5.わるだくみ
地上とは全く違うところにある空間。大地の下深くに存在する実験施設。
地中に張り巡らされた道を走る鉄の長蟲に掠ることもなく、そこは確かに存在していた。
地上のどの建造物からも独立しており、まるで唐突に、その座標に忽然と現れた地中の浮島。それがこの場所であり、一人の悪魔が一つの実験を目的に作り出した仮初の社である。
誰が知るだろう。この場所が二十年も前から誰にも知られることなくそこに在り続けたなどと。
誰が知るだろう。この場所から二十年間ずっと、地上の街が脅威にさらされ続けていたなどと。
施設の中にある一つの部屋、男が休息をとるために作られた、イスト机のセットとベッドしかない簡素な部屋。その中で男が椅子に座りながら煙草を吸い、一息をついていた。
片眼鏡をかけ、無精髭を生やしたパッとしない中年の男。
男に名前はない。
ずっと昔に良識と共に捨ててしまったため、自分の元の名前がなんだったのか、男は一文字すら覚えてもいなかった。
俗世ともほとんど関わりを絶っているために、名前を捨てたことで不便に感じたことも少ない。彼には自分の頭、自分の身体、そして自分の能力があれば世はすべてこともなしと考えているのだ。
だから、親から与えられたという名前なんてものにも執着がない。後から自分に与えられたあだ名をそのまま名乗り、自分の名前の代わりとしている。
そんな彼は、気分で吸っているだけの煙草をくわえながら、後ろを振り向くこともなくそこにいた別の男に声をかけた。
「……楽しかったかい、リュウくん? 童心に還っての鬼ごっこは」
中年男の後方にいつの間にか気配もなく立っていたのは、顔の上半分を仮面で隠した男。先ほどまで少女に追われていたはずの彼が、この地下深くの施設に立っている。
彼が追われていた地点は街の外れであり、この施設の真上の座標とも一致しない。
一体彼がどうしてここにいるのか。しかしどうやって移動したのかは語らないまま、リュウと呼ばれた彼はにたにたと口を歪めた表情で口を開く。
「ヒハハ。ああ、楽しかっタヨ。久しぶリニ、誰かをからかえて遊べたシネ」
「そうかいそれは良かった。けどね、あまり遊びに集中されても困るよ。君は僕の……」
小言が始まる前に、リュウが口を挟む。
「ボディーガード、ダロ? わかっていルヨ。だから俺はここにいるんじゃなイカ。
もっと信用しロヨ。ここに俺がいるんだカラ、君の安全は保証されてイル」
「信用してるさ。だが君が追いかけっこに夢中になりすぎて、もしも、万が一にも、君が危険に気付かずに僕の身が窮地になっては意味が無いだろう。
僕の命は、君に預けているようなものなのだから」
「じゃあ信頼シロ。そろそろ長い付き合いだロウ、傷つクゾ。――俺がどこで何をしていよウト、俺は君から一瞬も目を離していナイ。
それに、何のためにこの場所があると思っているンダ。俺や君に感知もされず、ここに侵入できる奴が仮にいたナラ、俺が何もしていなくとも関係無く君の命が危険だろウガ」
「……それはわかる、わかるんだよリュウくん。でもねえ、少しは僕の心配性を汲んでくれてもいいんじゃないかなぁ……まあいいけどさ……」
一部、不明瞭な部分もあるやり取りだったが、二人の間では納得のできるものだったのか、中年男はそれ以上何も言わず煙を吐いた。
――この地中の浮島に、自由に出入りすることを許された者は現状三名。
それは、竜をも落とすと謳われた"悪の味方"。
それは、東洋に根差す組織から博爵の地位を得た男。
それは、身体に改造を施された哀れな魔女。
その三名以外、この場所の出入り口を誰の許可もなく行き来することは不可能だ。侵入しようとすれば必ずバレる。よほどの凄腕であっても長時間かけて鍵を開けなければならず、力づくで無理に入ろうとすれば瞬く間に存在がバレてしまう。
そうなればすぐに気づいたリュウが妨害に入り、侵入者への対処に当たる。そもこの場所の隠匿には、博爵自身が大きく力を入れたのだ。誰かに見つかるような場所ではなく、彼の心配はほとんど無駄なものだと仮面の男はわかっている。
彼らの監視の目をくぐり内部に侵入できるような者がいれば、それは間違いなく大怪物と呼べるような人種であり、このような辺鄙なところにいるわけがない。
「君の心配はどうだってイイ。それより、我々の"実験"の進捗はどウダ。俺が上で行動を開始したノモ、君の命令通りなのだカラ……そろそろなノカ?」
「もちろん」
実験。彼らが二十年前からこの街で進めている、とある目的のための計画。
その実行がとうとう、間近に迫る時が来た。
「ここまで結構、長かったナァ」
「そうかい? たかだか二十年じゃあないか」
「いや二十年ってそれなりの時間だかラネ?」
日本人平均寿命のおよそ四分の一を費やしておきながら、数日の用事を片付けたとでもいうような感覚で彼は語る。
狂科学者のごとく独特の感性でも持っているのか、時間に対する感覚が一般人とは完全にずれているようだった。
「だがしカシ、君の実験なんかに巻き込まれる民間人ハ、はっきり言って可哀想ダナ。君のお遊ビニ……打ち上げ花火に巻き込まれるようなものなんだカラ。ヒハ」
「僕のお遊びに巻き込まれる意味ある死と言ってほしいなぁ。木偶が花火になれるなら、立派な最後ってもんだろう」
傲岸な物言いだった。尊い人命が自分のせいで巻き込まれ消えてしまうのだとしても、そのことに対する申し訳なさなど彼らは欠片一つも有していない。
人間なんていくら死んでも代わりはいくらでもいるという、他人を見下す支配側としての思考回路がその頭には巡らされている。
「ヒヒヒヒ、ヒヒハ。君のあぁんな実験でカイ? いイヤ、あんなもの"実験"と呼べるかどうかすら怪シイ。君ノ、只ノ、まるで子供の遊びのよウナ……本当に本当ニ、君は打ち上げ花火がしたいだけなんだカラ。ヒヒハハハ」
仮にこれを実験と呼ぶのなら、猿が火打石を試してみるような、動物が持つ興味心の方がよほど実験的な思考回路と言えるだろう。
だが、それこそがこの博爵という男の邪悪さなのだろうとリュウは考えていた。
悪人とは結局、青臭い正義感よりもどこか幼稚なところがあるから悪人なのだ。世の中、悪党は現実主義者だという論理がまかり通っているが、あんなものは適当な出鱈目であると彼は考える。現実を見られるリアリストなら、罪を犯そうと考える前に理性が衝動の邪魔をする。よって、そんなものが現実を見ているという証拠なはずもない。
他の奴より楽がしたい。原始的な欲求に素直な幼稚性。それが悪党の根本であり、それを思えば正義感の方がよほど現実を見ている。
何せ彼らは世界を恙なく回そうと必死だ。理性や倫理、あるいは法に邪魔されながらも今の自分にできることを、できる限り頑張ろうと足掻いている。それこそが、現実主義者というものであろう。
もっとも、そんな正義感や悪党にもなれない、よほど現実が見えていない盲目な愚人というのも大多数存在するのが人間の悲しいところではあるものの。
だが自分は、そんな幼稚な悪党が大好きなのだと彼は思う。
ならば、自分は彼の味方をしよう。
この男の企てがどれほど邪悪で醜悪なものだったとしても、それこそは自分の望むところなのだから。
見よ、この男の喜ぶ姿を。実験が成就した時、この男はきっとはしゃいで回るに違いない。
それは、それはきっと……なんてなんて、可愛いんだろうか!
心の中で涎を垂らしながら、仮面の男は悪という感性を愛でていた。
「世の実験なんて、みんなお遊びのようなものさ。あれが見たいこれがしたい、っていう好奇心が、じゃあ実験してみようという衝動に火をつけるのさ。そして僕らはその衝動に抗わない。とても素直に、火に油を注ぎ込む。
好きこそものの上手なれ、って諺がこの国にあるだろう? 真面目にやるより遊び半分のほうがなんでも捗るものなのさ。逆に、真面目にやるような奴のほうがバカってもんだ」
「ヒッハハハハ。とりあえず真面目な人間が怒ルゾ、それ聞いタラ」
だから、自分の実験もただの遊びでいいのだと博爵は語る。
そういう些細な遊び心が、偉大な発見に繋がる例もあるのだから。
「まあ、それはそれとシテ、彼女の方モ?」
「ああ、もう準備はできているようだ。あとは場を整えて、彼女にスイッチを押してもらうだけさ」
もはや、この"実験"は阻止することができない段階にまで来ている。誰に邪魔をされようと、実験の発動は止まらない。
作業中、見知らぬ女に行動を見られてしまったが、どうということはない。
その程度で、この実験の障害とはならないのだから。
「そしてその場を整えるノガ、俺の役目なわケダ……ヒハヒヒヒ」
「そういうことだ。頼むよリュウくん」
「任せたマエ。この俺ニ、――劉・黒龍ニネ」
博爵と黒龍の邪悪なたくらみが、ゆっくりと回り始めていた。
***
同刻。
二人が笑いあっているところとは別の場所で、その人物もまた一人で笑みを浮かべ、笑い声を漏らしていた。
その笑みの主は女性だった。声には、侮蔑の感情が嫌というほど詰まっていた。だがそれは、悪意と呼ばれるものに属する感情ではなかった。当たり前のことではあるが、誰がわざわざ虫ケラごときを相手に悪意を以て蔑み、見下し、賤しむほどの関心を示すという。
これは自分と同じ種族であるはずの人間を同種であると認識していない。
だが、それでもこれはすべての人類を見下している。現行人類の中で一,二を争う醜劣な心を持つ女がそこにいる。
誰からも嫌われていた。誰からも腫れもの扱いを受けた。誰からも汚がられた。
誰からも誰からも誰からも。
そして、その全てを一切意に介さなかった。
これは、そういう女なのだ。
誰かを見下すのが楽しくて悪意を持つのではない。彼女にとって、そもそも悪意というものは自分から持つものではない。
自分から悪意を持つのではなく、悪意を宿しているのが自然体であるから、常に人類を蔑んでいる。そういう風に生まれたから、そういう風に自分というものに納得している。
魚が鰓で呼吸をするようなものだ。そういう生き物だから、そういう風に生きているという話。
だから、醜悪。
生まれつき、心が醜いのだ。
しかしその醜さ一色な心の中で、たった一つ在る、別な感情を強く強く輝かせながら、魔女は笑っている。
声には侮蔑を。
しかしその笑みには――溢れんばかりの愛情を。
「――――――」
うねりを感じる。胎動している。きっと、もうすぐ始まるのだということが感じられる。
楽しみだ、楽しみだ。思う存分見物しよう。
きっと、とても――――ろうなぁ。