第103話【閑話】ある日、少女がやってきて
その少女は突然現れました。
それは、私が館の主人が暮らしたベッドルームのウォークインクローゼットで床を磨いていたのことでした。
今は亡きこの館の女主人、私をたいそう可愛がってくれたあの方が愛したこの館を守り続けるのが私の生きがいです。
特にあの方が普段生活していたベッドルームの手入れは怠ることができません。
その日も、せっせと床磨きに励んでいました。
ウォークインクローゼットの扉が不意に開いたので、思わずそちらを振り向くと目が合いました。
今、私は実体化していません、普通の人間には私を見ることは出来ないはずです。
しかし、その少女はピタリとも動かず、ジッと私を見つめているような気がします。
見られている?
そう感じた私は思わず尋ねてしまいました。
「もしかして、私が見えています?」
すると、少女はウォークインクローゼットの扉を閉めて、なにやらカバンの中をゴソゴソとあさり始めました。
そして、…。
「こんにちは、初めまして。
私はシャルロッテ、これ、お近づきの印にお一つどうぞ。」
少女は、一枚の焼き菓子を差し出しながら、そう言いました。
明らかに私のことが見えているようなので、私は実体化してシャルロッテと名乗る少女に近づいていきました。
すると、シャルロッテの手元から甘い良い香りがします。
甘い焼き菓子など何十年ぶりでしょうか、昔は館の主人が良く分けてくれたものです。
私はシャルロッテの手から焼き菓子を受け取ると一口齧りました。
本当に久しぶりです、口の中いっぱいに広がる甘い味と香りに思わず笑みがこぼれます。
「有り難う!
とっても美味しいわ、焼き菓子なんて何十年ぶりかしら…。
この家の住民ったら、私が頑張って手入れしているのにお礼の一つもないのよ。
それどころか、私が頑張ると幽霊が出たとか失礼なことを言って出て行っちゃうの。
もう、何十年も人と口を利いてなかったの。
シャルロッテさんが新しい住人かしら。
私はステラ、よろしくね。」
久しぶりに出会った素で私が見える人間です。
久しぶりに会話ができる嬉しさもあって、お礼と一緒に愚痴までこぼしてしまいました。
シャルロッテは、私が愚痴ったことに別段気を悪くすることもありませんでした。
彼女には別の事の方が気になったようで、こう尋ねてきたのです。
「あら、珍しい。
あなた、名持ちなの?」
確かに、人と契約を交わした精霊以外で名持の精霊は少ないのです。
シャルロッテはそのことを知っていて関心を持ったようでした。
ステラという名前は、大変可愛がってくれたあの方、この館の初代の主が付けてくれた大切な名前です。
私はそのことと共にこの館の歴史をかいつまんでシャルロッテに話しました。
この館ができた頃は、当主の女主人を始め、その娘達も精霊を見ることができる人達でした。
みんな、それぞれに契約精霊を持ち、それはそれは賑やかな館だったのです。
そんな楽しかったころの話をしているとシャルロッテが尋ねてきました。
「ねえ、もしかして、あの中庭って…。」
シャルロッテの言う中庭というのは、初代の女主人が愛していた庭の事です。
庭一面に芝生が植えられたその中央には大理石で作られた噴水が水を湛えています。
中庭の日当たりの良い一角にはバラ園が作られ春と秋には大輪のバラが咲き誇りました。
あの方は、よく娘や孫とバラの手入れをしていたものです。
その他にも彼方此方に上手く配置を考えられたレイズベッドが設けられ、四季折々の花々が楽しめました。
この館に精霊を見ることができる人がいなくなって、早数十年になります。
精霊を見ることができない人達は、私が何かをするととても不気味に感じるようです。
次第に人が居付かなくなって、やがてこの館は人手を転々とするようになります。
いつしかこの館は幽霊が出るなどと言われるようになっていたのです。
長いこと空き家同然となり、中庭を手入れする人が居なくなりました。
あの方が愛した中庭が荒れていくのが忍びなく、私がずっとあの方のいた頃のままの状態に保っているのです。
それなのに、この家を買いたい人が見に来ると決まって手入れの行き届いた中庭を気味が悪いというのです。
丹精込めて手入れをしているのに本当に失礼な話です。
私が愚痴交じりにそんな話しをすると、シャルロッテは言いました。
「決めたわ、私がこの家を買うわ。
これからよろしくね、ステラ。
私のことはロッテと呼んでちょうだい。」
驚きました。まだ娘と言って良い年頃のシャルロッテがこの館を買うというのです。
私は、シャルロッテがこの館の購入を検討している親について来ただけかと思っていました。
どうやら、やたらフレンドリーなこの娘がこの館の新しい主になるようです。
久しぶりに会話ができるシャルロッテがこの館の主人になると聞いて、私は心が躍りました。
また、賑わいが戻ってくるかもしれない、笑いの絶えない館に戻るかも知れないと。
こうしてはいられません。シャルロッテが引っ越してくる前に館中をピカピカに磨き上げませんと。
そう決意して私は床磨きに戻るのでした。
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