第52話 行商人のハンスさんは言いました
十月も半ばを過ぎ、朝はとても冷え込むようになり、ベッドの中のアリィシャちゃんの温もりがとても有り難いです。
冬を間近に、ハーブ畑も余り手間がかからず、最近は朝ゆっくりと寝ていることが出来ます。
そもそも、この季節は日の出が七時半過ぎとなので、余り早く起きても仕方がないのです。
のんびりと起きて、アリィシャちゃんとカーラの三人でブラウニー隊の用意してくれた朝食をとります。
「シャルロッテ様、今日はどうなされますか?」
最近、少しだけ言葉遣いが丁寧になってきたカーラが私の予定を尋ねてきました。
「これからは特にすることもないから、終日、カーラとアリィシャちゃんの読み書きと計算の時間に当てることにするわ。
合間合間にアリィシャちゃんの魔法の指導をするから、カーラは復習でもしておいてね。」
読み書きを教え始めてからほぼ一ヶ月、五歳児に負けている訳にはいかないとカーラは頑張りました。
一週間ほどの遅れを取り戻してアリィシャちゃんとほぼ同じレベルまで読み書きの学習が進み、子供向きの絵本なら難なく読むことが出来るようになりました。
アリィシャちゃんは毎日絵本を楽しそうに読んでいますが、年頃の娘のカーラには絵本の内容は退屈そうです。
現状では絵本程度しか読みこなすことが出来ないので、我慢して読むように指示しています。
文章に慣れることが必要ですものね。
先週くらいから、算術の勉強として簡単な足し算、引き算を教え始めました。
カーラは算術を覚える必要性を感じていないようで、雇い主の私に指示されたから嫌々やっていると言う様子が窺えました。
一方で、アリィシャちゃんは読み書きの勉強のとき以上に熱心に取り組んでいるのです。
計算の学習を始めてすぐのことでした。
「シャルロッテ様、この計算というのはなんの役に立つのですか?」
石盤に書かれた足し算、引き算の問題を指折り数えながら、カーラが尋ねてきました。
私が返答しようとすると……。
「カーラお姉ちゃん、計算が出来なかったらお店で買い物したときに困るよ。
お店の人は客が計算を出来ないとわかると、お金を余分に取ろうとしたり、お釣りを誤魔化したりを平気でするからね。
座長が一座のみんなは計算も出来ないから買い物の使いにも出せないってブツクサ言ってた。」
アリィシャちゃんが私より先にカーラに計算の必要性を説明してしまいました。
育った村にお店がなく基本自給自足であったカーラと町から町に渡り歩き貨幣経済の中で育ったアリィシャちゃんの意識の違いが如実に現われていました。
アリィシャちゃんは計算の必要性を幼いうちから感じていたのです。
「ええ、アリィシャちゃんの言う通りね。
カーラ、あなたは私の侍女として側に仕えることになるの。
私が扱うお金は、普通の家庭で扱うお金の何万倍、何十万倍なのよ。
カーラにはそういう金額の計算をしてもらうことになるわ、間違ったら大変なことになるのよ。
それに、計算が必要になるのはお金だけじゃないわ。
ハーブだって、私は毎回の出荷量を記録して年間どれだけ出荷したかを集計してるの。」
私が説明すると、カーラはげんなりとした顔つきになりました。
一桁の足し算引き算にも四苦八苦しているのです、大きな桁の数字を扱うことを想像してうんざりしたのでしょう。
カーラは決して頭の悪いこではありません、読み書きの修得速度がそれを物語っています。
結局は生まれ育ってきた環境の違いが二人にこれだけの意識の違いを作ってしまったのです。
私は二人を見ていて感じました。
カーラのように、読み書き計算は自分には不要なものだという意識が出来上がってしまう前に、子供には教育を始めないといけないと。
ただ、アリィシャちゃんが計算を覚えることの必要性をカーラに言ったのは結果として良かったようです。
僅か五歳児に諭されたのが余程恥ずかしかったようで、それから真面目に取り組むようになりました。
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ということで、午前中はカーラの苦手な計算の学習から始めることにして二人を指導していると、結界の中に入り込む人物を察知しました。
どうやら、行商人のハンスさんが冬越しの物資を運んできてくれたようです。
私が玄関前に迎えに出ると、人の良さそうな四十過ぎの男性が幌馬車に乗って到着するところでした。
「おやおや、姫様自らお迎えに出て来ていただけるとは恐縮でございます。
お久しゅうございます、壮健そうでなりよりです。」
ハンスさんが細い目を笑顔でさらに細くして、私に挨拶をしてきます。
「ハンスさんもお元気そうで何よりです。
いつも遠いところまで足を運んでもらって助かります。」
「いえいえ、これが私の仕事ですので。
ところで、今日は初めてお目にかかる方が二人もおりますね。珍しいことです。」
私がハンスさんを労うと、ハンスさんは目敏く私の後ろにいる二人に目を付けました。
監視役だけあって新顔は要注意のようです、ハンスさんの目は説明しろと言っています。
「小さいこの方がアリィシャちゃん、先日ズーリックの町で保護しましたの。
私と同じ歳周りの子がカーラ、私の付き人として採用しましたの。今はまだ見習いで教育中ですけど。
その辺の話は後でお茶でも飲みながら致しましょう。
先に、荷物の受け渡しを済ませてしまいましょう。」
私の話しに納得したようでハンスさんは目を細めたままで言います。
「そうですね。先に要件を済ませてしまいましょうか。
こちらが姫様からお預かりした、ご注文の明細です。
お持ちした品と照合して、数に間違いがないか確認してください。
今回は随分とアルビオンの最近の事情に関する本が多かったですね。
集めるのに苦労しましたよ。」
私はハンスさんから手渡された私の書いた注文書を手に幌馬車の荷台に入りました。
光の魔法で荷台の中を明るくして、荷物を一つ一つ検品していきます。
「いつもながら、姫様のその魔法は便利ですね。
暗い幌馬車の中が昼間のようだ。」
幌馬車には最後部に垂れ下げ式の出入り口があるだけで、そこからしか光が入りません。
ですから、昼でも暗いのです。
ハンスさんは私の使う光の魔法を初めて見たときから羨ましがるのです。
検品を済ませた品は書籍を除いてキッチンの横にある食料庫に運んでもらいました。
それが済むと、今度は作業小屋に積み上げておいた、私の出荷分の積み入れ作業です。
「今回も随分と量が多いですね。乾燥ハーブと精油ですか。
精油がたくさんあるのは助かります。
姫様の精油は帝都で好評でしてね、すぐに品切れしてしまうのです。」
ハンスさんは、私が手渡した出荷表と照らし合わせながら、製品を幌馬車に積んでいきます。
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そして、荷物の上げ下ろしが全て終って、今は応接室です。
「これが、前回姫様からお預かりした商品の売り上げ明細と今回お持ちした商品の仕入れ明細です。
それともう一枚が、私の取り分を加えた精算書です。
お預かりした商品の売上高の三割と仕入れた商品の仕入額の三割を、いつも通り運賃その他の手数料として頂戴してあります。
今回も余剰金が出ましたので、クレディ・ズーリックの口座に入れておきました。こちらがその預り証です。」
私は、差し出された三通の計算書にざっと目を通し、間違い無いことを確認しました。
そして、チョットした意地悪をすることにしました。
付き人として私の後ろに控えているカーラに言ったのです。
「これで間違いないか、確認してもらえるかしら?」
いきなり、話を振られたカーラはタジタジです。
一桁の計算ですら難渋していると言うのに、計算書の数字は六桁に達しています。
実際にやれと言うつもりではないのです、いつも私がしている計算を知っておいて欲しかったのです。
「計算書は確認しました、間違いは無いようです。
それで、このカーラなのですけど、近々、アルビオンまで出掛けようかと思っています。
あの国の貴族は形式にこだわると聞いてるので、侍女の一人もいないと見下されるかと思い雇い入れたのです。
あと、席を外させている小さな子、アリィシャですがあの子は私と同じ能力を持つ者です。
ズーリックの街角で両親に捨てられていたものですから私が保護しました。
帝国には私が一人前に育てると報告していただいて結構です。」
私の話を聞いていたハンスさんからそれまでの笑顔がなくなりました。
ハンスさんの顔つきが商人のモノから、帝国の密使のモノに変わります。
そして、……。
「お二人のことは承知しました。帝国側から何か言われることもないかと思います。
ただ…、アルビオンに行かれるのですか……。」
苦い顔でそう言ったのです。
「何か問題でもございますか?」
「はい、先日はセルベチア共和国軍を国境前で撃退してくださり有り難うございました。
姫様の働きに皇帝陛下も非常に満足しておいでです。
そのことに関してですが、これから冬が訪れますのでなし崩し的に一時休戦になると思われます。
ですが、セルベチア皇帝の領土拡張意欲は衰えることを知らず、帝国領内にも手を伸ばそうとしているのです。
そして、一番狙われると思うのが国境となっているルーネス川流域の諸侯です。
最悪、来春にでも渡河して進攻があるかも知れません。
姫様はどのようにしてアルビオンに行かれるおつもりですか?」
「ええ、ここから五十マイルほど北に、バジリアという町があります。
そこから、ルーネス川を下って海まで出て、河口の港町からアルビオン行きの外洋船に乗るつもりですが。」
「ええ、そうおっしゃると思いました。
もし来春セルベチアの進攻があれば、姫様は戦場の中を横切ることになるかも知れないのです。
はっきり言って、戦争のさなかは無秩序状態になります。
商船だからといって無事に済むとは限りません。
いえ、戦争の混乱に乗じて非戦闘員に対して略奪や暴行が横行することすらあるのです。
私としては、近いうちにアルビオンに行くというのはお勧めしません。
それともう一点、セルベチアはアルム山脈を越えてロマリア半島に攻め込むことを諦めたとは言い切れないのです。
その場合、再び姫様にお力をお借りしたいのです。
その時、姫様が不在となると帝国としては非常に困るのです。」
思わぬところで障害に突き当たりました。
あの皇帝、まだ戦争していたのですね。 あの野心家にも困ったものです。
「来春、雪解けを待って、セルベチアに関する最新の情報をお持ちしますので。
それまで、アルビオン行きの件は、保留にしていただけませんか?」
もちろん、私はハイと答えました。
誰だって、戦場の中を悠長に船旅などしたいとは思いませんよ。
お読み頂き有り難うございます。