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27.遅刻

 戦う理由などない。兎角を殺せば、それでアゲハの目的は達成される。わざわざ無傷のカガリと戦う必要など、彼女には存在しないのだ。……本当に、アゲハの目的が自由になることであったならの話だが。

 そう、まずおかしいのはそこだ。彼女にとって自由とは、あった方が都合は良い、その程度のものではなかったのか。それをあたかも、自由になることが至上目的であるかのように強調し始めたのは、果たしていつからか。この戦いが、始まった直後からだ。

 その時から、彼女は何かに向けて言い訳をするように自由の二文字を強調した。


「あ、あぁ……?」


 ――何故全力を出さない。


 カガリの一言がアゲハの胸を抉る。自分がわざと見逃していた兎角の姿を改めて視認したことで、アゲハの思考にノイズが走る。

 自分は本気だった、確かに本気だった。本気で戦っていたと断言できる。それなのに何か言いようの知れない感覚があるのは、全力を出していないというその言葉が事実だからなのか。そうだ、自分で素人と言っておきながら、その相手と初めから互角の戦いを見せておきながら「勝てると思っているのか」などという余裕を口にできていたのは、自分に余力があったからではないのか……と、そんな思考が、浮かんできて。


「ふざけるな……」


 けれどあり得ない。いかに自分が灰色の視界の住人で、世界を上手く掴めない人間でも自分の力くらいは把握している。だからそんなことはあり得ない。


「私が、そんな間抜けだとでも」


 あり得ない、はずなのに。

 雪が降る。彼女の上にも、いつの間にか屋上に上がってアゲハを見つめているカガリの上にも、等しく白い雪が降る。彼女の困惑を隠すように、心を白で隠すように。――彼女の視界からすれば、自分で呼び出した白すら灰色なのだけど。

 だが、ここにいるのはカガリという炎拳の使徒。雪ごときで己の真実を隠そうなどと、決して許されるわけはない。すべて溶かし、砕いてから、真実は引き出されるだろう。

 アゲハには、隠された……違う。自分でも気づいていない……それも正確ではなく。自分で気づこうとしてこなかった、真実があるのだから。

 

「なあ、葵賊院。お前は――」


 ――やめろやめろ。やめてくれ氷月。その先を言うのだけは。

 それだけは、やめてくれ。

 私をお前が見下す(・・・・・・・・)のだけは、絶対に許さない。


 けれど、彼の口から続く言葉は彼女の予想したものではなくて。


「――お前は、俺と戦っていて楽しくなかったのか?」


「――――っ」


 瞬間、彼女の心に巨大な亀裂が走り出す。


「どうなんだ葵賊院。この俺はお前が全力出さねえからいまいち消化不良だが……まあ、俺がこの調子なんだ。どうせお前だってそうだろ」


 アゲハは彼の言葉をどう理解すればいいのかわからなかった。何故なら、その口ぶりは、まるで自分がこの勝負を――そういう風に、聞こえたから。


「……ふぅ」


 まだ煮え切らない。まだ、まだ彼女は踏み切ってこない。

 これまでにないほど、いいや恐らくは人生で初めて味わっているのだろう困惑と狼狽を噛み締めることができないまま佇んでいるアゲハに、カガリは更に一言述べる。

 どうしてこいつは、いやまったく。

 いい加減に、俺を理解しきったつもりであと一歩踏み込むのを躊躇うその姿勢をやめろと、そう思いながら。


「だから、お前はさあ」


 本当に、呆れる女だ。


「この俺を、誰だと思ってやがる。――この俺は、お前の何だ」


 罅が割れる、亀裂が走る。まるで彼に殴られた後の氷壁がそうであったように、アゲハの精神はもはやボロボロのあり様だった。

 ゆえに、ようやく……心の奥に秘められていた、彼女のすべてが表に現れる時がやってきた。


 ――――――とある所に、一人の少女がいた。


 少女は幼くして事故に遭い両親を失った。炎の海に囲まれながら自我に目覚めたその経験から、彼女は自分に与えられるものは与えられる前に奪われる、それがこの世界の法則なんだという勘違いをしてしまう。その間違いによって幼い少女は精神的な色盲を患うに至り、あらゆる色を灰色としか認識できなくなる。

 彼女の勘違いはその後の経験でさらに加速し、勘違いと色盲の二つが重なったことで「この世界のすべてはどうでもいいもの」だという風に幼くして思うようになる。

 少女はそのことについて、自分が不幸だと思うことはなかった。何せ不幸という概念すらどうでもいいと思っていたのだから、そう思えるはずもないのは道理。幸福というものにすら興味がなく、そこに手を伸ばそうとも思わない。

 二人の悪党に周囲の人間ごと捕まり、自由への競争権を奪い合う潰し合いもまた興味がなく、淡々と同じ境遇にいる敵対者を倒し続けた。

 友人になれるかもしれなかった少女との、どうでもいい外への脱出計画に失敗した後は自分の手でその少女を殺した。

 そして約十年後、勝ち残った彼女はどうでもいいと言いながら今こうして自由になるため悪党の指令を守っている……それが彼女の人生、そのすべて。

 悲劇と言えば悲劇的、空っぽといえば空っぽな人生だろう。何を思うでもなく、何に縋るでもなく、何を求めるでもなく……ただ生きるために、死ぬまでの人生を惰性で送り続けるだけの存在。それがこの少女の生き方。

 けれど実のところ……この少女には、生きる上での最大目的があったとしたら。

 このために生きると決めた、絶対の理由があるとすれば。

 本人すら自覚してはいなかった、彼女がこの人生を生きるすべてだと定めたものがあったとしたら。


 設問――少女■■■ ■■は、今まで何のために生き続けてきたのか?


 その解を求めることはできるのだろうか。

 答えは是。すなわち、可能である。

 少女の回想を振り返ってみて……何か不審な点はなかっただろうか。何かおかしな部分はなかっただろうか。

 本当に、彼女の人生は空っぽだったのだろう(・・・・・・・・・・)()

 答えは否。むしろ、彼女の人生にはとあるものが満ち満ちていたと言っていいだろう。いったい彼女の中には何が満ちていたのか。

 それは――――矛盾である。

 彼女の人生は、いつも矛盾だらけだったのだ。空っぽなどととんでもない、彼女の中には常に矛盾が渦巻いている。順に、その矛盾を数えていこう。


 なぜ少女は、どうでもいいと言いながら潰し合いを降りることだけは決してなかったのか?

 なぜ少女は、どうでもいいと言いながら別の少女の脱出計画に手を貸したのか?

 なぜ少女は、アイバイザーの男に血を吐くほど蹴り飛ばされながら無理をしてでも立ち上がったのか?

 なぜ少女は、どうでもいいはずの"自由"があればどうして都合が良いのか?

 なぜ少女は、それでも「あった方がマシ」という認識からは逸脱しない自由という言葉を、とあるタイミングから強調しだしたのか?

 なぜ少女は、正義の味方を無視したのか?

 なぜ少女は、とある少年だけは灰色に見えないのか?

 なぜ少女は、あの時――。


 なぜ、なぜ、なぜ。なぜだらけだ。

 どうして彼女は、これほどの矛盾を、しかも無意識に抱えているのか。

 矛盾――それは遥か昔の故事における、武器を扱う商人を発端とする言葉。どんなものも貫く矛と、どんなものも防げる盾、この二つの存在は両立しないのではないかという当然の疑問から始まった言葉である。

 本来は成立しえない二つの物事、それが矛盾。それが成立しているということ、それはすなわち、成立しえない二つが成立する何かしらの理由が存在するということなのだ。

 その理由。少女に存在する何よりも大切な、たった一つの理由。

 すべてどうでもいいと言い続け、すべてに無関心を貫きながら、けれどその理由だけは追い求め続けてきた、その矛盾は、いとも容易く解けるものなのだ。

 今まで見え隠れしていた、彼女の執心。たった一人だけを特例としていた今までの態度から考えれば、矛盾を解くのは容易いことである。その執心こそが、すべての矛盾を解く万能の鍵に他ならないのだから。

 少女もまた、己の過去を回想しながら一つずつ矛盾を数え、そしてそのたびに矛盾が罅割れていくのを感じていた。


 なぜ少女は、どうでもいいと言いながら潰し合いを降りることだけは決してなかったのか? 簡単だ。少女は"その時"が来るまで己を磨き続けなければならず、そして己が無敗であることを証明し続けなければならなかったからだ。

 なぜ少女は、どうでもいいと言いながら別の少女の脱出計画に手を貸したのか? 本当は外の世界に用があったからだ。どうしても、そこに行かなければならなかったからだ。なぜなら、この中には求めるものは何もない。それでも乗り気ではなかったのは、逃げるという行動は■なら取らないだろう行動だと、無意識に確信していたから。

 なぜ少女は、あんなにも簡単に女の子を殴り殺せたのか? それは、億が一にも絶対に、絶対に自分が死ぬわけにはいかなかったからだ。

 なぜ少女は、アイバイザーの男に血を吐くほど蹴り飛ばされながら無理をしてでも立ち上がったのか? 合理的なのか非合理的なのかわからない少女の行動はすべて、例えほんの僅かでも、誰にも自分に勝ったなどと思わせるわけにはいかないからだ。自分は絶対に、負けてはならないと心のどこかで思っていたからだ。

 なぜ少女は、どうでもいいはずの"自由"があればどうして都合が良いのか? 外の世界に出て、求めるものを探そうと思えばやはり自由であった方が都合は良かったからだ。


 溶けていく。少女の中で、己のすべてが解けていく。

 じわじわと、すべての心が氷解していく。

 なぜ少女は、正義の味方を無視したのか? 自由という言葉を、とあるタイミングから強調しだしたのか?

 ……簡単だ。なぜなら、少女にとって世界とは「自分に与えられるものは与えられる前に奪われるもの」だから。世界とは、自分から何かを奪うために虎視眈々と機を伺っているものなのだから。だから、だから――……だから、彼女はそれ(・・)を求めるわけにいかなかったのだ。欲してはならないと、思い込んでいたのだ。

 欲しては奪われてしまう。だから、言い訳を作る必要があった。自分が欲したわけではないと、やむを得ない理由があるのだと言い張るしかなかった。

 だから、弱り伏した正義の味方を殺すわけにはいかなかった。殺してしまえば、言い訳が消えてしまう。結界が完成し、自由のため(・・・・・)だという言い訳が消えてしまう。■が――()が、奪われてしまう。無意識のうちに、そう思い込んだ。だから存在ごと無視し、もう一度視認するまでトドメを刺していなかったことなど忘却の彼方に追いやった。そうでもしなければ、彼の前に立てなかったのだ。

 もう、少女の願いはすぐそこまで見えている。

 ゆえそのために、最大の矛盾が解き明かされる。だから、ここで一つ、答え合わせをしてみよう。試験に答え合わせはつきものなのだから。


 少女の願い。今まで過去に起こしたすべての矛盾。

 それはすべて、この最大の矛盾に帰結する。ここにこそ帰結し、ここにこそ、少女の答えは眠っている。


 あの日の出来事を回想しよう。

 あの日の出会いを回想しよう。

 あの日何があったか。あの日何が起こったか。

 あの日、何かおかしなことが起こってはいなかっただろうか。何か矛盾が起きてはいなかっただろうか。例えば、少年が一つのミスを犯した……とか。

 一人の少年がいた。少年は、他の何よりも他人に見下されることを激しく嫌う性格だった。とりわけ少年が嫌ったのは、腕っぷしがものを言う実力の世界にて自分が相手より弱い……などと見下されることをこそ最も嫌った。しかし、この時の少年はとある封が施されており、普段からそういうオーラをまき散らしてはいなかった。

 しかしそれでも見下され嫌いは完全に消えておらず、例え勉学程度でも同コミュニティの人間には見下されたくないと思い勉学にもある程度は励んでいた。当初新入生一位であったのも、すべては見下されたくないためだった。

 そんな少年が、ミスを犯した。学校が始まってすぐの、実力確認試験。そこで少年はケアレスミスをしてしまい、一位の座を追われることとなってしまう。

 ……これは、大変不自然なことではないだろうか?

 それは大勢にとっては何でもないミスだったが、少年にとっては大きなミスだ。なぜなら少年は、他人に見下されることを非常に嫌う人間なのだから。

 彼にとって紙の試験などはくだらないものの一つでしかないが、それでもそんなもののせいで他人に見下されるのは我慢がならない。であるからこそ彼は見下されたくないがために、勉学へも取り組んでいた。

 見下されないため、できる限り完璧であろうとしたはずだ。……そんな彼が、ケアレスミスで点を逃がす。これはもう一つの矛盾と言ってもいい。

 見下されることを何よりも嫌う、あの少年が。あの少年が、まさか【自分が原因で見下される理由を作る】なんてことが、果たしてあり得るのだろうか。

 彼らしくない過ちであり、完璧であろうとするならば犯すはずなどないミス。ここでも一番という座に立つため、自ら完璧から遠ざかってしまうようなミスは徹底的に排除しようとするはずだ。なのに、それは起こった。

 なぜそんなことが起こったのか その理由については、しかし実のところ簡単な理由である。

 彼は、あの日動揺していた(・・・・・・)のだ。

 ずっと求めていたものに、思いがけないタイミングで出会ってしまった。ずっと探していたものを見つけて、さしもの彼も動揺を隠せなかったというだけの話。ゆえに、彼は自らミスを犯すような真似をしてしまった。

 そして、彼はこの試験の順位を二位という結果に収めてしまう。

 ……そう、二位(・・)なのだ。

 それはつまり、一位が他にいたということになる。いかに簡単な間違いをしたとはいえ、彼の点数は圧倒的に高い。そんな彼の点を上回るものが、その場にいたということになる。

 ここに、最大の矛盾が存在する。

 もう一人、いなかっただろうか。

 らしくない過ちを犯した人物が、もう一人いなかっただろうか。

 彼よりも、少年よりもずっと大きならしくなさを見せた人物が、もう一人いたはずだ。

 いつも、まるで誰かを待っているかのように、一人の少女が屋上にいた。

 学校の授業を今まで一度も受けたことがないと言う彼女は、事実として今まで一つも授業を受けたことがなく驚異の出席率ゼロを記録していた。

 何もかも、すべてがどうでもいいと言っていた彼女。

 そんな彼女が犯した過ちとは何か?

 そんな彼女のミスとは何か?

 思い出そう。あったはずだ、犯したはずだ。余人にとっては「それが何なのだ?」と映るかもしれない。だが、人物が人物なのだ。彼女がとる行動として、それはあまりにあり得ないこと。答えは既に見えている。


 一人の少女が、その時に限ってペンを取っていた。


 今まで、一度の授業にも出ていない少女が、その時だけペンを取っていたという事実がある。最初の日だったからとか、そういう言い訳は通じない。何せ最初から少女はサボる気しかなかったのだから。

 だが、なぜかペンを握っている。試験を受けてしまっている。

 なぜなら、少女もまた動揺していた(・・・・・・)からだ。表には何ともないように見せていながら、内心では激しく動揺していたからだ。

 だから、思わずペンを握ってしまった。思いがけない出会いと、今まで見たこともなかった色に、彼女は動揺した。

 そして、一位を取った。

 ……だから何だと思っただろうか?

 動揺してペンを握り試験を受けた。だから何だと、それがどうしたと思っただろうか。確かに、それだけではただ二人の人間が大人しく試験を受けた図が広がっているだけだ。しかし、まだ。まだこここからだ。

 少女は動揺したのだ。動揺し、揺れに揺れて、思わず……ペンを握って……思わず本音を晒してしまった。試験成績一位という名の本音を、思わず彼女は晒してしまったのだ。

 どこがどう本音なのか、わかるはずだ。

 一位とは、つまり二位の上に立つということ。上に立つということが、いったい他に"どういう意味"を持っているのか。わからない者はいないだろう。それこそが、少女から少年へのメッセージ。

 そして、この時に二位だったのは、いったい誰であっただろうか。

 その誰かは、他の何よりもその行為を激しく嫌う。それが例え無意識のものであっても、意図しないものであっても、彼の性格を理解していない者であったとしても、その行為と行為者を許すことはない。そう、無意識であったとしても、だ。

 ならば、意識してその行為を取れば、それはいったいどういう意味を伴ってくるだろうか?

 意識して、その誰かにその行為を――――意識的にその少年を見下すということが、どういう意味なのか。


『この場はあの女の言葉に免じて見逃してヤル。こう言った方ガ、お前には効くのだロウ?』


『私にまで言われたいのか? 弱いのだから、お前は隅にでもすっこんでいろ――などと、よもや私の口から?』


 すなわち、それは"挑発"という意味を持つ。

 彼の性格を意識して見下す挑発と、彼の性格を知らずして見下すのとでは、意味が異なってくるのだから。

 そして彼女は、少年の性格を(わか)っていたのだから。一般的に、挑発という行為によって相手に伝わるメッセージとは何か。

 少女は、少年をわざと見下した。そこに込められた意味は、もはや明白で。

 だからこそ、ここに少女のすべてが帰結した。


「――――ぁ」


 ここに、少女の真実が解き放たれた。亀裂によって彼女の心は完全に崩壊し、ゆえに、彼女の本当が顔を出す。

 少女は今一度、己のすべてを回想し終え、そして、その願いに辿り着く。いったい自分が何をしたかったのか、ずっと何を願っていたのか。

 なぜあの時、少年はまず初めに「戦え」ではなく「戦おう」と言ったのか。

 少女の反応に、訝しげな反応をしたのか。考えてみれば当然で、馬鹿らしい話だった。まるで差出人は書いてあるのに、場所も時間も指定しなかった果たし状。そんなものを受け取って、さぞ彼も困惑したことだろう。

 ずっと、この屋上にいた。毎日毎日欠かさずに。嫌だ嫌だと言いながら、それでも毎日ここに来た。本当は、場所を変えることもできたはずなのに。どこかに隠れることだってしようと思えばできたはずで、けれど場所を変えようと思っても、結局そうした日はなかった。彼と会う、そのためにずっとここに来ていた。

 ここに来るたびイライラしていたのも、当然の話。少し手を伸ばすだけで叶う自分の願いを知らんぷりして、抑圧し続けていたのだから。ストレスが溜まって当然だろう。


「…………だった、のか……」


 潰し合いの中で自分を鍛えなければならなかった。

 外の世界に本当は用があった。

 その時が来るまで、絶対に自分が死ぬわけにはいかなかった。

 一敗でもするわけにはいかなかったから、無理をしてでも立ち上がる必要があった。

 言い訳を作ってでも、与えられるものを奪ってゆく……なんて勘違いをしていた世界を騙してでも、彼と相対せねばならなかった。少女が一年間、彼の誘いを断り続けたのはすべてそのため。その言い訳ができあがるのを、待たなければならなかったから。

 思わず零れてしまった本音が、少女の――いいや。葵賊院 陽鳳の願いそのものだったから。

 彼が……いいや、氷月 赫狩だけが。彼女の目に灰色として映らなかったのは、彼が、彼こそが、彼女のずっとずっと、ずっと探し求めていた人だったから。


 だから。


「最初に喧嘩を売ったのは、私だったのか……」


 葵賊院 陽鳳は氷月 赫狩と戦いたい。それこそが、この物語のすべてである。



***



 春先の空から、雪が降り続ける。今この場に春はなく、冬だけが環境を支配していた。

 この国の極北よりも低いだろう気温。その中で、二人は向かい合っていた。


「………」


 虚空を見つめながら、少女は彼に問いかける。どうしても、聞いておきたいことだったから。


「なあ、氷月」


「なんだ葵賊院」


 そして彼に、答えない理由はない。

 少女の独白を聞き、ようやく彼女が自分というものを自覚したのかと悟ったからだ。


「本当に、本当に今更なんだが……私で、いいのか」


 それは、本当に今更な……問いかけるのが、三百六十五日は遅い質問だった。

 今更過ぎて、その答えがもう目の前にあるというのに、答えを見ながら彼女は問いかけている。


「こういうのって、ほら、男同士の方が、良かったりするのだろう。こういう、喧嘩って。譲れぬ信念とか思いとか、そういうのぶつけ合ってさ……私はどう足掻いても女だから、男同士の、とか……絶対にできないぞ」


 こんな格好をしてはいるがな、と続けて。

 河原で女を取り合い殴り合ったり。夕焼けの空をバックにして、親友と思いをぶつけあったり。男同士の友情、絆、信念決意……アゲハは女だから、男同士のぶつかり合いという浪漫を果たすことはできない。どうしたって。

 なぜなら彼女は男ではなく、彼もまた女ではない。異性の在り方とは、ぶつかり合い方とは本来もっと性的なものであり、このような血生臭さや泥臭さとは無縁なもの。

 だが今、彼らがしようとしているのはまさしくそれだ。性とは無縁な、ぶつかり合い。

 それが最も燃えるのは、男同士の時ではないのかと、彼女は問いかけていた。


「何だ、お前。そんな理由でそんな恰好してたのか、意外と可愛らしいファッションセンスしてんだな」


「茶化すなよ……こっちは結構真剣なんだからさ。可愛いとか、言うなよな」


 力のない言葉。ずっと自分でも気づいていなかった本音に、十年を経てやっと辿り着いたのだ。

 そのショックは大きく、ゆえに自分でもいいのかという自信の無さが珍しく表れていた。

 彼女が女子用の制服を着なかった理由も、結局はそういうことなのだ。どうしてもスカートを穿く気になれなかったのは、つまりどこかの誰かさんに、ただの女として見られたくはなかったから。


「……」


 カガリは数秒沈黙した。こう言ってやるのは簡単だ。「お前しかいない」とか「お前じゃなきゃダメだ」とか。

 けれど、この女は自分の本音に気づくだけでも十年かけるような超ド級の超鈍感。生半可な言葉では、到底届くと思えない。かといって小難しい理屈で説き伏せる場面でもなく、小理屈小ネタ言い訳を並べたところでわかってくれるかわからない。

 だから、もっとわかりやすく言ってやることにしよう。


「例えば……この世の女どもが、そんな野蛮な行いはやめろとお前を否定したとして……この世の男どもが、女風情が戦場に手を出すなと、お前を拒絶したとして……。けれど、それでもお前はそこにいて、この俺はこうしていただろう。戦うことを選ぶような女は女じゃないのだと……世間が決めていたとしても、だから何の関係がある。別に、この俺は戦う相手を性別で選ぶようなことはない。男同士じゃなきゃダメだ、とか、それは戦いをやめる理由にも続ける理由にもならない。目の前にいるのが例え男でも女でも、この俺は迷わずここにいただろうよ」


 女だから、男ゆえに。それが何だと言うのだ。

 確かに戦場に立つのは男であるべきで、女は引っ込んでいるべきなのだろう。それは性による差別だとかそんな低次元な話ではなく、もっと直接的な理由だ。

 女には、子を産み後の世代へと命を託すという使命があるのだ。そのための機能があるのだ。

 それをみすみす戦場で失わせるのは愚の骨頂であり、女が家を支えるべきというのはつまりそういうこと。子に、命を繋いでいく役目を放棄させないためなのだ。そして男はそれを守り、女を守り、子を守り、生命の営みを守る。それはつまり未来を守るということに他ならず、それこそが男女間における使命の差。

 どちらが上とか下とかではなく、それぞれにはそれぞれに適した役割と使命があるということで。

 だから、女は戦うべきではないということも……それはその通りのことであるのだ。

 ――だから、それが?


「すべての争いは男のもので、だからお前は間違っているなどと。誰もがお前を指さして、そして認めないと言うのなら。もしもお前が、仮に、それを真に受けると言うのなら。世界に硫黄と炎を撒いて、やはり俺は、お前にこう言うしかないのだろう。

 ――俺が、お前の前にいる」


「――――」


 その時、少女は初めて、幸福という言葉の意味を知った。


「それでも納得しないと言うのなら。これでも、お前も、誰も、この戦いを認めないと言うのなら……この俺だけは、こう言い続けよう」


 彼が乗り越えるべき宿命の壁は、この世でたった一人。

 ゆえに、彼女が乗り越えるべき運命の壁もまた、この世界で一人きり。


「お前の前に、俺がいる。俺がここに立っている。――氷月 赫狩が、ここにいる。」


 それで、十分だった。少女にはそれで十分だった。

 ……自分に与えられるものは与えられる前に奪われる? 何を、馬鹿な。何て、とんだ勘違い。

 愚かにもほどがある。あの氷月が、この男が、他の何かに――私以外に奪われるだと? 無意識とはいえ、そう思っていただと? 何て、愚かな間違い。

 他の誰でもない、自分が一番この男を舐めていたという事実が恥ずかしくて仕方なくて。

 だから、思わず。


「くひっ」


 そんな声が、口から漏れた。それは、少女にとって初めての経験だった。


「ひは」


 ああ、いや、違うな、こうじゃない。

 初めてのことだから、どうにもよくわからない。

 何度か試行錯誤して少しずつ、らしい形に整えていく。


「くはは」


 これも、少し違うだろう。

 ……なら、こうか。


「あは、は」


 ――ああ、こうだ。


「ははは……あはははは、ははははは! あははははあははははははは!!」


 アゲハが、笑った。


「あはは! 馬っ鹿じゃないの、私! こんなこと気づくのに……何年かけてんの、ははは。誰か気づいてたなら言ってよね、私が馬鹿だってさ! あはははは!」


「くはっ、言っても聞く耳持たなかったろお前」


「そうね、そうかも。あははははははは!!」


 それはまるで、年相応な少女のように、朗らかな笑み。

 生まれて初めて体験した、心からの笑顔だった。

 それを見て、カガリもまたつられて笑った。どうにも、笑わずにはいられない。


「はー……スッキリした。笑うなんて初めてのことだったけど、悪くはない気分だ」


 いや、むしろ気分は良い。

 やっと、やっと……霧が晴れた。


「お前が、私の――この私(・・・)にとって何だ、って?」


 カガリだけではない。タガがかかっていたのは、少年だけではなかった。

 この時、少女にかかっていたタガもまた外れようとしていた。カガリにはわかっていた。彼女が、誰よりも、自分と同じ……ただの負けず嫌いであるということに。

 それを少女もまた認めて、頷く。


「お前は、この私の宿敵だ。決まっているだろう、氷月」


「ああ、そうだ。そうだよ葵賊院。やっと、言ってくれたな」


 そして彼女は笑みの残滓とともに息を吸い、そっと目を瞑った。

 雪がやむ。彼女の心が晴れたことを、示唆するかのように。少女を中心に表出し続けていた冷気が止まる。彼女の迷いが消えたことを、意味するかのように。雪雲が消え、空が見える。

 もう何も恐れることはない。彼は、どこにも行かないのだから。

 アゲハはそっと、目を開き。

 ―――――――――――――――そして世界が、広がった―――――――――――――。

 星は白く(・・・・)夜は黒く(・・・・)。街々の夜景には木々の()や、()()の光が輝いている。

 それが何なのかは、問うまでもない。それは、色だ。彼女の視界になかったはずのものだ。そして今は、他の人間と同じように、彼女にも見えるようになったものだ。

 ――灰色の視界が消え、すべての色が取り戻される。

 もう彼女の中にあった迷いは消えた。勘違いからくる色盲は、彼が奪われるはずがないという当たり前の確信とともに払拭されて消滅した。

 元々、くだらない勘違いから始まった景色なのだから。それが無くなれば、灰色も消え去って当然だろう。求めていたものが見つかり、奪われたわけではないのだとわかり、願いの叶う時は来た。ならばこんな勘違いは、持ち続けている方が不自然だろう。

 だから、灰色の世界は完全に晴れ切った。

 アゲハは、自我が芽生えて以来の、カガリ以外についている色の中から、まずは空を見つめて。


「これが星空、か」


 "領域"の影響で、普通に街中から見るよりも美しく見える夜空を見ながら、こう評した。


「なんだ――思っていたより、大したことないな」


 あの火の方が、よほど綺麗だ。

 彼の方をチラリと見ながら、結局色が見えるようになっても彼以上のものはないのだなと、わかりきっていたことを彼女は再認識する。

 あの少女(・・・・)にとって最も美しいものは、星空だったのかもしれない。けれど、それはあの少女にとっての美しいものだったのだ。仮にあの少女がカガリの炎を見ても星空以下だと思うだろうし、その逆もまた然りということ。個人が最も美しいと感じるものはそれぞれであり、アゲハにとってそれはカガリであっただけ。

 ふふ、と微笑みながら。彼女は、自分の長く黒い髪(・・・)を、さっと掻きあげた。

 腰まで届く長い髪は、黒曜石よりも美しく、星の光を反射する。それはまるで黒い川のようであり、さらさらと流れる髪の柔らかさはあらゆる女性が嫉妬を覚えるに違いない。

 起伏の少ない体つきだが、決してスタイルが悪いということはない。むしろ滑らかでスレンダーなその体格は、あらゆる無駄をそぎ落とし必要なものだけを残した完璧な肉付き。胸の脂肪など、戦いには不必要な邪魔物にしかならんと言うかのように堂々とした佇まいを見れば、女らしさと美しさは必ずしもイコールで結ばれるわけではないと無理矢理に悟らされるだろう。

 男子用の、本来指定性別の違う服すら彼女が着れば、彼女を引き立てるドレスと言う名の布切れになる。いや、そうなってしまうのだ。例えどれほど際物めいたコスチュームでも、彼女の美しさを包み隠すことはできないだろう。

 その美貌は可愛い、よりは美しいに寄っている顔つきで、しかしそこらの学生などとは比較にもならない。トップに立つアイドル級の美少女を連れてきて、ようやく比較になるかどうかというほど。超、とか、絶世の、とか、そういう冠が頭につくほどの圧倒的な美少女。例えるならば、まるで時間が彼女の味方をしているかのような美しさ。

 開かれた瞳は雪原よりもずっと輝く、しかし時の止まっているかのごとき静けさを併せ持つ白銀の色。

 もはや、女子ならば思わず自分と比較したくないがために目を背け、男子ならば目を焦がしたくはないために見ない振りをしてしまうほどの美貌。兎角も自分の容姿には自信があった方で事実そこらの女子をずっと上回る可愛い顔をしているが、彼女と比すれば見劣りすると認めざるを得ないだろう。

 キラキラと舞いながら輝く雪の結晶が、彼女の持つ天性の美しさを更に演出している。


 ここに、本当の"葵賊院 陽鳳"が立っていた。


 もう、迷いはなかった。

 己に命令すべきは、三つ。

 一つ。この手で、そしてこの花で、すべての敵を凍て殺し、生涯無敗を真実とせよ。

 二つ。その功績をもって、(おまえ)を認めた宿敵(おとこ)の最強を真実とせよ。

 そして三つ。――最強の宿敵を超えて、葵賊院 陽鳳の最強を真実とせよ。

 それこそが、少女に眠っていた真実の本音。他の誰にも譲れない、唯一無二の願いだと実感したから。

 彼女は彼の顔を見る。

 何と言えばいいのか、迷っていた。けれど、やはり素直な気持ちを言葉にするしかないのだろう。ずっと、ずっと、この場所で相手を待っていたのは……相手を待たせてしまっていたのは、いったいどちらの方であるのか。今や考えるまでもないのだから。


 ゆえに、少女は今。万感の思いを、込めて。


「悪い、待たせた」


「ああ。一年遅刻だ」

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