第一話 辺境の入口
ブゥーーーン
大きな羽音が舞い、それが自分に向かって飛んで来るのを認識した白魔女ハルは自らの魔力を高める。
「まったく、鬱陶しいわね! 遠慮なくぶっ放す!!」
そう宣言したるハルは、地面より十メートルほどの空中に留まり魔法で浮かんでいたので、邪魔者がいないのを良いことに遠慮なく広域攻撃型の魔法を使用した。
無詠唱で魔力集中し、その直後に無数の雷魔法が放たれる。
バリ、バリ、バリーッ!
発動した雷魔法により、無数の雷撃が空を縦横無尽に走る。
詠唱をかなり省略したため、彼女にしてその威力は弱いが、それでも白仮面を被っているハルが放つ魔法である。
ここでは常人の魔術師が最大出力するよりも大きな雷魔法が発動した。
パパン、パン、パン!
白魔女を中心として放たれた光の蜘蛛の巣のような雷魔法は、飛来した虫に容赦なく命中し、そして、そのすべての虫を黒焦げにした。
こうして一度の攻撃魔法で百匹以上の虫を退治するが、これが気休めでしかない事を白魔女ハルはもう解っている。
『辺境』に入ってからは同じような襲撃をそれこそ日常茶飯事的に受けていたからだ。
ちなみに、飛来する虫とは『甲虫の魔物』と呼ばれる種類の魔物。
風と硬化の魔法を纏い、高速で飛来し、獲物を貫通して命を奪う虫の総称。
白仮面と魔法のローブで強化したハルにはほとんど通らない攻撃であったが、それでもそんな襲撃を黙って受ける訳にもいかない。
こうして、彼女が辺境に入ってからは虫退治を際限なく続けているのである。
黒焦げにした虫はすべて絶命して落下。
ポチャ、ポチャ、ポチャ
ここは沼地なので、黒焦げになった虫は浅い水中へ落ちるが、ここで白魔女は地表に向かって注意しろと言う。
「ゴメン、アクト。そっちの方にも虫が落ちた。注意して」
白魔女ハルが注意を促すのは沼地の水面の上に立つ漆黒の騎士アクトに対してであり、ここで彼女からの注意の意味は上空からの虫の落下によるものではない。
逆に水中からの攻撃に対するもの。
その事が解っているアクトは魔法の力でサッと駆け出す。
水面の上を少しの波紋を立てずに走る行為は黒仮面の力によるもの。
魔法を行使してアクトが駆け出した後から空中より虫の残骸の一部が降り注ぐ。
そして、その直後・・・
ビッシャーッ!
水面に接触する寸前で、水中から大きな舌が伸びて、その獲物を絡め獲られた。
これは『大蛙』の仕業である。
辺境とは魔物の巣窟であるが、ここに生息している魔物も弱肉強食の摂理により成り立っている。
空中より落下した虫の残骸はこの沼地の大蛙にとって貴重な食糧だ。
水面より顔を出した大蛙は、人の顔ほどもある大きな口を開けて長い舌を伸ばし、落下した虫を絡め獲ると、それをひと飲みにした。
そんな大蛙が虫だけに興味を示す訳はない。
当然、水面を走るアクトの姿に気付いて、次なる餌を求めて、その長い舌を砲弾のように放ってきた。
「フン!」
アクトは短い発奮をして、後ろを振り返らず魔剣エクリプスを一閃させる。
そうすると、自分に飛来した大蛙の舌を斬り、その先端を宙へ飛ばした。
ゲコーーーーッ!
大蛙の断末魔が聞こえたが、それにいちいち構わない。
何故なら、この辺境で負傷した魔物は、次なる魔物の餌となってしまうからだ。
アクトは不要な戦闘を避けるために素早く走ったが、それでも間に合わない。
刺々しい魚が水から飛び出して、切断した大蛙の舌に群がり、その魚を狙う次なる大型の魚が姿を現そうとしていた。
パシャーーーン
バリバリバリ!
水撥ねと共に水面を這うような雷魔法を放つ魔物。
これこそが電気ナマズの『ブラフプール』だ。
このブラフプールもアクトの姿も認めて、そちらの方が旨そうだと身体をくねらせて雷の魔法を放ってきた。
放たれた雷は水面を生き物のように這いずり回り、アクトら迫り、そして、命中してしまう。
ドカーーーン
数万ボルトの高電圧による破壊音が響いたが、そんな魔法でやられるアクトではない。
アクトと接触した雷が一瞬膨れたかと思うと、その内側から黒い霞が現れて雷の光を侵食する。
そして、雷魔法はすべて無効化された。
そんな様子を見たブラフプールはたいした知能も無く、獲物を仕留めるために二度目の雷を放とうとする。
しかし、それをアクトも赦さない。
「グビッ!?」
変な擬音を挙げ、ブラフプールの動きが止まる。
ここに来て、脅威を感じたブラフプールであったが、もう遅い。
ブラフプールの視線の先には両手をかざした漆黒の騎士の姿が見え、その直後に何かに掴まれて自由がなくなる。
これがアクトからの闇魔法による力で掴まれていることなど理解できないブラフプールであったが、それでも自分の身体の自由が利かないことぐらいは理解できる。
それが漆黒の騎士より放たれた何らかの魔法であることは野生の勘で察した。
ブラフプールは自分よりも強者であるこの生物から逃れようと、その二メートルの巨体を動かそうとしたが、その魚体が闇魔法で水面から持ち上げられる。
ブォン
大きな力で引っ張り上げられたブラフプールは宙を舞ったが、この魔物の意識はここで途絶えることになる。
飛来した三組の光の輪がブラフプールに命中した。
それは空中を飛ぶ白魔女ハルより放たれた光の魔法による攻撃。
スパ、スパ、スパ
綺麗に輪切りされたブラフプール体は一瞬にして絶命。
同時にハルから風の魔法が掛かり、できるだけ遠くへ飛ばされた。
大きな弧で宙を描いて舞う輪切りの魚だが、遠くの水面に着地する寸前、空飛ぶ禿鷹のような魔物がそれをキャッチした。
先程からハル達を上空より狙っていた数羽の魔物である。
「良かった。これで撒けるわ」
ハルはそう言うと、自分とアクトに認識阻害の魔法を掛ける。
アクトもこのときは抵抗せず、白魔女からの魔法を受けた。
黒仮面の魔道具は自分の意思で魔法を受ける、受けないの選択ができるので、アクトの持つ強力な魔力抵抗体質の力も抑える事ができる。
「助かった、ハル!」
たいした苦労でもなかったが、それでも単調な戦闘の連続に嫌気が差していたアクトは彼女に感謝の言葉を伝える。
こうして、ふたりの存在感は辺境の沼地に溶け、希薄へなっていく。
その瞬間を魔物にさえ見られなければ、ここでも隠ぺいの魔法は有効だ。
尤も、この辺境では隠ぺいの魔法の効果は永続きしない。
魔法に対して感覚の鋭い魔物が存在しているし、一旦魔物との戦闘が始まってしまえば、隠ぺいの効果など吹き飛んでしまうからだ。
そして、戦闘が始まったら最後、次なる魔物を引き寄せてしまい、先程のように終わりなき戦闘へ続いてしまう。
ここは正に魔境であった。
いずれはまた戦闘になってしまうと思いながらも、ふたりはしばらく間、静穏にして行軍できる幸運に感謝するのであった。
その後はアクトとハルの予想どおり、何度か魔物と戦闘になる。
しかし、それは彼らにとって同じ事の繰り返し。
難なく敵を往なし、今は夜になる。
神聖ノマージュ公国側から『辺境』へ入り、沼地エリアを進む彼らだが、現在のここは少しだけ木々が生える森のようなところ。
清潔そうな泉が点在していて、そのひとつの畔に腰を下ろし休息を取る。
服に着いた泥を魔法で落とし、認識阻害の魔法陣の描かれた布を地面に敷き、魔法袋から取り出した毛布に身をくるむ彼ら。
今宵は『青の月』と『赤の月』のふたつが出ており、その光が泉の水面に反射して、もし、ここが辺境でなければ景観地としてもそれなりの場所である。
そんな場所にて、辺境で初めての夜を迎えるふたり。
ここに甘い雰囲気などない。
「まったく。辺境を抜けるは良い案だと思ったのだけど、失敗だったかしら」
白いローブの裾に撥ねた泥を魔法で綺麗しながら、ハルはそんな愚痴を溢す。
因みに、この状況で白仮面は外していない。
これは不測の事態に備えるためであり、アクトも同じで理由で黒仮面を装着したままである。
「いや。君の判断は間違ってはいないだろう。この辺境を迂回するのは安全だと思うけど、それでは時間が掛かり過ぎる。『太陽の小鹿』と一緒の旅程ならば、早くても二箇月は掛かるだろうね」
「やっぱりそうよね。私達のこのルートがエクセリアへ行くのが一番早いのは解る。解っているけど・・・」
ハルが愚痴るのは、この辺境が厄介なところだからだ。
動物の楽園・・・一言で言えばそれに尽きる。
もし、これが地球のような環境であれば、アマゾンのような一大観光地になるのかも知れないが、ここは魔法の飛び交うゴルトの世界。
生息している動物のほぼすべてが魔法を使える存在であり、これが攻撃に特化した魔法であるため、人間にとっては脅威でしかない。
「この世界の昔の人は偉大ね。危険な魔物達を大陸からこの辺境へ封じ込める事に成功したのだから」
「そうだね。この辺境では異常な頻度で魔物と遭遇する。逆に言うと、辺境以外の土地には人間に驚異となる魔物はほとんど存在しない。勿論、俺はエストリア帝国しか知らないけど、他の土地がこの辺境ほど危険があるとは聞いていないからね」
アクトはハルの意見に賛成だ。
もし、今日の自分達の活躍を傍から見ている人がいれば、それほど苦労無く往なしているようにも思えそうだが、それは仮面の力で強化しているから、そう見えるのである。
普通の人間ならばこの辺境で一刻も生きられないだろうと思う彼ら。
「辺境に行くのならば、と、プロメウスさんが貸してくれたこの本だけど・・・」
ハルが魔法袋から取り出したのは『辺境大全』という貴重な本。
アレグラ大図書館に蔵書されていた本のひとつで、過去より辺境に関する研究結果がまとめられた書籍だ。
そこには、辺境の大まかな地図と生息する魔物がまとめられていた。
「本日遭遇した魔物が、大蛙、ブラフプール、甲虫の魔物、禿鷹と・・・」
ハルは辺境大全に書かれている魔物のイラストを見て、本日遭遇した魔物を思い出し、その名前と討伐数を別の紙に書き留めている。
「何をしているんだい?」
「記録を取っているのよ。私達の魔物の遭遇が、もしかしたら、後から辺境に入る人への貴重なデータになるかも知れないじゃない」
アクトの質問に真面目にそう答えるハルだが、彼女の脳裏にはこの情報がお金になるかも・・・と少しばかりの欲があったりもする。
そんな事実を心の共有で解りながらも、ここでフフッと笑うのはアクトだ。
こんな過酷な状況でも、ハルはハルらしいと思ってしまう。
現実的な利益も抜け目なく考えているように思える彼女だが、実はその根底には知らない事を知りたいと願う技術者としての志があったりもした。
彼女にとっては、この瞬間が辺境と言う土地さえも研究対象なのだ。
「フフ、ハルはこんな時も勉強熱心だな」
「何よぉ。褒めないでよ~」
どこがツボだったのか解らないが、アクトのその言葉に朗らかとなるハル。
他人から見れば、絶対に解らない感覚だが、心の共有を果たしたふたりには何倍もの速さで相手の思考が読める。
そのお陰で、少しの言葉を切掛けに、互いの愛を再認識し、幸せな気分へ浸る事ができるのは、彼らの特権であった。
「と、とにかく、今日の到達地点はここらへんね」
顔を真っ赤に染めるハルは気を取り直して辺境大全に書かれた地図を指さす。
それは辺境の南側に書かれた「沼地エリア」の中ほどである。
「今日一日で五十キロほどは進んだわね。そうすると明日はココらに到達する訳ね」
ハルが指さすのは辺境の内側をぐるりと囲む真っ白な領域。
「そうなる。シロルカか・・・」
アクトもこの話は高等学校の授業で聞いた事があった。
「辺境の内部とはシロルカの花畑の向こう側にある」とはエストリア帝国で有名な話だ。
そのシロルカの花畑がぐるりと辺境地域を一周しており、これが辺境の外苑部と内部を別ける境界となっている。
三百年ほど前の帝国の辺境開拓事業で人類が到達した辺境の最奥・・・それが「シロルカの花畑」と呼ばれる領域である。
その花畑の領域でさえ、辺境の外郭部からは一割ほどしか内部に進んでいない。
だから、辺境大全の地図も辺境内部は大半が白塗りであり、辺境の中央にそびえるトェエル山だけが描かれている状態である。
そんな人類未踏の地に足を踏み入れようとしているハルとアクトに、現在必要なことは不測の事態を想定して休息を取る事だけである。
「明日はそのシロルカの花畑から内部へ入る。だから、もっと大変になる可能性もあるわ」
「そうだね。だから、遠慮なく休んでくれていい。初めの夜番は俺がしよう」
「そうさせて貰うわ。きっちり四時間で起こしてね。魔法で集中して寝れば、それで十分だから」
「解った。その時になれば遠慮なく起こすよ」
「ありがとう。おやすみ。私の愛しい旦那様」
「ああ、おやすみ。愛しい妻よ」
アクトは優しいキスをした。
「えへへ」
彼女らしくなく、だらしなく笑うと、ハルは幸せな顔を残して直ぐに寝息を立てる。
魔法を行使して強制的に眠に入ったからだ。
これは予め決められていた事であり、夜の睡眠は交代で取る。
彼らは仮面の力で驚異的に身体能力が底上げされていたが、それでも元々が人間であるため、睡眠は必要な事だ。
短期的ならば、二、三日寝ずに行軍も可能な彼らではあるが、休息が取れるならばそれに越した事はない。
こうして最初の睡眠はハルが取り、次にアクトが寝る。
その間は片方が夜の見張りをする。
だから、アクトが最初の見張り番となる。
ハル特製の結界内にいるので、滅多な事は発生しないとは思うが、それでも油断は禁物。
それはここが人類未踏の地『辺境』なのだから。
そう思っていると、アクトはやがて嫌な予感がした。
「フフフフ・・・・」
どこからか女性の笑い声が聞こえたが、それでも視界にその姿は映らない。
今日は青と赤の月が出る奇妙な夜の明かりだが、こんな怪しい声が聞こえてしまうと不気味になってしまう。
しかし、黒仮面のアクトは冷静であり、その声・・・と言うよりも、魔力が来た方向に意識を集中する。
どうやらそれは泉の中央部から来たようだ。
しばらく注意して観ていると、水面が波打ち、その中心部分が盛り上がってきた。
そうすると、その水面より一人の少女が姿を現す。
金髪の少女は全裸で華奢な身体つき。
そして、その背中から生えた四枚の羽根は透明に近く、妖精と表現するに等しい。
しかし、その顔は醜悪だ。
素肌も褐色で、『妖精』と呼ばれる品種とは別の生物であることは明白。
「フフフ、お兄さん。遊ぼーよ」
その妖精に似た邪悪な生き物は頭に直接響くような魔法の声を発して話し掛けてきた。
これに対してアクトは片手を前に出して掌を広げる。
そして、黙ってその掌を素早く閉じた。
「グギャッ!」
宙に浮かぶ邪悪な妖精は、形の無いモノに掴まれて、身体や羽根が拉げる。
勿論、これはアクトの闇魔法であり、無形の魔力の圧力によりこの邪悪な妖精を潰したのだ。
「・・・辺境外苑部に生息し、妖精に似たその姿から『邪妖精』と呼ばれる魔物」
ここでアクトは辺境大全に書かれた一匹の魔物の特徴を思い出して読み上げる。
「多少の知能を持ち、魔法で人間の心に侵入し、人の精神を食べる魔物。彼女達の遊びの世界に囚われた人々は気がフレてしまうと言われている」
「い、嫌・・・止めっ!」
邪妖精はそう懇願するが、ここでアクトは容赦しない。
彼にとってこの敵は害虫でしかないからだ。
ゴキッ!
ポチャーン
圧倒的な締め付け力で、身体を構成する重要な骨を折られてしまった邪妖精は一瞬にして絶命。
そして、現れたばかりの水面に墜落して姿を消した。
こうして魔物一体を駆除するアクトであったが、その直後、彼に敵意を向ける意思が多数発生する。
「ヤッタナ。ユルサナイ・・・」
そんな敵意がアクトの心に響き、複数の邪妖精が泉から姿を現した。
「どうやら、この泉は邪妖精の巣だったようだ。仕方がないか」
アクトは諦めて、ハルの結界より外に出る。
ここで黒仮面の力を最大限に出力して、闇魔法を複数の対象に向けて放った。
「グッ!」
複数の苦悶の声が聞こえたが、アクトは容赦しない。
ここで彼が危惧する事は、ハルを起こさないようにする事だけ。
できるだけ効率よく、手早く敵を葬る事にする。
アクトの研ぎ澄まされた感覚からは邪妖精はまだ全体の一割も姿を見せていない事が解っていた。
すべてを駆除するのにどれぐらいの時間が掛かるのだろうか?
それを逆算し、できるだけ早く仕事を終わらせようとするアクト。
こうして、漆黒の騎士はこの魔物にとっての死神となり、次々と引導を渡していく。
そして、彼はハルが再び目覚めた時の事を考えて、駆除した邪妖精の数も記憶しておく。
ハルが記録している『辺境の魔物討伐リスト』の今日の欄に、この邪妖精とその討伐数を書き留めるためである。
こうして、漆黒の騎士は美しい魔女を守るため、虫退治を行うのであった。