6.入学式に限らないけど学校の式は全部だるい
時間軸を4話5話のいつかの夜から元に戻します。
その光景を覚えている。
その時感じたことを覚えている。
一生忘れられないと思った衝撃を覚えている。
窓の向こうで流れる桜の花びらを覗く女がいたことを、覚えている。
***
一年前。
氷月 赫狩は当時、ちょっとした有名人だった。
とはいっても、それは芸能的な意味で有名であるとか、時の人であるとか、そういう大きな意味で有名なのではない。全国的には当たり前に無名な日本の一市民であり、その範囲はあくまで学園内という狭い範囲に限定されるものだ。
入試試験一位。それが当時、カガリに冠されていた称号だった。
入試試験の点数が一番良かったということ。それはつまり、暫定だが当時の全新入生の中で彼が一番頭が良かったということだ。
もっとも、その話題も一過性のものでしかないだろう。一週間もすれば一生徒の点数など誰も覚えてはいなくなるだろうし、その程度の話。
これがレベルの高い進学校だったならば、この生徒を追い抜こうと生徒間での切磋琢磨した争いが展開されることが予想されるものの、この学園でそんな争いが勃発することはない。そこまで勉学に熱心な生徒がいたならば、もう少し上の学校を目指すに違いないし、いたとしても滑り止めとして選んだこの学校に、やむなく入っている少数派に過ぎない。
結局はあくまで、真ん中程度か中の上程度の学校で一位を取った生徒がいたというだけの話だ。
カガリ本人にもこの事実を自慢するような気はなかった。少し本気で勉強して、少し本気で頑張っただけのことなのだから。
そんなことを吹聴して回るような浅い性根も持ち合わせてはいなかったし、ただ自己満足のためにこの成績をキープしたいと思っているだけに過ぎなかった。どうせ学校に入るなら、その狭いコミュニティの中では一番でないと気がすまない、という風に。見下されるのが嫌いだったから、少し頑張っただけ。
そう、その程度に過ぎなかったのだが。
(最後の予習は……別にいいか。どうせあと10分もないし)
自分の席に……窓際から二番目の、一番後ろの席に座って教師が教室に入ってくる時間を待つカガリ。
新入生全生徒が受けさせられる、ちょっとした試験問題のためにシャーペンと消しゴムを筆箱から取り出しながら、カガリは黒板を眺めて時間を潰していた。新入生が使う教室のものだからか、黒板は丁寧に磨かれ薄汚いチョークの後は見当たらない。
数日もすればこのクラスの新入生や教師たちによって汚れてしまうだろうが、教室も丁寧に磨かれている。この教室を前に使っていた生徒たちが掃除したのだろう。一年後には自分もそれをやらねばならないと思うと面倒になるが、一年後のことなど今気にしても仕方ない。
そんな教室内には、成績に関わってくる試験でもないためか試験前独特の緊張感は存在しない。
新しい友人を作るために積極的に会話を行っている生徒の喧騒だけがそこには溢れている。
実力確認試験に対して事前に備えようと思っていたのは、どうやらこのクラスではカガリだけらしかった。
(まあ当たり前か)
最初の授業でいきなり試験を受けさせられるのだ。そんな面倒なことで、予習をするような物好き高校生はそういないだろう。
そんなことよりも新しい友人を作る方が大切だと、そちらの方が頷ける話だ。
新しいコミュニティで仲のいい人間を作るのには、この一週間が最も大きなチャンスなのだから。初春を逃すと、もうグループが出来始めてしまうので、そこへ新たに加わるのは出来なくはないが難しくなる。
コミュニケーションが得意な人間なら問題はないのだろうが、カガリはそちらの自信がある方ではなかった。
なら自分もこうしているよりは、誰かに声をかけてみるかと、カガリがそう思った時だった。
カタンと、誰かが隣に座った音がしたのは。
そういえば、隣にはまだ誰も座っていなかったな……ということを彼は思い出す。隣に座るそのクラスメイトは、テスト開始10分前という時間になってようやく登校してきたのだった。
――本当に、心底から。カガリはこの時の事を思い出す時は、歓喜とも後悔ともつかぬ感情とともに思い出す。
周りの皆が、周囲に話しかける者ばかりだったから。
だから自分も、暇つぶしとして誰かに話しかけようなんて思ってしまったから。
窓から入る風が、やけに心地よくて。
そんな気分に、なってしまったものだから。
――だから、隣の席なんて、見てしまったから。
「ぁ……」
その光景を覚えている。
その時感じたことを覚えている。
一生忘れられないと思った衝撃を覚えている。
窓の向こうに流れる桜の花びらを覗く女がいたことを、覚えている。
***
「あの初日に受けたやつな。あれがどうかしたの?」
「あいつな、このがっこの入試試験で一位取ってるんだわ」
カガリの友人たちが、自分たちの弁当をつつきながら会話を続けている。
話題は先ほどから話している、カガリのことだ。
「まじかよ。すごいじゃん」
「んでさ、当然みたいにその流れで実テも一位取るつもりだったらしいのよ」
「まあ取れる学力あればそりゃあ取ろうとするわな。で、どうだったの?」
尋ねながら、彼は唐揚げを一つ口に放り込む。
「それがさあ」
口の中のものを飲み込んでから、尋ねられた彼は答える。
「結局取れなかったんだわ。後になって上位十人は貼り出されただろ、あれの一番前に名前のってなかったし。確か……二位、か三位だったかな。まあ多分二位」
「へえ。それでも二位なんだ。充分すごいじゃん」
「まあな。あいつは嫌だっつってたけど」
そう、結局、彼はそこでは一番を取れなかった。簡単なミスをしてしまい、点を落としてしまったのだ。
結果としてカガリは学園入学初っ端から、負けの二文字を負ってしまったことになる。
そして、ここからだった。彼の奇行が始まったのは。
「んで、その時にあいつに勝ったのが他でもない葵賊院 陽鳳さんってわけよ」
「あー、だからリベンジなわけね。ていうかあの人そんなに頭良かったんだ。何か意外」
「あの人、一度も授業に出てないからな……」
それは、アゲハがまともに教室に居た唯一といっていい瞬間だった。
彼女はその時だけ、なぜか真面目に席へとついていたのだ。
ペンを片手に持ちながら、スラスラと問題を解いていた、世にも珍しい光景がその瞬間教室にはあった。
「ケアレスミスしたみたいでな、カガリ。その時のことが悔しくて今も付きまとってるってわけよ」
「なるほどねえ」
カガリが彼女に執心しているのは、そうした理由が存在するからだった。
簡単なミスとはいえ、負けは負け。そのことを言い訳にするつもりは彼にはないらしかったが、しかし悔しいものは悔しいのだろう。
一年間もそれが続いているのは、その執心がしつこいというべきか、負けず嫌いが酷いと言うべきなのかはわからなかったが、ともかくカガリはアゲハに次こそは勝つのだと息巻いている。
しかし、彼女がまともに席に着いたのはこの時が最初で最後。
以降一年、彼女がペンを手にすることは一度もなかった。
しかし、それではカガリにとっては困ったことに、アゲハへとリベンジをする機会がない。
なにせ期末試験になっても屋上で寝転がっているのだから、リベンジなどできるわけもなかった。
だからこそ、彼は毎日彼女のもとへと足を運んでしる。教室へ来いと再三呼びかけるのは、彼女に勝つために他ならない。
……決して、他に邪な思いがあるからではなかった。
それがわかっているから、クラスメイトも彼らを冷やかすことはない。……一時期、そんな噂がクラスに広まったことはあるものの。
「つか、そんだけの理由で一年も付きまとってんのかあいつ」
「ぶっちゃけ狂ってるよな」
確かに、それだけの理由でずっと同じ人間に執着するのは普通ではないだろう。
狂的ともいえる執念深さ。
それは、一般的に負けず嫌いと呼ばれるものであるが、彼のそれは限度を超えたものであった。
「……あれ、でも確かあいつって今成績――……」
「ああ、それなあ――……」
***
教室を出たカガリが向かったのは屋上だった。
屋上のベンチに――つまりはアゲハの隣に座りながら、学校に来るまでの間に買っておいたパンをモソモソと食べている。
「……おい」
「……」
「…………おい氷月」
「……ぁむ」
味気ないパンを口に含みながら、カガリはアゲハの言葉を耳から聞き流す。
「よしお前喧嘩売ってるんだな? そうなんだな?」
先ほどから何度か呼びかけているのに返事をしないカガリ対し、本気で殴ってやろうかと悩むアゲハ。ひくひくと表情を歪ませて、拳を握り締めかける。
散々自分に偉そうな口をきいておいて、この人を馬鹿にした態度はなんなのかと怒りで血管が浮いてしまいそうだった。
「今食事中だろうが。話はあとで聞いてやるから黙って待ってろ」
「知るか。私が話しかけてるんだから、お前は黙って返事をすればいいんだよ」
「黙ればいいのか返事すればいいのかどっちなんだよ」
互いに全く相手のことを思いやっていない二人は、このままではまた埒が明かなくなるなと思い直し、ひとまずカガリの食事が終わるのを待つことにした。
このままでは朝と同様、互いに罵詈雑言がエスカレートしてしまうだけだ。
コンビニの安いパンを胃袋に収めると、カガリはアゲハの方を向こうともせず口を開く。
「で、何?」
「言いたいことは一つだよ。なんで、お前は毎日毎日毎日毎日朝だけじゃなく昼もここに来るんだよってな」
よほどイライラしているのだろうか。
早口で簡潔に言いたいことを伝えると、組んだ腕の肘を指でトントンと叩いている。
朝の短い時間だけですら、彼女にとってこの男と会話をすることは、相当なストレスになるのだから。
昼休みにまで出てこられてはたまらない。今すぐに、隣の男を突き落としたい気分だった。
「俺がお前に会いに来るなんて、それこそ用は一つしかねえだろ」
「断る。朝にも言ったぞ、これは。一つ教えておいてやるが、私は同じことを何度も言わされるのが嫌いだ」
用も聞かぬまま、彼の言葉を拒絶するアゲハ。聞かなくても、彼の用が何を意味するかは嫌になるほどわかっている。
何せ一年間も同じことを言われ続けたのだから、嫌にもなるというものだ。
彼女にとって、一日で最も苦痛な時間だった。
「知ってる。朝にも聞いたからな、それ。そして俺もそれは嫌いだ。だからさっさと頷けクソ女」
「嫌だって言ってるだろクソ野郎。大体、一年前のアレはただの偶然だろうが。
お前がミスしなけりゃ点数は同じだったんだろ? ならもうそれで良いじゃんか。わざわざ再戦に拘るようなことかよ」
「拘るようなことなんだよ。理由がなんにせよ、負けは負けだからな。俺としては勝っておかなきゃ気が済まない。つか引き分けですら嫌だわ」
そう、負けは負けだ。そこに言い訳が挟まるような余地はない。
運が悪かった、得意分野ではなかった、簡単な失敗をした。……だから何だというのだ。
それのどこが言い訳になる。いいや、言い訳など元から存在しないのだ。
どんな言い訳があるにせよ、そこには敗北という事実が残る。それは絶対に避けられないことで、その文字は消しゴムで消せるようなものではない。
そんなものを理由に負けの上書をしようとする奴は、初戦は恥知らずの負け犬だろう。
敗北を前提とした理論しか武装できない糞の塊。
――俺はそんなものにはなりたくない。
運も、苦手も、失敗も。そんな程度の壁が立ちふさがった程度のことで、その壁を砕けない自分が悪いのではないか。
砕けるだけの実力を用意できなかった自分の落ち度ではないか。
だからカガリは言い訳などしない。あれは確かに自分の負けだった、だから次は必ず勝つと決めている。
勝つつもりで挑んだ勝負に負けたのならば、次を掴んで必ずそれに勝たねばならない。
「だから、お前に出てきてもらわないと困るんだよ俺は」
決意を新たに。自分は必ずこの女に勝つのだと、再び意思を固くする。
……しかし、そんな決意は、彼女にとっては関係のないことで。
「そーかそーか、ご苦労なことだな。絶っっっっっ対行かねえけど」
――本当に、とことんまで彼らは相性が悪かった。