28.Violet
もしもお前の手にした力が、この世で最強のものであったとして――。
もしもお前の手に入れた力が、世界最高のものであったとして――。
「お前を倒せば、この俺こそが最強だ――!」
「お前を殺し、この私が最強となろう……!」
すべては、ただそのためだけに。他の誰のためでもない、ただ自分の中のプライドがために。
彼らの中には、絆も、愛も、友情もなく、ましてや恋慕など存在するわけがない。あるのは、負けん気ライバル心、すなわち決意ただ一つ。こいつにだけは絶対に勝つという強烈な意思、それだけが彼らのすべてだった。
ゆえに、この戦いに信念はない。けれど、そんなものより遥かに大事なものがこの胸にはあるのだと、二人はずっと信じていたから。
「"噛み砕け"」
「"凍て殺せ"」
それは自己への絶対命令。すべての敵を倒し、この宿敵を凌駕して、必ず自分の最強を証明するという誓い。
魔力が荒れる。ほとばしる。
先ほどまでの彼らとは、もはや明らかに異なっている。
先刻までの彼らを獅子とするなら、今の彼らは竜にすら例えられる。どちらも凶悪な生物であることに変わりはないだろうが、しかしその差は誰が見ても歴然としている。片や、草食動物を狩るのにも手間取る見せかけの百獣王。片や、空を飛び炎を吐く伝説上の大生物。
もはや進化とすら言っていいほどの急成長を、今の二人は遂げていた。
しかし、この覚醒は別に都合のいい奇跡などではない。
覚醒論――すなわち、成長には何らかの理由があり、理屈があってこそ人は覚醒できるということ。
アゲハ、彼女が覚醒した理由は簡単だ。それは、先ほど彼も言っていた通りのこと。
彼女は今まで、精神的な枷を自分にかけてしまっていた。何でもかんでもどうでもいい、自分は何も望んでいないと嘘をつき、自分で自分を誤魔化していた。誤魔化すことで、最も大切なものが失われることを避けようとしていた。灰色の視界はその証であり、つまり彼女は今まで"目隠し"をして戦っていたようなものだ。
そんな状態で、本来の強さなど発揮できるわけもない。誰がどう考えても、目を瞑って戦うより目を開けて戦うほうが強いに決まっているのだから。
しかし、今の彼女はそうではない。本音に目覚め、今や彼女は眼を開いている。心は晴れ切り、。よって当然、精神のコンディションも万全となり、本来の強さを縛る枷は何もなくなっている。全力を出していない――と、彼が言っていた通り、今まで彼女は本気ではあってもすべての力を出し切ってはいなかった。
だから、これこそ彼女の全力。
そしてカガリもまた同じ。卵から孵ったばかりの雛――つまり、能力に目覚めたてだった状態で戦っていた。そして、力の扱いに慣れて、成鳥になったのはようやく今。雛と成鳥のどちらが強いのか、なんてことは考えるまでもないことだ。二輪車と三輪車のどちらが速いのかなんて、まともに議論するような者が一体どれほどいるというのか。
覚醒というよりは、どちらも本来の強さにようやくたどり着いたと言ったほうが正しいのだろう。
そう、ようやく二人は本来の力を取り戻したのだ。
けれど、そのままでは駄目だ。パワー不足、ただその一点によりアゲハはカガリに押されてしまった。本来の力を取り戻したといっても、それは両者とも同じことなのだからこのまま行ってもまた先と同じ結果になるだけだろう。だから、どうすればいいのかは……もう決まっていた。
この場から消えた冷気は、いったいどこに消えたと思う。
「――『炎呑』ンンンンンッッッ!!!」
「――『冬雫』ウウウウゥゥゥゥ!!!」
カガリの体に、赤い魔力が。
アゲハの体に、青い魔力が。
それぞれ二人は身に纏っていた。
「ハ、ハハ――アハハハハハハハハハハ!!」
環境そのものを変えていた冷気すべてが、アゲハの体に宿っていた。
それはいったいどれ程の力であるのか。周囲一帯すべてを冬に零落させていたものが、今はすべて彼女の出力を上げるためのパワーに回っていた。先ほどまでの彼女には、できなかったはずの芸当。彼女の魔術は「冬を操作する」というもので周囲に影響を及ぼすものでしかなく、自分自身を大きく強化するのはカガリのようなタイプの魔術が持つ特性だ。『冬雫』本来の使い方とはかけ離れている。
少しでも制御を誤れば、即座に冷気は暴発し彼女の体をズタズタに引き裂いていただろう危険行為。だが彼女は躊躇なくやってのける。なぜなら彼に勝つために、これくらいやってのければ彼と同じ土俵に立つことはできないのだと信じているから。
環境を支配する――人もまた環境を構成する要素の一部であるのなら、やってやれない理屈はない。例えそれが、本来の魔術の使い方からは程遠いものであるとしても。
「氷月ィ……」
その姿に、カガリは歓喜する。これだ、これこそだと高ぶっている。
そしてアゲハもまた同じく、彼と同等へと至れた自分に昂っていた。
「泣くか、喚くか、慄くか……どれでもいいぞ、好きに行え。恥じることはない、何せ相手がこの私なのだからな。――さあ、その絶望ごと天に帰れ」
「ほざいてろ、この俺が涙なんぞ流すか。お前が何を嘯いて、お前が何を言おうとも……これだけは決まっている。――すべての勝利は、俺のものだ」
もっとも古い記憶。己の原初。周囲すべてが火の海で包まれていた、炎の記憶。
そこで彼はいったい、どういう思いを抱いたのだろうか。
そこで彼女はいったい、どんな思いを抱いたのだろうか。
……きっと、それはただ一つ。
この地獄を、超え行くための業火を。
この地獄を、消し去るための氷河を。
「オオオオオオオオオォォォォォォッッッッ!!!」
「アアアアアアアアアァァァァァァッッッッ!!!」
激突と、衝撃。――二人の拳が、ぶつかっていた。
もう、氷柱の雨など使わない。今やれば、さっきの数倍ほどの威力を撃てるかもしれないが、しかしやってももう意味はない。
あんな、あんな方法でこの男をどうにかしようと思ったのが間違いだった。この男を必ず倒すと決めたのならば、この男に本当の意味で勝ちたいならば、この手で直接ぶち殺すほかに道はなかったのだ。なぜなら遠くからこいつを削るということは、すなわちこの男の間合いを恐れているということで、それは、この私が、この男から逃げているということになるだろうが。ふざけるなよクソ私、断じて、誰がこいつを恐れるか。この私は、他ならないこいつが認めたこいつの宿敵で、こいつの前から逃げるなどこの私が許さない。
そういう論理を、彼女は頭の中で展開した。遠くから敵を削るという戦法が戦術として間違っているはずもないが、今の彼女にとってカガリ以外の相手ならともかく、他ならぬ彼を相手にその戦法をとることは決して自分で看過できぬ屈辱だった。そう気づいた。ならばそんな手段はもう使えない。
だから、必ずこの手でぶち殺す。
攻撃力に特化した彼の拳と互するのは、今までの彼女では不可能だったが、今の彼女は話が違う。彼女に宿る冬そのものの魔力が、彼女のパワーを大幅に底上げしていた。ゆえに、アゲハの拳は、今やカガリの加速する爆拳とも渡り合える。
お前にできて俺にできないことはない。彼はそう言っていたが。
「知っているさ……けれど、それはこう言えることでもあるだろう。――お前にできて、この私にできないことなどないんだよ氷月ぃぃ!!」
「今更なんだよこのバカが! この葵賊院が。俺は、さっきから何度も、テメエの全力はこんなもんじゃねえって言ってただろうがァァ!!」
風と共に閃光が走る。吹き荒ぶ風はまるで小型の台風を思わせるほど強烈で、これに晒されたならば人間などたちまち吹き飛ばされ、容易く地に叩き付けられてしまうだろう。
その風の発生源は何か。まるで空襲が始まったのかと疑いたくもなるショックの連続は、しかし現実に想像がつくそんな光景よりも尚一層目を疑いたくなるものだ。
現実であるとは思えない、異常なる衝撃の源がそこにはあった。……いや、異常、ではないか。今の二人を思えば、この程度のことは当たり前であるかもしれない。
彼らは互いに、敵をその手で叩き潰すことを良しとする激突至上主義者。
たった二人の激突は、この街の戦いで最も鮮烈な光景となって見物している者たちの網膜に焼き付く。
そこから感じ取ることができる力の波動は、およそ日常的な生活を送るだけでは決して見ることも感じる機会もないだろう桁外れな圧力を放っている。むしろ宇宙からの襲撃……すなわち火に包まれる巨石の落下でも目撃すれば、あるいはこのような情動を抱けるのかもしれない。
比較としてそこまでのものを持ってきて、ようやくこの心身に走る衝撃に比肩しうるのだと、世に生きる普遍の人々がこれを見ればそう思うのかもしれない。
それほどまでに、目の前に広がる個と個の激突は圧倒的な迫力を持っていた。
そして何より、否応なく目に焼き付いてしまう破壊の力は、人の理解を優に超えていた。
巨大な力と力が、拳と拳が、何度も何度も激突し、そのたびに爆発にも似た甚大な衝撃が発生する。
響く爆発音にすらコンクリートが罅割れていくほどの大きな激震が伴い、走り抜ける衝撃はまるで猛獣のごとく界に牙を剥いて止まらない。その波は足をつける眼下の地を捲り、そのまま浮かびながら破砕された瓦礫の欠片が、更に粉々となって消えていく。
既に巨象が数頭暴れ狂ってもこうはなるまいというほど、景色は一変してしまっている。
「最大風速・冬風」
「魔弾撃星・蛇垂」
魔力と魔力が二人の身を走り、二人は屋上から飛び出した。カガリは炎の推進力を利用して、アゲハは冬の風を使用して、夜空を高速で飛翔する。
カガリの飛行はアゲハの風ほど機動性はないが、爆破を連続で行い曲がることを可能にしていた。緩やかなカーブではなく、角のある曲がり方ではあるものの大きな問題はない。対してアゲハの飛行は最高速度こそカガリに劣るが、機動性は大きく上回っている。よって、二人の飛行性能はほぼ互角だ。
空中というこの世で最も広い舞台で、殴り合いは続けられる。
爆発物どころか、銃器の一切すらそこでは何も使われていない。だというにもかかわらず、継続的に発生し続けているのはそれらを遥かに上回る力の嵐だ。爆発物が爆裂するよりも強く、銃弾が炸裂するよりも鋭く。剣林弾雨の嵐も超える、空間へ亀裂を走らせる暴力の莫大な衝撃量。
それは目の代わりに破壊の塊が中心に詰め込まれた台風のような、巨大な暴力が具現された景色だった。
「そう、そうだ……私は、今、どうしようもなく楽しいんだ!! あはは、これが楽しいってことか、これが!!!」
「この俺を前にして、まだ笑う余裕があるとはな。死にてえのかテメエは、余裕は全部拳に回せやこのバカ野郎」
「貴様が言うなよ。今この世で誰よりも、楽しんでいるのはお前だろう」
「クハッ。違いねえ、が……俺は、わがままなんだよ。知ってんだろが」
およそ常識的な力ではない。良識の挟める光景ではない。
人としての常識を全て捨て去った、否、世界から脱却し一般的な観点から遠い場所へと行き去った、異形の法則がそこにある。
その嵐が、人為的に、しかしただの副産物というおまけとして生み出されているにすぎない現実は、見る者の正気を疑わせるだろう出鱈目さを持っている
何の抵抗力も持たないただの人間がこれに巻き込まれたならば、影すら残らないに違いない爆発的なエネルギーが無秩序に拡散されている。
「オ――ォォオオオオオッ!」
「ァァァァアアアアッ――!」
二人は、衝撃の中心で激しくぶつかり合っていた。
脇目も振らず、心も散らさず、一目散にまっしぐら。明日のことすら知らぬと叫びながら、遮二無二と激突しあう二人の姿がそこにはあった。
彼らは叫ぶ。ここだけはどうしても、絶対に譲れないのだと。それだけが、この瞬間のすべてなのだと。
どうしても、どうしたって、一歩も退くことはできないのだと全身の力を使いながら、彼らは吼えている。
摩訶不思議な能力を使いながら、しかし行っていることはどこまでも原始的で、まったく普通の攻防と応酬。
すなわちただの、殴り合い。
一撃で鉄塊すら粉微塵に砕く拳を互いに何十、何百とぶつけ合いながら倒れることなく、さらに殴り合っている。
今の彼らには、誰の言葉も届かない。
例え家族が止まってくれと乞うたとしても、意識の輪郭にすら触れさせはしない。
例え恩人が止まれと命じたとしても、知ったことではないのだと戸惑いもなく振り払う。
例え親友が止めろと頼んだとしても、止めれば殺すと目も向けずに意思力だけで脅しただろう。
例えばあるいは恋人が、またあるいは子供たちが、そしてあるいは世界中のすべての者が。止まってほしいと彼らに希ったのだとしても、彼らは絶対に止まらない。互いのことしか目に入らない。この決着にしか意味がない。
自分たち以外すべての存在をどこまでも無視しながら、この殴り合いを止めることは絶対にない。
「もっと早く戦っていれば良かったなぁ。本当に、無駄な時間を過ごしたよ……!」
「今更後悔しても遅えんだよ、何度も言ったろうが。だから……今、ここでよお!」
「するかよそんなもの。だから、ここで」
「ボケが、当然だろうが。だからここで」
必ず、お前をぶっ飛ばす。
彼らはどこまでもどこまでも。どこまでも互いのことしか目に映さずに、前へ前へと進み続ける。もはや暴走と言っていいかもしれない。あるいは、早く止めなければどちらかが、もしくは両方が自滅への一途をたどるのかもしれない。
けれど、きっと彼らはそれでもいい。いいや、そんなことはさせはしない。お前を倒すのはこの自分なのだから、例えお前自身にも、お前を倒させなどしない。
まるで相思相愛の恋人同士であるかのように、相手だけを見つめながら二人は血を流し続ける。この瞬間が愛しくて、目の前の敵と戦うのがこんなにもたまらなくて。だから彼らは今、こんなにも。世界中を置き去りにしたまま走り続けている。
「は、アハハハハハハハ!」
「く、は、クハハハハハ!」
笑う。笑う。理由は単純、楽しいから。
楽しくて楽しくて楽しくて仕方がない。
待ち望んだ“今”がようやくここにあるのだから、楽しいに決まっているだろう。この時を笑わずして、いったい何を楽しめというのか。今この時を置いて、この世にこの時以上の悦楽など他にあるはずもない。
こんなにも心地よい時間があるというなら、もっと早くにやっていればよかったと……そんな後悔すらどうでもよかった。張り付いた笑みの中に後ろを向いた感情など、今や一つたりとも存在しない。すべての心が、目の前の敵を向いている。
「――ぁあ、死ね。私だけに殺されろ。お前の死を、私以外に見せてくれるな」
死の独占を願う言葉を紡ぎながら、命を奪うための一撃を入れる。
私が必ず貴様を殺すと、願うように宣告する。
お前の死体と成り果てた醜い姿が、私以外の者に晒されるなど我慢がならないのだ。我が身の裸体を世中に暴かれるほうが、まだ恥も辱めも少ないだろうとアゲハは断言した。アゲハにとって、この宿敵の存在はそれほどまでに重かった。地球とだって比較にならないほど、太陽の光だって暗く霞んでしまうほど。
「そうなれば、きっと私は耐えられない。――必ずお前の仇を殺し、地獄まで追ってお前を殺す」
この世の何物をもかき集めたところで、その重さに釣り合わないのだから。だから、お前が自分以外の手で死んだのならば、地獄を滅ぼしてでも必ず殺しに行ってみせると。
異常なまでの執着心を見せながら、ソレはその瞬間に顔に張り付いていた笑みを消す。膨らみすぎた執心は、いともたやすく先ほどまでそれのすべてだった"楽"という感情を超えてしまう。
今にも濡れそうな瞳から漂う情熱は、病んだ女の愛欲にも似ていて。
しかしその全身から漂うものは、闇より暗き殺意の二文字。
――けれど、そこで。
「――――だ、なんてぇ……」
けれどそこで、定められていた運命を壊すかのように。彼女の意思が、爆発する。怒りに表情を歪めて、全霊をもって叫びを上げる。
「言うわけねえだろ!! この、私が!!! これ以上、お前を見下すようなことを、言ってたまるかアアアァァァァァッ!!!!」
言えるわけがない、そんなこと。それは、あの男を何よりも見下す言葉だ。私以外の人間が、あいつを殺すかもしれない……そんなことを、思っていたことが何よりも恥ずかしい。あいつはずっと、私だけを見つめていたというのに、当の私はずっとずっと、そんなことに怯えていたなどと。それが、それが、この何よりも楽しい戦いに大きく水を差してしまうほど恥ずかしい。
ふざけるな、ふざけるな。あいつを殺せるのは、この私だけ。それは絶対に譲れないし譲らない。譲ってたまるかふざけるな絶対に譲らない譲らないぞこの男の命はこの私のものだそれだけは誰にも誰にも誰にだって。
侮辱するなよ、私。この私の宿敵が、この私以外に殺されるような、その程度の男なのか? 私を宿敵だと言ってくれた男が、その程度の男なのか?
否、絶対に否だ。
だから、この私は自分が最強であることを証明し続けてきたのだ。あいつの最強を、世界に証明するために。
この私を差し置いて、誰があの宿敵を殺すだと? 馬鹿を言うな。あの男の命を奪えるのは、世界でたった一人だけだ。断じて、断じてその他屑共ごときに殺される彼ではない!
それだけは、絶対に、この世の誰にも譲らない!
「喚くな、誰が死ぬか」
彼の顔からも、同じく笑みが消失し――てはいない。逆鱗に触れられたでもなく、反感を買ったわけでもないのだから。
許せないことはあったのだ。譲れない線を踏み越えられたということ。男にとって、その言葉は何よりも重い侮辱として、いとも容易く堪忍袋の緒を――引き千切るはずだった。女が、その言葉をそのまま口にしていたならば。
そうだ、そんな言葉が口から出るということそのものが、自分を見縊っている何よりの証明となるはずだった。だがこの女は、男にとって怒りのスイッチとなるはずだったものを自分自身で破壊した。
「この俺が殺されるわけがないだろう。他の誰にも、そして何よりお前にも。この俺を誰だと思ってやがる」
例えば、他の誰かに、殺されるとして。
そう思ったこと。自分のことを「他の誰かに殺されるかもしれない」と一瞬でも考えたということ。
それはつまり、自分がどこぞの馬の骨に倒されるかもしれない程度の、男なのだと、目の前のこいつは自分をそう見縊ったということになるではないか。――だから女は、そんなことをずっと思っていた自分にこそ、激しい怒りを覚えているのだ。
「ああ、お前、この期に及んで何をうだうだ……言わなくても済むように、もう一度言っておいてやろう」
こいつを必ず、この手で、完膚なく、完全に、誰の目からでも明らかに見えるよう叩き潰したいという、両者とも共有している決意がますます激しく高まっていく。
決意と決意が綯交ぜになり、より純化して彼のさらなる覚醒を促していく。
火山のごとく、心のボルテージは一から十へと一気に動き。
「この俺をォ――舐めてんじゃねえぞコラァァ!!」
「アハ、ハハ――誰が? 誰を? ……お前こそ」
吠えた啖呵に、しかしこちらも底冷えのするような声で迎え撃つ。
どちらも退かず、お前を倒すのは自分なのだと心の底から叫びあう。
「お前こそ、この私を舐めるなよ素人野郎。互角に戦えるからと、調子に乗るな。最後に勝つのはこの私、殺されるのはお前だと既に決まっているんだよ」
そのまま食らえば臓腑の損傷は避けられないだろう拳を防ぎながら、譲れぬ矜持を振り絞る。
「俺がお前に殺される? 寝言は死んで生まれなおしてから言えや。逆だろう。俺が、お前を倒すんだよ鈍間」
「冗談がきついのはどっちだ素人。私が殺す、お前を殺す。決定事項だ、理解は要らんが阿呆を晒すなよ蛸助」
譲れないものは一つだけ。そう、たった一つだけなのだ。
その一つさえ手に入るなら、他には何もいらないと。この命さえ惜しくはないと言わんばかりに本気でぶつかり合う二人の姿は、一瞬を輝く閃光のよう。
殺意をも通り抜いた純粋な戦意は、等しく心中から迸って大輪の火花すら散らしながら、彼らの狭間でぶつかり合う。
流れ星と化して、彼らは激突を繰り返すのだ。
その一つは何かって?
……今更、ここで言うまでもないだろう。
「決着をつけるぞ」
「終わらせようか」
拳に、力を、集中させて。
「氷月――赫狩いいイィィィィッッッ!!!」
「葵賊院……陽鳳アアアァァァァッッ!!!」
その衝撃は、この戦い最大の激突となってこの学園の宙に響いた。
――そして、弾かれた二人がそれぞれ校庭の端に墜落する。直後、地を蹴って二人が校庭の中心で再激突。たかだが最大激突一合だけで、この戦いは終わらせないし終わるわけがない。絶対に油断しない、敵を最大に評価する。ならば、この程度で終わるなどと考えられるわけはない。
カガリの爆拳がアゲハに迫る、その途中で急停止する。その拳の先にあるのは、触れた瞬間こちらを侵食冷凍させる冷気に包まれた透明な盾。炎の魔力を体に循環させられるカガリにとって氷漬けにされる程度のことは何も怖くはないが、一瞬でも動きが止まってしまうのは事実。そうなれば、今顔面に向けて迫るアゲハの抜き手を回避できなくなるだろう。
抜き手の少し先がキラリと光る。アゲハは冬そのものを操ることができ、それはすべての魔力をその身に集めた今も例外ではない。冬の魔力を少し切り離して使用してしまえばいいだけのこと。例えば、抜き手の先端から薄く氷でできた透明な刃を伸ばす、とか。
刃が頬を掠り、血が薄っすらとにじむ。これこそが、体に"冬"を取り込むということ。それはこの国の、ひいてはこの世界の一帯を支配する四季という大環境の一角を武器ではなく自分の一部にしているということを意味する。ゆえに今の彼女は、その全身から冬を構成するあらゆる属性を生やすことができるのだ。
「危ない女だ」
これ文字通りの全身凶器。季節とは、在るだけでも人を殺せる最も平等な自然兵器。それを人の形に凝縮すればいったいどれほど凶的となるか……その答えはここにある。触れただけで生命を凍り殺す冬の魔人だ。
「全身ミサイルみたいなお前が言うなよ」
だが果たして、たかがそれだけで彼に通じるわけもない。
循環する魔力がもう一段階高熱化し、高速化する。これでもう、さっきのように冷気だけで凍り付いてしまうような心配はなくなった。
「怖えなあ」
盾を出しても、瞬ともたずに砕かれるだろう。だったらどうする、どうしよう。
「ふぅ――」
吐く息が、凝固し、白く染まり。そして広がる。
氷を呼び出して凶器化するだけが、冬の属性ではない。氷はあくまで彼女の主武装にすぎず、冬に属するあらゆる手練手管が彼女本来の武器なのだから。
広がる吐息がカガリの視界を隠す。必然、アゲハの姿は見えなくなる。
「しゃらくせえ!」
どうせ死角から攻める気だろう。そう判断し、拳を再加速させ軌道を変更する。そのまま拳の甲で後方を薙ぎ払うものの。
(いない――!?)
手が半周しても、アゲハに掠りもしなかった。ならばあの女はどこへと、カガリが周囲を探ろうとする寸前に。
「阿呆が」
正面から衝撃。アゲハの蹴りがカガリに突き刺さり、そのままアゲハの左手に構成された氷の砲門から魔力が走る。しまったと、カガリが悟った時にはもう遅く。「吹き飛べ」とアゲハの声が聞こえると同時に砲門からミサイルのような形をした、先の丸い氷塊が発射されカガリは校舎まで吹き飛ばされた。
遠くから削るような真似はしない――とは言ったが、真正面から堂々と撃つ分には何の問題もないだろう。より一層ふてぶてしくなったアゲハの一撃は、弾頭の形といいカガリへの仕返しが込められているようだった。それに目くらましをしたからと言って、じゃあその場から動きます、とは限らない。不意打ちとは、別に死角から攻めるようなことだけを指す言葉でもない。
凍らせた地面を滑るように加速しながら移動して校舎へ近づく。校舎の壁を突き破り、教室の中にまで吹き飛ばされたカガリがゆらりと立っている。教室内には吹き飛んだ椅子や机が散らかっており、割れてバラバラとなった窓ガラスが床に落ちている。
「どうした、まさかこれで終わりじゃないだろう? 弱った振りでも装えば、この私が手を抜くなどと考えているわけでもねえだろ。それとも……」
何か企んでいるのか。そう訝しんだアゲハを前にして、カガリもまた彼女へと"やり返し"た。
「棘噛」
爆炎を利用した高速の連続蹴り。それを使い、あたりに転がる椅子や机を次々に蹴り飛ばしていく。無論、いくら高速で飛ばされたとはいえ椅子や机それ自体は魔力を用いた何の強化も施されていないただの備品。そんなものをいくらぶつけられたとしても、一般の魔術師ならばともかく戦闘魔術師に傷を負わせることはできない。
しかしそれでも、アゲハは念のために構築しっぱなしだった左の砲門を素早く前方に構えて冷気のみを放出。砲弾の勢いで放出された冷気は、その勢いをもってして迫りくる学校の道具を凍らせ叩き落した。
そして、その向こうからやってくるのは。
「魔弾撃衝・牛貪」
それは彼が今まで使用してきた魔弾の中で、最も重い一撃。椅子や机で目を隠し、その後ろから現れ彼女の正面に一撃を加える。まさしく、これは先ほどアゲハの行った攻撃そのもので、やられたらやり返さなければ気の済まないカガリらしい攻撃だった。
しかし直前アゲハの行った冷気放出によってその勢いは半減されており、本来の威力をぶつけることはできなかった。
「チッ………!」
「効、かねえ!」
二人は距離を取り、廊下にて対峙する。そして休む間もなくすぐに激突し、拳の応酬を始める。休んでいる暇など一瞬もない、この宿敵を倒すため絶えず攻撃し続けろと自身の体が言っている。
互いの拳が互いの頬に突き刺さり、互いの体に次々とその拳をぶつけ合う。もう変に小技をぶつけ合うのは面倒くさいと言わんばかりに、魔力はすべて拳の強化のみに注ぎ込んでそれだけに集中している。敵を殴ることだけに執心している。
皮膚が裂け、肉が弾け、骨が折れても……殴ることは決してやめない。
「――牛貪!」
「――氷拳!」
爆炎の重拳と氷雪の硬拳がすれ違い、二人の体を吹き飛ばす。壁を砕き、校舎から飛び出て広い校庭を利用して走りながら加速――その勢いで殴り、離れてまた走る。
もう何度殴り合っただろう、もう何度互いを蹴り飛ばしただろう。激突はとうに百を超え、もしかすれば千に届くのかもしれない。それでも、まだだ。まだ決着はつかない、この程度でつくわけがないと信じ切っている二人は誰よりもこの怨敵を信じている。
この程度で倒れるはずはないのだと、誰よりも宿敵を評価する。決して、決して過少に見ない。度を過ぎた信頼はある意味過大評価なのかもしれなかったが、二人ともがその信頼に応えようとますます力を奮うために、結果として二人の実力は評価通りのものとなる。信頼は人を強くする……らしいが、今の二人を見ていればあながち嘘とも言えないかもしれなかった。もっとも、その信頼は宿敵としての信頼であり、仲間とか絆とか、そんなチャラついたものではないが。
「ハッハァ――! 楽しいなあ、ええ葵賊院!」
拳を血に染めながら笑う様は、さながら悪鬼のようでもあったがカガリはだからどうしたと更に血を求めて笑い狂う。
「この時を待っていた、この瞬間を望んでいた。この時間だけを切に切に願っていた。お前と戦うこの今を、この俺がどれほど……ああいや、それはいい、せっかく今戦えているんだ。この一年を振り返るなんてことは、もうどうでもいいし興味もねえ。ああ、ああそうだよ、そうだよなあ……このわけのわからない衝動が、俺を突き動かすんだよ。テメエを倒せ、ぶっ飛ばせって、ずっとずっと叫んでる。だから――」
加速、加速加速加速。大火は呼べずとも、内に巡る炎はますますの燃焼を遂げる。どれほどの洪水をぶつけられようとも、それは決して消えぬだろう。
この火を消せるとすれば、それは目の前の――。
「……ああ、楽しいな。目が回りそうだよ氷月」
この楽しい逢瀬を謳歌しながら、しかしアゲハは一つの疑問を覚えていた。それは、これも今更な疑問ではあるのだが、だがだからこそ今ようやく思いついたといえるのか。
はて、自分はいつからこの男に対して筆舌に尽くしがたいほどのライバル心を抱いていたのだろうか――?
それはきっと、あの教室で初めて出会った時からだ。だから自分は、言外に喧嘩を売ったのだし、こいつも自分の挑戦を悟ることができたのだから。であれば、やはりここに疑問を感じざるを得ないだろう。さて、やはりおかしい。自分はいったいいつからなのだ、と。
初めて会った時から、自分はこいつに負けたくないと感じていた。それは何故だ? 初対面の男に対して、どうしてそんな思いを抱く理由がある。どうしてこいつだけが、あの灰色の中で色彩を持っていたのか。過去に会ったことがあるわけはない、何せ自分はずっとあの場所に閉じ込められていたのだから……こいつと出会えるわけはないのだ。
だから、何故と彼女は思う。どうしてこいつと自分は、こんなにも惹かれ合っているのだろうかと。そう思ったが、しかし。
(……まあ、どうでもいいか。何だろうと、この私がこいつを倒したいと思っていることに変わりはないのだし)
アゲハはその疑問を無視することに決めた。
大事なのは過去ではなく今である。ならば過去に理由を求めるよりも、今この時の戦いを存分に楽しむべきだろう。そうでなければ、今この戦いが実現している意味もあるまい。
「そうだよなあ氷月イイィィ!!」
校舎の壁を走りながら、重力に逆らって炎と氷の演武を舞う。走り抜けた衝撃によって窓ガラスは次々に砕け、彼らの体どころかもはや校舎すら崩壊寸前なほどボロボロという有様だ。これが魔術を世間から隠すための"領域"内の出来事でなければ、この学び舎は翌朝から使用不能になっていただろう。
そして再び、やってきたのは、あの屋上。ああ、この戦いの決着は、この場所でこそ相応しい。
――もう、走ることすら面倒だ。
殴り合う、殴り合う。互いに額がくっついてしまうほど近づきながら、屋上の中心でひたすらに殴り合い、そして蹴り合う。走ることに費やす体力すら勿体ないと言わんばかりに二人は宿敵を殴り倒すことに執心する。さながら魔王と勇者が互いに必ず滅ぼし合う運命であるように、彼らもまたそうしなければ気が済まないのだ。
倒れろ、吹き飛べ、絶対に勝つ。そう言い合いながら、しかし、いいやまだだろう。まだであるはずだ。まだ、こんな程度でこいつが倒れるはずがないと、こいつを倒すにはこんなくらいじゃ全然足りないと、この敵を信頼しながら。
絶対に油断しない、相手を評価する。何せこいつは最強の宿敵。評価など、過大すぎるくらいがちょうどいい。
触れたものすべてを凍り殺す冬の魔拳も、しかしこの男には通じない。なぜなら彼もまた、炎という魔拳の使い手。敵を殴り殺すことにのみ特化したもの。炎の持つ燃え広がるという特性をすべて取り払ってでも、その手で必ず葵賊院 陽鳳を倒してみせるという決意の表明、ただ一人のため手に入れた異能の形。
「誰かがいつか言ったそうだ。真の意味でいう人の幸福とは、己の生きる意味を見つけた瞬間のことであると」
誰も、誰も、この男に敵うものか。悪辣なる黒龍も、醜怪なる博爵も、揃ってこいつに敵わない。敵うはずがないだろう。ああだって、なぜって当然、こいつはこの私の"敵"なのだから。
この私を倒すことにのみ全人生を注ぎ込んだ、不諦の男なのだから。
「だというならば、この私とお前はきっとこの世で誰よりも幸福に違いない。我らはここで、この場所で、二人出会えたのだから! 林檎が樹から落ちるように、砂鉄が磁石に引かれるように、私たちが揃うのは必然だった。人と人との出会いが引力で繋がれているというならば、私たちはこの世で最も強く結ばれるよう定められているに違いない」
ありがとう、この私と出会ってくれて。――だから必ず、私が殺す。他の誰にも渡さない。
「この私は、お前を倒すという名の幸福を。お前はこの私を倒すという幸福を、それぞれ得られたのだからな!!」
「大体のところはこの俺も同感だが、一つだけ訂正してやるよ間抜け。テメエはいつも一つばかり抜けてやがる」
目線を強くし、カガリは言う。
「この俺は、この俺自身の意思でテメエをぶちのめすと決めたんだよ。それを、誰かに決められたことみてえに言ってんじゃねえ。殺すぞ」
「……ああ、それもそうだ。悪いな、この私が間違っていたよ。生憎と無教養なものでな、それ以外に良い例えが思いつかないんだ。許せ」
そういうところも素敵なんだ、お前は。
「誰にも見下ろされることを良しとしない傲慢さ。神もお前にとってはただの、空の上の偉そうな誰かにすぎないか」
「それが悪いか?」
「いいや、まったく」
――ならば私にとっても、神とやらは敵の一人に過ぎないゆえに。
「御託はいいんだよ、これで終わりならこのまま叩き潰すぞ」
「冗談言うなよ。これで終わるくらいなら、死ぬ方がマシだ」
カガリの拳に魔力が集中し、赤く染まる。
アゲハの手に魔力が集まり、青く染まる。
炎の拳は爆発的な威力を生み、冬の手からは氷の刃が生まれる。
「オオオオオオォォオオオオオッッ!!!」
「アアアアアアアアアアアアァァッッ!!!」
腹部に刺さる二人の掌。爆拳からは爆発が、氷刃からは衝撃が走り、それぞれ敵を吹き飛ばし合う。床を抉りながら転がり、屋上の端で二人は何とか止まってみせる。もしもここから落ちてしまえば格好の的だ、それは避けなければならない。
戦いはまだ続いている。
アゲハはすぐに立ち上がろうとして、しかし血を吐きながら膝をついてしまう。
「ガッ……ハ……!?」
まだだ、まだだと言ってきたが、それでもダメージは確実に累積し続けてきている。むしろ今まで平気に立ち続けてきた方がよほどおかしなことで、本来はとっくに倒れていなければおかしいのだ。
何度その体に彼の拳を受けた。倒れるどころか、死んでもおかしくないほどのダメージは既に受けているはずで。
だからもう、ここで彼女は負けてもいい。ここまで戦ってきたこと、それだけで十分に誇れること。もうそれでいいではないかと、悪魔のささやきが――。
「ふざ、けるな……!」
――だから、どうした。
そんなものは聞こえない。がくがくと震える足を、もう立つなと命ずる脳を無視して、彼女の心は立つ、必ず立つと、まだ闘志を一瞬たりとも途切らせてはいない。
いったいどこの誰がこの私と戦っているのか、わかっているのか。奴は立つ、必ず立つ。なのに肝心の私が、ここで無様に倒れてしまえば……きっと奴は、がっかりと肩を落とすだろう。ここで終わりなのかと、もう終わってしまうのかと冷めてしまえば……。もしかしたら、私に落胆さえしてしまうかもしれない。
それだけは……それだけは、絶っっっ対に嫌だ。
「グ……アアアァァァァ!!」
そうか、この砕けた骨がいけないのか。
アゲハは傷口に手を当て、カガリの拳によって砕けてしまった骨を無理やり氷で補強した。痛みは走るが、当然無視する。
ここで倒れてしまえば、私が私を許せない。その心を燃料に、アゲハは立つ。
「痛ったく、ねえ! まだまだ、私は余裕だぞ氷月。かかって、こいよ、私は死んでも絶対に勝つ」
戦いはまだ続いている。
カガリはすぐに立ち上がろうとして、しかし血を吐きながら膝をついてしまう。
「ゴッ……ア……!?」
まだだ、まだだと言ってきたが、それでもダメージは確実に累積し続けてきている。むしろ今まで平気に立ち続けてきた方がよほどおかしなことで、本来はとっくに倒れていなければおかしいのだ。
何度その体に彼女の蹴りを受けた。倒れるどころか、死んでもおかしくないほどの傷は既に受けているはずで。
だからもう、ここで彼は負けてもいい。ここまで戦ってきたこと、それだけで十分に満足しろよ。もうそれでいいではないかと、天使のゆうわくが――。
「うるっ、せえ……!」
――だから、どうした。
そんなものは聞こえない。がくがくと震える足を、もう立つなと命ずる脳を無視して、彼の魂は立つ、必ず立つと、まだ戦意を一瞬たりとも途切らせてはいない。
いったいどこの誰がこの俺と戦っているのか、わかっているのか。奴は立つ、必ず立つ。なのに肝心の俺が、ここで無様に寝てしまえば……そんなことが、あっていいはずないだろう。ここで終わりなのかと、もう終わってしまうのかと奴より先に倒れるのだけは。奴を落胆させてしまうようなことだけは。
それだけは……それだけは、この俺が認めてはならない。
「ズ……オオオォォォォ!!」
ああ……この空いた傷が悪いのか。
カガリは傷口に手を当て、アゲハに刺され血が流れ続ける傷を無理やり炎で焼き塞いだ。痛みは響くが、当然無視する。
ここで倒れてしまえば、俺が俺を許せない。その心を燃料に、カガリは立つ。
「あぁぁ痛くねえ。こちとら全然余裕だっつの葵賊院。かかってこいや、俺は死んでも絶対に勝つ」
ゆらゆらと歩き出し、睨み合う二人。もう息も絶え絶えで、吐いた言葉は去勢に過ぎないということは明らかだがそれでもまだ平気だと言い通す胆力には驚かざるを得ない。
ゆっくりと手を振りかぶり、そしてそのまま殴りつける。何の魔力も込めていない、素の拳で。
「グッ!?」
「オォ!?」
たったそれだけで二人は転がる。どれだけのことを嘯いても、一度自覚してしまった疲労やダメージがそう簡単に抜けるはずもない。彼らはもう、それほどに互いを攻撃しつくしていたのだ。
が、それでもまだ負けてはいない。まだ戦えるのなら、勝つために最後まで戦ってみせるのだと立った二人はすぐに相手のもとへ行き、もみくちゃにもつれ合う。アゲハへ馬乗りになったカガリが、何度も拳を振り下ろす。顔面が強打される嫌な音が数度響き、それでも決して容赦しない。
殴られながらアゲハはカガリの首を掴み、そのまま引き寄せて彼の顔に頭突きを見舞う。衝撃に一瞬硬直した隙をついてカガリの下から抜け出し、そのまま彼を蹴る。
今度はこちらが上から――走ろうとして、足が滑る。手をつく。――そのまま手も使って、四つん這いに近い状態のまま動き出す。犬のようだと笑われてもいい、どれだけ無様でも構わない。まさに必死の鬼気迫る表情で、まだ転げている彼の上から倒れるようにして肘を叩きつける。もしかすれば、もう普通に殴り掛かる体力すら残っていないのかもしれない。
とっさに転がり、カガリは回避する。アゲハの肘は当然彼ではなく地にぶつかり、痛いがそんなことはどうでもいい。すぐに、すぐに次の攻撃を。そこで頭に衝撃が来た。
蹴られたのだと理解した時には、カガリに首を絞められていた。本気で絞め殺すつもりなのだろう。少女の正面にある少年の顔もまた、彼女と同じく鬼気が迫っている。こんなもので死んでたまるかと、アゲハは下の皮膚ごと引きちぎるつもりで彼の髪と片耳を掴む。
ぎりぎりとその手に力を入れ合い、奇しくも二人は同時に頭をぶつけ合う。首、そして髪と耳から手を放してしまうが、それでもまだ終わったわけではない。ふらふらの状態だが、まだ彼らは立っている。
カガリが殴る。アゲハがのけ反る。アゲハが殴る。カガリがのけ反る。カガリがまた殴り、アゲハもまた殴る。
順々に殴り合い、殴り合う。それしかしないし、もうそれしかできない。
「ぜー……っ、ぜーっ……」
「はーっ……、はー……っ」
二人の体に、もう無事な箇所など存在しない。全身から血が流れていて、肉は裂かれ骨は砕かれ、傷だらけの姿は男としても女としても同情を誘うに余りある無残な様だ。まともな人間ならば、もうよせ、やめろとこの惨状を見れば必ず彼らを止めようとするに違いない。
だが、誰にもそれはできないだろう。この二人の、あまりにも凄まじい執念を目の当たりにしては。この二人を止めようとした者は、この戦いの邪魔をしたならば、例えそれがどこの誰だとしても、例えどれだけ傷だらけだとしても、カガリとアゲハはどんな手を使ってでもその邪魔者を排除するだろう。それだけの凄みが、彼らにはある。
――音が響く、景色が変わる。
夜空が光で染まり、この学園を中心として、街全体が何かの光に覆われている。その光の発生源は、この街で行われた殺人跡だ。すなわち、博爵の実験がもうすぐ完成しようとしているのだ。結果何が起こるのかは、博爵たち二人しかいまだ知らない。
このまま二人が最後まで戦い抜けば、間違いなく実験は発動してしまうだろう。裏返せば、今戦いをやめれば発動は止められるかもしれないということなのだが……。
「知るかァッ!」
「知るかァッ!」
無論、そんなことは天地がひっくり返ってさらにまたひっくり返るような事態が起きるよりもあり得ないこと。この二人がこの戦いをやめるなど、どんな事情があっても起こるはずがない。
こいつを倒せるのなら、世界が滅ぼうが知ったことか。
この星の滅亡よりも、この戦いの決着を優先する。この宿敵からもぎ取る"勝利"は、それほどまでに重いのだから。このちっぽけな世界なんかよりも、ずっとずっと重いと信じている。
腕が交差し、同時に拳が顔に激突する。
ふらふらと後退してしまうが、倒れることだけは何とか耐えきる。ここで倒れたが最後、もう起き上がることはできないだろうと理解しているから。だから倒れるわけにはいかない。ゆえにこそ、もう長くはこの体がもたないだろうことも二人はわかっている。精神がどれほど前に進もうとしても、肉体に限界はあるのだから。
そればかりはどうしようもなく、そのことに自身への羞恥と遣る瀬無さを覚えながら……そしてもう、これ以上長引かせるつもりもなかった。
わかっている。いくら殴っても、この宿敵が決して諦めることはないことくらい。だから、この勝負に決着をつけるなら――これを使うことでしかあり得ないのだ。
大きく息を吸い、体に力を漲らせ、息を吐く。体に残った最後の魔力を寄せ集めながら。
カガリの右手が、赤く赤く赤く。
アゲハの右足が、青く青く青く。
そう、この最上の敵を倒すためには、倒すことは、これを使うことでのみ達せられる。
攻撃強化魔術『炎呑』は、彼女を倒すために目覚めた力なのだから。
環境支配魔術『冬雫』は、彼を倒すために鍛えてきた力なのだから。
「俺の、勝ちだ――!」
「勝つのは、私だッ!」
最終魔弾。
最終氷撃。
顔に笑みさえ携えながら、最後の力を振り絞って、二人は走った。炎の右手と冬の右足、二つの激突はこの戦い最大の衝撃となって空間を砕きかねないほどの力を生んだ。
どちらも一歩も引かない。衝撃はまだ走り続け、突風がすべてを吹き飛ばしていく。
彼の右手。魔術の能力を用いて、全魔力を右拳に集中させ放つ最後の一撃。
彼女の右足。魔術の支配を使い、全魔力を右足に集中させ撃つ最後の一撃。
攻撃強化魔術を冠している通り『炎呑』は魔力に熱を与え、それを集中させたり爆発させることによって自身の攻撃を純粋に強化する魔術なのだ。そのすべての魔力を込めて放つ一撃の破壊力は計り知れない。文字通り最後の手段そのものであり、彼女を倒すそのためだけの拳。
そして『冬雫』は、本来はその名通り周囲の環境を支配する魔術。冬という季節そのものを自分の肉体一つに収めてしまうだけでも驚異的な無茶であるのに、これはそれを更に全身から足に集めてしまう無茶を超えたもはや無謀だ。だが、それでも彼女はやってのける。魔力を集めただけで足から血が噴き出すほどこの体が壊れても、この男を倒すためならどんな無茶でもやってのけよう。
最後の、そして二人の持つ最高の一撃同士がぶつかり合う。大きく、大きく光を放ちながら。
最強の男/女の先を行き、その先の景色を見るために。
赤と青の魔力が交わり、光が紫へと染まる――!
「カガリイイイイィィィィィィッッッ!!!!」
「アゲハアアアアァァァァァァァ――!!!!」
激突ののち、光は治まり、そして――――。