第一話 序章
アクトとハルがラフレスタを旅立ってから五箇月後、帝国歴一〇二三年三月から物語が再び始まる。
『ラフレスタの乱』と呼ばれた空前の大騒乱を乗り切ったふたりは、無事に高等学校の卒業を果たし、帝皇デュランより依頼のあった魔法仮面を製作するため、生活の拠点を帝都ザルツへ移していた。
これは帝皇デュランより魔道具の製作場所として指定されたのが帝都大学であった事に由来する。
このエストリア帝国には優れた教育制度があり、国民の就学率は九割以上と周辺他国に比べて異常なほどに高い。
そのお陰でエストリア帝国の国民は育成に高度な教育が必要とされる魔術師や商人の割合が高く、帝国の国力を高める結果となっている。
だが、逆に考えると、国策にはそのような実益を目的としている背景もあるため、『過度な学術』まで投資が回っていない現実もある。
解りやすく言うと、初等学校、中等学校、高等学校までは帝国の全国津々浦々に多くの学校が整備されているが、それ以上の大学校となると帝国全土に四箇所しか存在しないのだ。
それには社会に役立つ魔術師や商人を輩出するには高等学校程度の教育課程で十分であると認識されている側面があるためであり、それ以上は過度な教育と見なされ、そこまで手厚い予算が回っていない。
大学は存在しているものの、ここには余程学術的に意欲のある賢者や研究者が就学する場所であり、社会に出て働こうとする者が行くべきではないという風潮もある。
むしろ、近年は積極的に社会に出ることを是としない若者達が集まる傾向もあり、あまり実益的な成果が出せない場所としても帝国社会から認識されていた。
そんな雰囲気もある大学校だが、それでも一応は帝国内で最高位の学位取得の教育機関であり、ここで得られた知識を元に賢者を目指すのが、知識人の中には一定割合存在している。
そして、首都に構える『帝都大学』は形式上エストリア帝国で一番の大学校であり、帝国中央政府の知恵袋としての機能もある。
今回のハルに課せられた仮面の製作は帝皇デュランからの依頼を遂行するためでありで、その帝皇の御膝元である帝都大学の研究室兼工房を使うことは、政治上において合理的な意味があったりするのだ。
その合理的な方針による結果なのだが、初めてその研究室を案内されたハルは唖然とする事になる。
それは研究室の設備が・・・あまりにも古かったからだ。
最新型を揃えていたアストロ魔法女学院の設備と比較すると、三世代・・・いや、それ以上に古い設備。
そして、ほとんど使われた形跡も無い。
この研究室を管理している帝都大学の研究学科長に聞けば、この部屋はしばらく研究者がおらず、使っていなかったらしい。
早速、いろいろと試しに設備を動かしてみるハルであったが、案の定、古くて起動すらしない設備が大半であった。
敷地面積だけはそれなりにある研究室だが、ハルがまず行ったのは古くて使えない設備の処分、もしくは、修理するところから始めなくてはならなかった。
その実情を知った依頼主の帝皇デュランは、アストロに戻って研究室を借りた方がいいかとも言ってくれたが、ハルは不要だと答える。
ハル自身も、効率だけを考えると自分の使い慣れたアストロの研究室に戻った方が良かった。
しかし、あそこは既に卒業した場所でもあり、盛大に送り出して貰った手前、すぐに戻るというのはこそばゆいと思ってしまったからだ。
こうして、ハルはこの帝都大学の研究室で魔法の仮面の製作を始めるが、初めの一箇月は研究室内の大半の設備を更新し、仮面製作に使える工房へと成す事からとなった。
どのみち、ハルが製作しようとしている『仮面』の魔道具は普通の魔道具工房にあるような設備では製造すらできない。
彼女らしく、特殊な設備は一から作ることも覚悟をしていたので、帝都大の研究室の設備を一新する事をそれほど気にしていなかったりする。
そして、いよいよ仮面の製作にとりかかったところで、二つ目の問題が発生した。
それは魔道具の素材が揃わない事が判明したからだ。
魔法を宿す鉱石、『魔力鉱石』の一部が入手困難となっていたのである。
特に闇の力を宿した『黒色魔力鉱石』と空間系の魔法力を宿す『黄金色魔力鉱石』は入手困難な状況に陥っていた。
この理由は明白で、クリステの争乱が原因である。
このふたつの魔力鉱石はゴルト大陸のほぼ中央に位置している辺境と呼ばれる場所で産出される。
クリステはこの辺境中央部に近い一番大きな経済拠点であるため、そこの混乱が原因で帝国内各地へ輸送する交易ルートが一時的に閉鎖されて供給が滞っているのだと言う。
帝皇デュランからの情報によると、騒乱自体はほぼ終息しているので、あと数箇月もすれば流通は元に戻るらしい。
こうしてハルの仮面製作はしばらく足止めを食う形となり、今は手持ちの素材でできる部分だけ進めるという作業になっていた。
「ねえ、ちょっと。そこを持ってよ、アーク」
「・・・」
ハルの言葉に相手の男性は反応ない。
「アーク、アナタの事よ!」
「あ!」
男性は自分が呼ばれた事を今更にして気付き、鈍い応答を返す。
「すまない・・・自分の事だと思わなかった」
相手の男性とはアクトだ。
「もう! いい加減、慣れてよ」
ハルが怒るのも無理はない。
彼が『アーク』という偽名を使い始めて四箇月ほど経過している。
そろそろ慣れて欲しいものである。
アクトがこの帝都大学にいる間はこの偽名を使うことをふたりで決めていたのだ。
理由は簡単で、ハルが目立つ事を避けているためである。
『アクト・ブレッタ』という名前はラフレスタの乱の一件で英雄扱いされた結果、今や巷では相当な有名人となっている。
帝都に住む一般人はアクトの顔や姿は見たことが無くても、その名前だけは全員に知れ渡っているのだ。
そんな彼が帝都大学にいると解れば、相当に目立つ事この上ない。
勿論、仮面を製作するのはハルであり、アクトがここへ通う必要はないのだが、アクトがハルから離れるのを嫌った結果、こうなっていた。
警護という意味でもハルと一緒に帝都大学の研究室にいる事を強く望んでいたし、それに、アクトは元から科学という知識に興味は深い。
ハルと『心の共有』を果たした今となってはハルの持つ科学と魔法の膨大な知識を共有しているため、その興味は更に高くなったとも言えるだろう。
そんなアクトはハルの研究助手としても有益な人材であったりする。
そんなことからハルはアクトの願いを聞き入れ、ふたりで研究室に籠り、『仮面』の魔道具を製作することにしたのだ。
ここでハルは自身達が目立たないようにするため、いろいろな策を講じている。
そのひとつが、アクトに『アーク』という偽名を使う事だ。
彼と大学にいる間、『アーク』という名前を使うことを決め、自分やアクト、そして、周囲の者にも徹底させた。
だから、例えふたりだけのこの空間であっても彼の名前は『アーク』なのである。
普段からそう呼んでいれば、ボロが出る可能性が減るというものだ。
ちなみに、ハルは『ハル』のままである。
自分の名前はラフレスタの乱では売れていないし、特に偽名を使う必要もない。
その上、ふたりは『研究補助員』という立場でこの大学に入っている。
それは正式な大学生ではなく、研究するためのお手伝いさん的な立場であるが、実は現在の大学校にはこの『研究補助員』という在籍者が一番多かったりするのだ。
それは、教授の研究を手伝うこの『研究補助員』を十年間続けると、一般の大学学生が四年かけて卒業するのと同じ『学士』という資格が手に入るからである。
学費に相当する供託金についても、年間十万クロルと格安である。
通常の大学生が年間授業料二百万クロルなので、それが払えない学者志望の若者は、この制度を利用して『研究補助員』となる事が多かった。
尤もハルやアクトに限っては共にラフレスタの有名校を主席に等しい成績で卒業した人物で、彼らが大学生になりたいと希望すれば、授業料はおろか、特待生として逆にお金をもらう立場で入学する事も可能であろう。
しかし、彼らは自ら進んでこの帝都大学に来た訳ではない。
ただ、帝皇デュランからの依頼を熟すためだけに、魔道具製作の作業場としてこの帝都大学を利用しているだけなのだ。
『仮面』の魔道具が完成すれば、それで大学を辞める気でいたので、別に『研究補助員』という立場でも何でも全然構わなかった。
ただし、この『研究補助員』という立場は大学の中で弱い存在らしく、時折、蔑みの対象として扱われる事があるらしい。
そんな事もあるため、ハルとアクトに限っては魔法応用研究学科長であるフィスチャー・ルファイドル氏が気を利かせて、彼直属の『研究補助員』として大学に在籍している。
勿論、それは帝皇デュランの指示である。
普通はその領域の研究活動を統べる立場にある学科長に『研究補助員』が付く事はないのだが、帝国政府の案件、という形で学内に認めさせた結果である。
そんな学科長付きという特別な立場であったが、基本的に研究作業はハルとアクトふたりだけの完全に秘密の部屋で行う事が約束されていた。
学科長であるフィスチャーもその事情をよく理解しており、帝皇デュランからの不信を買わないため、ふたりの研究に関して全くの無干渉を貫いている。
勿論、設備の案件や素材調達など、ハルから申し出があった場合には素直に相談に乗るが、それ以外は本当に好きにやらせていたし、好奇心に駆られて、彼女達の研究を覗き見する事など一切なかった。
ハルはこのフィスチャーという男は長生きできる・・・そんな予感がしたりするのであった。
そんなこんなで研究室で黙々と作業を続けていた二人に呼び出しのチャイムが鳴る。
「あ、アーク。出て」
ハルから呼び掛けに今度は正しく頷き、アクトは呼び出しに応じる装置の釦を押す。
「こちらは裏口警備室の受付です。予めご連絡のあった素材搬入の業者が来られました。ハルさん宛に荷物を届けに来たようです」
現在の時刻は真夜中であるにも関わらず、若い女性の受付の声が研究室に響く。
彼女もどこかの『研究補助員』で、夜勤で受付のアルバイトをしているのだろうか?
金銭的にあまり余裕のない他の『研究補助員』の事を考えてしまうアクト。
彼はできるだけ優しい声で受け答えを返す。
「解りました。ご苦労様です。そのままこちらの研究室に通してください」
そう言いアクトは通信を切ろうとしたが、ここでハルが慌てて追伸を告げる。
「ああ、待って。もう暫くしたら他の業者も大勢入る事になっているの。入門証を持っていると思うので、いちいちこちらに連絡してこなくてもいいから、次々とここに通してください」
矢継ぎ早に自分の要件を述べるハル。
優しいアクトの声から何かを少しだけ期待していた若い受付嬢はハルの声を聴いた事で明らかに声のトーンが下がったようだ。
「・・・了解しました」
短く、事務的な返事を発し、それで受付からの通信は切られた。
(淡い恋心だったみたいね・・・残念でした)
ハルは若い受付嬢が抱いたかも知れないロマンスの始まりをぶち壊してしまったかもと思う。
若い男女がふたりっきりで真夜中に研究室でいるという意味を、この若い受付嬢はどのように想像しているのだろうか・・・
(私たちが、そんなことをする訳がないじゃない・・・少なくとも大学の構内で・・・)
不埒な妄想をしているかも知れない若い受付嬢に心の中でアッカンベーをしながら、ハルは来客者が到着する前に、作業中の魔道具を魔法隠蔽効果のある棚へ仕舞う。
そして、しばらくすると扉をノックする音が響いた。
申し合わせたようにアクトがドアを開けると、そこにはかつての商会の美人秘書が立っていた。
「お久しぶりですね。ハルさん。そして、アークさん」
「エレイナさん!」
ハルとアクトの顔には歓迎の笑顔の花が咲く。