9.見下すな
「ひ、ひひ……頭を打ちすぎておかしくなったか?」
何を言うかと思えば、自分を殺す? ただの人間が?
男はカガリの吐いた言葉を妄言だと受け流して、冷静さを取り戻した。そうだ。何を、焦ることがあったのだろうか。
「それとも、ただ冗談が上手いだけか。冗談らしく、大きく出たねえ。おまえが、おれを殺すだって? ひははは!」
「そう言ったぞ。耳の調子がおかしいなら、早く耳鼻科に行っておくべきだったな。残念ながら、もう行くことはできないが」
どうやら真面目なようだった。真剣に、自分を殺す気でいるようだ。
男はいよいよ本気でカガリに呆れを抱き始めた。できるわけがないことを平然と口にする姿は、現実が見えていないとしか思えない。
「……本気でできると思っているのか? 人間がただで、おれに勝つと」
状況を見れば、カガリに勝ち目は一切ない。
何せ男は手加減してもカガリを簡単に血塗れの姿へ変えることができるのに対して、男の方は石で思い切り殴られても、血の一滴すら流さないという並外れた耐久性を持っているのだ。
ことの趨勢は火を見るよりも明らかであり、カガリに男を攻略できる手段は皆無であるだろう。
「当たり前だ。できるできないは論じるものじゃない、断ずるものだ。――俺が殺すと決めた以上、お前はここで必ず殺す」
けれど、この少年はそう言うのだ。可能性がないことなど歯牙にもかけず、男を殺すと決めている。
そこで男は、ようやくそれが奇妙であることに気付いた。
なぜならその言葉が、一般的な社会常識において異常と呼ばれる類いのものであるからだ。自分がその類いの典型例であるものだったから、気づくのに数瞬遅れてしまった。男が気づいたのは、男にとっても馴染みのあるもの。
殺意。
目の前の少年は、少年なのだから当然若い。しかも制服を着ていたのだから、学生ということになる。それが、どうしてこんなにも素直に「殺す」などと口にできるのだろうか。カガリの言う「殺す」とは、弱い者を虐める時の"殺す"や、相手を脅す際の"殺す"とは違う。
混じり気なしに、純粋に、ただ相手を殺すための「殺す」なのだ。
先ほどまでのカガリが、殺人鬼に遭遇するという展開に戸惑っていたのは事実である。そんな彼が、こうも簡単に殺意溢れる言葉を口にするということに、男は困惑を覚えた。
「正直なところ、感謝している部分も少しはあるんだ」
「あぁ?」
なんだ、何を言っている?
「このままじゃ駄目だなってのは、なんとなく思ってたんだ。でも状況を動かすにはどうすればいいのかわからない、だから……ああ、ありがとう。俺のところに来てくれて……!」
殺意の次は、喜色を見せる。どういう感情の変化なのだと、男はとうとうカガリのことを不気味に感じ始めた。
「これでやっと、やっとなんだって、そう俺の中で確信があるんだ。これでようやく一歩進める、あいつを引き摺り出せるかもしれない。……けれど」
けれど……。そう、けれど、なのだ。
先も言った。男は、許されないことをしたのだと。
「どうしても……ああ、どうしても許せねえことがある。テメエをブチ殺さなきゃならねえ理由がある」
「ひ、ひはひひ、そんなに許せなかったか!? 俺の所業が! 人殺しが! 正義感ってやつに抵触したかぁ!? だが、おれは同じことをしただけだ。おまえたちがおれに、したことと同じように――」
けれど、笑う。男にとって殺人は食事と同義だ。欲求に従って誰かを殺すのは男にとって当然のことであり、それを責められたところで行為を反省することはない。
だからカガリの言ったことも笑ってやろうと、その口を開いたところで。
「――うるせえ知るか黙ってろボケ野郎が!!!」
男の言葉は中断される。カガリは怒り猛っていた。
それは、男の凶気に比肩するものであるかもしれない。もはや許せぬと、カガリの顔が叫んでいる。
そうだ。カガリは男の所業に怒っているのだ。男の奪った命を思い、奪った命への礼など欠片も持たないその行為に彼は怒って。
「お前が奪った命なんてどうでもいいわ。勝手にカス同士、群がって死んでろ」
……いるわけもなかった。なぜならば、氷月 赫狩は自己中心主義者である。数少ない例外を除いて、見知らぬ人間がどこかで命を落としたところで気には留めない。ごく普通の人々と同じく、対岸で何が起きていようと思いをはせることはない。
ゆえに、この男が何をしたか程度のことで、彼の堪忍袋が切れるわけもないのだ。
ならば、なぜカガリは怒っているのか。
「わかってねえようだから、特別に俺がお前の罪を数えてやる。ありがたさを胸に刻んで拝聴しやがれ。お前の罪は、四つある」
その、四つの罪とは。
「一つ――俺を見下したこと」
「……は、ぁあ?」
男の素っ頓狂な声を無視して、カガリは罪を数え続ける。
「二つ――俺を見縊ったこと」
「三つ――俺を見おろしたこと」
そうだ。カガリは単純に、ただひたすらに単純に。
「そして何よりも、何よりも何よりも四つ――――何、よりも……俺、を……この俺を! てめえ如きが見下したことだッッ!!!」
彼は、そのことについてのみ猛っていた。
それはカガリにとって、何よりも……人の命が奪われたという現実などよりもよほど、怒りに値することであったのだ。
「絶対に許さねえ、絶対に殺す!! この俺を、よりにもよって弱いなんて言葉で笑いやがって舐めてんじゃねえぞ塵屑如きが!! テメぇごときに見下された屈辱、今死ねすぐ死ねここで死ね。この俺を見下した罪は、万死に処しても飽き足りん。判決は有罪、よって殺す……!!」
理由はただそれだけ。それだけが、殺意に火をつけたのだ。
「ひ、ひひ……」
なんだ、それは。
「ひはははははは! 面白いやつだなぁぁ!! ばかもここまで行くと哀れを越して面白いぞ!」
「黙れよ、この俺に恥をかかせようとしやがって。穴があったら、テメぇを叩き込んで埋めてやるところだ」
「その言葉、穴に入るのはおまえである方が、言葉として正しいんじゃあなかったかぁ?」
男がカガリの言った言葉の間違いを指摘する。
しかしカガリは、何も間違ったことは言っていないと呆れ気味に男の指摘を否定した。
「はァ? この俺に恥をかかせようとしたのはテメぇだろうが。なのに、なんでこの俺がそんな即身仏みたいな真似をしなくちゃならねえんだよ。ちょっとは物を考えてから喋るってことができねえのかタコ、誰様に向かって口きいてんだクソ野郎」
傲岸。不遜。先ほどまでの少年と同じ人間とは思えないほど、明らかに態度が異なっている。
まるで、何かのスイッチが入ったかのような。それは人格が切り替わったような変化だが、カガリは多重人格者ではない。
ならばこの変化は一体どういうことなのか。けれど今は、それよりも。
「だいたい恥ずいっつうなら、自分を辱めた相手を半殺して穴に埋めて蓋して憂さを晴らせばいいじゃねえかよ。どこをどう考えたら、自分から穴に入りに行くなんて阿呆極まる発想が出てくるんだ、クソ負け犬根性がよ。自分から穴を掘って埋まるような、クソ小せえ虫ケラみてえな人生しか生きられねえならそのまま黙って死ねばいい。この俺は御免だ、虫唾が走る」
「ひ、ひはは。同感だなあ、屈辱をこそ仇で返せばいい。黙って恥じ入るだけじゃあ、それは自分の――」
「ダウトだなクソ野郎」
今度はカガリが、男のことを嘲笑する番だった。
「なに自分を誤魔化そうとしてやがる、この臆病者が」
カガリは既に見抜いている。冷静に観察すればよく見えてくる、この男の弱さを。
簡単だ。つまり、この男の弱さとは。
「さっきからペラペラ喋ってくれてたが、結局のところてめえは弱い者虐めしかやってねえじゃねえか」
「……なんだと!」
殺して、殺して、殺して、それで?
「黙れ! おれが、人間を超えたのは本当のことで……!」
「そうかよ。そんで、てめえが人間を超えたっつうから黙って聞いてやれば、殺したのはてめえの言う格下な人間だけ。いるんだろ? まさかお前だけってことはねえよな? お前の言う、超人とやらは。いつになったらお前の話に出てくるんだ、その超人サマたちは」
人を超えたと誇りたいなら、殺すべきはそちらだろう。弱い者たちを狩ったところで、なんの自慢になるという。
殺しを自慢したいなら、自分の力を見せつけたいなら、殺すべきはより価値のある首級だろう。
「ぐ、ぐぐ……っ、うるさいっ、おれは人間を超えて、おまえこそただ弱いと言われただけで威張り散らして! おまえの方こそ小物だろおお!」
雰囲気を変えたカガリに、男は呑まれはじめていた。
焦り、先ほどまでは立っていたはずの確かな優位を失ってしまっている。
「俺もなあ、別にただ見下されただけで普通はこんなにキレたりしねえよ。でもな……」
こいつは、違う。
「自分で自分を『雑魚です』と吹聴しながらそのことを恥にも思わねえ超雑魚に見下されることだけは、死んでも我慢できねえよなァ……!」
「黙れよ弱者が……! おまえ、おまえなんかが、このおれに向かって!」
「図星突かれて逆ギレてんじゃねえよ雑魚助! 否定したきゃかかってこいや!」
消える。
男の姿、跡形もなく。
(――――)
やはり見えない。
けれど、観える。
この俺が、ただ殴られていただけだと思ったか。
わかる。敵は必ず、そうするだろう。ならば自分は、それに合わせて動けばいい。
カガリは内から沸き起こる衝動と、そして声に突き動かされるように、動き始める。
聞こえる――やってしまえと、敵を撃滅せよと。どこかで聞いた、声が――。
"まず一つ、赫狩。貴方はまだ、私にすら勝てないのだから。調子に乗っちゃ、駄目よ"
「――――っ!」
――違う!
カガリは動かそうとしていた腕を、予定を変えて伸ばし、道に捨ててあるゴミ袋を掴んで無理矢理に振り回した。
瞬間、中のゴミごと袋が切断される。破裂しそうなほど詰め込まれていたゴミがそこら中に散らばり、汚臭が漂う。だが、勢いのままそこから後退したカガリは、その凶刃からは逃れられた。
舌打ちしたカガリは、そこに現れた男を見る。
「……正面から、最短で来るかと思ったんだけどな」
「ひ、ひひ、ひ。おれもそうしようかと思った。さっきのおまえにはムカついたからなあ……が、気づいたさ。おれの方が有利であることに変わりはないのだって。おまえなんかが何を言ったって、おれが上だという事実は変わらない。おれは、この力を使っておまえを普通に殺せばいいのだから。死人におれは馬鹿にできない」
カガリは男を雑魚だと罵ったが、カガリの認識とは関係なく男が人間以上の力を有していることに変わりはないのだ。
その力を使えばカガリを追い詰めることは容易く、間違いさえ犯さなければ敗北することなどあり得ない。ならば怒りのままに正面から攻めずとも、側面から急所を狙えばそれで済む。
そう気づいたからこそ、男はカガリの前には出なかった。ただ普通に目の前の獲物を殺すべく、力を使ったのだ。
男にとって、これは戦いなどではない。あくまでこれはただの殺害であってそれ以上のものではなく、目の前にいる人間はただの獲物だ。そう思い出した以上、カガリの言葉はただの遠吠えにしか聞こえない。
(意外と頭は冷めやすいタイプなのか、馬鹿そうなツラしてんのに。挑発のまま狙いやすい正面から来てくれればな。なんとかなった気もするんだが、失敗したか。生意気だ、殺そう)
(危ない、危ない。直前で冷静になれた。そうとも、何を考えることがある。おれは予定通り、こいつを殺してしまえばいいだけのこと。気になるのは、なぜこいつがおれに反応できたのかということだが……まあ、どうせ殺すのだから気にしても無駄か。どうせ直感か偶々といったところだろう。どうでもいいさ、加害者はおれで被害者はこいつなことに変わりはない。さっさと殺して、次に行こう)
両者とも、怒りを覚えたのは本当のこと。屈辱を感じたのも事実。
カガリはその怒りを利用して、男は自身の怒りに乗らなかった。
だからもう一度。今度こそ、目の前にいる相手を殺してやると、カガリの怒りと男の凶器がぶつかり合おうとした、その瞬間。
「――――ちょぉぉおおおっと待ったーーーー!!!」
どこからか、降ってきた人物が二人の間に勢いよく着地する。
落下の衝撃をものともせず立ち上がったその人影は女のそれであり、カガリとそう歳も変わらないと思われる少女だった。
その少女がカガリに背を、そして男には顔を向けて、口を開いた。
「若い命を相手にし、凶刃振るう無法悪漢! 天が、大地が、何も知らぬ人々が、あなたの悪行見逃そうともこの私が許さない!! 許しちゃならぬと心が命ず、正義が振るえと吠え立てる、刃が示せと私に叫ぶ! 大道廃れて正義あり、青天白日、私の正義に穢れは在らず。悪の栄えたためしがなければ、悪党許す法もなし! 鉄槌、鉄拳、大鉄剣!! 私がここに、ここにいる!!!」
ビシッと少女は男を指さして、彼と敵対するように、彼女はカガリの前に立つ。
「……」
「な、なんだぁ!?」
突然現れたその人影に、カガリは無言で興をそがれ、男は呆気にとられている。
「なんだかんだと聞かれたら、答えてあげるが世の――…………うん? いや、これは違うわね……」
こほんと少女は一息ついて。
「では改めて――。私の名を聞いたわね、あなたが私に聞いたわね。だったら答えてあげましょう、私が答えてあげましょう。悪との垣根も飛び越えて、答えてあげるが人の道! 花道、我が道、正義道! 聞いて見なさい知りなさい! 通りすがりの魔法使い、灰久森 兎角――私が! 参上! 大・参・上!!」
大袈裟に声を張り上げながら名乗るけたたましい少女を見ながら、カガリはこう思わざるを得なかった。
「……出現早々やかましい女だ」