです。いただきます、トーマス。」
「だはは、何気にノリノリじゃん。てか意味わかんねー、”トーマス”ってなによ。」
「トーマスってのは、酷く顔色の悪いギョロ目の喋る電車です。あ、”電車”知ってますか?」
「んー、よく解らないけど、りんねっちの遠い親戚かなにかってことは解った。」
「け。」
ミルク注ぐのは下手なくせに、減らず口だけは達者だな、このチビ。
「ほら、りんねっちの分。初日から覚えることが多くて疲れたっしょー。実際これが分担してても結構きついんよなー。」
「はぁ、まぁ、そっすね。」
ガサツに笑うマーシュさんから差し出された牛乳入りのマグカップ。
口にするとヒヤッとして、ふわっとした円やかな優しい甘さが口いっぱいに膜を張り、たちまち俺のモヤモヤの火元は沈火されてしまった。
ひと仕事終えた後の牛乳とは、かくも高尚なものなのだと、俺は今日初めて知った。
「はぁ~、格別うまいっすねー。ところでマーシュさんて、ここに勤めてどのくらいになるんですか?」
「え、私……? う~ん……。」
俺の何気ない質問に、突然マーシュさんは咳き込み、どぎまぎと困惑の表情を浮かべたかと思うと、次には深く考え込むように唸りながら、休憩室の茶色い天井を僅かに仰ぎ見た。
その横顔は、まるで真冬の夜空を仰いでいるようにスッと冷たく強張り、どこか居心地が悪そうに見える。
小さく尻すぼむ冴えない唸り声は、遠い昔の事を思い出そうとしているような、或いは、どう言葉を濁したものかと頭を抱えているような、いまひとつ煮え切らない調子で。
俺としては些細な日常会話のつもりで切り出した話題に過ぎなかったのだが、しかし先ほどまでの小気味の良い軽快なやり取りは、一転してぎこちなく、ズルッ……と、濡れて重くなった尾でも引きずっているような後ろ暗さをはらんでいた。
「当時はまだ小さかったからあんまり覚えてないんだけど、お手伝いを始めたのは、たしか15年くらい前だったかなぁ。」
「え、そんな昔からここに居たんですか?」
「まぁね。」
マーシュさんは俺の目を見るなり、後ろ暗さを誤魔化すようにハハハと、ぎこちない笑顔を浮かべたが、すぐに視線を逸らして、柄にもなく緊張した様子で牛乳のマグカップに口を付けた。
その手は僅かに震えていた。
小さな喉仏がゆっくりと上下する度、ゴギュッと、なにかが締めつけられるような苦しげな音がこの空間いっぱいに大きく響き渡り、やがてその息苦しさが俺の耳の鼓膜へと集約する。
急に押し寄せた気まずい沈黙は、まるで心に重しがのし掛かったかのように重厚で、こうして彼女の隣に座っているだけで上から押しつぶされてしまうのではないかと錯覚してしまうほど、酷く居心地の悪いものであった。
「私、ケズトロフィスの大災害で両親を亡くしたっぽくてさ。もともと北方の小さな孤児院にいたところを、見かねたマラっさんに引き取られたんだ。当時の事とかあんま覚えてないから、どこか他人事みたいになっちゃうんだけど。」
「ケズ……えっと、すみません。その”災害”の事、俺ぜんぜん知らなくて……。」
「あそっか、そーいえばりんねっちは来たばっかりなんだっけ。」
「そうですね。」
僅かに首を傾げたマーシュさんに申し訳程度に頷いて見せると、マーシュさんは丁寧に両手でマグカップを腰のあたりに持ち直し、革のソファにモズッと、深く深く、身も心も、背負っている重荷も全て、ズッシリと預けたように落ち着き払った様子で座りなおし、やはり遠い昔の出来事を思い出そうとするかのように、何もないただ茶色いだけの天井をそっと仰いだ。
「その夜の大災害はさ、大きな街が僅か数分足らずで海に沈んでね、街にいた殆どのヒトが死んじゃったんだってさ。それで私は、黒い翼を背負った男のヒトに命からがら助けられたんだって。けど、そのヒトも最後は海に溺れて死んじゃったみたい。」
「……。」
「あー……あのさ、さっきも言ったけど、私はあの日の事ぜんぜん覚えてないから……。だから、あんま気にしないでね、私もあんまり気にしてないし。だって、なぁ~んにも覚えてないんだもん。」
「……はい、そうですね。」
孤児院に引き取られるより前の記憶が殆どないというマーシュさんは、笑いながら「気にしないで」と誤魔化そうとしたが、やはり顔色はあまりよくなかった。
それはもしかすると、俺の顔色が優れなかったせいもあるのかもしれないが、しかし突然こんな重苦しい対話に裏返って、どんな言葉で返事をするのが正しいのかなど、話している当事者にはもちろん、その隣に座っている、それこそ”記憶喪失者”の俺にだって解りようがなかった。
そして俺が反応に困るであろうことが事前に予想できたからこそ、マーシュさんは自分の生い立ちを話すべきか迷っていたのかもしれないと、そう思った。
また、話し終えた後も頑なに俺と視線を合わせてくれないマーシュさんの気まずげでよそよそしい横顔を見て、俺はそれ以上、当時の話やマーシュさんの身の上について、さらに詳しく聞く気にはなれなかった。
普段であればただ何気ないだけの沈黙に、徐々にこの胸の内から張り詰めていく後悔の感情だけが溢れ、ジワリと滲みだし、ドンヨリと空気中に漂い、冷めきった隣の空気と混ざり合う。
ケズトロフィスの大災害――マーシュさんの話によると、一夜にして街全体が海に沈み、大勢の人が亡くなったという。
ご両親や、まだ小さかったであろうマーシュさんを助けてくれたというその人物も、残念ながら災害の時に亡くなってしまったらしい。
身寄りの無くなったマーシュさんは孤児院に引き取られ、それから暫くしてマラクさんに拾われたのだそうだ。
「そんなこんなで、今の私はここにいる。まぁマラっさんの場合、同情とかじゃなく、この仕事の跡継ぎを探してただけなんだろうけどね。あと、私のお爺ちゃんとかお婆ちゃんとか、どこかにいるんだろうけど、名前も顔も覚えてないから探しようもないんだ。まさか向こうも私がまだ生きてるなんて思わないだろうし、それに私自身も当時の記憶がないから、実は私、自分の本当の名前も知らないんだよね。そうやって考えると、なんだか私も”人でなし”みたいでしょ。」
マーシュさんはまたも冗談めかして笑ったが、喉の痛みを堪えて無理やりに捻り出したようなその孤独な笑顔は、言わずもがな儚げであった。
マラクさんに目を掛けられてからどのくらい経つのかはよく判らないが、他に縋るものの無かったマーシュさんにとっては、それこそマラクさんは親も同然で、グッドシャーロットの面々は家族のように親しく大切な存在だったと考えられる。
そして「リンネみたいだ」ということはつまり、マーシュさんも元々、正統な血の繋がりを持っていた「一人の人間だった」という意味に他ならないのだろう。
「それと、私にとっては孤児院での生活が苦痛だったせいもあるけど、マラっさんに引き取られた頃の私って正直かなり暗くてさ、自分の不幸を呪わなかった日はなかったよ。でもここに来て、ここで働いて、他の皆やデブリたちのお世話をしながら生活している内に、考え方も生き方も随分と変わったと思う。とかまぁ……大体そんな感じ。」
ポツポツと綴り続けた自分語りを、分厚く重たい本をパタリと閉じるようにお仕舞にして、マーシュさんは徐々に俯きかけていた顔をグッと上げ直した。
「そうですか。」
――そして相変わらず、他人行儀な事しか言えそうにない”人でなし”の俺だったが。
「てことは、やっぱりマーシュさんは、グッドシャーロットが好きなんですね。」
――けれど初めて、俺は自分の心で、彼女に光を贈ってあげられたような気がした。
「うん、まぁ、それでもキームとタークは大嫌いだけどね。」
マーシュさんの捻くれた冗談に顔を見合わせて、俺たちは同時に声を揃えて笑った。
その冗談もぎこちなく、やはり少しだけ寂しさをはらんでいた事に俺は気が付いてしまったが、けれど、少しだけマーシュさんと距離が縮まった気がして、何故だか俺は、今の距離感がそう悪いようには感じなかった。
「さてと、そんじゃそろそろ最後の仕事に戻ろうかな。りんねっちは今日はここまでで良いよ。明日は朝の12時にここに集合ね、お疲れさーん。」
「うっす、マーシュさんもラストスパート頑張ってください。あ、洗い物は俺がやっときます。」
「おう、サンキュー。よっし、頑張んぞー。」
ソファから飛び起きてグッと体を伸ばすと、その勝気な背中は、いつもの男勝りなマーシュさんに戻っていた。
やがて、元気に扉を押し開けて日の当たる芝生へと駆けだした彼女を見送ると、俺は、ここグッドシャーロットでの日々が、少しだけ前向きになった気がした。
――”リンネ”は、俺だけじゃないんだって、そう思えたから。
報われなくても、救いに変えられなくても、挫折や後悔や不甲斐なさは、より強く跳ねるためのバネになります、必ず。




