第九話 聖女の魅力
ここアレグラはゴルト大陸南側中央部にあり、温流の潮の流れとして有名な南海に面した都市。
その影響により高温多湿が常である。
特に、強烈な日差しが降り注ぐ真夏の季節、昼のアレグラは人通りも疎になる。
こうした事から夏の季節の間、アレグラの民が専ら活動を始めるのは日の傾き出す夕刻からとなる。
その夕暮れに差し掛かった時刻に首都アレグラの北部に位置する教会に多くの人が詰めかけていた。
本日、この教会では大聖堂より聖女マリアージュを招き、集会を行う事になっていたからである。
集まった人々の目的はアレグラで有名な――特に市井の人々から人気の高い――聖女による説法を聞きに来たのだ。
「おお、来られたぞ!」
誰かかがそんな事を叫び、皆がその視線の先へ注目してみると、そこには確かに聖女が乗るに相応しい高貴な馬車が教会へ近付いて来るのが解った。
ゴト、ゴト、コド
石畳で舗装されたアレグラの道を進む馬車の車輪の規則正しい音が響き、白い馬四頭でひかれた立派な馬車。
その馬車は荘厳な造りであり、宗教家が乗るには豪華過ぎる装いであったが、これに異を唱える人もいなかった。
人々はむしろ聖女である彼女こそ、このような立派な馬車に乗るべきだと思っていたからだ。
そんな豪華な馬車はやがて教会の前に到着し、扉が開けられる。
「おぉぉ!」
大きな歓声で迎えられたのは聖女マリアージュ。
白と黒の凛々しい法衣を身に纏うのはいつもの彼女のスタイル。
「ようこそ、おいで下さいました」
この場を代表して彼女の来訪を歓迎したのは、この教会の管理を司る神父。
老齢の域に差し掛かった神父であったが、彼の永きに渡る信仰に報いて、公国で人気の高い聖女マリアージュを迎えての集会が叶った瞬間でもある。
尤も、彼の信仰に報いたのは神では無く、公国の幹部であったが、今はそんな事などどうでもいい。
誉れ高い聖女マリアージュと面談できたこの老神父は至って感激しており、彼女目当てに集まった信者も同じような気持ちだったからである。
そのように感激を受ける側の聖女マリアージュは老神父の手を取り、自分をここに招いてくれた事に、老神父と神に感謝の言葉を述べる。
神の使徒として満点の対応をする彼女であり、聖女への畏敬と羨望の眼差しがより一層強くなった。
ここで、人々の熱を必要以上に高めてしまったと感じた彼女はこう釘を指す。
「それでは教会の中へ参りましょう。人々が憧れを懐くのは私に対してではなく、神に対してではならないのですから」
そんな聖女マリアージュの言葉に、年甲斐も無く燥いでしまった老神父の顔がハッとなってしまう。
夕刻のオレンジ色に染まる陽光が教会内に設えられたステンド・グラス越しに差し込み、温かい雰囲気に包まれた教会内の礼拝堂。
それが聖女マリアージュの慈愛の籠った表情と相まり、彼女をより神々しい存在として演出していた。
いつも話が長い事で有名な老神父も、今日は前振りとして短く話がまとめられており、集会に集まった人々も、聖女が教壇に立つのを今か今かと逸る気持ちを抑えている。
「――と言う訳で、マリアージュ司祭から説法を頂ける機会を得ました。それではよろしくお願いします」
老神父の紹介を受けて、しなやかな所作で席を立ち、壇上の位置を引き継いだ聖女マリアージュ。
「うぉぉぉーー!」
大きな声援と割れんばかりの鳴りやまない大拍手。
聖女の登場を歓迎している信者達。
厳粛な教会では珍しい行動であったが、これを諭す者などこの場に誰もいない。
それほどに彼女へ声援を贈る行為は正当である――と、誰しもが思う。
もし、ここにハルが居たならば、まるでアイドルのコンサートのようだと思ったのかもしれない。
今の公国でそれほど人気を得ていたのが、この聖女マリアージュという女性であった。
彼女は軽く手を挙げて静粛を促すと、集まった信者は素直に従う。
自分の声が通るほどに喧騒が落ち着いた事を確認すると、マリアージュはここで初めて口を開けた。
「それでは、説法を始めましょう。今回、私が話す内容はゴルト歴七一四年にあった聖ハリルの物語です。その年の公国は大規模な飢饉に見舞われて――」
こうして、マリアージュの説法が始める。
彼女が説法に選んだのは『聖ハリルの物語』である。
ノマージュ教では一般的な説法の題材。
信者ならばいつも聞く話であり、退屈な内容であるのだが・・・しかし、ここでの聖女の説法はいつもの老神父の説法よりも何倍もの価値があるとして集まった信者たちの耳へ入っていく。
特に先頭を陣取った一部の集団は、蕩けるような視線と共に聖女マリアージュの説法を聞き入っていた・・・
「ふぅ」
短い息を吐き、設えられた椅子に腰掛けるマリアージュ。
大きく疲れた訳ではないが、それでもそんなため息が出てしまうのは、『聖ハリルの物語』の説法を人前で披露するのが、もう百回を超えていたからである。
所謂『もう飽きた』という状態であったが、聖職者である彼女の手前、そんな事を公の場で言う事も憚られる。
しかし、現在の彼女は教会の控室にいる時間。
説法を終えて、集会は無事に終わった。
今は信頼できる側近の女性達しか居ないこの空間であるから、多少の本音も漏らせるのである。
「マリアージュ様。お疲れさまでした」
彼女付きの修道女からお茶を出され、それを受け取るマリアージュ。
「ありがとう、リニス。美味しいわ」
部下の女性にそんな優しい言葉を掛けるマリアージュ。
それが嬉しかったのか、修道女リニスは、はにかむ。
こうして、朗らかな雰囲気に包まれる控室。
女性の園のような世界であったが・・・そんな平和な時間は長続きしない。
何故なら、それを破る喧騒が鳴り響いたからだ。
「・・・お願いです・・・会わせてください!」
そんな男性の声が扉の向こう側より聞こえる。
これは聖女マリアージュが外部の教会で説法を行った時に時折発生する事であり、この部屋の女達は「またか」と思い、互いに顔を見合わせた。
その中でもリニスは人一倍嫌な顔になる。
「まったく、また現れたわね。盛りついた雄犬め!」
リニスが憤慨するように、説法の終わった聖女の元にこうして招かざる客が押し掛けてくるのはもう珍しい話ではなくなっていたからである。
熱狂的な聖女のファンが深い関係になろうと迫ってくるのだ。
「本当に男って汚らわしいわ!」
リニスはそう言って、いつもどおり招かざる来訪者を追っ払うため行動を開始した。
しかし、ここで待ったを掛けたのがマリアージュ本人。
「待って、リニス。今回の相手はどうやらひとりのようですし、私から直接言いましょう」
そんなマリアージュの言葉に少し考えるリニスだが、彼女もそれが良いと思う。
本人から直接拒絶の言葉を伝えられれば、男の恋愛感情を吹っ飛ばすのに威力満点だと思ったからである。
もし、男が欲情を爆発させて襲い掛かってきたとしても、それを往なす力はリニスにもあるからだ。
そうだ、それがいいと結論付けてリニスは控室の扉を開く。
そうすると、そこには警備者と言い争うひとりの若い男性が居て、間抜け面をリニスの方に向けていた。
まさか本当に扉が開けられるとは彼も思っていなかったのだろう。
そんな間抜けな男にリニスから目配せを行う。
入って来い、との合図だ。
若い男は騒ぐのを止めて、乱れた服装と髪型を直し、そして、気を取り直して控室の中へと入ってきた。
そこに入れば、憧れのマリアージュが椅子に座っており、優雅にお茶を愉しむ姿が目に入る。
バンッ!
そんな彼女の姿を見た途端、この若い男は無条件に地面にひれ伏し、跪いた。
「ぼ、僕は聖女マリアージュ様の事を見て、心が高鳴り、眠る事ができない! 僕と付き合ってください」
若い男から一方的な愛の言葉が伝えられる。
そして、彼は決して面を上げない。
自分から顔を上げてはいけないと思っていた。
彼女の赦しが得られるまでは、その姿を見てはいけないと思っている。
妄信的な愛の姿だ。
そんな視野が狭くなっている若い男からの必死の愛の言葉を黙って聞くマリアージュ。
美人の彼女が無表情で聞くその姿を、リニスは「うわぁ」と思うしかない。
何故なら、マリアージュは決して喜怒哀楽の激しい女性ではないが、それでもこの静かに話を聞く姿は怒りを我慢していると思ったからだ。
そんな事など露知らない若い男は自分の愛の言葉を続けるのに必死だ。
「貴女の凛々しい説法や、健気なその姿が僕の心を熱くしてくれるのです。ああ、聖女様。僕は・・・」
跪いた男からはそんな愛の言葉が淡々と述べられるが、それが余計に白々しく映る。
こうして聖女マリアージュとその御付きの者にとって無駄な時間が過ぎて行く。
「だから、僕をアナタの傍に・・・」
「もういいわ。面を上げてください」
「えっ!」
言葉を切ったマリアージュに男が顔を上げる。
彼の顔は懇願の表情だけである。
路上にいる野良犬が今日の食事のために人間へ懇願しているような視線。
例えるならば、そんな感じである。
そんな野良犬に向かってマリアージュは残酷な現実を伝えた。
「アナタは、神を信じますか?」
「え? ・・・それは勿論」
彼はノマージュ教徒として正しく答えた。
しかし、聖女はその事を厳しい言葉で返す。
「いいえ。アナタは神など信じていません。アナタの心にあるのは私に対する信奉。私に対する欲望。私に対する支配欲です。違いますか?」
「え・・・あ・・・いや」
「もう一度言います。アナタは神など信じていないのです。そんなアナタなど、神の使途である私とは相容れない関係・・・ですので、私の事など早々に諦めて下さい」
「そ、そんなぁ・・・」
とても厳しく、そして、解り易いほど突き放した聖女のその言葉。
これは強引に迫る異性に対してマリアージュがいつも述べる言葉であり、彼女の側近達も見慣れた光景である。
そして、この通告を受けた後の男の反応は三種類だ。
ひとつは、憧れていた聖女から拒絶の言葉を聞き、逆ギレして襲い掛かってくる者。
ふたつは、憧れていた聖女から拒絶の言葉を聞き、心が折れて諦める者。
みっつは、憧れていた聖女から拒絶の言葉を聞き、絶望に心が壊れて自決を選んでしまう者。
さて、この男はどれを選択するのだろうか・・・
ここでの若い男の選択は三つ目だった。
彼は懐からナイフを取り出して、「どうせ、結ばれないならば!」と憂いの言葉を漏らして、自分の胸にナイフを突き刺そうとする。
男としては一大決心の末の行動であったが、聖女の周囲はもう慣れていたので、男性がそのような選択する事は予想済みである。
パシーン!
リニスは懐に隠していた鞭を取り出すと、それを使い若い男の持っていたナイフを正確に弾き、これを飛ばした。
実に慣れた手つきであり、彼女にとってこれは想定行動に近い。
それほどに最近はこの手の事件が多いのである。
そうなる事もマリアージュは解っていて、彼女も別に慌てていない。
完全に部下を信頼しきった姿であるが、彼女の場合は神の啓示も聞いているので慌てないのだ。
そんなマリアージュは心も腕も打ちひしがれている若い男に向かい、今更、こんな慈愛の言葉を掛ける。
「アナタは神を信じてはいない・・・でも、チャンスをあげましょう」
「チャンス!?」
「そう。私は三日後の夜に大聖堂で大規模な集会を執り行う予定になっています」
「・・・」
「枢機卿を全員招く、本当に大規模な集会。神の意志とひとつになる集会」
「・・・ひとつに」
「そうです」
ここでマリアージュはひとつの書を取り、自分のサインを書き足した。
「これをアナタに。そうすれば、この集会に参加する事ができます」
「・・・」
「それまでに、アナタの心が本当に神を信じるようになっていれば、アナタは救われるでしょう」
「僕が救われる?」
「ええ。アナタは救われて生まれ変わるのです。アナタならば、きっと神の意志とひとつになれるでしょう」
「ひとつに・・・」
そんなことをブツブツと答える男はマリアージュからの招待状を受け取った。
それを渡したマリアージュもこれでこの事を終わりにする。
「さあ、今日はもうお帰り下さい。三日後にまた会いましょう」
そう別れを告げるマリアージュに若い男は自分が何かに選ばれたような気分となる。
彼は頭には先程マリアージュに拒否された事など、もう忘れてしまったように熱に浮かされてボーッとなる。
そして、彼は帰らされた。
控室から男が去った後、この部屋は再びマリアージュを信奉する部下だけの空間となった。
「あんな男を例の集会に呼ぶなんて」
そんな不満はリニスからである。
しかし、それにマリアージュは優しい声で応えた。
「いいのよ。この公国の歴史が変わるのだから傍観者は多い方がいいわ」
そう言うマリアージュはここでもうひとつの事を思い付く。
彼女は新たな招待状をひとつ取り、そこに新たに招くべき相手の名前を書き、自分のサインで締めくくる。
それをリニスに渡した。
「リニス。この招待状を、ここに書かれた相手に渡してくれる?」
リニスはその相手の名前を確認して、ギョッとなる。
「ええ! マリアージュ様!? 本当にこの男を呼ぶのですか?」
「ええそうよ。彼は是非に来て欲しいわ。今日の昼間に直接会ったけど、予想以上に格好いい人でしたからね」
そう言ってコロコロと笑う姿は年相応の色恋沙汰に興味ある女性の姿のようにも見える。
そんな聖女の姿を初めて目にしたリニスは驚くしかない。
それほどまでにこの聖女マリアージュという女性は、公には厳しく、常に自分を律する女性であったからだ。
色恋沙汰など全く興味なく、それだから、「純潔を神に捧げている」と言われるほどに厳格な女性。
それがこのマリアージュという女性の印象である。
そして、今回この招待状を送ろうとしている相手は、以前リニスがマリアージュにその危険性を報告したばかりの人物である。
各派閥の動向を調査していた時、偶然にリニスは共同の修練場で彼の戦う姿を目にしていた。
漆黒の仮面を付けて、得体の知れない技を持ち、そして、恐ろしく強い男である。
全く嫌な予感しかないリニス。
どうしようかと迷うリニスの姿を察したのか、マリアージュから念押しの言葉が出る。
「リニス、絶対に彼へ渡して頂戴。漆黒の騎士の『アーク』さんにね」
フフっと愉快に笑うマリアージュであった。