第十三話 堕天使
首都アレグラの太陽は沈み、夕刻から夜へ刻が移る。
夜は夏の熱気が納まり、南国の街らしく人々の活気が現れてくる。
今はそんな時刻だ。
そんなアレグラの街中で、突然にそれが起こる。
パリーン!
夜であっても神聖魔法の光で輝く大聖堂。
その大聖堂の主礼拝堂の高いところに設置されたステンドグラスがいきなり割れて、大きな何かが飛び出してきた。
街を行き来する人がそれに気付かない筈はない。
「な、なんだ。アレは!?」
誰かがそう叫び、空中に浮遊しているモノを指す。
皆がそれに注目してみると、夜の空の中で街の明かりに照らされた何かの姿があった。
胸の膨らみや腰の括れから、その浮遊物は女性であるとは思われるが、これを目にした者はそれが人間であるとは決して思えない。
何故なら、ソレは普通の人間の十倍を超える大きさがあり、それ以上に背中から大きなふたつの白い羽根が生えていたからだ。
「ど、どうしてだ? まさか鳥人?」
これを目にしたひとりが、辺境に住む魔物の名前を口にしてみるが、それでも違うと思った。
それは桁違いに大型であったし、何よりも身体の構造が人間っぽいと思ったからである。
例えるならば、天使・・・ノマージュ教徒の聖書に出てくる神の使者。
そんな謎の天使は地上へ落下してきた。
ドーーーン!
天使が落下し、地響きが起こる。
砂埃が激しく舞い上がり、そこから黒い何かが転がり出てきた。
ゴロゴロゴロと激しく回転した黒い何かは地面をパンと蹴ると、空中で華麗に二回転して、そして、地上へ脚を下ろす。
頭の天辺から底の靴まで黒一色の男性がそこに立っていた。
「だ、誰だ!?」
突然登場した黒い男に、通りすがりの住民は訳が解らないが、それでもその男は自分が出てきた砂埃から目を離さない。
そして、その砂埃から登場したが件の天使である。
「天使って? うがっ!」
天使が落下したところの近くに偶々いた男性が最初の犠牲者となった。
にゅーう、と天使の手が伸び、男を捕まえた。
そして、自分の胸へ押し付けると、そこからズブズブズブと音をたてて男性を体内へ吸収してしまう。
そんな凶行を目にした女性が、思わず手に持つ包みを落としてしまう。
折角買ってきた人気のパンだったが、そんなことなど忘れてしまうほどに衝撃的な光景だったからだ。
その女性が次の犠牲者となった。
にゅーう
伸びるように動く天使の腕に捕まってしまった女性は、叫び声を挙げる間もなく、今度は天使の胎へと押し付けられる。
天使のそこの肉が盛り上がり、女性はそれに埋もれて沈む。
こうして、あっという間に天使の肉体に取り込まれてしまう。
しばらく、その表面が人型で波打ち、天使の肉の中で女性が藻掻いているのが解った。
しかし、それも数瞬で収まる。
こうしてふたりの人間の肉体を取り込んだ天使は満足げに笑みを漏らした。
「融合はいいわ。嗚呼、信仰が私の中へ流れ込んでくる。これが私の力になるのぉ」
悦楽に染まる天使の顔には狂気が見え、人々はここでようやく起きた惨劇を理解する。
「う、うわーーーー。悪魔だーーーっ! 悪魔が堕ちてきた」
辺りに叫びが響き、人々が逃げる。
そんな矮小な人間の存在を堕天使は赦せない。
「私にひれ伏さない人間など、それは罪でしかありません。私にひれ伏して、信仰の力をすべて私に注ぐのです」
堕天使はそう宣言すると、人間の虐殺を始めた。
両手を大きく広げると、手当たり次第に逃げ出した人間達を捕まえる。
そして、自分の身体のあちらこちらに引っ付けると、片端から『吸収』と言う名の捕食を始めた。
「嫌だー! 助けてぇ~ 神様」
神に助けを願う悲鳴は堕天使の大好物。
恐怖と信仰のエネルギーが彼女のパワーとなる。
大量の人間を吸収した堕天使は全身の皮の表面が波打ち、そして、一回り大きくなった。
人を食べて更に肥大化したのだ。
これはあっという間の惨劇であり、その凶行を目にした住民たちは恐怖を通り越して、腰を抜かす者もいた。
偶々にこの広場へ来た親子も、そんな不幸な人間のひとり。
悪魔の堕天使から見れば、この親子も只の食糧のひとつでしかない。
食指をその親子に伸ばそうと腕を伸ばし・・・そして、それが弾かれた。
バンッ!
大きな衝撃と共に堕天使の手首が宙を舞う。
それは黒い騎士が斬ったからである。
漆黒の騎士はその手に持つ黒い剣で親子に迫る堕天使の腕を斬り飛ばした。
肥大化した天使の腕は黒い剣の刃渡りを超えていたが、そんなことなど気にしない漆黒の騎士。
黒い剣の中心部分が朱に染まり、赤と黒に霞む魔法の残滓が黒い剣より溢れんばかりに染み出る。
魔剣エクリプスが最大出力運転している状態を示すものである。
そして、その漆黒の騎士は力強い言葉で堕天使に対抗する。
「堕天使となったマリアージュよ。アナタの行いは人としての正義の範疇を超えている。これより俺はアナタを討伐対象の『悪』と認定し、討つ!」
漆黒の騎士アークはそう宣言し、魔剣エクリプスを堕天使に向けるのであつた。
一方、こちらはハル達の残る大聖堂の主礼拝室。
アークが堕天使マリアージュに連れ去られた後、彼女達は堕天使の神意に操られた人達に包囲されていた。
「シャーーー!」
蛇のような奇声を上げて襲い掛かっていた女性。
ハルはそれをパッと飛び退いて躱す。
そして、空いた隙間からは二本の剣が流れてきて、迫る敵を打ち砕く。
「グギャーー!!」
獣の悲鳴を挙げて後退する女性。
腕や顔が斬り裂かれる。
そして、それを行ったのが二本剣を持つシエラである。
「へん。アタシの剣は強いよ! 心してかかってきな!」
シエラはそう宣言すると、包囲する集団に向かって飛びかかる。
彼女が剣を振るう度に、人の手や足が吹き飛んだ。
一流の剣術士が無手の人間に負ける筈はなかった。
「ギャーッ!」
悲鳴を挙げる烏合の衆であったが、それでも堕天使の神意に当てられた人々は完全に臆する意識がない。
彼らは高く刷り込まれた信仰の力により、堕天使の為に働く事を余儀なくされている。
そのために思考し、そのために動く彼らは、巧みにシエラを人の海へと誘い出し、シエラを包囲して他の仲間と分断させる事に成功する。
シエラに斬られるままの烏合の衆ではあったが、それでもその程度の役には立つのだ。
そんな大いなる意思・・・この指令が何処から出ているのだろうか?
それを調べるハル。
彼らの神意を探るため、操られている人々に向けて魔法鏡を掲げた。
そうすると、神意が蜘蛛の糸のように張り巡らされており、それを辿れば、とある男へと行きつく。
その神父姿の服装を纏った男は顔に薄笑いを浮かべて立っていた。
嗜虐の悦に染まりながらも、理性の色を強く滲みせるその瞳はマリアージュの神意による支配を受けていない人間だとハルは思う。
逆にそれは人を支配する者の目である。
その支配に悦楽を覚えている人間の顔。
ハルがラフレスタで見たことのある人種の目の色をしていた。
「あの男が怪しい!」
ハルはそう叫ぶと、雷の魔法を放つ。
バリバリバリーッ!
神父姿の男に向かって魔法の雷が一直線で進むが、その進路の途中で、太った男によって遮られてしまう。
太った男の持つ特大の盾が、ハルが放つ無詠唱の雷魔法を防ぎ、狙う神父には届かない。
その太った男は先程に堕天使から指弾を受けた『十人の使徒』のひとり。
今回もハルの魔法の雷によって大したダメージを受けた形跡も見られない。
そして、守られた神父の方はニィーと笑みを深める。
「ガラーキンよ、よく守った。まさか無詠唱の魔術師が相手側に居ようとはなぁ。厄介だ。クルーガー、あの女魔術師を倒せ」
「はい、解りました。神父パパ様」
痩せこけた男が神父の命令を素直に聞いて、自らの神聖魔法を行使するため、精神集中へと入る。
そして、早い祈祷でこのクルーガーと呼ばれる男の神聖魔法が発動された。
「神よ。あの女の自由を奪いたまえ!」
グルーガーの祈りと共に現れたのは、地を這う蔦の植物である。
それがスルスルと地面を縫って進み、ハルの足を絡めようとする。
それを察して、ハルはパッと飛び退いた。
以前のハルならばこんな俊敏な動きはできない。
彼女が心の共有によりアクトから体術を学んだ結果で、このようにできるのだ。
神聖魔法による『呪縛の蔦』はハルが数瞬まで居た場所で盛り上がり雁字搦めに絡まった。
もし、それに捕らわれていれば、身体の自由は完全に奪われていただろう。
しかし、ハルは逃れて無傷である。
「これが攻撃に特化した神聖魔法使い・・・初めて見たわ。しかし、対処できなくもない」
ハルはそう分析すると、風の魔法を行使する。
ふたつの大きな竜巻を召喚し、それを敵にぶつける。
ガラーキンと呼ばれる太った男はひとつの竜巻を再び盾で防ぎ、大したダメージを与える事はできなかったが、所詮これは陽動である。
本命は遠くをぐるりと回ってきたもうひとつの竜巻であり、それがクルーガーへと命中して、彼を大きく宙に飛ばす。
「グワーー!!」
悲鳴と共に大きく飛ばされたクルーガーは地面に激しく叩き付けられた。
苦悶の声を挙げているので、それなりのダメージを与えたのは誰でも解る。
そんな戦い方を見た神父パパは警戒の声を強めた。
「戦い慣れているな。漆黒の騎士ばかりに注目して警戒していたが、どうやら貴様も曲者のようだ」
ここでハルの実力を垣間見たパパは、彼女に対する警戒をいち段階上げた。
それはハルも同じだ。
「そうね。私もそれなりの場数を経験しているからね。それにアナタの名前は『神父パパ』ということに間違いは無いわよね?」
「それがどうした?」
「ええ。実はアナタの事をちょっとばかし知っていてね」
「むむ。私の事を知るとは、どういう意味だ!?」
「気にしないで。ちょっとばかり世話を掛けられた相手からアナタの名前を聞いただけよ」
ハルがここで言うのは牙王との一戦である。
彼と戦った当時、牙王に死人の護符を与えた人物が、この『神父パパ』であったからだ。
そして、現在進行形でハルはこのパパなる人物に心の探りを入れている。
彼がどのような生い立ちで、どこの機関に所属し、何を目的として、この場に居るのか。
無詠唱でそれを探るハルの技は、未だ敵に気付かれていない。
もし、彼女が白魔女の仮面を被っていれば、より強力な魔法によって一瞬でこれよりも多くの情報を探れるが、今、そこまでの手段は必要ないと思っている。
油断しているからこそ多くの情報を探れるのを、ハルは過去の戦いより学習していた。
「私の名前をどこで知ったかは興味あるが、貴様と無駄話している暇はない。私としては仕事を早く済ます質でなぁ」
「あら奇遇ね。私も同じ人種よ。アナタの野望をここで挫いてあげるわ」
そんな自信満々な姿が気に入らない神父パパ。
「随分と余裕じゃないか。しかし、今だ! リニス、女を仕留めろ!!」
ここで神父パパの言葉に応答したのは使徒リニスである。
彼女は完全な死角から凶悪な茨の鞭を放つ。
それは絶対に避けられない位置からハルの命を狙う必殺の一撃であった。