7.喧嘩相手はあいつだけ
一息つく。ようやく、あのうるさい馬鹿の気配が学園から遠ざかるかと思うと気が休まる。
奴が近くにいると思うと、どうにも妙に落ち着かないのだ。静かに過ごしていたいアゲハとしては、いるだけで気分をかき乱すカガリという男の存在は天敵にも等しい。
だからアゲハは、カガリという男が苦手なのである。
「会うたび喧嘩にもなるしな……」
かといって忌避感があるわけでもない。彼女は彼のことが嫌いだが、憎んでいるわけではないのだ。その理由もなく、むしろ逆に、出会った頃から妙にイラつかせてくれるのが不思議なくらいであるのだから。
だからそんな彼が学園から出ていくこの瞬間、この瞬間彼女は学園にやってきてから発生する謎のストレスから解放される。カガリがいなくなった時、アゲハは空虚な自分に戻ることができるのだ。
フェンス越しに校門の方を覗いてみると、遠目に門を出ようとしている彼の姿が見えた。さすがに彼も、帰る直前までこの場所にやってくることは滅多にない。
けれど彼女は腹の虫がまだ治まっていなかったので、とりあえず軽い気持ちで死ねと悪意を込めながら、門の前にいる彼へ向かって中指を立ててみる。それに気づいたのだろう、カガリが表情をひくつかせながらアゲハのいる方を見ている。だが今から帰るカガリは、わざわざこちらまで来て報復に走ったりするような無駄な行動はとらない。
よって、これでカガリはもやもやした気持ちを抱えながら帰路につくことになるのだ。
(ああ、ざまあみろ)
少しは気分もマシになったと、アゲハはそれきり校門から目を離し、気分の少し晴れた顔で再び青空を見上げる。これでカガリが何をしようとも、例え中指を立て返したり親指を下に向けるような行動をとってもそれが彼女の目に映ることはない。彼は彼女に対して何もできぬまま明日まで悔しい気持ちを抱えるしかなく、そのことに深く満足した彼女は、これでしばらくは退屈な時間もこの気分のまましのげそうだとベンチに寝転がる。
もっとも、しばらくすればこの気分もおさまり、帰宅するまではやはりつまらない時間を過ごすことになるのだが。
(なんだかんだでここからの時間が一番退屈だな)
しかし、その時間は長くは続かなかった。退屈な屋上の時間に、一人の乱入者が現れたからだ。
彼女は体を起こして面倒くさげに乱入者を出迎えた。
「ヤア、久しブリ。元気してたカイ? お前はいつも元気がないカラ、兄のような俺としテハ、心配で心配で心配で堪らないんダヨ。ヒヒハハハ」
それは顔の上半分を隠す仮面を付けた男、劉・黒龍。もう一人の男とともに地下次元で怪しげな企みを巡らせていた男が、なぜか、こんな学園に現れていた。そして男が話しかけたのは、カガリの喧嘩相手である少女アゲハ。
彼はまるで、アゲハと知り合いであるかのように彼女へ声をかけていた。
「お前の言う兄とやらは、妹の内臓を破壊しながら笑う畜生のことを指すのか。知らなかったよ。脳内の辞書を書き換えておこう」
「ヒハ。ちょっと戯れただけで壊レル、お前たちが悪いだロウ? 俺はただ、お前たちのことを考えて考えて考えて考エテ……考え結論、俺が一番気持ちよくなれるよウニ、お前たちを思い切り殴り飛ばしただけなんだカラ。むしろ感謝するがいイサ。痛ミヲ、苦しミヲ、血の味ヲ、涙の流し方ヲ、手っ取り早く教えてやったんだかラネ。アリガトウはどうシタ? 家畜ゥ」
反省の色はない。黒龍の頭の中にそのような概念は無い。自分の快楽を優先して、他人の幸福を蹴落とすことに何よりの喜びを感じる外道なのだ。仮面の奥に潜む瞳は、常にその感情で濡れている。
しかし彼の嘲笑を受けても、アゲハの表情には何も変化がない。
その心にもさざ波一つ立っておらず、激昂どころか僅かな苛立ちも感じていないのかもしれない。
実際に、彼女は何も感じていなかった。彼の言葉に対して口を開いているのも、ただ彼の言葉へ反応しているだけに過ぎない。喧嘩腰であるのは、ただいつもの習慣をなぞるように唇を動かしているだけであった。
が、そんなことも関係なく、やはり黒龍は少女を嘲笑っている。
「お前たちが痛かったノハ、お前たちの軟弱さが原因ダ。それを俺に押し付けられテモ……困るナア」
「誰がいつテメェに私の痛みを押し付けたよボケ。痛かねえんだよあんなもん、雀の屁にも劣るわ」
「君も一応は女の子なんだから屁とか言うんじゃなイヨ、はしたナイ」
どの口が言うのか。しかしこれも育て方の問題である。育て方どころか、まともな教育など当たり前に施していないのだから、ガサツに育つのは何もおかしくないことであるし、むしろその方が当然と言える。
さらに、彼女の世界は灰色に閉じ込められている。
そんな人間が、ごく普通に育つ方が無理な話というもの。結果育ったのが、この女子力ゼロの料理の腕も愛想も胸も無い虚っぽの女なのだから。
「それで、何。まさか思い出話に花を咲かせに来たわけでもないでしょう。それとも、とうとうジジイへ耄碌でもした? 犬を連れて穴を掘るなら、どうぞ校庭でご自由に。そのまま潜って土を被ってくれれば、手間が省けて助かるんだが」
「酷い言葉だナァ。けレド、安心しタヨ。随分楽しい学園生活を送っているみたいじゃなイカ」
黒龍はちらりと校門へと一瞬目線を向ける。
「初めて見タヨ。君ガ、あんなに感情を荒らげているとコロ。君、あんなに大声で叫べたんだネエ」
「……クソが、朝っぱらから見てたのかよ」
どうやら黒龍が来たのは今ではなく、自分を朝か昼かから監視でもしていたのだと気づく。何のためかは知らないが、どうやら"この"黒龍は暇を持て余していたらしい。
ならばどうしてそんな真似をしていたのかと彼女は一瞬思考を巡らせようとして、やめた。面倒だし、そこまで興味のあることでもない。今現れた用さえ聞だけを、それで終わりだ。
「誰が楽しそうに見えたかは知らないけど、勘違いだからその考えは捨てておいて。勘違いされたまま帰られるのは迷惑だから」
「はいはい。そうソウ、何で会いに来たかダッケ。大したことじゃなイヨ、君がちゃんとお仕事を全うしているかどうか確認しに来ただケサ。君にはやる気ってやつが欠けているからネエ……ヒハヒハ」
「きちんとやってる。お前らならわかるだろう、他の奴らには無理でも。それと、契約だってあるんだ……私がこの仕事を投げ出すわけないだろう、バカかお前」
「物事には何事にも例外というものがアル。君が土壇場で裏切らないとも限らないだロウ? 俺はそれが心配なだけダヨ」
仮面の奥では、彼女を値踏みするような目線でジロジロと少女を睨めつけているのだろう。そのことからも、少女が信用されていないことはわかる。彼らが彼女にした仕打ちを思えば、彼女が自分たちを信用などするわけもないと彼も考えるだろうし、ひるがえして彼が彼女を信じきることも同時にありえない話であるのだ。
そんな男の視線を、しかし少女は一切気にしていないかのように気怠げに受け流している。
アゲハにとって、向こうからの信用などどうでもいいことだからだ。これは仕事であり、であるからには最後までこれを全うする。そしてこれは向こうから与えられたチャンスでもあり、ならば掴めるようとりあえず頑張ってみよう、と。アゲハにとってこれはそれだけのことであるのだから。
「誰が裏切るか面倒くさい。そんな暇もなければやる気もねぇよ。あればとっくにやってる」
「……なら、いいサ。まあ、君に裏切るような気概があるナラ、俺にとっくに殺されてルカ。よしヨシ、それなら安心しタヨ」
彼らの計画はすでに最終段階まで秒読みのところにきているのだ。最終最後、最も重要といっても言い部分をこの女が握っている以上、黒龍が彼女の確認をしに来るのは当然だった。
そしてその心配が杞憂であるのなら、もはやこの場所に用はない。黒龍は早々と立ち去るためにフェンスに跳び乗る。
その前に。
「ああ、ちょっと待て」
アゲハが黒龍へと声をかける。
「なんダイ? 何か俺に用事デモ?」
「大したことじゃあないけどな」
アゲハは変わらず、表情も声音も変えることなく、お使いでも頼むかのような気軽さで告げた。
「術師の卵がもしいたら、できれば殺さないでおいてくれ」
「……? 別に構わなイガ、なんだってそんなこトヲ」
言葉の意図が分からなかったのだろう、黒龍が訝しげに首を傾げる。
誰かを殺せというなら話は簡単だろうが、この他人のことなど羽虫とも思っていない女が助命を乞うてくるのは黒龍にとって意外なことであった。
「大した理由でもない、保険だよ。念のための、もし失敗した時のための」
訝しげな彼に反して、彼女はやはり心のこもっていない言葉を続ける。
「なンダ、今から失敗した時の話トハ、君ともあろう者が情けナイ」
確かに大した話でもなかったと、嘆息しながら、しかし了承した彼は今度こそそのまま消えるように立ち去って行った。
振り向かず、見送りもせず彼が去ったことを確認した彼女は自分の胸を見下ろす。そして、そこにあったはずの少年をからかった満足感がすっかり消えていることを認識して、だがそこにどこか――な気持ちがあることには気づかず。
もうしばらく、退屈な時間が今日も続くのだということに軽い失望を抱きながら再びベンチに寝転がった。
「私ともあろう者が、ねえ」
ただの一度も名も呼ばなかったくせに、何があろう者なのか。心にも思っていない言葉ほど、心に響かない言葉もない。
かといって、仮に真心が込められた言葉であったとしても、彼女に何か響くことがあったのかと言えばそれは虚しくも否であるのだが
そしてアゲハは完全に自分を見下していた男にそれ以上何を思うでもなく……先刻の会話をすべて忘れることにした。
――地中の浮島に、自由に出入りすることを許された者は現状三名。
それは、竜をも落とすと謳われた"悪の味方"。
それは、東洋に根差す組織から博爵の地位を得た男。
そして、最後の一人――哀れな魔女は、ただ独りで色のない空を眺めていた。