第62話 それは春の訪れと共に
三月下旬、春分を向かへ北国にもやっと春の訪れの兆しが見えてきました。
雪の降る日はめっきり減って、かわって太陽が顔を出す日が増えてきたのです。
それに伴い降る積もった雪も少しずつその高さを低めています。
久し振りに朝から青空となった今日、私はアリィシャちゃんに初めて空を飛ばせることにしました。
冬の間、廊下を飛んでの移動を繰り返すうち、私の頭の高さくらいを自然に飛べるようになったのです。
今であれば積雪は少ないところでも五フィート以上あり、多少の高さなら落下しても大事に至らないだろうと考えたのです。
雪のクッションが期待できるので、空を飛ぶ練習には丁度良いだろうと。
「うあああ、飛べた~!高い!すごい!
わたし、飛んでいるんだ、自分の魔法で…。」
高さ三十フィートくらいでしょうか、三階建の館の屋根とほぼ同じ高さまで昇ったアリィシャちゃんが感動の声を上げました。
もちろん、私が並んで飛んでいますし、もしもの際はブリーゼちゃんとクシィに落下を食い止めるようお願いしてあります。
最悪は雪のクッションに頼ることとなりますが、これだけの積雪があるので危険はないでしょう。
そのままに高さで広いハーブ畑の上を円を描くように何週も練習させます。
「ねえ、ロッテお姉ちゃん、もっと高く上がったらダメ?」
私のとなりを飛ぶアリィシャちゃんが上目使いで私の顔を窺ってきます。
「ダメよ、前も言ったでしょう。
高さは少しずつ上げていくって。
本当はこの高さだって、もっとずっと先の予定だったのよ。
今年は雪がたくさん積もったから落ちても怪我をしないと思ってこの高さまで昇ったの。
雪が無かったらこの高さまで飛ぶことを許していないわ。」
今回ばかりは私も甘い顔はしません、命に係わることですから。
それに、もう少しで……。
「ちぇ、ざんねん…。
わかった、この高さでうんと練習して、早くもっと高く飛んで良いって言ってもら……。」
アリィシャちゃんが言葉の途中でストンっと落下を始めます。
私がアリィシャちゃんを浮遊の魔法で保護するまでもなく、クシィの風がアリィシャちゃんを包み込みました。
アリィシャちゃんを包み込んだ風の繭はそのままゆっくりと地上に降りていきました。
「アリィシャちゃん、いつも言っているでしょう。
自分の魔力がどのくらい残っているかには常に注意を払うようにって。
飛ぶのに夢中で魔力の残りが少ないことに気付いてなかったでしょう。」
アリィシャちゃんの隣に降り立った私が注意するとバツの悪い顔をして言いました。
「うううっ、ごめんなさい。つい飛ぶのに夢中で魔力のこと忘れてた……。」
私はアリィシャちゃんのことを叱りましたが、実は私も幼少のときやったのです。
飛び始めたときは嬉しくてどうしても飛ぶことに集中してしまい、魔力が減っていることを失念するのです。
私のときはこの季節ではなかったので、本当に危なかったのです。
そのため、母に大変きつく叱られました。
実のところ、アリィシャちゃんの魔力が残り少ないことには気付いていました。
ですが、魔力切れの恐ろしさを体験させるために敢えて注意しなかったのです。
ということで、アリィシャちゃんの魔力が切れたので今日の魔法の練習はお終いです。
春分を迎えたとはいえ、まだこの季節は寒いです。
冷えた体を温めるため館の中に入ろうとした時のことです。
結界の中に入り込む者を感知しました。
結界の中には入れるのは、リーナとハンスさんだけです。
リーナはこのところ転移でやってくるので、該当するのはハンスさんだけですが…。
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風邪をひかないようにアリィシャちゃんを先に館に入れ、私は館の前で立ち止まっていました。
やがて、森を抜け一頭の馬が駆けてきました。
馬に跨るのは細目の中年男性、行商人のハンスさんです。
いつもと違うのは行商人の癖に何も商品を持っていないこと、跨る馬がとても立派で如何にも駿馬という感じの馬だという事です。
門の近くの木に馬を繋ぎ、ハンスさんが歩いていました。
相当飛ばしてきたようで、よく見るとハンスさんは泥はねで酷いことになっています。
こ汚いハンスさんを家の中に入れることが躊躇われたので、私は館の裏にハンスさんを案内しました。精霊たちが作ってくれた露天の浴場です。
「ご用件は後で伺います。まずはここに入って汚れを落としてください。
あっ、湯船につかる前に体を洗ってくださいね、泥だらけですから。
それと、服も洗ってください、ブリーゼちゃんに乾かしてもらいますから。」
ハンスさんに有無も言わさず入浴するように伝えた私は、ブリーゼちゃんを呼び出しハンスさんの服を乾かすようにお願いしました。
それから、小一時間が過ぎた我が家のリビングルームで。
「いやあ、姫様助かった。
まだ雪が残っているこの時期に馬で速駆けさせられるなんて思いもしなかった。
寒いわ、泥だらけになるわで散々な目にあいました。
しかし、あの浴場は良いですね、冷えた体が芯から温まりましたよ。」
ハンスさんは体が温まって上機嫌のようです。
「それで今日はどうされました。
商品も持たずに来られたところを見ますと本来のお仕事のようですが?」
このハンスさん、普段は行商人に身をやつしていますが、帝国の草なのです。
魔女の系譜である私の一族の監視人兼帝国との連絡要員です。
「ああ、そうそう、姫様、アルビオン王国に行きたいって言っていたでしょう。
その件で、皇帝陛下が直接会って話しがしたいそうなのです。
これが、皇帝陛下からの召喚状です。
私は大至急これを届けるように命を受けただけですので、用件までは伺っていません。
あっ、そうそう、何のことか解りませんけど、皇帝陛下からの伝言です。
姫様のご母堂様が使っていた皇宮の部屋はそのままになっているそうです。
それと、できる限り早く来て欲しいそうです。」
用件を伝え終わると、ハンスさんはまだ雪が残る帝都からここまでの旅路が如何に過酷だったかを切々と語りました。
ハンスさんの同僚の密使は主要な町にいて、そこで馬を借りて乗り継いできたそうです。
冷たい風を切って、泥まみれになりながら馬を全力疾走させるのは大変な苦行だったようです。
誰かに愚痴らないとやっていられない、そんな雰囲気でした。
しばらく愚痴ったハンスさんは、女子供しかいないこの館に泊めてもらう訳にはいかないと言って、陽が落ちる前に早々に帰っていきました。
今日はシューネフルトに宿をとるそうです。
ハンスさんが置いて行った召喚状、中を見ると大至急来て欲しいという内容しか書いてありません。大事なのはそこに御名御璽があることです、皇帝陛下自らのお召しであることを示しています。
そして、ハンスさんが何のことか解らないと言っていた言葉、『母が使っていた皇宮の部屋がそのままになっている』ということ。
母は生前、何度か帝国政府から仕事を請け負っていました。
その際に、ここから帝都まで行くのは大変だと言って、母は皇宮の一部屋を借りて転移魔法の発動媒体を設置してあったのです。
わざわざそれを言うということは、転移魔法を使って大至急来て欲しいという事、この召喚状は言わば通行手形です。
転移魔法を使って皇宮の奥にいきなり現われるのです。
常識的に考えれば、皇宮に何の手続きもせずに侵入したら途端に不審者として捕まります。
それにしても謎なのは、私のような小娘を皇帝陛下自らお召しというのはいったいどんな用件なのでしょうか。
面倒な話でなければいいのですが……。
お読み頂き有り難うございます。




