第三話 兄が来た!
今日は一週間に一度の安息日。
アクトとハルは最早もう自分の家に等しいリリアリアの屋敷でゆっくりと過ごしている。
ラフレスタで高等学校に通っていた当時は互いに鍛錬と研究に明け暮れていた彼等で、安息日と言えども、これほどゆっくり過ごした記憶はあまりに無い。
しかし、今に至っては互いに心の通じた相手ができたこともあり、安息日と言う時間を有意義に楽しむほど心の余裕があったりする。
現在は屋敷の主人たるリリアリアがいないのをいいことに、リビングに設えられたソファーでアクトは横になり、頭をハルの膝の上に乗せて耳掃除をしてもらっている。
季節は春を迎えて、気候も良くなってきたので、リラックスするふたり。
そして、彼らの話題は今週の出来事を振り返っていた。
「まったく、あの研究室は・・・どうなっているのかしら」
呆れ顔にそんなこと言うハルの気持ちをアクトもよく理解できていた。
魔法陣の基礎実験で暴走事故を起こしたゼーリック・バーメイド研究室。
自分達の実験が失敗したときの後処理をすべて魔力抵抗体質者のミールに丸投げするという無責任ぶりに業を煮やしたハルは、アクトに頼んで早期に暴走状態の魔法陣を無害化して貰った。
ミール以上に強力な魔力抵抗体質者であるアクトの手にかかれば、かなり厄介な暴走状態に陥った魔法陣でさえも迅速に無害化できたのだが・・・その後が大変だった。
アクトとハルを『有能な人材』として評価を改めたゼーリック教授から熱心な勧誘を受けることになる。
「まったく。金や名誉、それに研究補助員の私達に大学の単位で釣ろうなんて・・・頭が悪過ぎなのかしら!」
プンプンと怒りのハルは昨日から続いている状態だ。
それほどまでにその後のゼーリック・バーメイド教授の行動が、ハルに嫌気をもたらすほどの悪印象を与えていた。
「自分の有益になると解り態度をコロっと変える人間なんてのは、とても信用できないからね」
アクトもそう言いハルの意見に同調する。
「ハルの見たところではどうだい?」
アクトがハルに問うのはバーメイド教授の評価。
ハルが無詠唱で人の心の中を覗き見ることができるからだ。
普通の人は彼女の前で嘘など通じない。
「あの『ゼーリック・バーメイド』という人物は駄目ね。彼の心の中は自分の事しか考えていなかった。自分が有名になりたい『欲』だけに捉われて行動しているわ。あるのはそれだけ。技術の向上や『魔法時計』という魔道具なんて、その自分の欲を実現するための手段のひとつでしかないようね・・・それと、アストロを恨んでいるというのも事実みたい」
そう言うと、ハルはゼーリックの心を探っていた時のとある事を思い出して、ひときわ嫌な顔をする。
「あの男・・・どうにかしてグリーナ学長を自分に振り向かせたい欲望があるみたい・・・本当に気持ち悪い男」
ゼーリック・バーメイドの心の中を覗いた時、グリーナを自分の女としたい彼の欲望をハルは見せられてしまった。
彼が若かれし時にグリーナに惹かれたようだが、その想いはグリーナに届かず、彼女から拒絶される事もあったようだ。
それでもゼーリックはグリーナの事を諦めきれず、いろいろな方法で彼女と会おうとしているようであった。
最近、彼がグリーナに会ったのは数年前の魔術師協会主催の技術研究交流会である。
そこで彼は自慢の『魔法時計』を披露したが、グリーナ本人は招待された客のひとりとしてこの研究室に来訪した以外の意味はなく、学術的な質問を二、三言交わすと仕事はそれで終わったとばかりにグリーナはそこすかとアストロへ帰ってしまったらしい。
その時、彼女が見た『魔法時計』を参考にしてアストロが『懐中時計』を造る事を思い付いたのだろう・・・ゼーリック・バーメイド教授は一方的にそんなことを考えているようであった。
勿論、それはゼーリックの歪んだ思考の結果であり、『懐中時計』を実際に分解してその内部構造を調査すれば、『魔法時計』と『懐中時計』は似て非なるものである事は明白。
普通の技術者ならば、このふたつは技術的体系が全く異なる思想のものだと解りそうなものなのだが、彼の曇った目にはそう映らなかったようだ。
それに、ゼーリック・バーメイド自慢の『魔法時計』でさえも彼個人のアイデアではなく、あの研究室にいたシルドアン博士ひとりの成果と言っても過言ではなかったようだ。
ゼーリック・バーメイド教授のやった事と言えば、シルドアン博士の成果を内外に宣伝するようなものであり、目立つところだけをゼーリックが実行している。
この研究室では部下の成果を上司がすべて横取りする行為が横行しているようだ。
そういう意味でゼーリックは非難されるべき人物である。
そして、ゼーリック本人は自分のやっている悪行に全く気付いていない。
これが己を解っていない人間の本質と言えば、そうなのかも知れないが・・・
救いようのない人間。
それがゼーリック・バーメイドなる人物に下したハルの評価であった。
「自分の事しか考えていない、と言う意味ならば、あのパンデラ・リアックと言う大学生も同類ね・・・その上、その彼は頭が悪い人間よ。今まで普通に大学生としてやってこれたのが奇跡のような人物だわ。魔道具師としての知識は私達・・・いや、アストロ入学したてのエリーよりも・・・いや、いや、もっと下のレベルかも・・・それほどに勉強した事を生かせていない人物ね。『帝都大学卒業』というタイトルが欲しいだけのつまらない人」
ハルはそんな結論を述べて、パンデラに対してもクズ人間の烙印を押す。
「あの研究室でマトモだと思えたのはシルドアン博士ぐらいかしら? あの博士は本当に好きで『魔法時計』の研究をやっているようだし、実際にあの研究室にある発明品のほとんどがシルドアン博士の成果だったわ」
「なるほどね。そうなるとゼーリック教授はシルドアン博士を利用しているだけの人間・・・そうなるよね」
アクトはハルの下した評価を完全に信じている。
それは『心の共有』を結んだ事による効果もあったが、そんなものが無かったとしてもアクトはハルの事を完全に信頼している。
「そうよ。あのゼーリックという男は自分の得になることにしか興味が無い・・・そんな男に協力してあげる道理なんて私達に無い」
ハルに言葉に力強く頷くアクトであった。
ハルとアクトは大学生をやりたくて帝都大学に研究補助員として入ったのではなく、帝皇デュランより請けた『三つの仮面』を製作するためだけにいるのだ。
素材の流通が滞っていたことにより、しばらく仮面の製作を中断していたが、最近は素材が入り始めており、作業を再開している。
そのことでエレイナ達と進めていた『民主主義』の勉強会も一旦は終了を迎えていた。
あとは、予定どおり仮面の魔道具が製作完了すれば、この帝都大学の作業は終了する。
「そう言えば、あの研究室にいたミールさんが『魔力抵抗体質者』だったのは驚いたよ」
アクトは思い出したようにそんな感想を述べる。
「そうね。女性で魔力抵抗体質者というのは珍しい存在だけれども、それでも前例が全くいなかった訳でもないから。それにアクトと比べてそれほど強力な魔力抵抗体質者という訳でも無いし、私もミールさんの心が少し視にくいかなぁと感じる程度だったからね」
ミールの心が完全に見えなければ、ハルは早い段階で彼女が魔力抵抗体質者であるとことを見抜いただろう。
ハルとしては「少し視にくい」程度にしか感じておらず、その上、彼女は現時点のハルにとってそれほど関心のある人物ではない。
そんな人物にいちいち注意などを払ってなどいられない。
勿論、ハルが白魔女になれば、心を観る魔法もパワーアップできるので、ミールの心を全て視る事が可能になるかも知れない。
しかし、その程度の事を試すほどハル達は暇ではない。
「まぁ、ミールさんの話はこれでよしとして、この調子だともう少しで例の仮面の製作は完了するね」
「ええ。この状況から予測して、『戦勝記念式典』が終わる頃にちょうど仕上るんじゃないかしら。ついでに作っている『アレ』と、ライオネル達に渡す『例のもの』を考慮しても誤差の範囲でその時期に完了できると思うわ」
「となると・・・いよいよ、この帝都でやる事が無くなる」
アクトは意味深にそんなことを言う。
ハルには当然その意味が解っていて、帝都の用事が済めば、いよいよハルはこちらの世界に飛ばされた仲間の存在を確かめるため、あてのない旅に出るつもりだ。
「ねぇ、アクト・・・本当にいいの?」
「ハルは何度も聞くし、俺も何度も同じ回答を繰り返しているけど、何度でも言うよ・・・もう覚悟は決まっている。俺はいつでもハルと一緒にいるつもりだ」
『心の共有』を果たしたアクトがそう答えるは解っていたが、それでも言葉でそう伝えられると、ハルにとって勇気付けられる。
もう何度目になるか解らない熱いものが彼女の身体の中に溢れてきた。
「・・・アクト・・・」
ハルはゆっくりと膝の上に頭を乗っけているアクトに口付けをしようとした。
まだ昼間だと言うのに、身体が燃え上がってきそうだったし、アクトの気持ちも昂ぶっているのがハルにも解る。
互いに見つめ合い、やがてふたりは口付けしようと唇を近付けるが・・・そこで邪魔が入ってしまう。
「ハルお嬢様、お客様をお連れ・・・あら!」
カチャッと扉を開けて来客者を連れてきたことを伝えようとするセイシルだが、彼らの逢瀬に気付き、思わず固まってしまう。
それでも有能なメイドを自覚しているセイシルは短い時間で再起動を果たし、案内した客の入室を阻止するため、咄嗟に開けた扉を閉めようとしたが、身体能力が無駄に高い来客者は近い時間ですっと部屋の中へ入ってきてしまう。
そして、ハルとアクトの逢瀬を目にした来客者は口をあんぐりと開けた。
「アクト、お前って奴は・・・・・・まだ昼間なのに・・・・・・邪魔したようだ。また出直そう」
そう言って、背を向ける来客者。
「まっ、待って! ウィル兄さん」
アクトは慌てて自分の兄の名を呼び、必死に意味不明の弁解をしてしまうのであった・・・
「そうか・・・」
ウィル・ブレッタはため息混じりに短くそう応えて、彼の対面には小さくなって座るアクトとハルの図があった。
現在のふたりはとても居心地が悪そうにしている。
今日は一週間に一度の安息日だが、リリアリアは外出しており、セイシルも用事が無ければ自分達のところに来ないと思っていたので、アクトとハルのふたりはいろいろな意味で油断していたのだ。
ある意味、自分達の世界の中にいるふたりだったので、偶には・・・と思ってしまうのも無理はない。
アクトは尊敬する自分の兄に、自分とハルが愛し合う姿を見られてしまったのが存外に恥ずかしかった。
そして、ハルはその恥ずかしさに加えて、初めて会うアクトの兄に、とんでもない第一印象を与えてしまったと激しく後悔する。
アクトから聞く兄ウィルのイメージは『厳格な人』であり、自分がとてつもないマイナスのイメージを持たれてしまった可能性もあると・・・
そんなアクトとハルであったが、対するウィルはセイシルから出されたお茶に「ありがとうございます」と礼儀正しく応えていた。
そんな礼儀正しいウィルの姿を見て、このふたりは兄弟だと改めて思ってしまうハル。
「とにかく・・・改めて紹介します。彼女がハル。僕の・・・『パートナー』です」
アクトは一瞬『パートナー』という単語を使うかどうか躊躇した。
ハルを自分のパートナーとして認める事に迷いはもう無かったが、それでも、この厳格な兄に対してそれが現時点で適切な言葉なのか・・・それを迷う。
しかし、当のウィルの方は涼しい顔をしてハルに握手を求めてきた。
「ハルさん。私はウィル・ブレッタでアクトの兄です。よろしく」
「あ・・・は、はい」
ハルは顔を真赤にして、小さい声で応える。
それを脇で観ていたセイシルはいつも勝気で大人びた女性であるハルという魔女が、この瞬間には無垢な小娘のように縮こまっている姿を見て、存外に面白いものが見られたと思うのは余談である。
後ほどリリアリアに報告しようと思ってしまった。
「いつも弟が世話になっているようだね。本当にありがとう」
「い、いえ・・・」
会話があまり続かない。
ハルが緊張しているのはアクトにもよく解った。
彼女の頭の中には、どうすればアクトの兄であるウィルに自分の心象を良くできるかを必死に考えていたりする。
そこでアクトはここぞとばかりにハルのことを褒める事にした。
「ウィル兄さん、ハルは凄いんだ。全属性の魔法が使えるし、魔法だって無詠唱ができる。それに天才的な魔道具師なんだ」
そう言ってアクトは魔剣エクリプスを兄に見せた。
「この魔剣だって、そう、ハルの作品さ。魔力抵抗体質者である僕にも使えているんだせ」
アクトは目を輝かせて、その直後、魔剣エクリプスを鞘から引き抜く。
そんな威勢を掲げる行為をアクトは滅多にやらないが、手早くハルの力を誇示するためにはこれが最適だと思ったからである。
鞘から抜かれた魔剣エクリプス。
鋭く黒い刀身に赤く輝くラインが一筋走る。
艶があって、美しい魔剣であり、そして、魔力吸収の特殊能力を持つその剣は独特の存在感を放ち、これが普通の魔剣でない事実は誰の目から見ても明らかであった。
「す、すごい!」
今はメイドとしての役割を熟しているはずのセイシルですら、そんな賛辞が口から漏れるほどに、この部屋で魔剣エクリプスの存在が溢れていた。
当然、アクトの兄であるウィルもこの力が解らないことは無い。
「・・・これが魔剣『エクリプス』か」
ウィルのその呟きに、多少の羨ましさが混ざっていると察したハルはここでこんな提案をしてみる。
「も、もし・・・アクトさんのお兄様さえ良ければ、い、一本進呈いたしますわ・・・せ、製作するのに少々お時間を頂ければ・・・あと、心から信頼している魔術師と・・・」
「ハルさん!」
ここでウィルはハルの言葉を遮る。
それは決して大きな声では無かったが、この場でしっかりと存在感を放ち、ハルの言葉を止めるのには十分な威力があった。
ウィルはハルの言葉が止まったのを確認して、もう一度口を開く。
「ハルさん、貴女は本当に良い人だ。それに美人だし、弟の事を本当に大切に想ってくれている」
「あ、ありがとうございます」
ハルはウィルから突然に褒められたことで、眼をそっと反らし、顔を赤らめた。
彼女なりに照れていたし、これでウィルから『認められた』と思っていたからだ。
しかし、その直後、ウィルからは予想外の言葉を聞く事となる。
「そんなハルさんには、とても言い難いのだけど・・・アクトと別れてくれないか?」
「「え?」」
アクトとハルから思わずそんな感嘆符が漏れるほど、ここでのウィルの話は脈絡が無かった。
「ああ、ハルさんは悪くない。いや、優秀過ぎると言ってもいい。ここに来るまでいろいろな人達からふたりの関係を聞いたよ。クリステではライオネルさん、ロッテルさん、エレイナさん。トリアではインディ君とサラさん。ラフレスタにも寄った・・・皆が全員口を揃えて言う事があってね」
「・・・」
「ハルさんは偉大な魔術師・魔道具師であると評価していたし、新たな歴史を作る存在になるかも知れないとベタ褒めされていた・・・」
「それが、何故・・・俺達が付き合う事が駄目につがるのですか!」
アクトは怒気混じりに兄へ詰め寄る。
「アクト。お前もブレッタ家の教えを知っているだろ? 我々は決して権力とつながってはならない。決して歴史の表舞台で『英雄気取り』になってはならない・・・だから、ハルさんは悪くない・・・悪いのは我々ブレッタ家の血であり、我々ブレッタ家の誇り故だ。ハルさんはこの先、目立っていくだろう。あのラフレスタの乱を鎮めた真の『立役者』だとも聞いている。きっと我々ブレッタ家よりも多く事に関わってくる筈だ。そんな時代の英雄と共に歩めるほどブレッタ家の血は綺麗ではない」
「ウィル兄さん。何を言っているのか解らない・・・俺は・・・俺はもうハル以外の女性と一緒に人生を歩む事なんて考えられない!」
そう言いアクトはハルを抱き寄せた。
そこでアクトはハルの身体が冷たく固まっているのを初めて感じた。
彼女顔を見れば完全に血の気が引いている。
それをウィルも理解し、彼女に対して酷な事を伝えたと自覚する。
しかし、これは自分が言わなくてはならないとして、心を鬼にした。
「もう一度言う。アクト、ハルさんと別れろ・・・・いいな」
ウィルはそう言い、ふたりに強い眼差しを向ける。
対するふたりはまだショックから立ち直っていなかった。
それを見たウィルは、ふぅ、と息をひとつ吐く。
「さて。今日、私がここに来てふたりに言いたかったのはそれだけだ・・・それでは帰らせてもらう・・・アクト、次に会う時は戦勝記念式典の時だ。その時までに・・・解っているな。将来有望なハルさんにまでブレッタ家の宿命を背負わせないように・・・兄からは、それだけだ」
ウィルは一方的にそんな事を言うと、あまり手を付けていなかったお茶を一気に飲み、そして、席を立つ。
その後、ウィルは全く振り返らず、この部屋から去っていった。
残されたのはショックから立ち直れないハルとそれを必死にフォローするアクトの姿であった・・・