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8.短い狂気

「クソ、あの女……」


 帰宅途中の道でカガリは、ついさっきのことを思い出しながら、はらわたに火をくべて血液を煮えたぎらせていた。それくらい血が沸騰しそうな怒りだった。その場にいない時でも俺に喧嘩を売るとはとんだ性悪だと、理不尽な苛立ちを抱えながら歩いている。

 その足が必要以上に地面を強く踏んでいるように見えるのも、気のせいではないだろう。


「いつか絶対泣かせてやる」


 顔面をくしゃくしゃに歪ませて、これでもかというほど滝のように大粒の涙を流させてやる。謝ったって許してなんかやらないし、土下座されても容赦はしない。

 もっとも、あの女が土下座なんてプライドの無い行為をするわけもないと彼は知っているので無意味な誓いではあるのだが。

 アゲハという少女は決して屈服などしない、それだけに腹立たしいのだ。この鬱憤を晴らしたくても晴らせないことが。

 あの女が勝負に乗ってくれれば、それに勝つことで今まで積もり積もった積年の鬱憤もまとめて返すことができるのに、と彼がいくら思っても彼女はなかなか勝負に応じてはくれない。あれは生粋の天邪鬼……のようなものだ。何をするにも億劫だと思っているから、こちらがいくら言っても聞く耳を持たず反発するし、ならば逆にと突っ返してもああそうかと額縁通りに受け止めて、彼女は話をそこで終わらせてしまうだろう。

 だから、勝負をしようと思えば真正面からぶつかっていくしかないのだが、それがうまくいかないからこうして一年が経過してしまった。

 いったい、いつになったら自分は奴と一騎打ちができるのかと、悶々と欲求不満にも似た感触が彼の心中で渦を巻いていく。けれど彼はこの不満を、彼女に直接ぶつけて無理に勝負しようという気は起こさなかったし、起こそうともしない。

 口喧嘩による怒りはあの女のせいだからエスカレートもするし、女との喧嘩も勢いは増していくものだが、この不満はただの自分の我儘である。上から目線であの女に命じることはしても、無理に立たせるのは違う。それでは意味がないのだと、彼は一方的に思っている。

 しかし、だと言ってもカガリに不満がたまっていくのは彼の心の動きであるために避けられない。

 こうなったら、なんでもいいから食事を口に入れて腹を満たすことで、この欲求をごまかそうかとカガリが考えたところで、彼は奇妙な感覚を覚えた。


「……んん?」


 目線だけをキョロキョロと動かしてみれば、すぐにその違和感に気づけた。あからさまなまでに、その違和感はわかりやすいものだった。


(誰もいない?)


 ――さっきまで、確かに人や車が通っていたはずなのに。


 ここは彼がいつも通学するために使用している道である。人通りが少ない時間帯はあれど、陽が沈み切った夜でもないのにここまでシンと道が静まり返るほど人がいなくなるというのは、普通はありえないだろう。

 何せ全く人がいないのだ。その辺りに建っている民家からすら、人がいる気配も何も感じない。

 それに、人が少ない時間帯だったとしても、そこにいた人間が唐突に消えるようなことは起こったりしない。


「どんな大手品だよ、それ」


 不気味に思ったカガリは一瞬引き返そうかとも思ったが、しかし興味心を捨てきれずにそのままいつもの道を進んでいく。

 多少不気味だからといって、そこで怖気づいて歩みを止めてしまうような、大人しい性格をカガリはしていなかった。そこで止まれるような性格なら、彼は一年間も彼女へアタックし続けていないだろう。


「不思議なこともあるもんだ」


 冗談めかしている彼の口調からは、この事態に対して不安な気持ちを一欠片も抱いていないことがわかる。

 けれど、その楽観的な性格が、彼に見なくてもいいものを見せることになる。

 いつの間にかカガリは、普段の帰路から外れていた。自らの勘が命じるままに、自分でも気づかないうちに普段は来ない場所へと入っていた。

 自分でも、本当によくわからないうちにのことだった。あえて言うなら、予感だろうか。まるで予知能力じみて自分自身の勘が冴え渡っていき、それが自分を導いていくような。この先に進めば、あの女との膠着した現状が何か変わるかもしれないという猛烈な予感のようなものに、今のカガリは突き動かされている。突き動かされているまま、その状態を良しとしている。

 しかしそれは同時に、その予感以外のものには目を瞑ることを意味する。それは、聞いたことがないからその正体がわからないと、好奇心のまま銃声の元へと足を運んでしまうようなもの。猫を殺すようなものが、人体に有害でないはずはないのに。

 だから、カガリは気づけなかった。高まった期待が警戒心を濁らせて、自分が死線(レッドライン)を踏み越えてしまったことに気づけない。

 そう、確かにそこにある物は普通ではなかった。

 そこにある物は、屑虫の作った赤い虫篭。

 ゆえに、カガリの目に映るのは、何か、いつも見ているものの、動かない塊。いくつも、いくつも。


「なんだ」


 ぺちゃっと、カガリの足を液体が濡らした。ころころと転がるのは、光を失った片っぽの瞳。

 飛び散った破片と液体がべったりと壁を汚し、そこに奇っ怪なアートを描いている。悲惨な光景が、カガリの目の前に転がっている。自分と同じ形をしていたであろう物が、めちゃくちゃにされた残骸となって、それが醜く痛ましい。


「……あァン? っかっしいな、"領域"ってやつは張ってあったはずなんだが……なーんで紛れ込んでる奴がいるんだ?」


 眼前の光景に数秒、カガリが呆気にとられていると、背後からそんな声が聞こえた。腐った声だった、聞いただけで人間性が知れるような、他人を舐めきっている声。声帯を生ごみで作れば、こんな腐った声を出すことができるのかもしれない。

 腐声の男は服装に頓着していないのか、ボロボロになったジャンパーをそのまま着ており、数日は洗っていないのだろうその茶髪は薄汚れてボサボサのままだった。右頬には三本並んだ爪痕のような刺青が彫られていて、近づきがたい雰囲気を醸し出している。そして、その手には大ぶりのナイフを手にしており、怪しいを通り越してどう見ても危険人物といった様相である。

 何よりも、その体は赤黒い液体で濡れている。ポタりと落ちる水滴の流れる元は、決してこの男自身から流れ出しているものではないだろう。


「ま、いいかあ。そんなこともあんだろ、うん」


 カガリはその姿を認識すると、後ろに向かって跳んだ。そこに危ない気配を感じたからだ。

 目の前の男が危険そうなのは見ての通りだが、そういう話ではない。本能的に、その場にいれば危険だとサイレンが頭の中で鳴ったのだ。事実として、その予感は当たっていた。


「おお、勘は良いみてえだな。あと二秒もジッとしてればその喉掻き切ってやるところだったが……ま、すぐに殺しちまってもつまんねえし、結果オーライってな。ひひ、せっかく獲物が一人増えてくれたんだからな、そうだそうだ。ゆっくり楽しまなくっちゃあ」


 男が手のナイフをゆっくり持ち上げようとしているのが見えた。彼我の距離はまだ数メートル以上は離れているのだが、あのまま居れば自分は死ぬかもしれないという直感があり、その直感のまま行動した彼の瞬間的判断は決して間違いではないだろう。

 この男はこの程度の距離はものともせずに詰め寄り、こちらを殺すことができるのだと思わせる凄みがある。そのような大人物には全く見えないが、そう思ってしまうのはナイフを持った血まみれの男がそこにいることによる恐怖などのせいではないと断言できる。

 男がカガリを見るその目は、肉食獣が草食獣を見る視線の……いいやそのもっと下、下卑た快楽を求める人間そのものの目だった。餌を求める動物や昆虫はもっと純粋で冷たい目をしているものだが、これは他者を虐め殺す者特有の幼稚な光に濡れているのがわかる。

 小さな心のまま育った大きな虐めっ子は、大きくなった分だけ虐めのスケールも一回りだけ大きくなっていた。


「ここでこれ以上殺しても正直無意味なんだが、まあ仕方ねえよな? 何せ獲物が向こうから来てくれたんだからなあ。せっかくご来場してくださったんだ、精一杯歓迎しなくっちゃあな、ひっひ」


 まな板の前で食材をどう料理するか悩む料理人のような心地なのだろう。肉は斬るもの。叩いて刻んで潰すもの。そこらのスーパーに売られている食肉と人肉の違いなど男にとっては関係がなく、同じものだという人間を人間と思っていない。しいて言えば人間の方が殺した時に面白いと感じるだけで、男は完全に人間を見下していた。どうやってこいつをいたぶってやろうかと、そんな考えばかりが男の脳を回っている。

 そんな男を前にして、さてどうするべきかとカガリは悩む。悩めるだけの落着きを持てるような状況でもないはずだが、しかしカガリはこんなところで死ぬ気などないのだ。余裕はないが、さりとて絶望を覚えているわけでもない。自分がこんなところで死ぬわけがない――なんて、根拠もなくそう思っている。それは確信ですらない。本気で、自分は死なないのは当然なのだと――。


(向こうの方に走る……のはないな。あんな危なそうな野郎に背を向けたくねえし。どうにかして警察呼べねえもんかな)


 人が呼べればさしもの殺人鬼も逃げ出すだろう。それは後ろめたい事情を抱えているものとして当然の心理であり、自分が捕まらないためにはその前に、余計な人間に見つかってはいけないのだ。多くの人に見つかれば、それだけ自分の逃げ場が減るのだから。

 ゆえにこいつは自分を決して見逃そうとはしないだろうし、そもそも殺人鬼に眼前の獲物を見逃すというような思考はないだろう。だが自分に危機が迫っているとき、人は目の前の相手にかかずらっている場合ではなくなる。

 しかしここで問題となるのは、助けを呼ぼうにも周囲に人がいないことだ。人がいなければ、助けを呼んだところでどうにもならない。


「ちなみにだが、いくら助けを呼んだところで誰も来ないぞう。ひひ。さっき殺した奴らにもそう言ってやったんだがなあ……どいつも信じてくれなくってな。たすけてー、たすけてーって、来ないって言ったのによぉ! 愉快だったぜえ、本当に誰も来ないって思い知らされながら死んでいく間抜け共の間抜け面は!!」

 

「そうか、そりゃ良かったな」


 男の一挙一動を見逃すまいと視線を凝らしながら、カガリは面倒な事態を憂う。

 本当にいくら大声で叫んでも人は来ないらしい。先ほどから男に満ちている妙な自信はこれなのだろうか。


(怪しいおじさんに話しかけられたら、大きな声で助けを呼びましょうってわけにはいかないわけだ)


 ならばいよいよこの場を切り抜けられる方法は限られてくるなと、カガリがそう思ったところで。


「!?」


 男がナイフを投げつけた。ダーツのように真っすぐ進んでくる銀閃を辛うじて躱す。自分の意思というよりは、ほとんど反射だった。男の行動を何も見逃すまいと注視していたから、何とか回避できた。

 しかし次の瞬間起きたことは、さしものカガリも驚愕せざるを得なかった。

 ナイフが飛んだ方向にいつの間にか現れた(・・・・・・・・・)男が、飛ぶナイフを掴んだのか再び手にしたナイフで自分に切りかかってくる姿を、視界の端で捉えたからだ。


「はあッ!?」


「ひひひ!!」


 腕につけられた切り傷から血が散った。不意に打たれたにしては傷が浅く、どうやら男がわざと浅く切ったのだろう。いたぶるという宣伝通り、殺しをたっぷりと楽しむつもりなのだ。

 しかし傷そのものよりも、男が起こした瞬間移動めいた現象の方がショックは大きい。当たり前だ。人はテレポートができるように造られてはいない。


(速いってレベルじゃねえだろ、今の)


 だが、それでも今のは瞬間移動としか思えなかった。いくら速くても、人が動いた時に発生する気配といったものが一切感じられなかったのだ。感じられないまま、あの男は背後に移動していた。

 風だとか、空気の乱れだとか、ものが動けば必ず起こる変化がなかった。それはつまり、そうした変化を起こさないほど静かに、かつ速く走ったということなのだろうか。ならばそれは人間業じゃないだろう。それ以上の何かが、目の前にいるというのか。


「ひひ。頑張れ、人間。必死で避けて精々おれを楽しませてくれ」


 その声はすぐ近くから聞こえてきた。どこから?

 ――上から(・・・)

 コミックでもあるまいに、人殺しが上空から襲来してくるという悪夢が目の前に起きる。血に酔った男が気勢を上げながら落下してくる姿は、人によっては隕石以上の恐怖を覚えるかもしれない。

 上からぽたりと落ちてくる赤い雫を顔で受け止め、驚愕したのも一瞬。前方に跳躍し、転倒の危険もあったが顔は腕でかばいながら一回転して立ち上がる。

 カガリが跳んだその一瞬後に、鉄が固いものとぶつかる音が耳に響いた。


「はっ、まるで自分が人間じゃないみたいな口ぶりだな」


 男が振り下ろしたナイフは、アスファルトの地面に刃の根元まで突き刺さっていた。いや、刺し貫いていると表現した方が適切だろう。

 落下の衝撃で刺さったとか、そういう生温い現象ではない。これは、この男が直接刺したのだ。舗装路程度の硬さは、大した障害でも何でもないと自慢して見せるように。力を誇示して、見せびらかしたのだとカガリは確信する。

 男の容姿は筋肉ゴリラには見えないが、なるほど確かに。こいつはどうやら普通の人間ではないらしい。何でもないことのように道へナイフを突き刺したそれは、一般的な成人男性の怪力ではありえないだろう。


「そう、おれはただの人間なんかじゃないんだよ」


 それを事実として認めるように、自らが選ばれた新人類だとでもいうように、腕を広げて男は大げさに振る舞ってみせる。

 その目はカガリのことを完全に下だと見ており、そして自分が人類の上に立つ存在だと思っているようだった。


「おれは力を得た。おれは、もう誰にも見下される存在じゃあない……おまえたちごときとは、もう立っている世界が違うんだ」


「……ごとき」


 男は酔い痴れている。自分の力に、そして自分の姿に。


「ひひひ。あの時から、膨れ上がったおれの力で何人も殺してきたが……もう誰も抵抗すらできなくなった。普通の人間の世界でなら、圧倒的な暴力を持ってるような連中ですらおれに対して何もできずに殺されていったんだ! ひははは。この力で人間共を一方的に嬲り殺しにするのは、最っっ高に気持ちよかったぜ! 世界から悪党が消えないわけだよなあ。自分より弱い奴らを虐め殺すのが、こんなにも快感だってあいつらは知ってるんだからよ!」


 その姿は力の虜だ。手に入れたものに麻薬のような魅力を感じているために、元々捻じれていた精神が更にひん曲がってしまっている。

 今の男にとって、殺した者の返り血は勲章にも等しいのだろう。ただし、それは栄誉ではなく快楽の勲章。人間をこんなにも簡単に殺せる自分はこんなにも素晴らしい、それはこんなにも気持ちいのだと、浅ましくもそれを誇りとしている。


「てめえ」


「ひはっ!」


 まただ。また男の姿が空気のように消えてしまう。

 同時に、カガリの肌に裂傷が浅く走る。斬られた、と認識した時にはもうすでに遅く、男はカガリの傍から離れている。

 この面妖な瞬間移動をどうにかしなければと思っても、どうすればいいのかわからない。

 まさか本当に、空気に溶けてこちらを攻撃しているのではないだろうかと、ありえない想像を働かせてしまう。普通に考えてそんな発想は常識的にあり得ないのだから生まれないはずだが、しかしそれがあり得るかもしれないと、カガリの中で確信にも似た囁きがある。馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことができない。


「ひはは! よくもまあこれを躱せるもんだなあ、おれの姿は全く見えていないだろうになあ!」


 どの口が言うのか。自分でわざと浅く斬りつけておいて、わざわざカガリを煽るために立ち止まるのだ。


「ひはひはっ。どうするどうする、ど~う~す~る~?」


 見えず、躱せず、追いつけず。特別な技巧などなど無くとも、ただ一方的に攻め続ける。それだけでいいのだ、それだけで。

 相手は何もできないが、こちらは手を出し放題で、相手を好きに料理できる状態。人間相手なら、男はその状態を容易く作り上げることができる。男はそれがたまらなく好きだった。自分より弱い相手を、好きに嬲り殺すことができる、今の自分の力が。


「ぐっ、かは!」


 今もそうだ。この少年は何もできず、自分の手で膾にされている。ああ、なんて快感。

 カガリの肌から血が散っていく。いくらわざと浅く切られているとはいえ、傷は傷。切り口とともに痛みが走るのと同時、血液が少しずつ散らされていくのだ。そこに恍惚を覚える下衆がいる。


「ひひひひひひひ。これ、何だかわかるかぁ?」


 男が手で摘まんで持ち上げたのは、丸みを帯びた物体だった。醜くゆがんでしまってはいるが、それは毎日鏡を覗けば目にするものであった。切り口からぽたりと落ちる赤い雫は、元は生命だったその人物が流す涙なのか。

 その表面に描かれているのは、自分の命が失われてしまうことに対する恐怖と絶望。そして、自分の身に降りかかった理不尽に対する嘆きだ。

 首は、ぷらんぷらんと揺らされた後、男が手を離せばそのまま地に落ち、そこから転がりだす前に男が落とした足の下敷きになり、ぺしゃりと不快な音を立て原型を失った。


「正解は~……なんだっけ、これ?」


 ぐりぐり、染みになった赤を更に冒涜する。


「なんていったかなぁ……ああ、そうだそうだ、思い出したぞ。……助けてくれ! 許してくれ! 家に帰りを待っている妻がいるんだ! 子供だってもうすぐ生まれる、やめてやめてやめて命だけは助けてくれ! ……なんて言ってたっけ」


 ぐりぐり、ぐりぐり。足は休むことなく右に左に回転し、足裏で染みを地面に押し付ける。


「ひひ。命乞いをする奴ってのは最高に馬鹿だと思わないか? 常識的に考えてさ、助けてくれるわけがないだろ? 誰かを殺す奴ってのはさ、殺す理由があって、殺すために、殺したくて、殺しを重ねて殺し通して殺しまくって殺すんだよ。なんで生かす? どうして助ける? 理由がない、必要がない、意味も道理も全くない。そこのところを勘違いされたまま、命乞いされても困るんだよな」


 やれやれと肩をすくめ、直後、よだれを垂らしながら人を殺せる喜びを男は振りまく。


「逃がすわけねえだろってえ! おれはおまえらカス人間を殺したくて殺しやってるんだからよおお!!」


 カガリの腹部に衝撃が落ちる。どうやらこの男に蹴り上げられたらしいと認識できたのは、蹴り飛ばされながら視認した男が何かを蹴ったような姿勢をしていたからだ。

 いつの間にかカガリのそばに現れた男が、持ち上げた足を落としてカガリを踏みつける。肩を持ち上げて横に転がれば、すぐそばの地を男の足が踏み抜く。地面にひびが入り、カガリの背に寒気が走る。


(まともに食らえば、骨にひびが入る程度じゃ済まねえな)


 だが、まだ完全に回避できたとは言えない。男は踏みつけた足をそのまま横に薙いでカガリをまた蹴り飛ばしたからだ。

 カガリの身に強い衝撃が走り、口から「ぐぁっ」と声が漏れる。まともな体制で放った蹴りであったわけでもないのに、骨が軋む。大して力も籠められなかっただろうに、これだけ響くのか。


「これが差だよ、人間」


 踏まれる。何度も、何度も。

 硬い靴裏の感触が何度も身体に響いていく。

 何度も何度も、何回も。


「ヒ、ヒ、ヒ。これはおまえたちに与える、おれからのセイギだ」


 そこからの言葉は、今までの男が吐いた言葉とは籠められた熱が違っていた。

 蹴りながら、踏みつけながら。それまでの殺人に快楽を覚えていた言葉ではなく、むしろその逆……人間を見下すだけではない、人間を憎悪する獣の言葉が僅かに零れる。


「代償を払え。おまえたちはおれに壊されろ、死ね、死ね屑共(にんげん)


「がァッ!?」


 ごろごろと転がっていくカガリの制服はすでにボロボロで血があちこちに滲んでおり、深手を負っていなくとも体中に痛みが走っていることは見れば簡単にわかるだろう。

 けれど。


「さあて、そろそろ殺すが……何か言い残したいことはあるかぁ、人間? 言ってもすぐに忘れてやるけどなぁ! ひっひはは!」


 その手のナイフをわざと見せつけるようにして持ち上げてからの殺害宣告。さあ、無様に命乞いでもして見せろよと、期待して男はカガリを見るものの……。


「……ああ、そうだな」


 男の予想とは裏腹に、彼はゆっくりと立ち上がる。カガリは立ち上がったままその場からじっと動かず、ただ地面に視線を向けたままだ。


「言いたいこと、ね。ああ、あるよ。いくつか、お前に」


 その反応に、男は怪訝な顔をする。反応が小さいことに、疑問を覚えたからだ。

 絶望してほしかったのだ。そのためにわざわざ、殺す前に痛めつけてわざと大きな傷は与えなかった。先ほど殺した者のように、じわじわと嬲ることでより大きく恐怖を与えて無様な醜態を晒させたかったというのに、どうもこの少年はそんな様子を見せない。

 もしかすると恐怖を感じすぎてしまったがために、逆に吹っ切れてしまったのだろうか。


(なんだ、つまらないな)


 だとすると、男の目論見は残念ながら失敗してしまったということになる。うつむいているためその顔はよく見えないが、もはや恐怖と絶望に染まり切った醜い表情を拝むことはできそうにない。

 ならば、この少年に関わる時間は無駄である。さっさと殺して、次の場所に向かわねばならない。


「チッ……じゃあな、餓鬼」


 男の姿はたちまち消えて、カガリの喉元に死が迫る。男の力、謎の高速現象。

 それを前に、カガリの命は瞬く間に散らされて、わけのわからないことに包まれたままこの世を去ることになる。

 ……その前に。

 音が、した。

 それは、肉が肉を打つ音だった。硬さを持つもの同士がぶつかることで発した音だった。――そう、衝突音(・・・)だったのだ。


「……は?」


 男は一瞬、それが自分の口から漏れた声だということに気づかなかった。男にとってあり得ないものを見たからだ。

 衝突音なんてするわけがない。何せ、男が持っているのはナイフなのだから。それが肉に突き刺さる音はしても、何かにぶつかる音がすることなどないはずだ。

 何よりも、音の発信源が、目の前の少年ではないような――と。そこまで思ってから、ようやく男は気づいた。

 自分の胸から、僅かな痛みがあることに。

 音は、自分の首から下で発生したということに。

 この少年が、自分を殴った(・・・・・・)ということに――。


「あ、あぁぁぁぁ!?」


 なんだ、どういうことだ!? なぜ自分が殴られている、どうして、自分の姿は捉えられないはず。


「うるせえ」


 男のこめかみに衝撃が走る。カガリがすぐそこに落ちてあった石塊を掴み、男のこめかみをそれで殴りつけたのだ。

 人間を超えたと自称してはいたが、耐久力は人間のそれを大きく超えはしないのか、その衝撃に男がのけぞる。いまだ人間であるカガリ程度の力でも、どうやらいくらかダメージを与えることはできるらしい。


「はぁ……うっぜえ」


「お前、お前お前お前お前えぇぇぇ! おれに、何を……!」


 驚愕に染まったままの男を無視して、カガリは握ったままの拳を見つめる。その拳に残った感触を確かめている。


「思っていたより硬かったな。こう、皮膚の周りに薄く張ってある膜を殴ったみたいな感じ。人を超えただの言ってたが、なるほど、案外と本当のことらしい」


「当たり前だっ。おれは、人間を超えた存在なんだ……!」


「だからなんだよ。そんなことより、お前は許せないことをした」


 どうでもいいよ、そんなこと。それよりも、もっと重要なことがあるから。

 だから、ここからは俺のターンだ。と、垂れ落ちる血を舐めとって、カガリは男をねめつける。


「予、定、変更、だ」


 さんざっぱらボコってくれた、そのお礼をしてやろう。


「お前は、ここで、抹殺する」

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