第二話 龍舞う魔境
「ようやく、ここまで来たわね」
現在、ハルが見下ろしているのは小高い丘の眼下に広がる白い花畑。
これが強い幻覚作用を齎すと言われているシロルカの花。
エストリア帝国では授業の講義に出るほどの有名な花畑であり、ここに一度足を踏み入れると生きては出られないと言われている。
そのシロルカの花畑は左右見渡す限り河のように続いており、それがぐるりと辺境一周を覆っている。
このシロルカの花畑が辺境の中と外の世界を別ける防壁になっているとは有名な話だ。
「ここまで来たか」
アクトもそう応えたが、彼らがここに来るまで、辺境の外郭部から僅か一日半と掛かっていない。
それは驚異的な速度であり、普通ならば大編隊を組み、十分な食料と防衛戦を布いても、一箇月は掛かるのだ。
少なくとも三百年前に帝国で行われた辺境開拓事業ではそうであった。
その結果は失敗・・・このシロルカの花の幻覚作用により遮られている。
当然だが、そのときの情報がこの辺境大全にも書かれていた。
「このシロルカという花の魔物が、幻覚作用を持つ花粉と魔法を飛ばすのね」
「ああ。それに加えて、銀龍も呼ぶ。三百年前の辺境開拓部隊はこれで壊滅したって聞いている」
これはエストリア帝国史で有名な逸話であり、アクトとハルも高等学校の歴史授業で聞いた事ある。
それに、このときシロルカの花畑で銀龍と対峙した人物が初代アストロ魔法女学院の学長である。
彼女――アストロリーナは、現在でもエストリア帝国最強の魔術師とされていて、銀龍と互角に戦ったらしい。
勿論、正しい記録が残っている訳ではないため、真偽の程は解らないが、彼女の出身地であるマース地方ではこの伝説が固く信じられている。
ちなみに、ハルはこの話についてあまり真に受けておらず、お伽噺の類であると認識していた。
それほどにアストロリーナがしたとされる魔法を理論的に魔力計算してみると、おかしな数字が出てしまうのだ。
そんな事を一瞬考えたハルであったが、今はこのシロルカの花をどうするかが先決であると、現状を思い直した。
「ええ、そうね。ちょっと調べてみましょう」
ハルはそう言うと懐の魔法袋から魔法鏡を取り出してシロルカの花畑に向けてかざしてみた。
そうすると、魔法鏡は可視光の映像に加えて、魔力の流れが映し出される。
その映像を見てみると、シロルカの花から触手のように魔力が方々へ伸びており、外敵を絡め獲る攻撃は健在である事が解る。
そして、魔力を帯びた花粉も大量に舞っていた。
それが風の流れに逆らい、現在のアクトやハルが居る小高い丘へ向かい流れているのだ。
「どうやら、このシロルカの花は私達の接近を察しているようね」
「ああ。この仮面を付けていて良かった。もしかしたら花粉に込められた幻惑の魔法の影響を受けていたかも知れない」
アクトの意見に、本当にそうだとハルも思う。
魔力抵抗体質のアクトと白魔女の自分ならば大丈夫かも知れないが、一般人ならばひとたまりもないだろう。
人知れずここに接近してくる知恵ある動物を虜にするのがこのシロルカの戦略であり、本当に強かな魔物だと感心されられる。
「とりあえず、どうする? 魔法防御能力の高い私達ならばこのまま突破できるかも知れないけど・・・」
ハルの問い掛けに考えるアクト。
「そうだね・・・無駄に戦闘をするのも芸がないし、このシロルカは精神作用以外の攻撃手段がない筈。下手に攻撃しても銀龍を呼び寄せる可能性の方が大きい・・・そうなると」
「・・・解ったわ。走って突破しましょう」
ハルはアクトの考えを理解した。
今回の自分達の任務は辺境開拓でも何でもない。
この辺境をただ縦走するだけなのだ。
「だけど、もし、不測の事態が発生したら私が凍結の魔法を掛ける。いいわね」
ハルからの念のための手段にアクトは優しく頷いた。
「いいわね。じゃあ駆けるわよ!」
シロルカの花畑の境界に立つ白魔女ハルはそう言い駆け出した。
ドンッ!
地面を強く蹴る彼女。
あまりの衝撃により足元の地面が陥没。
魔法的な加速を得た白魔女が本気で走ると、かなり速い。
ここでシロルカの花畑は東西方向へ河のように広がっているが、南北方向は肉眼で対岸が解るほどである。
つまり、目測で十キロ程度・・・今の彼女達の速度ならば二分と掛からない。
驚異的な速度を維持しつつ、白いシロルカの花畑を飛ぶように駆ける白魔女。
そして、それを追いかける漆黒の騎士。
疾走する一組の男女に、ここでようやく攻撃行動を開始するシロルカの花。
初めは侵入者を捕えるために魔法の触手を伸ばしてきたが、その攻撃は通じない。
速度が桁違いに速いから、間に合わないのだ。
自分達の魅惑攻撃が通じない事を悟ったシロルカの花の次の判断は早かった。
彼らは魔力の意思をひとつに集約し、それを雲状にする。
そして、それを空中に浮かべた。
「拙い。龍を呼ぶ気だ」
研ぎ澄まされた感覚でシロルカの魔法の風船の気配を察知したアクトは、そちらに向けて拳を大きく振る。
ブンッ!
アクトから飛ばされた闇魔法の塊は空中を直線的に進み、そして、シロルカの魔法の風船に命中した。
パーーーン
大きな破裂音がして、シロルカの魔法の風船が爆発霧散する。
ここでようやく先頭を走っていたハルもアクトの攻撃に気付く。
「くっそう、シロルカも進化している訳ね。三百年前からそのままって訳じゃないみたい」
情報と違って早々に銀龍を呼ぼうとするその行動を忌々しく思いながらも、同じように魔法の風船を生成しようとしている別のシロルカが他にも何株もある事に気付く。
「仕方がない。ここで凍らせてやる!」
ハルは急に立ち止まって、魔法の詠唱を始めた。
「静かなる氷の女王よ。ここに降臨して凍てつく大地に変えてしまえ・・・」
詠唱する魔術師は隙だけである。
魔法詠唱するために停止した彼女の精神に取り付こうと、シロルカからの幻惑の魔法が迫る。
ここで彼女を守るのがアクトの役目。
「うりゃーーーっ!」
アクトはエクリプスを抜くと、ハルの周囲を一周した。
パン、パン、パン、パン!
エクリプスの刃を以ってハルに迫る幻惑魔法を斬りまくる。
魔剣に宿る魔法吸収の能力と、アクト自身の持つ魔力抵抗体質の力が作用して、次々と自分達に迫る幻惑魔法を無効化した。
そして、アクトがハルの周囲を二周回る時にハルの魔法は完成。
「行け! 氷の女王よーーーっ!」
白魔女のハルから膨大な魔力の塊が上空に放出されて、それがある高さまで昇ると、次は自由落下。
そして、地面に着弾すると、圧倒的な冷気が爆発飛散した。
ドーーーーーン
ハルとアクトを中心に広がる絶対零度の魔法。
ピキ、ピキ、ピキッ!
瞬間的に凍てつく魔法が発動して、シロルカの花を次々と凍らせた。
その冷気の牢獄は見渡す限りに広がり、圧倒的な冷却の魔法でシロルカの花々のすべてが機能停止へと至る。
シロルカの魔法の風船も打ち上げられる寸前に凍結しており、銀龍を呼ぶのもこれで阻止できたように思えた。
「ハァ、ハァ、ハァ・・・やった?」
息の荒い白魔女ハル。
彼女にしても最大出力に近い魔法を行使したため、疲れは隠せていない。
そんなハルの肩にアクトの優しい掌が掛けられた。
「ああ、成功だ。全てが凍結している。魔力が動く気配も全く感じられない」
アクトの感覚がそう言っていた。
シロルカの花畑は見渡す限り凍結しており、見た目にも活動停止しているのは明らかである。
彼らはハイタッチして互いの健闘を労った。
「よかったわ。まさかこんなに早く銀龍を呼ぶなんて・・・進化していたのかしら?」
「そうかも知れないね。でも、そんなシロルカに俺達は勝ったんだ。早くここを通らせて・・・ん?」
ここでアクトはひとつの違和感を得る。
彼の第六感が、警鐘を鳴らしていた。
そして、上空を確認してみると・・・
「何?! あの影は!!」
アクトは空の彼方に浮かぶひとつの飛翔体を見つけた。
それは雲ひとつない秋晴れの空の中で、太陽の光を反射する銀色を飛翔体。
紛れもない、銀龍の接近である。
「ど、どうして!?」
「くっそう。もう敵にはバレている! 逃げるぞ、ハル」
シロルカの銀龍を呼ぶ魔法は阻止した筈なのに・・・と頭が真っ白な状態のハルの腕を引っ張り、アクトは駆け出した。
一瞬後にハルもそれに気付き、一緒に走り始める。
辺境内部である対岸まであと二キロ。
ふたりが全力で走れば三十秒と掛からない距離。
しかし、銀龍の速度もかなり速い。
もう肉眼で飛来する銀龍の姿が確実に解る程度の距離まで迫っていた。
「よし。出られるわ!」
シロルカの花畑を突破したハルは銀龍を迎え撃つために魔力を高める。
詠唱を大幅に省略し、彼女が選択したのは光の魔法。
一発強烈な魔法を放ち、敵が怯んだ隙に逃げるヒット・アンド・アウェイ。
それがハルの選択した戦い方。
戦略としては間違っていない。
そんなハルより放たれた光線の魔法は銀龍の目を狙う。
しかし、当の銀龍は何でもないように顎を開け、その魔法を喰らうように鳴いた。
グギャーーーーーーッ!
耳を劈くような轟音を放ち、そして、白銀の光線が銀龍の口腔内より現れる。
所謂、銀龍の吐息攻撃である。
「えっ!?」
圧倒的な魔力を宿したその吐息はハルから放たれた必殺の光線など何もなかったように蹂躙した。
そして、銀龍の吐息は光の奔流となりハルへと迫る。
あまりの非常識な魔力の洪水を目にして呆気に囚われる白魔女ハルに、ここで行動したのは漆黒の騎士アクト。
「ハル、危ない!」
彼女を守るため、アクトはハルに覆い被さった。
そして、そこに特大の光の洪水が落ちる。
シュパーーーーン!
ドカーーーーーーーン!!!
高温、高熱、破壊音。
圧倒的な力がこの地へ落ちた。
そんな銀龍の吐息の一発の攻撃により、周囲の地面は抉れて、シロルカの花畑の一部も消し飛んだ。
大量の砂埃が舞うが、それも束の間の出来事。
しばらくして、周囲は数刻前と同じ静穏へと戻る。
ただし、違うのは一発の銀龍の攻撃により、ひとつの大きなクレーターが生成されたことだけ。
そして、シロルカの花に掛けられた凍結の魔法が次々と解除される。
魔法の術者が死ぬと、その者よって掛けられた事象改変は無効化されると言う。
銀龍はそれを見て、周囲にも生命と魔力反応が感じられない事を感じ取った。
その事から、不届き者を始末できたと銀龍は確信する。
そして、人の言葉で一言漏らす。
「ふん。矮小な人間め!」
そんな悪態を溢す銀龍は現場を二回ほど旋回し、そして、自分の巣穴へ帰還して行った。
こうして、ここのシロルカの花畑は元どおりの風にゆらゆらと揺れる風景に戻る。
この地で数百年と変わらぬ光景へ・・・