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第壱話:ききょう

 波音が耳を打った。べたつく潮風が頬を撫で、空も海もまるでエラーを起こしたパソコンのスクリーンの様に真っ青だった。本来であれば私の心も真っ青でなければならないのだろう。それが普通の人間というものなのだろう。しかし私の心は何一つ湧き上がって来ない、何色にもなっていない、完全な空虚そのものだった。


「間もなく、天美島そらみしまです」


 船のアナウンスがそう告げる。今この船が向かっている天美島は、本州からは離れた場所にある離島である。警察の人によれば、かつて私はその島に住んでいたらしいのだが、一切覚えがない。しかし話によればあの島には私の知り合いが居るらしく、その人が私の新しい扶養者になるそうだった。しかし何一つ覚えていない私からすれば、知り合いと言われても赤の他人に等しかった。

 島へと到着した船は港へと泊まり、乗客達は続々と島に上陸していった。海を眺めていた私は見覚えのない服一式が入ったスーツケースを引いて島へと降り立つ。あまり栄えている島という印象はなく、田舎という印象の強い所だった。

 どうすればいいのかと辺りを見渡していると、20代程に見える一人の女性がこちらへと歩いて来た。美しい顔と綺麗な黒髪をした女性であり、どこか人間離れした雰囲気を醸し出している不思議な人物だった。着ている服は普通のものだというのに、場違いな草履が彼女の異質さをより高めていた。


「いらっしゃい千草ちぐさちゃん」

「……えっと」

「そっか。覚えてないんだよね……。お姉ちゃんの名前は日奉秘色ひまつりひそく。小さい頃一緒に遊んでたんだけど……」


 申し訳ない事にまるで記憶になかった。その苗字も名前も、頭のどこを探しても該当する情報が一切引っ掛からなかった。私は自分でも気づかない内に空虚で空っぽな存在になってしまっていた。それを悲しいと思う事さえも出来なかった。


「ご両親の事は、残念だったね……」

「……」


 警察の人によると、私の両親は自宅で遺体となって発見されたらしい。現場では意識を失った私も一緒に発見されたらしいが、私が持っている一番最初の記憶は病室のベッドで目を覚ましたところからである。両親の遺体には目立った外傷は確認されず、体内にも死因に繋がる様な要因は存在しなかったらしい。つまり完全に未知の要因で死亡したという事になり、事情聴取も行われたが何も分からない私には答えようがなかった。


「怪我とかは無かったかな? 大丈夫?」


 秘色さんは私の体をベタベタと触り始めた。昔の私がどうだったのかは分からなかったが、あまり良い心地ではなかった。別にいやらしい手つきという訳ではないのだが、少し嫌な感じがして後ずさる。


「あっ……」

「あの、すみません。あんまりそういうの……好きじゃないので」

「そ、そうなんだね。ごめんね! 昔喜んでくれてたから……」

「そうですか……」

「ごめんね。じゃあ行こうか」


 どうやら以前の私はこの秘色さんに触ってもらって喜んでいた様な人間だったらしい。あくまで今の私が見た彼女の印象だが悪い人という感じはなく、面倒見のいいお姉さんという感じがした。

 彼女は少し悲しそうに眉を下げつつも笑顔を見せると私のスーツケースを代わりに持って、港から離れる様に歩き出した。それに付いていく様にして歩きながら周囲を見渡す。

 港に居る島民達は何故かこちらをジロジロと見ていた。秘色さんを見ているというよりも島にやってきた私を見ている目つきであり、余所者である私はあまり歓迎されていない様だった。


「あっ千草ちゃん。ほら、ここ覚えてる?」


 そう言って秘色さんが立ち止まったのは船着き場から少し離れた所にある桟橋の前だった。幼い子供達数人が釣りをしており、釣れただの釣れないだので盛り上がっていた。


「何がですか?」

「昔千草ちゃんがここに住んでた時、よく一緒にお姉ちゃんと釣りしてたんだけど……」

「そうでしたか。すみません、覚えてないです……」

「そ、そっかそっか。まぁゆっくり思い出せばいいよ、うん!」


 思い出せばいいと言われても、どうすればいいのか分からなかった。そもそも私にとっては千草という名前ですら聞き覚えの無い名前なのだ。戸籍にそう残っていたからそう呼ばれているというだけで、私からすればそれが本名だと言われてもいまいちピンと来なかった。それに恐怖心もあった。もしも記憶が戻ったとして、それはきっとかつての私であり、今の私は存在ごと消えてしまうのではないかと思っているのだ。確信の無い杞憂と言ってしまえばそれまでだが、そういった理由であまり自分の記憶には興味が無かった。

 海沿いに続いている道路から離れて、私達は島の中央にある山の方へと向かった。秘色さん曰く、彼女の住んでいる家はそこにあるらしく、今日から私はそこで一緒に暮らすそうだ。


「結構入り組んでるからちゃんとお姉ちゃんに付いて来てね。昔迷子になった事もあったし」

「そうだったんですか。まぁ、はい……」


 秘色さんは記憶を取り戻させようとしているのか昔の思い出なるものを何度か話してきた。しかし彼女が話すそれは私の知らない思い出であり、そもそも本当に私がこの人と親しくしていたのかどうかも確信が持てなかった。彼女の話す『千草』という人物は、本当に私なのだろうか。

 麓から山へと入って少しすると、山道に一つの鳥居が立っていた。特に着色はされていない石造りの鳥居だった。秘色さんはその鳥居の真ん中を潜る様にして通ると、私がそこを通るのを確認するかの様に振り返った。


「ほら千草ちゃん、来て」

「はぁ……」


 鳥居を見て何故かは分からなかったが少し嫌な感覚が体を走った。しかし、こういったものはしっかりと仕来しきたりを守った方が良いのではないかと直感したため、彼女の後に続く様に鳥居の下を潜った。それを見ていた秘色さんは安心した様な表情を見せると再び山道を歩き始めた。

 その後私と秘色さんは人気の無い山道を登り続けた。途中何度か先程のものと同じ形をした鳥居を潜り、何度目かの鳥居を潜ったその瞬間、目の前に一軒の日本家屋が姿を表した。


「さっ着いたよ。ここに最後に来てくれたのは9年前だったかな」

「9年……」


 戸籍に残っていた私の情報によると今の私は16歳らしい。その9年前という事は当時の私は7歳だったという事になる。今の秘色さんが20歳だとすると、そこまで年が離れている訳ではないという事になる。もっとも、そんな事を考えたところで何かがあるという訳ではないのだが。

 秘色さんは玄関の鍵を開けるとスーツケースを中へと運び込んだ。中を見てみると廊下が左方向と前方に伸びており、壁を見るに普段から手入れをしっかりとしている様子だった。


「お疲れ様。大丈夫だった?」

「ええ、まぁ……」

「そっかそっか。やっぱり千草ちゃんは体力あるね! お姉ちゃん疲れちゃった」


 そう言いながらも秘色さんの顔には疲れ一つ見えなかった。恐らく私を立てるために自分を下げたのだろうが、あまりそういった類の事が得意ではないのか嘘をついているのが丸分かりだった。

 靴を脱いで家へと上がった秘色さんの後に続く様に、靴を脱いでしっかりと向きを玄関側へと揃えるとスーツケースを持ち上げる。


「あの……」

「えっ……あ、ああお部屋どこか分かんないよね! 付いて来て!」


 秘色さんの目線は私が脱いだ靴の方へと向いていた様に見えた。もしかすると以前の私と相違する脱ぎ方だったのかもしれない。かつて親しかったという彼女からすればショックが大きいのかもしれないが、私からすればこの脱ぎ方をするのは当たり前だった。また履く時に向きを変えなくていいという利点があるため、こうやって脱いでいるのだ。

 秘色さんの後を付いていくと廊下に面している障子の前で立ち止まり、それを開いた。中は畳敷きの和室であり、箪笥や姿見などが置かれていた。入ってみると襖もあり、中には布団一式が入っていた。


「今日からここが千草ちゃんのお部屋! まぁ、昔使ってたのと同じとこだけどね」

「昔も……」

「うん。お泊りに来た時はいっつもここに泊まってたんだよ?」


 確かにいい部屋ではあった。しかし、そこに置かれている姿見だけがどうしても気持ち的に引っ掛かった。綺麗に磨かれている鏡であったが、そこに自分の姿が映っているというのが酷く気持ち悪く思えたのだ。鏡に自分が映るというのは何もおかしな事ではないのだが、自分に関する記憶が一切無い私からしてみれば、知らない顔の人間がこちらを見ているかの様で気持ちが悪かったのだ。


「寝る時もこの部屋で一緒に寝てたよねー……おばけが出るーって言い出して……」

「あの、秘色さん」

「あっごめんごめん。どうしたの?」

「これ……除けてもいいですか?」

「鏡の事?」

「はい。何かちょっと……気持ち悪いので……」


 なるべく視界に姿見を映さない様にしながら手の甲を擦る。何故かは分からなかったが、これをすると少しだけ気持ちが和らぐのだ。その様子を見てか秘色さんは慌てた様子で部屋に入ると姿見を持って部屋の外へと出た。


「ごめんね……怖かった? お姉ちゃん気付いてあげられなくて本当にごめんね……」

「いえ……我儘言ってすみません。もう、大丈夫ですから……」

「そ、そう? それならいいけど……。えっと……じゃあ今日からここが自分の部屋だと思っていいからね。何か他にもあったらお姉ちゃんに言ってね?」


 そう言うと秘色さんは姿見を持って廊下の奥の方へと姿を消した。恐らく廊下の奥に物置か何かがあって、そこに仕舞いに行ったのだろう。

 部屋に残された私はスーツケースを置いて中に入っている服を畳の上に並べる。可愛らしくフリフリとした服ばかりであり、とても私が普段から着ているとは思えないものばかりだった。しかし、私が発見されたという家の箪笥に入っていたのはこんな服ばかりであり、少なくとも以前の私はこういった類の服を好んでいたらしかった。今着ている服はそれらの中から比較的着ても恥ずかしくないものを選んだ結果であり、別に好きでこれを着ているという訳ではなかった。


「千草ちゃん?」

「あっはい。何ですか?」

「色々あって疲れてるでしょ? お風呂入れるから先に入っちゃっていいからね」

「はい。ありがとうございます」

「うん。それと、お姉ちゃんに敬語は使わない事!」

「でも秘色さんは年上ですよね?」

「それでも今日から家族なんだから! お姉ちゃんに敬語を使うのっておかしいでしょ?」


 彼女の言う理屈はよく分からなかった。家族でも敬語を使う人は居るのではないだろうか。家族という経験が存在しない私からすれば、相手が年上であれば敬語を使うという図式が当たり前だった。しかし彼女の様子を見るに、以前の私は敬語を使っていなかったのかもしれない。きっと嫌な子供だっただろう。


「えっと……じゃあ、秘色お姉さん?」

「お姉ちゃんでいいよ。昔みたいにそう呼んでくれたら、嬉しいかなって……」


 秘色さんはきっと昔の私を求めているのだろう。今ここに居る『私』ではなく、かつて一緒に遊んでいた頃の『千草』を求めているのだ。別にその事を責めるつもりはない。『今までの私』を知っている人からすれば、『今の私』の方が異常な存在なのだろう。今日から家族として暮らしていくのであれば、彼女と良好な関係を築いておいた方がいいのかもしれない。扶養してもらう立場でこんな言い方は悪いかもしれないが、秘色さんのご機嫌を取った方がいいのかもしれない。


「分かりま……分かった。今日からよろしく。お姉ちゃん」

「うん! こっちこそよろしくね!」


 望んでいた通りの呼ばれ方をしたからか、秘色さんはまるで太陽の様な笑顔を見せた。ドキッとしてしまう不思議と引き込まれる笑顔だったが、それは彼女が一人の人間として魅力的な人だからなのだろう。私の様に記憶が無い人間からしてもそれだけ魅力的に見える凄い人物なのだ。決して、かつて私が彼女をどうこう思っていただとかそういう事は無い筈だ。

 秘色さんが嬉しそうに部屋から離れていってからしばらく経つと、再び部屋へと顔を出した。どうやら先程言っていた風呂の準備が整ったらしく、それを伝えに来てくれたらしい。実際、潮風の影響で少し体がべたついていたため、好意に甘えて一番風呂を使わせてもらう事にした。

 脱衣所であまり好みではない服を脱ぐと、洗濯機の中へと放り込んで浴室の扉を開ける。浴室はこれといって変わった様子は無く、人が二人は入れるかどうかという大きさの浴槽があり、シャンプーやボディソープなどの用品が並んでいる流し場という標準的な構成だった。一つ不満があるとすれば鏡がある事くらいだったが、こればっかりは仕方のない事だった。


「はぁ……」


 自分でも気づかない程の疲れが溜まっていたのか思わず溜め息が出てきた。病院で目覚めてから訳も分からないままに事情聴取を受け、脳の精密検査をされ、そして何が起きているのか分からないままにこの天美島へと向かう様にと船に乗せられたのだ。初めて見る顔の両親が死亡したと聞かされた時には上手く頭が働かなかった。私からすれば他人でしかない人物が両親だと言われても実感が湧かなかった。そしてそれは秘色さんに対しても同じだった。いくら本人が親しい仲だったと言っても、私にとっては知らない人なのだ。

 シャワーを出す際に見るつもりはなかったというのに、ふと鏡を見てしまう。そこにはぼーっとした表情の『千草』が映っていた。『私』が映っている筈なのに、それは『私』の知らない『私』だった。皆が私を呼ぶ時に使う『千草』という少女がこちらを不安そうな表情で見ていた。

 体が震えてくる。『私』ではない『私』が見ているという事実が気持ち悪くて仕方なかった。『私』の知らない誰かが内側に巣食っているという根拠のない妄想が頭にこびり付いて離れなかった。


「違う……違う私は……」


 脈が速くなり、呼吸が乱れ始める。目を瞑って顔を伏せても『私』の視線から逃れる事は出来なかった。鏡は見えていないというのに、頭の中に居るもう一人の『私』がこちらを見つめていた。何も言わず、不安そうな気持ち悪そうな顔で見ていた。


「千草ちゃん!!」


 突然入って来たのは秘色さんだった。どうやら私自身、気付かない内に泣いてしまっていたらしく、その声を聞いて駆けつけてきたらしい。秘色さんは震えが止まらない私の体を濡れるのも構わずに後方から抱きしめると、耳元で「大丈夫」と囁いた。シャワーから出ている湯よりも彼女の体温の方が温かいと感じてしまう程、私の体は内側から冷え切ってしまっていた。

 ようやく拍動がいつもの調子に戻って来ると、それに合わせて呼吸も落ち着いて来た。顔に流れるそれが涙なのかシャワーから出た湯なのかはもう分からなくなっていた。


「……大丈夫?」

「ごめんなさい……」

「いいんだよ。ごめんね……お姉ちゃん気が付かなくて……」

「いえ、いいんです……いや、大丈夫だ、よ」

「無理しないでもいいよ? もう上がる?」

「いえ……いや、ううん……大丈夫」

「そう……?」


 秘色さんは不安そうな顔をしながら体に回していた手を離して立ち上がると、どうすればいいのか悩んでいるらしくおどおどとしていた。私の勝手な妄想でここまで騒ぎを大きくした上に気を遣わせるのも良くなかったため、自分の不安を取り払う目的で一つだけ質問をする事にした。


「お姉ちゃん、少しいいです……いいかな?」

「ど、どうしたの? お腹痛い? 頭痛い? お姉ちゃんに出来る事ならいいけど……」

「私……私の名前は千草でいいんだよね?」

「え? う、うん。私の扶養に入ってるし、日奉千草だけど……」

「私は千草……千草……『日奉千草』。『私』は『日奉千草』……」


 鏡を睨みつける様に見つめ、恐ろしい表情でこちらを見てくる『私』にそう宣言する。今の私に思いつくのはこれくらいしかなかった。区別するという選択。『彼女』は『千草』で、『私』は『日奉千草』という区別。それが今の真実であるという選択。

 そうして自らが『日奉千草』という人間であると決めると、完全にではなかったが恐怖心が多少和らいできた。鏡の中の『私』との間に境界線を引く事によって『日奉千草』という個人だと強く自分に刷り込んだ。


「千草ちゃん……?」

「……ありがとうお姉ちゃん、助けてくれて。もう大丈夫だから」

「ほ、本当? 一人じゃ難しそうだったら一緒に入るけど……」

「いや、大丈夫……うん、大丈夫。ごめん、心配掛けて」


 手の甲を少し擦って僅かに残っていた不安を取り払うと秘色さんへ笑顔を見せた。正直言って作り笑顔だったが、彼女に気負わないで欲しいという気持ちは本心から来るものだった。

 そんな私の様子を見た秘色さんはこちらに笑顔を返して浴室から出て行った。そんな彼女を見送るとシャンプーを出して頭部で泡立てる。

 昔の私がどんな人間だったのか気にならない訳ではない。しかし、今はここで暮らすための『日奉千草』としての、彼女の妹としての人間性を手に入れる事を優先しよう。彼女の態度を見るに以前の私はそこまで悪い人間ではなかったらしい。それが事実だというのであれば、まずは『いい子』になろう。彼女が知っている『千草ちゃん』になってみよう。『今の私』を手に入れるのは、ここでの生活に慣れてからでもいいかもしれない。

 ふわふわとした泡に包まれた頭を温かい湯で洗い流した。

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