第九話 摘発 ※
その日の朝、帝都大学はたいへんな事になっていた。
この騒動は夜明けから間もない時刻、魔法応用研究学科の研究室のひとつから激しい爆発音が聞こえた事に始まる。
大学の警備担当職員が慌ててその現場へ駆けつけてみると、火の手こそ上ってはいなかったが、その研究室内部はすべての設備が滅茶苦茶になっていた。
そして、ひとりの男がうつ伏に倒れている。
男は深い怪我を負った訳ではなかったが、意識が無く、しかも全裸であった。
警備員は訳が解らなかったが、それでも彼は職務に忠実であった。
マニュアルに記載されたどおり帝都警備隊へ通報をする。
そして、予想以上に早くやって来た警備隊員。
警備隊員は何故か自分の妻を連れて来ていた。
その警備隊員がこの現場を見て呟く。
「ハルさんの研究室・・・滅茶苦茶になっている」
その警備隊員とはフィーロだ。
彼は偶然この現場に来たのではない。
彼の隣にはローリアンが居て、その手には一通の手紙が握られている。
手紙には短くこう書かれていた。
――アクトが攫われた。自分はアクトを取り返しに行く――
その手紙は魔法で運ばれてきて、朝方に気が付いたのだ。
彼らは慌てて帝都大学の研究室に向かったが、そこで慌てふためく帝都大学の職員から今回の事件を知り、この現場へいち早く入ったのだ。
「こちらは魔法陣を使った素材の加工器です。そして、こちらは最新式の刻印器ですわ。見事に設備の心臓部が破壊されています。これは研究開発していた魔道具の製造工程を意図的に隠ぺいしたかったのでしょう」
魔法知識が豊富なローリアンは破壊現場よりそのような推測を述べた。
それを聞いたフィーロは警備職員に問う。
「君、この研究室の担当者はハルという女性で間違いないな」
「ええ、そうです。ここを実質的に使っていたのはハルという名前の研究補助員で間違いありません。通常は研究補助員だけで研究室を取り仕切るのはないのですが・・・それに、研究テーマについても秘匿されていたので、私達にも解らずです・・・」
「彼女が何を研究していたのかは重要ではない。そのハルさんは今どこに?」
「そ、それが、昨日も夜半までこの部屋で研究をしていた記録は残っているのですが、忽然と姿を消してしまって」
「解らないか・・・それでは、あの男は何者なのだ?」
フィーロは今も部屋の隅で毛布にくるまれている男性を指差す。
その男性は意識が無かったため、現在も大事を考えてあまり動かしてはいない。
今は帝都大学の救護担当職員がその様子を看ているが、いっこうに目を覚ます気配もなかった。
大学の警備職員もこの男性が何故ここにいるかは解らなかったが、それでもこの男性の顔と名前は有名だったので知っている。
「彼の名前はフランツ。魔法薬学研究室の研究補助員です。何故ここにいるのか解りませんが、彼は女性好きで有名な存在でして・・・」
ここで大学の警備職員はフランツを発見した際の状況を詳しく言うかどうか迷っていた。
彼が全裸でここに横たわっていたからだ。
それから想像すると・・・
もし、彼の予想したことを正直に伝えれば、帝都大学の品位が下がってしまうのではないか・・・
そんな余計な気遣いが彼の口を鈍らせる。
しかし、ここで女性の金切り声が響き、全員が注目することになった。
「フランーーーツ!」
金切り声の正体はジェンカであり、彼女が血相を変えて現れた。
そして、救護担当職員を押し退けて、全裸のフランツに抱き付いて揺さぶる。
容態の解らない状態の人間に対して危険な行為であったが、今の彼女は周囲が見えていない。
「フランツ、起きてぇ。お願い!」
「う、うう・・・」
激しく揺さぶったことに功があったのか、フランツがゆっくりと意識を取り戻した。
良かったと安堵するものの、ここでジェンカはフランツが全裸であることに気付く。
裸のフランツ、そして、ハルの研究室・・・ここでジェンカはすぐにピンと来る。
「そう。そうなのね。あの女はフランツに・・・赦せない!! 私のフランツに手を出すなんて、あの売女めっ!」
ジェンカは汚い言葉でハルを罵った。
それが余りにも大きな声であったため、周囲の人間にいろいろな意味で不快感を与える事になる。
ローリアンもそんな心象を受けたひとりだ。
「今の言葉、聞き捨てなりませんわね。一体誰が売女だと言うのですか!」
「そんなの決まっているでしょ! あのハルとか言う小娘のことよ! あの女は自分の彼氏だけじゃ飽き足らず、フランツにまで色目を使うなんて!」
「なんて事を言うのです。あのハルさんが絶対にありえません! いいですか。ハルさんと相方の男性、あのふたりは大きな困難を乗り越えて結ばれているのですよ。ハルさんが他の男に心を許すなんて絶対に有り得ません。それにこの状況ならば逆の可能性が大いにありますわ。ハルさんを手に出そうとこの男が強引に迫った結果、撃退された・・・そう考えるのが妥当です!」
「ふざけた事を言わないで。フランツがそんな事をするなんてあり得ない。だって、彼はあれほど私の事を愛してくれているのよ!」
そう言ってジェンカは顔を赤らめる。
自らの言動で余計に興奮しているようだったが、それを見せられたローリアンが逆に白けた。
「まったくこの女は・・・相手する価値もありませんわね」
その突き放した言い方がジェンカの癪に触る。
自分が見下された(実際もそうだが・・・)と感じたようだ。
だから、ジェンカなりの論理で滅茶苦茶な言いがかりをつけてくる。
「何も解っていないのはアナタの方ね。あのハルって女はこの大学でも有名なんだから。初心な研究補助員の男性を次々と集めては自分の配下にして喜ぶ女よ。あの女は自分の口から言わなくても男を誘っているの。魔性の女よ!」
そんな決めつけにローリアンは本当に腹が立った。
一発殴ってやろうかと杖に力が籠ったとき、そんなジェンカに同調する声が挙がる。
「そのとおりだっ!」
ここで大股で歩き姿を現したのはゼーリック・バーメイド教授とその取り巻きである。
「あの女は生意気にも儂に意見しよった。安全管理がなってないとか。魔術師協会をいびる小さい男だとか。時計に関する基本理念が間違っているとか!」
強い語気で怒りを露わにしているのはゼーリック教授。
彼はこれ見よがしにハルの研究室を指差して、非難を続ける。
「そんな生意気な女の結果がこれじゃ! 事故を起こして逃げよったのだ。狡い女じゃないか! 笑ってしまうよなぁ。ワハハハハ」
彼は自分の研究室の配下にも笑いを求めて、全員でハルを罵るように笑う。
しかし、この中でシルドアンだけは笑っていなかった。
彼としては同じ魔法応用学科の研究仲間が起こした事故を笑える気分ではなかったからだ。
そんなまともな精神の持ち主が少ないのもゼーリック研究室の特徴であり、パンデラ・リアックなんかは大笑いしている。
正に異常な集団であったが、これを見せられたローリアンの呆れが増幅するだけである。
「フィーロ、この人達って頭が阿呆なの? 帝都大学ってこの程度?」
「おい、ローリアン。あまり彼らを挑発するな。彼らは小さい世界で生きているんだ。ここでは世の中の常識は通じないらしい。大学構内特有の思考ルールがあるんだろうさ」
そんなフィーロの言葉はローリアンを鎮めるよりもゼーリック達を挑発するのに効果的であった。
「この警備隊の若造め! お前も相当生意気なヤツだ。儂には有力貴族の知り合いが多いんじゃぞ! お前みたいな若造など、すぐにクビにできるんだからな!」
「そうよ。そこの女も私をレベル低いって言ったわよね。絶対に後悔させてやるんだから。いい? 私は普通の帝都大学の研究員じゃなんだから。宮廷魔術師なのよ! この帝国の魔術師で最高峰の機関から派遣されているのよ。アナタも魔術師のようだけど、何処の学校卒業なのかしら? 警備隊程度の魔術師ならば、もしかしたら中卒レベルかも知れないわねぇ~ アハハハ」
そんなジェンカの挑発に眉を潜めるローリアン。
「あら、怒ったのかしら? 申し訳ないわね。私ったら名門の『帝都中央魔法高等学校』卒業なのよ。それ以下はあまりにもレベルが低くって、中卒と同じように見えてしまうのだから」
「そうだな。こいつらは学が無いからな。ワハハハ」
高笑いをするジェンカとゼーリック。
それに対してフィーロとローリアンは呆れるばかりだ。
しかし、ここでフィーロとしては言っておかなくてはならない。
「まったく・・・しかし、俺は別に良いとしても、嫁を馬鹿にされると黙ってはいられない」
「私もそうですわ。たかが『帝都中央魔法高等学校』卒業風情の人間に自分の出身校を莫迦にされては、名誉ある先輩方に申し訳が立ちませんわ」
やり返してやろうと考えていたふたりだったが、ここで待ったが掛かる。
「そこまでだ! ジェンカ・クラップ君。そして、ゼーリック・バーメイド教授。君達には聞きたい事があります」
ここで姿を現したのは宮廷魔術師長ジルジオ・レイクランド。
彼の部下である宮廷魔術師達。
そして、完全武装した多数の騎士隊達であった。
「えっ!?」
「な、なんだ!」
ここでジェンカとゼーリックの驚き声が重なる。
「どうしたかね。ジェンカ君? 君は自分の上司の顔を忘れたかね?」
「そ、そんな・・・」
目を見開いて口をパクパクとさせているジェンカだが、そんな彼女の反応にいちいち構うジルジオではない。
「尤も、私は君の顔を覚えていませんでした。少しは使えそうな部下だと報告は受けていましたが・・・それでもいちいち顔を覚えるほどの人物ではなかったためです。申し訳ないのですが」
それだけ言うと、顎で部下に合図を送る。
ジルジオの両脇から高位の騎士が進み出て、ジェンカをあっと言う間に拘束してしまう。
「い、嫌。やめて! 何をするのよ」
「煩い。黙っていろ。貴様には違法薬物製作の罪がかかっている」
「え!?」
騎士からの指摘に青ざめるジェンカ。
それは例の魔法薬――美女の流血の事を言っているのだろうと、勘の悪いジェンカにも理解させられた。
しかし、彼女には言い分もある。
「ア、アレは・・・私じゃない。私が率先して研究していたんじゃないわ。そ、そう。命令されたのよ。上から」
「ならば、その上が誰なのかも吐いて貰いましょう。少なくとも私は命じていません。帝皇からの命令で『アレ』は全て廃棄処分となっていたのは君もご存じだったと思いますが?」
ジルジオがそう指摘したとおり、『美女の流血』と呼ばれる魔法薬はその危険性から研究禁止指定されており、すべて廃棄扱いとする通達が出されていたのは一般の宮廷魔術師の身分でも知り得る情報である。
それでもジェンカがそれに手を出したのは、彼女にとって大きな見返りがあったからだ。
今よりも好待遇の要職に就ける・・・そんな欲に彼女が負けたのである。
「ゼーリック・バーメイド教授も拘束せよ」
「な、なんじゃ? なんでじゃ!?」
訳の解らないゼーリックであったが、彼も騎士があっと言う間に拘束した。
その理由をジルジオが説明する。
「貴方の罪はスパイ擁護罪です。貴方の研究室で飼っていた女性研究補助員・・・ええ、ミールさんですよ。知っていますよね。彼女はこの帝国から途轍もない宝をひとつ盗んでいきました」
「ミ、ミールがスパイじゃと!?」
「ええ。証拠は挙がっています・・・ここではお見せできませんがね」
実はハッタリだったが、それでもジルジオは役者である。
自信満々でそう言う彼の姿を見て、この場で彼の発言を疑う者は居なかった。
「それに、そこのフランツ君も同じスパイ仲間のようですから、彼からもたんと話を聞かなければなりません」
ジルジオはそう言うと大量の水を魔法で生成して、それを思いっ切りフランツにぶつける。
バシャーーーン!
容赦ない目覚ましだが、これでフランツは一気に覚醒した。
「う・・・うう、ここは!?」
強制的に覚醒されられたフランツは頭を振り立ち上がる。
ここで彼は全裸であり、ローリアンを始めとする数名の女性がその姿に目を背けてしまう。
しかし、彼を恍惚な表情で見つめているのはジェンカだけである。
「フランツ、良かった。私よ。ジェンカよ!」
そう言ってフランツに近付こうとするジェンカであったが、ここでフランツは彼女と真逆の反応をした。
「ひっ、オンナ! い、嫌だ! もう嫌だぁー!」
「ど、どうしたの、フランツ? 私の事が解らないの?」
ここで一歩踏み出すジェンカ。
それに対してフランツは三歩後退った。
「く、来るなぁ~。オンナはもうたくさん! 食われる。食い殺される。吸い尽されるーーーっ!!」
最後にフランツは絶叫を挙げて、そして、全裸で走って逃げた。
全裸で疾走する彼の迫力に気圧されて、全員がその道を譲ってしまう。
こうしてフランツはこの研究室から退散する・・・と思われたが、その寸前でジルジオからの雷魔法が炸裂した。
ドーーン!!
「ギャーーー!」
ジルジオの雷魔法の直撃を食らったフランツは大きな絶叫を挙げて再び気絶する。
その後に、騎士よって無事に拘束された。
こうしてジルジオはふぅーと息を吐く。
「まったく、本当に面倒くさい男でしたね。彼は女性恐怖症になるほどハルさんから厳しく虐められたようです。しかし、この男は婦女暴行罪として相当に罪もあるようですので、これも因果応報ってヤツでしょう・・・罪は償って欲しいですが、果たしてこの先、彼は男として機能するのでしょうかね?」
ジルジオはこのフランツがハルの幻惑魔法によって恐ろしい報復を・・・男として心に大きな傷が残るほどの報復を受けていると知っていた。
かつて、ジュリオがハルにしたように、自分を強姦しようとする輩をハルは決して許さない。
ジュリオの時は皇族ということもあって多少に手加減をしたようだが、果たして完全に敵であるフランツ・・・しかも、自分の想い人であるアクトを奪われた直後も鑑みて、彼女の敵意は最大級だったと言ってもいい。
(私ならば、彼が不能者に成る方に掛けてしまいますね・・・)
そんな下世話な事を考えるジルジオであった。
そして、そんなフランツを見たジェンカも呆然自失となっている。
(ああ良かった。これで女性のヒステリーも少しはマシになりました。あとはゼーリックだけですね)
彼は未だワーワーと喚いているゼーリックに視線を移す。
あまりにも往生際が悪ければ、魔法で気絶させて静かにさせようかと強硬な手段を考えていたジルジオ。
しかし、ここで援軍がやって来た。
「お、お前・・・いや、貴女は!」
それまで自分の正当性をワーワーと往生際悪く喚いていたゼーリックがここで止まることになる。
何故ならば、彼は自分の意中の女性・・・グリーナが姿を現したからだ。
彼女は自分と今回の戦勝記念式典に招かれたアストロ魔法女学院の職員の全員連れてここに現れる。
ローブ姿の魔女の大所帯がゾロゾロとハルの研究室に入って来たのだ。
彼女達も実は先日にハルと約束をしていて、今日のこの日、研究室を訪れる予定だったからだ。
その魔術師達の長であるグリーナは拘束されたゼーリックを一瞥しただけで、彼にそれ以上の特別な関心は示さず、素通りしてフィーロとローリアンの前まで歩み進んできた。
彼女に付き添う形で教頭のヘレラ・パリスモント、教官のノムン、ナローブなどの実力者が続く。
アストロ魔法女学院の首脳陣が一同に介した瞬間であった。
帝国最高の魔女集団には迫力があり、宮廷魔術師であっても一目置くほどの存在感。
彼女達はこの場の全て人間から注目を集めつつも、その長であるグリーナは何事も無いようにフィーロとローリアンに声を掛けるのであった。
「どうやら、ハルさんは行ってしまったようですね」
「そのようです。ハルさんはアクト・・・いやこの場ではアークですね・・・彼を取り戻すため、ここを捨てて発ったのでしょう」
「グリーナ学長。申し訳ありません。私達が力になれず、このような不甲斐ない結果に・・・」
「ローリアンさん、フィーロさん。それはいいのです。人間にはどれほど努力や準備をしても果たせない事だってあります・・・今は彼らの幸運を信じましょう。ハルさん、そして、アクトさんは強い運命を持つ人達です。彼らがこの程度の試練に負けるなんて考えられません」
グリーナそう言うとニコっと笑う。
そうすると不思議なもので、フィーロとローリアンの緊張は解けていく。
これで大丈夫だと思ってしまう。
まるで魔法にでも掛かったような気にもなったが、フィーロは思った。
(言葉に力が籠っているからだ・・・なるほど。『何を言うか』ではなく、『誰が言うか』だな・・・)
意味深な事を考えるフィーロ。
彼は、ためになる言葉を聞かされても白けてしまう性格の人間であったが、それでもこの時のグリーナからの言葉は心に刺さった。
信頼できる人からの言葉とは、なんと重い言葉なのだろうかと。
尤も、当のグリーナは自分の言葉が人々にそれほどの影響を与えているとは考えていなかったりする。
そして、グリーナはこの部屋の状況を見て、ハルがもうこの研究室には戻って来ないのを予感した。
しばらくハル達とは逢えなくなる気もしたが、それも彼女達の運命であると受け入れた。
「この先は彼らを信じましょう。そうなると、もうここには用がありません。さあ、我々はアストロに戻りましょう」
グリーナはそう短く告げると、この研究室をあとにする。
帰り掛けにゼーリックとすれ違ったが、ここでグリーナは一切振り向かなかった。
ゼーリックの方は何かを彼女と話したそうにしていたが、ここで彼の相手をしたのはアストロ教育陣の末席を歩く女性であった。
「ゼーリック教授。ご無沙汰しております」
「き、貴様はハンナ!」
ゼーリック教授の顔が一気に醜悪へと歪む。
それもその筈。
このハンナは一年前までゼーリック研究室に籍を置いていた女性研究員だったからだ。
彼女はラフレスタで開発された『懐中時計』の方が技術的に優れていると解ると、さっさとゼーリック研究室を辞めてアストロ魔法女学院の魔法研究組合へ転籍した裏切り者であったからだ。
そんな裏切り者のハンナであったが、彼女の意識はゼーリックとは少し違う。
「実は、少し前より、私達は外でこの事件のやり取りを聞いていました。まったく・・・ゼーリック教授はお変わりありませんよね。いろいろな意味で・・・」
ハンナは嫌味っぽい口調でゼーリックを罵る。
「なんだと!」
「教授は自分の気に入らない相手を執拗に貶める・・・それこそが大いなる可能性を、次にこの研究を担う存在を潰しているのです。そこにはまったく気付いていない・・・そういう意味です」
ハンナの指摘は尤もだった。
時計の研究は彼女にとっても生涯を掛けても良いと思えるほどのテーマであった。
だから必死に身を粉にして研究を続けてきたのだ。
そんな彼女も、自分の研究成果をゼーリック教授に奪われたひとりである。
ハンナが必死に研究開発した発明品を奪われ、それをゼーリックの発明品として世に出された。
その事を抗議すると、これは研究室の慣習と相手にして貰えなかった。
だから、幻滅してこの研究室を辞めたのだ。
彼女だけではない・・・被害者はそれこそ数多くいて、その中にはゼーリック教授に激しく抗議する者もいた。
その結果が執拗な虐めであり、失意の中で帝都大学から去った者も多く知っている。
「それに、ハルさんから直接指導を貰えたなんて、とても光栄な事ですよ」
「何を訳の解らない事を・・・」
「その様子ならば、何も知らないんですね・・・あの『懐中時計』はハルさんの発明品。彼女が学生時代にひとりだけで開発した素晴らしい技術ですよ」
「なっ!?」
ハンナの事実に驚く一同。
「精密魔法陣や魔力鉱石の共振現象もハルさんの発見です。それだけじゃない。ハルさんはもっと多くのモノを開発しています・・・その発明品には秘密も多いため、安易には言えませんけどね」
「・・・」
ゼーリックを始めとした帝都大学一同は、ハンナから伝えられた事実に驚き、誰も何も言い返せなかった。
そこにはハンナと同い年のジェンカも含まれている。
そのジェンカを見てハンナは重いため息を吐く。
「ジェンカも、あれほど人を見下すのは止めなさいと忠告したじゃない。もう解っていると思うけど、ハルさんはアストロ魔法女学院出身よ。アナタがいつも自慢している帝都の高等学校よりも当然ながら格式は上。だけどあのハルさんならば、アナタから嫌味を言われても特に何も言い返さなかったんじゃない? 私もハルさんとは少しだけ話した事もあるけども、ハルさんはああ見えて寛容な娘よ・・・そうそう、さっきジェンカが罵倒していたあの彼女もローリアン・トリスタ様で、アストロ卒業の筆頭生徒。今はアラガテ家に嫁いだから名字が変わっているかも知れないけど、その名前は世の中の出来事に疎いジェンカでも聞いた事があるでしょう? そう、ラフレスタの英雄よ」
「そ、そんな・・・」
ガクリと膝をつくジェンカ。
学位をタテに取る彼女は、アストロのネームバリューには弱いらしく、ここで負けたと思ってしまう。
「ちなみに、その隣にいるのが旦那様で、フィーロ・アラガテ様よ。只の警備隊員ではないわ。名門アラガテ家の嫡男で、こちらもラフレスタの英雄。教授のお知り合いの貴族様って彼らを敵にしても戦えるのかしら?」
「あわわわ・・・」
ハンナからの指摘に青ざめるゼーリック。
ハンナが言うように、ここでの相手は大き過ぎた。
知合いの貴族に余計な事を言っても、逆に自分達が切られる可能性だってあるのだ。
完全に戦意喪失した彼らにここでハンナから止めをさせられる。
「加えて、教えておくけど、あのハルさんはリリアリア大魔導士の娘という噂だわ。私もラフレスタ解放の際に、親しげに話すふたりの姿を見ていたから間違いないと思う。リリアリア大魔導士と言えば、前の宮廷魔術長よね。そんな人達を敵に回して・・・アナタ達、もう未来はないと思った方がいいかもね」
ハンナからの冷たいその一言に、完全に心が折れたゼーリックとジェンカ。
その姿を見て、少しは清々するハンナであった。
そして、最後に彼女は自分の私用を少しだけ果たすことにする。
「そんな状況だから、シルドアン博士、ここの研究室はあなたが引き継ぐのよ」
「え? 私が、ですか??」
「ええそう。だって、この研究室の実力者はもうあなたしかいないじゃない。自分の技術を信じて。帝都大学から魔法時計の研究の火を消しては駄目」
「私の技術・・・」
「そう。私だって現在はアストロの人間だけど、帝都大学が嫌な訳じゃないわ。ほら、ここに私の連絡先が書いてあるから、困った事があったら手紙でも頂戴。私でも力になれる事があれば協力するから」
「あ・・・ありがとう」
困った表情のシルドアン博士。
突然に「次のリーダーはアナタ」と言われて困るのは彼らしかった。
この事件のその後の顛末を説明しよう。
今回の事件の責任によって魔法時計のゼーリック・バーメイド教授と魔法薬のシェイド・ロジタール教授の研究室は解体されてしまう。
シェイド教授はこれまでの彼の功績もあり、それに加えて、例の魔法薬『美女の流血』に侵された被害者の命を多く救った事も評価されて、数年後には復学して、再び自分の研究室を持つに至る。
シェイド・ロジタール教授は寛大な処置をしてくれた帝皇へ感謝するとともに、残る余生を魔法薬で苦しむ人達のために使ったと記録されている。
そして、ゼーリック・バーメイド教授は砂漠の国の間者であるミールを手元に置いていた責任も追及されたが、それに加えて今回の一件で彼がこれまでにしてきた悪事が一気に露呈してしまう。
権力を傘にした強姦、横領、贈収賄、論文の偽造など、両手の指では数え切れないほどの罪がここで暴露された。
結局、ゼーリックは大罪人として余生を獄中で過ごす事になる。
そして、ゼーリックの失脚した後、魔法時計の研究を引き継いだのはハンナが予言したとおりシルドアン博士となる
そもそも魔法時計はそれ自体がシルドアンひとりの成果であったため、引き継ぎは問題なく進む。
そんなシルドアンは教授に昇格し、今までどおり、いや、それ以上に魔法時計の研究を進める事になった。
潤沢な予算ではなかったが、それでもシルドアンの真面目で理に適った根気強い研究は成果を結び、彼は晩年、アストロの魔法時計とは技術体系の異なる時計魔道具の実用化に成功している。
この成果の陰には、結局、彼の妻となったハンナの働きがあった事も特記しておきたい。
そして、この時に捕まったフランツとジェンカは獄中で亡くなったと帝国公式記録に残されている。
その理由は病死となっているが、このふたりが帝国の英雄アクト・ブレッタの拉致と希代の魔道具研究者ハルの国外流失の発端となってしまったとされる人物。
当代の帝皇デュランの怒りは相当なものであったらしく、彼らの病死の記録を信じている知識人が少ないのは言うまでもない・・・