幻想ミッドウエー戦記 インド攻略編 その5
イギリス領インドを開放する為アジア連合の3国がインド解放軍を出撃させた。
日本軍は第5方面軍30個師団凡そ45万の戦力。クシャーナ王朝軍20万余、パルティア王国軍20万余総兵力85万余の大部隊である。
幻想ミッドウエー戦記 インド攻略編 その5
昭和18年6月初頭
5月の海戦でイギリスインド洋艦隊が壊滅後、インド総督たる文官のクライマル伯爵は既に航空機でアデンへ逃走していた。
残った守備隊司令官オルーニ将軍が全体の指揮を執っていて、彼は植民地を中心に戦い抜いた生粋の武官で貴族である。
彼は20万余の大戦力を総督の名を持って集めていて、イギリス連邦軍10万余を加えて30万余の大部隊が7月には集結していた。
7月25日自らはイギリス・オーストラリア軍10万余を率いて、カルカッタより進撃して来る日本陸軍第5方面軍30個師団を迎撃する。
副官のレビン大佐にはシーク教国の副首都ラホール迄進出させ、10万余の軍で防衛陣地を築いて守備に徹するように命じた。
彼らはクシャーナ王朝軍の精鋭!敗れたが無いと言われる魔法の弓騎馬隊と戦う事になる。
もう一人の副官マイヤー大佐には同じく10万余を与え、インダス川を前に防衛陣地を築かせる。
パルティア王国軍20万余の重歩兵部隊を中心とする強力な打撃力を有する近接戦闘が得意な部隊との対戦だ。
日本軍は第5方面軍司令官畑大将率いる強力な砲兵部隊を有する30個師団の精鋭部隊である。新式のミサイル部隊と自走砲部隊も伴なっていた。
空軍部隊も伴なっているが飛行場の建設が間に合わず防空用の戦闘機隊のみが進出していた。
海軍では新風と呼ばれ、空軍での呼び名は2式戦闘機鍾馗Ⅱである。海軍式の着艦フックを外して足回りを強化し、多少の荒れ地でも着陸できる仕様となっていた。
この為進出した4個中隊64機は文字通り荒れ地たる整備不良の国道に止まっていた。現在近くに簡易飛行場を建設中であり、施設部隊が頑張っていた。
兎も角飛行場が完成しないと偵察機も飛ばせない。レーダー基地が敵航空機を捉え防空隊が出動して敵の攻撃を許してはいないが、こちらの攻撃機が飛ばせない。
飛行場の完成まで後1月は掛かりそうなので進撃を中止して、各部隊は防衛陣地の構築を始めていた。
日本軍は1昨年の晴にベンガル王国の独立を助け、第5方面軍30個師団が彼の国を守り保護した。
当然イギリス側にあるマラータ同盟やオード王国やビハール王国が懲罰軍を送ってきたが、全て日本軍の返り討ちに合い各地で死体の山を築いただけだった。
昭和17年日本軍はアジア連合の要請に従い、インド開放の為行動を開始する!
2月10日
日本軍30個師団45万余の戦力は呉王国軍の到着後、守護の任務を譲ってビハール王国攻略のため出撃した。
当然クシャーナ王朝軍、パルティア王国軍も行動を開始し、漢帝国軍の主力部隊はインド北部よりジュンガル部、キルギス部を越えてロシア方面に向かう。
一部の呉王国がベンガル王国応援のため20個師団40万余を向かわせていた。
昨年の懲罰戦闘でビハール王国は主力部隊の7割を失っていて、3か月で首都が陥落し、第5方面軍司令官畑大将は難なくビハール王国を占領する。
それから半年ほどでビハール王国の大半を占領下に収め、第5方面軍は呉王国軍の馬元将軍率いる10個師団20万余の守備交代軍の到着を待ち進撃を開始した。
日本軍は兵員となる人々が不足する為、軍の編制を1個師団で3個連隊1万5千名として火力を向上させることで他の諸国に対抗する。
他の諸国の1個師団はほぼ4個連隊編成で、約2万余の規模になる。
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