第七話 糸が切れるとき
「ミ、ミールさん!?」
アクトの声には困惑の色が混ざっていた。
それもその筈、歓楽街の路地で出くわした傷害事件。
現場には刺客姿の女性、そして、もうひとりの被害者女性は無数の細い糸で絡め取られており、その胸はナイフでひと突きにされている。
明らかに致命傷の一撃。
それを目にしたアクトは反射的に刺客女性を敵として認識し、倒そうとする。
アクトの最速の一撃は躱されてしまったが、それでも刺客女性の顔を覆う布だけは斬り裂く事ができた。
そして、出てきた顔がミールであったからアクトが驚くもの無理はない。
アクトは驚きでしばらく身が固まってしまったが、それも長い時間ではない。
彼が次にしなくてはならない事は刺された女性の安否を確認する、もし、生存していれば応急処置をする事だ。
刺された女性の元に駆け寄り、ここでアクトは二回目の驚きを得る。
「この女性はシーラさん・・・もう、死んでる・・・」
アクトの高度な状況把握能力は残酷な現実を弾き出していた。
シーラの死亡。
それはとても認められる事ではなかったが、それでもアクトはここで優先順位を間違わない。
「これはミールさんの仕業か!?」
「わ、私じゃない・・・彼女が勝手に刺さってきたのよ!」
ミールは咄嗟に自分の潔白を口にしてみたが、それは子供のような言い訳。
実際、ミールに殺意が無かったかと問われれば、それは大いに否である。
ミール自身もそんな言葉が自分の口から出た直後、愚かな言い訳をしてしまったと後悔する、そう捉えたのはアクト側も同じである。
「そんな見え透いた嘘を・・・ミールさん。いや、理由は後でいいです。それよりも今は武器を置いて投降してください」
アクトはそう言い剣を構える。
「い、嫌よ!」
拒絶するミール。
そうなるとアクトは容赦しなかった。
「それでは無力化させて貰います。覚悟してください、ねっ!」
そう言うとアクトは急加速し、ミールへと飛びかかった。
それは途轍もない速さであり、ミールは一瞬アクトの姿を見失うほどであった。
「ひっ!」
彼女が直感的にナイフで防いだところにアクトの高速の斬撃が襲う。
ガキーーーーン
金属どうしが交差して、火花が起きた。
恐ろしいほどの重い一撃である。
ミールは自分が刺客者として手練れであると自覚していたが、それでもこのアクトには敵わないと直感的に感じた。
早速ミールの頭には離脱・逃亡の言葉が溢れていたが、状況がそんな事を赦してはくれない。
アクトから飛来してくる高速の剣は何度もミールへと襲い掛かり、それを防ぐのに手一杯。
何合も打ち合う。
正確無比に放つアクトの攻撃に対して、ミールはほぼ動物的な勘でナイフを使っての攻防・・・
いや、攻防と言うよりもミールの守りが一方的なのが正しい。
「嫌ッ、嫌ッ、嫌ッ! 来ないでぇ~っ!」
悲鳴に似た絶叫を発するのはミールだけであり、ふたりの実力差は明らかであった。
カギーン、ガキーン、ガキーン、パー―――ン
もう何度目になるか解らない打ち合いの果てに、遂にミールの手よりナイフが弾かれる。
彼女は一度手放してしまったナイフにあまり執着せず、自分の内腿に付けられた留め具よりふたつの新たなナイフを抜く。
この両手にナイフを持つ姿が彼女『蜘蛛』の技であったが、それはブレッタ流剣術を駆使するアクトにとってあまり大きな意味を持たない。
ブレッタ流剣術の真骨頂はスピードであり、単身対複数を念頭に置いた剣術でもある。
持ち手が一本から二本になったところでアクトの剣の速度が鈍るほどではなかった。
ガキーン、ガキーン、カギーン
複数で高速に打ち付けるアクトの剣はまるで剣舞を踊るように鮮やかであり、先程のリフレイン。
「あっ!」
そんな間抜けな声と共に、再びミールの手からナイフが抜けた。
圧倒的な数のアクトからの剣戟を捌ききれず、こうして無手となってしまう。
次のナイフを内股から引き抜こうとするミールだが、再びそれを許すアクトではない。
彼は素早い動きでミールの目前まで迫り、そして、彼女に遠慮することなく蹴り飛ばした。
「キャッ!」
短い悲鳴を発して、衝撃で派手に飛ばされてしまうミール。
仰向けになり、相手に腹を晒す。
そこにアクトがドカッと馬乗りになり、ミールの自由を奪った。
こうしてマウントポジションを取ったアクト。
戦闘において明らかに有利な体制で、ここでアクトが剣を振り落とせば、ミールの細首を刎ねることも可能。
しかし、アクトはそんな事をしない。
勝負ありの状況で、これにてミールの行動の自由を奪えたと思っていたからだ。
彼としても――例えシーラが殺されていたとしても――知人であるミールを直ぐに殺害しようとは思わない。
鋭い剣をミールの顔に突きつけて再び問う。
「何故だ。何故、シーラさんを殺した!」
今度のアクトの言葉は先程よりも語気が強い。
それは自分に迫る悪鬼のような迫力があり、ミールは本能的に恐怖を感じてしまう。
その事で、ミールはここでプロの刺客者として無様な事をしてしまう。
それは・・・手あたり次第に敵に物を投げるという行為だ。
ミールは何か投げる物はないか・・・そう考えると衣服の裏側――両胸の薄い谷間に隠されていた瓶の存在を思い出す。
これは先日『芋虫』のフランツが入手してきた魔法薬研究室の研究成果。
未完成の『美女の流血』という魔法薬。
例え試作品であってもこれは侵入調査部隊の大きな成果であり、これを本国に持って帰れば報酬上乗せ間違いなしの獲物であった。
しかし、現在のミールはそんな事にあまり躊躇せず、自分の胸元に手を入れると、止めていた紐を引きちぎり、アクトに向かって瓶を投げた。
「むっ!」
ここでアクトは自分に向かって何かが投げられた事を認識。
暗がりで良く解らなかったが、それを防ごうと反射的に剣で弾く。
しかし、これこそアクトがやってはならない失敗であった。
飛来物がガラスの瓶・・・しかも、その中にどのような液体が入っているか解らない状況では回避する事が一番の選択であったが、アクトも人の子であり、間違いは起きてしまう。
パリーーン!
ガラスの透明な瓶はアクトの剣戟に耐えられる筈もなく容易に割れて粉砕。
そして、その内容物の赤い液体がアクトの顔面・・・とりわけ無防備な彼の眼にかかってしまった。
「ぐ!? うわーーーーっ!」
直後、アクトは眼を焼かれたような激痛が感じた。
堪らず剣を離してしまい、そして、地面にのたうち回り藻掻き苦しんだ。
「ぐあーーー。熱い、熱いーーーっっっ!」
彼らしくなく悲鳴を挙げて苦しむ。
それは試作の魔法薬がアクトの眼から彼の中に侵入してくるときの違和感から来ていたが、当然そんな事など本人には解らない。
『眼』は魔力抵抗体質者にとって耐魔法の防護壁が唯一薄い部分であり、魔法の影響を受けてしまう数少ない弱点であった。
勿論、そんな事など本人には解らず、今はそれどころではない。
アクトは恐ろしい感覚・・・何かが自分の中に入って来る感覚。
そして、自分が赤く染められる感覚があった。
「嫌だ・・・やめろ・・・止めてくれ」
アクトは懇願した。
それは誰に対して懇願しているのかが解らない。
それでもアクトは神に祈る。
自分ではない誰かが自分の中に入って来るのを阻止して欲しい・・・そう願った。
しかし、その支配の流れは止まらない。
いや、益々に力強さを増してくる。
アクトは二、三回、痙攣を起こして、やがて身体が大きくビクンと刎ねた。
ミールは自分に迫っていた危機を脱せたと思い、少し安心するが、その直後、容態が急変したアクトを見て、何故か焦燥感にかられた。
息が益々荒くなるアクト。
「ど、どうしたの・・・もしかして、この魔法薬の力?」
ミールは咄嗟に投げた美女の流血の試作品がアクトにかかっている事をここでようやく認識した。
美女の流血という魔法薬は相手の心を支配できる能力があると聞く。
だが、これは未完成品なので、その効果については懐疑的である。
しかし、その直後に劇的な変化が起きた。
バン、バン、バン
アクトの心の中では、つながっていたものが切れるような音が。
そして、その直後・・・
ガチャ―ン、ガチャ―ン、ガチャ―ン
別なものと強制的につながれた。
「う、うわ・・・ぁあん」
それはミールの心。
突然にアクトの心と接続されたミールは驚くが、その直後に彼女は悦楽を感じてしまう。
それは絶対的な信頼、信条・・・絶対に裏切らないアクトの心の存在であった。
そして、ミールは理解した。
(アークさん・・・アナタの心はこんなにも・・・)
それは今までミールが感じた事の無い世界。
高潔さと、あくなき正義の心、そして、剣術の技に対する無限の探求心、誰かを強く愛する心。
そんなアクトの心を、今は自分が全て握っているという支配感。
アクト・ブレッタという個人を完全に掌握できている満足感。
それは例の魔法薬・・・美女の流血の試作品によるもの。
そんな事実をあっと言う間に理解する。
そして、ミールはニヤリとした。
「アーク・・・立てるでしょ? 立ち上がりなさい」
彼女は命令した。
そして、彼女の僕となってしまったアークはゆっくりと立ち上がる。
この瞬間に、彼の記憶から自分の名前がアクト・ブレッタである事実は完全に消されてしまった。
これからの彼の名はアーク。
それはこの目の前のミールという女性に仕える完全なる僕。
そして、再びアークが目を開けると、そこには闇夜でも不気味に輝く赤い彼の瞳があった・・・
「うっ!」
突然、眩暈を感じたハル。
そして、その直後・・・
バン、バン、バンッ
「あぁ!」
強制的に心のつながりが絶たれてしまう。
誰と絶たれたのか・・・それは明白である。
ハルと心の番となっていたアクトとの心のリンクが切れたのだ。
「心の共有が絶たれた? アクトーっ!!」
それは突然の事。
あまりもの唐突に訪れた喪失感。
しかし、ハルは己に訪れた虚無感よりもアクトの身を真っ先に案じた。
先程までは普通にアクトと心の共有がつながっていた。
アクトは装飾専門の商会で何かを購入した後、その帰りの道で殺人事件に出くわして・・・
それはハル側でフランツが襲って来た時期と重なっており、アクトならば大丈夫だと思って安心していた。
まさか・・・と最悪の可能性を考えて、その直後にハルはその可能性を否定する。
「・・・それは大丈夫。アクトはまだ殺されていない・・・それは魔剣エクリプスの契約が私の心にアクトが生きている証拠を教えてくれているわ」
しかし、心の共有の効力は完全に失せてしまった。
そして、その時に対峙していた相手・・・その姿もハルはアクトとつながっていた心の共有で観ている。
「あれはミールさん・・・まさか!」
ハルはフランツに目を向けたが、彼はまだ幻影の世界の中に居て、涎を垂らし悦楽に浸っている最中。
ここでフランツの心の奥深くを魔法で見てみると、彼が砂漠の国の間者である事は解っていたが、それに加えて、その同僚にミールという存在がいる事を初めて知った。
(ミールさんまでもが手練れの間者だったなんて・・・)
ハルは今までこの砂漠の国の間者にあまり注意を払っていなかった事を後悔する。
しかし、今はそれを憂いでいる状況ではない。
次にハルは白いローブ姿の完全な白魔女へ変身すると、この研究室から慌てて飛び出して行くのであった・・・