第参話:しんい
ふと光が入り込み目を開けてみると外から烏の鳴き声が聞こえてきた。それはその日の終わりを告げる声であり、部屋を出ると窓からは橙色の光が差し込んできていた。台所からは包丁を使う音がリズミカルに響いており、既に秘色さんが帰ってきている事を示していた。
そっと顔を覗かせてみると私の気配に気が付いたのか秘色さんはこちらに振り返って笑顔を向けた。
「おはよう。眠くなっちゃった?」
「あ、うん……。ねぇ」
「うん?」
「秘色さ……お姉ちゃんはさ、何の仕事してるの?」
「えっと……」
何か疚しい事でもあるのか秘色さんは黙りこくってしまった。いったい人に言えない仕事とはどんな仕事なのだろうか。単に私に嫌われたくないから言えないのか、それとも他の人にも言えない仕事なのかは分からないがとにかく答えるつもりは無いらしかった。
島中から嫌われている過去の私について調べようと思っている私にとって、かつて交流があったという彼女が隠し事をしているというのはどうにも引っ掛かった。
「……千草ちゃん」
「何?」
「今日……お外、出たんだよね?」
「……家に居たよ」
「お姉ちゃんに嘘つかないでいいよ。靴……位置がずれてたよ」
彼女の事を過小評価しすぎていたのかもしれない。私は当初、彼女はそこまで細かく見ているタイプだとは思っていなかった。それこそ、細かい仕草には気が付いても物の位置が変わっているところまでは気付かないと思っていたのだ。
秘色さんは包丁を置くとこちらに近寄り、私の両肩に手を置く。突然の事に驚き、近くにあった椅子の背もたれに手を置く。
「どうしてお外に出たの?」
「……何を隠してるの? 今朝、あの人と話してた事って何なの?」
「い、今はそんな事は……」
「関係ある。この島の人達は私の事を嫌ってる。まるで腫物みたいに。ねぇ、教えてよ。昔、私は何をしたの? 『昔の千草』は何をしてしまったの?」
秘色さんは何も返事を返さなかった。いや、正確には返せなかったというのが正しいのだろうか。彼女は口元をもごもごと動かして何かを隠している様子だった。確実に何かを知っているというのに話せない何かがあるのだ。それがいったいどういう理由から来るものなのかは分からなかったが、いずれにしてもこのままでは話してはくれなさそうだった。
仕方なく私は今日自分が見たものについて話す事にした。山の周りを取り囲む様に置かれている祠とそれに入れられた顔の無い地蔵。片目が機能していない様子の少女である簸子。そして今朝見たあの老人も含めた私の事を嫌っている様子の住人。そのどれもこれもが過去の私と秘色さんへの疑念を高めている事を正直に伝えた。
「あの子……会ったの?」
「知ってるんだね。葦舟簸子……あの子、あの地蔵にお参りしてるみたいだったよ。あれって何なの? 先生がどうとか言ってたけど……」
「……」
「言わないなら別にいいよ。私が自分で調べるから」
「だ、駄目! それは!」
「……どうしてダメなの? どういう理由で?」
彼女のとにかく隠そうとする言動に少し苛立ってきた。しかし感情的になってはならない。私の直感だが悪い人ではない筈である。そう信じたいからこそ手の甲を擦る。
「……千草ちゃん。きっと話したら聞かなきゃ良かったって思うかもしれないよ?」
「いいよ。どうせ覚えてない昔の事だもん。ただ、何も分からないのに変なものばっかり見ちゃったらもやもやするでしょ?」
「……じゃあ……話す、よ」
秘色さんは近くにあった椅子に座ると深呼吸をして声を少し震わせながら過去に何があったのかを語り始めた。
まず最初に説明されたのはあの祠と地蔵だった。彼女曰く、本来地蔵には顔があるものであり、ああいった顔の無い地蔵というのは有り得ないらしい。そしてそんな本来では有り得ない地蔵はある者達の魂を集めておくために使われているらしい。
「誰?」
「……水子って言えば分かるかな」
水子。つまりは流産や中絶によって命を落とした赤ん坊達の事である。あの地蔵はそんな水子の魂を集めておくための地蔵らしい。本来であれば供養のために置かれている物だが、あの地蔵は供養をする目的ではなく集めるためなのだ。
「……それで、昔の私はそれに何かしたの?」
「ううん。何もしてないよ。千草ちゃんは何もしてない。何かしたのはむしろ……」
今私達が住んでいるこの島、天美島にはある神様が棲んでいるのだという。その神様はとても狂暴な荒魂であり、不可思議な力を使って厄災をもたらしていたそうなのだ。しかしある日、そんな神様の暴走を止める方法が発見された。それは、子供を一人生贄に差し出す事である。そしてその子供が持っている魂の量が多ければ多いほど、神が大人しくなる期間が増えるそうだ。そのために、あの地蔵が使われているという。お参りしている人間に行き場を失くした水子の霊を取り憑かせ、魂を増幅させるのだ。
「……ちょっと、待ってよ。じゃあ……」
「うん……9年前、千草ちゃんは生贄に選ばれた……」
彼女の口から放たれたその言葉に思わず混乱してしまう。もし彼女の話が本当なのであれば、今ここに私は居ない事になる。いやそもそも、今ここに居る私は本当に過去の私なのだろうか。恐怖は感じなかったが奇妙な気持ち悪さを感じて手の甲を擦る。
「七歳までは神の内」という言葉があるという。それは七歳になるまではまだ人間ではなく、神と近い位置に居る存在であるという言い伝えらしい。そして何らかの欠損が存在している少女というのは神から見初められた存在であるとして選ばれるそうだ。
「いや……いやおかしいでしょ。だって私は今ここに居るし、それに欠損ってどこも……」
「千草ちゃん、あのね……千草ちゃんの腎臓……一つ無いんだよ」
「……え?」
「千草ちゃんが生贄に選ばれたのは生まれた時だったんだって……そろそろ生贄を用意しなきゃいけない時期だったから、皆喜んでたみたいだよ……」
「……仮に私が選ばれたとして、今ここに居るのはどう説明するの?」
「あれはね…………9年前の、丁度今日だったかな」
当時自分が生贄に選ばれた事を知らなかった私は「お祭りに行く」という名目で両親に連れ出された。何も知らなかった私は島民達が用意してくれた色んな料理を食べて、それに仕込んであった薬の影響で眠ってしまったそうだ。私は眠ったまま今居るこの山の奥地にあるという祠へと運ばれ、生贄として献上されたらしい。原理は不明だそうだが、そこへ運ばれた生贄は必ず心臓が停止するそうなのだ。
「あの時……あの時私は何とかして止めようと思ったの……皆に掛け合ったりもした。他の案も出してみた。でも、誰も聞く耳なんて持たなかったんだよ……」
「でも何かしたんでしょ? だから私はここに居る……だから皆私を嫌がってる……」
「うん。あの場所に千草ちゃんが運ばれた時、お姉ちゃんこっそり草むらに隠れて見てたんだ。ずっと一緒に遊んでた仲だったし、あんなのあんまりだったから……」
「それで、何したの……?」
島民の姿が消えたのを確認した彼女は既に命を落としていたという私の下に駆け寄ると、ある儀式を行ったという。それはもしも生贄を止められなかった時用に備えて自分で作った呪術らしい。その名も『魂結び』。自らが持っている魂を空洞になった私の体に部分的に流し込んで補強するという呪術だった。元々、周りの島民に言われて地蔵参りをし続けていた私の体の中には複数の水子の霊が居り、彼らの数が多かったおかげで私の体は辛うじて完全には停止しておらず、連れて行かれたのは『かつての千草』だけだったらしい。
「じゃあ……」
「そう。あの時、本物の千草ちゃんは死んじゃったの。でも、水子の魂と補強に使ったお姉ちゃんの魂が結びついて、何とか生き返れた」
「いや、いやちょっと待ってよ……それ、それって本物の私じゃないって事でしょ……?」
「……言い方を変えればそうなっちゃうかな。あの時の千草ちゃんは水子とお姉ちゃんの魂が体の癖を模倣してるだけの存在だったのかも」
その時の私は酷く呆けており、自分の身に何が起きているのかまるで理解していない様子だったらしい。そのままでは危険だと感じた秘色さんは山の反対側へと抜ける様にして海沿いに辿り着くと、用意していた小舟に乗せて呆けている私を海に逃がしたのだという。その後こっそり本州の警察署に匿名で連絡を入れ、海を漂流している私を救助させたらしい。
「って事はあの両親は?」
「里親だと思う。あの時千草ちゃんを生贄に差し出した本物のご両親は……翌日水死体になって発見されてたもの」
「殺されたの?」
「自殺だったと思う。結構思い詰めてたみたいで……事実を知って走り周ってたお姉ちゃんを見てずっと『ごめんね……ごめんね……』って言ってたから……」
それが秘色さんの知っている『かつての千草』に関する話だった。しかし、まだ疑問は残っていた。本州の警察に保護された私は里親に引き取られた。そこまでは分かるとして、何故あの二人は亡くなったのだろうか。別に仇を取ろうとは思っていない。しかし目立った外傷などは発見されておらず、死因は不明だったのだ。彼らを殺したのは誰なのだろうか。
「とりあえず話は分かったよ。でも……それじゃあその、今の、記憶が無くなる前の里親を殺したのは誰なの?」
「それはお姉ちゃんも分からないかな……。島の人達は皆千草ちゃんが死んだものだと思ってたっぽいし……誰かが殺したって事はないと思うんだよね……」
「……」
自殺という線も考えてみたが、それだと何らかの形で痕跡が残るのではないかとも思えた。他には思いつこうとしても何も出てこなかったため、私は先程の話を聞いてふと気づいたある点について尋ねてみる事にした。
「ねぇお姉ちゃん。そのさ……あの子、簸子はどうなるの?」
「えっ……」
「さっきの話が嘘じゃないなら、あの子は条件が揃う。多分まだ七歳にもなってないだろうし、目も片方しか見えてないみたいだった。それにあの地蔵にお参りしてた。あの子も……生贄にする気なの?」
「…………それしか方法が無いの。でも! また前みたいにお姉ちゃんが魂結びで!」
「それじゃあ変わらないんじゃないの。きっとここの人達は同じ事を繰り返すよ。それに今はそれでどうにかなっても、お姉ちゃんの……秘色さんの魂はいつまで持つの?」
彼女が自分で編み出したという『魂結び』という呪術は自らの魂の一部を相手に与えて結びつけるというものである。確かにこの千草という体は彼女に救われ、そのおかげでこうして私が存在出来ている。しかしいつかそれにも限界が来るのではないかと考えている。誰かに与えるという事はそれだけ自分を削っているという事だ。かつての私が彼女をどう思っていたのかは分からないが、少なくとも私は彼女を、この日奉秘色という女性の事を嫌いにはなれない。自らを犠牲にしてでも誰かを助けようとする彼女を見捨てる様な真似は、私には『日奉千草』にはとても出来ないし、やりたくない。
「ねぇ秘色さん。教えて。あの子は……簸子はいつ生贄にされるの?」
「…………今日」
「え……?」
「決まった時期にやる習わしなの……午前1時から3時まで……その間にやる習わし……」
「じゃあ助けよう」
「う、うん。だからお姉ちゃんが……」
「駄目。そんなやり方じゃ駄目」
「じゃあどうやって……」
「……パッとは思いつかないよ。でも一つだけ確かなのは、ここの島民は私を恐れてる。それを利用するしかないかも」
恐らく彼らからすれば、死んだ筈の人間が生き返ったかの様に見えるのだろう。しかも神の厄災を抑えるために捧げられた人間が記憶を失って帰って来たとあっては不気味に感じるのは当然である。言い方は変かもしれないが、今の私はこの島で荒れ狂う神よりも上か、あるいはそれと同等の存在として見られているという事になる。この立場を上手く利用すれば島を脱出するための船を盗んで簸子を逃がせるかもしれない。そうすればもう秘色さんが自らを犠牲にする必要も無くなる。
「秘色さん立って。今の内に準備しよう。そんな風習も神も、ここで終わらせよう」
「ごめんね千草ちゃん……お姉ちゃんの事許して……」
「私に謝られても困るよ。秘色さんの……お姉ちゃんの言う『千草』はもう居ないんだから。だから謝らないで。むしろ私の方こそごめん。ほんとは黙っておきたかったんでしょ?」
「うん……昨日お風呂であんな風になってて、もし本当の事を知ったら……おかしくなっちゃうんじゃないかって……」
「ありがとう……」
俯いて涙を流していた秘色さんを抱き締める。人を慰める方法なんて記憶の無い私には分からなかったが、何となくこうするのが一番いいのではないかと直感的に感じた。
秘色さんの手は、自らの手の甲を宥める様に擦っていた。