24.Lord of the Battle
氷月 赫狩には一つだけ、どうしても譲れないことがある。
***
カガリは驚いた。事ここに来ても、彼女はまだやはりやる気を出さないのではないかという疑いすら持ってここへと来たからだ。しかしそれが懸念であり、ようやく……この一年で初めて、彼女は戦闘態勢を取っていた。
彼にとってこれは大変衝撃的なことであり、ようやくだという気持ちがとても抑えきれない。
「はっ! 今日は随分とやる気みてえじゃねえか葵賊院。何だ、腹でも壊したか? 戦うのは、嫌なんじゃなかったのかよ」
「ああ嫌だとも。嫌だが、嫌なんだが仕方ない。感謝しろよ、氷月」
アゲハは嫌々しょうがなくやっていますというポーズをとっているようだった。まるで何かに言い訳をするかのように。
「嫌だが……これは仕方ないんだよ。何せ、私が自由になるためだからな」
「あァ? 自由だあ?」
それは、矛盾を孕む言葉だった。しかしそれには気づかず、カガリは普通に問い返す。
けれど、その言葉には隠し切れないほどの矛盾があった。
「そう、ここで私がお前を殺せば、そこで魔術が発動する……わかるよな、魔術。その魔術が発動するとな、私を縛っている見えない鎖が砕けて……そして私は自由の身になれるんだよ。今まで我慢して、こんなくだらない場所に通っていたのもすべてはそのためだ」
お前はそのための生け贄だとアゲハは言う。
今までの一年間はすべてそのためにあったのだと。
そう、彼女はそのために今までこの場所に来ていた。学生という身分を利用すれば学校という場所に毎日来るのは何も不自然なことではない――授業をサボりまくるせいで別の不自然さは生まれてしまっていたが――ために、その他大勢の生徒に紛れて学園へと魔術をかける。少しずつかけていき、学園を博爵の実験場中心地に変えていく。
そうすると彼女とこの実験場の親和性は上昇し、彼女がこの場所で生け贄を捧げることが最後の鍵を開ける実験の発動合図となるのである。
「へえー……」
しかし彼女に生け贄だと言われても、カガリに動揺するような気配はない。彼は市井の一学生であるはずだが、しかし生き死にの場において恐怖が薄い様子が見受けられる。
そこで、横から声がかかった。
「やめ、やめなさい……! 死んじゃうわよ……!」
兎角は純粋に彼の身と安全を案じる思いで、横から口を出した。しかしカガリは彼女の方をチラリと一瞥すると冷たく彼女を突き放す。
なぜなら、アゲハがカガリ以外の存在を無視していたように、カガリにとってもアゲハ以外の存在は今、どうでもいいものと化している。いいや、一年間拘り続けていた以上、この場への執着は誰よりも強い。
ゆえに兎角の忠告など聞けるわけもない。
「ああ、ごめん。部外者は黙っていてくれ。これは、俺とあいつの問題なんだ」
それきり、カガリもやはり彼女を無視する。
この場において、もはや自分たち以外の存在は不要なだけなのだから。
「あー、葵賊院」
「何だ? 命乞いか? 聞いてやらんでもないが……叶えてやる保証はせんぞ」
「抜かせや」
カガリはこつこつと爪先で地をたたくと、足に力を籠める。いつでも一歩を踏み出せるように。
アゲハはその場から動かない。彼を待ち受ける構えだ。
「生け贄とか自由とか、まあよくわからねえんだけどよ……自由のためにとか、何々のためにとか、お前よお」
ゆらりと、一歩を踏み出す。幽鬼のような不自然さで、しかし巨獣のような力強さで。
「――俺がここにいんのに、どっかよそ見してんじゃねえぞゴラァァァッッ!!」
オリンピック選手もかくやという速さ。元々鍛えられており、平均的な学生を優に超えていた身体能力は、魔力を体に流したことでさらに上昇している。
蹴り、顔面狙いのハイキック。相手は女だが、そこには何の躊躇もなかった。女の顔を当然のように狙う、そこには一切の遠慮がない。もはや相手を女とも思っていないのではないか、そういう意思すら感じさせるような初撃。
アゲハは一歩も動かず、手のひらで爪先を受け止める。わざとだった。あえて威力の高い個所を止めることで、私に比べてお前はまだまだこんなものだと言外に伝えている。
「……お前は、ほんとに」
足を引き戻し、左手で次撃。
「やれば! できんじゃねえか! よくも今まで適当こいて逃げ続けてくれやがったなテメェエエエェェェェェッッッ!!!」
魔力で強化された攻撃を難なく受け止めたということ、それはつまり彼女はその程度の戦闘力を最低限保有しているということで。つまりそれは、今まで嫌だ嫌だと言い続けながら、その気になれば何の問題もなく戦闘が可能だったということでもあり。
それを一言も言わず、適当に逃げ続けていたことが癪に障ったから。
「ぶっ飛ばしてやる!」
「ああ。無理だ」
拳もまた躱された。首を傾けることで、紙一重に。
当たらない。当たらない。何故、カガリも魔力を有するようになったことで、魔術師として同じ土俵には上がることができたはずなのに。
強化された身体能力を用いても、アゲハに攻撃が掠ることすらない。
「簡単な話だ」
カガリの攻撃を避けながら、アゲハの身がくるりと回転。
ふわりと揺れる髪が、彼の視界を一瞬隠した。
「位が違う」
回し蹴りがカガリに炸裂する。吹き飛ばされたのは、逆にカガリだった。アゲハが立っていた場所とは逆方向の、屋上端に激突する。いともあっさりと、蹴り飛ばされた。
同じ魔力の使用者でも、二人の間には明確な差があった。
「お前、何か勘違いしてるんじゃあないだろうな、氷月」
同じ土俵に上がっているからと言って、力士の実力は対等だろうか。
違う。位階に差がある以上、その実力は格付けされている。横綱を頂点として、それ以下が続いていくように。
これも似たようなことだ。戦う魔術師にとって、戦いに臨むための大前提を、いまだカガリは掴んでいない。
――固有魔術。
魔術師が一人につき一つずつ所有することができる、専用兵器。
己の魔力を完璧に操り、それに覚醒すること。それは、己の魔力を自在に操りきることを意味する。
ゆえにこれはその差だ。操り切れている者と、操り切れていない者との差。剣を用いて剣術を使う者と、ただ剣を振り回すものとでは格が違うのは当然。それは刀でも槍でも同じこと。
まして百日刀、千日槍、万日剣という言葉があるように、武器とはそれだけ習得するのに時間がかかる。刀を扱えるようになるまで百日、槍を扱えるようになるまで千日、そして剣を扱えるようになるまでは万日かかるという言葉だ。
魔術もまた同様。魔術も武術と同じ、一生をかけて極めていくもの。ならば魔術もまた、扱えるようになるまでは相応の時間がかかって当然。
千年魔――。
魔術とはそれだけ深奥であり、そうやすやすと敵うものではない。もちろん習得に千年かかるというような荒唐無稽な言葉ではなく極めるためには途方もない時間を必要とするという言葉だが、しかしかといって習得に時間がかからないということではない。
いくら比較的習得が楽とはいえ、それは他の魔術と比較しての話。まず一度手に持つことすら難しい固有魔術は、単なる兵器と比べても扱うことは圧倒的に難しい。
「魔力を身につけたから、魔術の存在を知ったから。まさかそれだけで私と対等になった気になっていたのか。それだけで、私に伍する気でいたんじゃあないだろうな、なあ氷月」
幼い時分から魔術を身につけていた彼女と、どうして互角に張り合えようか。
「お前の言葉を借りてやろうか。……舐めるなよ」
カガリは動かない。簡単に倒されたことがショックだったのだろうか、彼は彼女の話を黙って聞いていた。
起き上がれないわけではないだろうに。
「どうしたよ。念願だった私との戦いだぞ、まさかもう終わりなのか」
違うよな、と。まさかそれで終わるわけがないだろうとばかりに問いかけるアゲハ。期待外れだとは言わない。彼女はこれで終わったなどとは欠片も信じてはいない。
何せ目の前の男はカガリだ。諦めという言葉を、己の辞書から抹消している少年だ。一年間、彼女に勝負を挑み続けた男だ。
こんなもので終わるはずなどない。
だが、カガリはまだ動かない。まるで何かを考えているかのようだった。
「……」
――そんなカガリに対して、彼女は一つの言葉を言い放った。
それはあるいは、彼女なりの戯れであるのかもしれなかった。
「どうした、そろそろやる気を出してみろ。それともまさか、まさかだとは思うが……私にまで言われたいのか?」
ピクリと、カガリの指が動く。聞き捨てならないことを、彼女が話そうとしているからだ。
それを見て、アゲハは戯れを続ける。
言われ続けたのだろう。悔しかったのだろう。同じことを、私にまで言わせる気か。
わかっているぞ。お前の中に、まだ燻っていて消化しきれない炎が見える。どうせお前のことだから、あの言葉を言われたのだろう。そして、やり返せなかったのだろう。バカめ。
だから、私もここで言ってやろうか。
「弱いのだから、お前は隅にでもすっこんでいろ――などと、よもや私の口から? 知らなかったぞ、まさか本当に被虐趣味があったとはな。まあ、何度振られても私の元まで通っていたお前だ。思えば、その兆候はあったのかな」
彼女は、カガリの禁句を踏み抜いた。
知っている。彼女はカガリの性格を知っている。一目見たあの時から、とっくに気づいている。
その上で簡単に、彼の地雷に手を――足を出した。
「はッ、寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ」
それを受けて、ゆるりとカガリは立ち上がった。
そう、いつものように見下されたことへの怒りを燃やしながら――いいや、違う。その目に、彼女への怒りはなかった。
……それがどういうことなのか。
あのカガリが、見下されても怒らないということ。それがいったいどういう意味を指すのか。嵐か、地震か、天変地異か。いや、怒ってはいるのだろう。しかし、それはアゲハに対してのものではなかった。
「マゾじゃねえって……言ってんだろ、ばぁーか」
あるわけないだろう、そんなこと。ああ、本当に。焚きつけるなよ葵賊院。わかっているさ、お前に言われなくたって。
だから……舐めるなよ。
カガリはゆっくりと立ち上がる。その瞳に、わずかな怒りを燃やしながら。
彼女の言ったことに怒ったわけではない。あれが本心からこちらを侮蔑したわけではないことくらいわかっている。本当に弱いと思っているなら、そもそも彼女はここで彼と戦ったりはしなかっただろうから。
けれど、彼女は焚きつけたのだ。
この時になってもまだ完成していないカガリに対して、火をつけるために。
『死ね、弱者』
その言葉は意図的に、彼を立ち上がらせるためのものであった。
『あなたの出るような幕じゃないわ』
そんなことしなくとも、彼は立ちあがっただろうに。
いつもそうだった。彼女は彼をその気にさせるのが上手い。それは彼にとって彼女が特別であることもそうなのだろうが、彼女にとっても彼は……。
『君なんかにかまっている暇はないンダ』
わずかに見える、彼の瞳に燃ゆる怒り。その怒りの矛先は誰なのか。
彼は、思い出していた。
誰のことをか。彼を見下した者たちのことをだ。この一連の物語で、今まで彼を見下した者たちをだ。彼の逆鱗に触れた、すべての者たちのことをだ。
「見下してんじゃねえよ、クソどもが」
怒りが燃え上がる。まるで火山の噴火のように、内から湧き上がるものがある。沸々と、思い出していくたびにゆっくり怒りが沸騰していく。
黙れ、黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ――。
誰の許可を得て俺を――この俺を見下した。誰の許しを得てこの俺を下に見た。
ふざ、ける、な。
この世の誰にも、この俺を見下していい権利などない。
氷月 赫狩には一つだけ、どうしても譲れないことがある。
タガが外れていく。今まで彼を戒めていたもの、それが完全にほどけようとしている。
彼の母、アリア・オールランドによって施されていたもの。今まで彼が見せていた、怒りと理性の急激な切り替わり。彼を縛っていた戒めの封印が。既に罅割れていたそれが、完全に壊れようとしている。
カガリは許さない。自分を見下す者を絶対に許さない。絶対に、許せないのだ。
「……誰にも俺を見下させねえ」
――なぜならば。
「俺を……この、俺を」
そうだ、彼の怒りには理由があったのだ。彼にとっては、譲れない一線があった。超えてはならない一線ではなく、譲ってはならない一戦が。それこそが彼の根幹を成すものであり、カガリという男の中核なのだから。
それは信念と置き換えることができるもの――では、ない。これは高潔な祈りではない。己が己のために定めたものではあるが、拳に変えることのできる心の在り方ではないのだ。
むしろそれは、彼の拳そのもの。
カガリにとって、カガリを見下すということがどういう意味を持つのか、まずはそこを考えねばならない。ゆえにこそ、彼はアゲハの見下しにだけは反応しなかったのだから。
むしろ、彼女においてのみ、彼女の場合だけ、見上げられたことに怒りを示したのだから。
だからこそ。氷月 赫狩には一つだけ、どうしても譲れないことがある。
自分を弱者だと罵った男へと心底から殺意を抱いた。
自分を助けてくれた女へと内心では憤っていた。
自分を無視した仮面の男が心から憎かった。
その全員を、己の下だと言い続けた。
カガリを下に見る言動が、なぜ彼の心に火をつけるのか。
なぜ彼は見下されただけで、怒りを燃やさずにはいられないのか。
もちろん彼の性格がそういうものだということも大きい。彼は元々、見下されることを嫌うプライドの高さを持っている。
だがそれ以上に、そこにはたった一つの理由がある。絶対に譲れないことがある。彼にとって、これだけは……世界中の誰に否定されようとも、これだけは。――彼女だけは、否定させない。
彼は言い続けた。「この俺を見下すな」と、そればかりを。その理由とは何なのか。
目の前に立ちふさがる少女を見ながら、彼は叫ぶ! 絶対に譲れない、少年の怒りを!
――なぜ、ならば!!
「この俺を殺せるのは、世界で葵賊院だけだからだ――!」
氷月 赫狩には一つだけ、どうしても譲れないことがある。
それは、自分は強いという意思以上に、あるいは大きいのかもしれない。
――少年の、氷月 赫狩にとっての「敵」とは、この世でたった一人だけなのだ。
だから、許せない。――だから、俺は誰にも負けない。
この俺の宿敵を差し置いて、誰がこの俺を殺すだと? 馬鹿を言うな。この俺の命を奪えるのは、世界でたった一人だけだ。断じて、断じて貴様らごときに殺されるこの俺ではない。
――それだけが、カガリの怒りの理由なのだ。
彼は自分が見下される時、こう思ってしまう。「この俺を見下すということは、つまりこの俺を倒すことのできるあいつを見くびっているということか?」と。
もちろん彼を見下した者たちは少年と少女の関係など知らない。だから、カガリの言い分はあくまでもカガリだけの言い分で、相手にとっては知ったことではないことだ。これは彼の傲慢であり、彼の自分勝手な言い草だ。
だが、それこそカガリは知ったことじゃない。
関係ないのだ。彼は……いいや、彼が、どうしても許せないことであるだけなのだから。
ゆえに、今こそ。
この怒りが、形に変わる時なのだ。
「――"噛み砕け"」
それは自己への絶対命令。
そう、命令だ。氷月 赫狩は、今こそ彼自身に命令する。
命ずるは三つ。
一つ。この手で、そしてこの牙で、すべての敵を噛み砕き、無敗であることを証明せよ。
二つ。その功績をもって、己の認めた宿敵の最強を証明せよ。
そして三つ。――最強の宿敵を超えて、氷月 赫狩の最強を証明せよ!!
「――『炎呑』ッッ!!!」
――彼の炎が、魔の形へと変生する。
この戦いを見物している三人――いや、カガリの参戦で新たに増えた観戦者を含めて、四人は、四人ともが驚愕した。
正義の味方を志す女は、あり得ないと驚いた。自分が彼に魔力の扱い方を教えたのは昨日の今日で、それが、こんなにも早く固有魔術に目覚めるはずはないのだから。
悪の味方として暗躍する男は、そんな馬鹿なと驚いた。自分の見たところ、彼には才能がなかったはずだ。己の観察眼は確かなものであるはずで、だからこそ、その推察が間違っていたなどあり得ないのだから。
この実験の黒幕である男は、なぜなのかと驚いた。自分も魔術師の端くれとして、いかに魔術というものが難しいものであるのかはよく知っている。ゆえに僅か一日で、自分だけの魔術に目覚めるなど常識的に考えられないのだから。
魔王の一人たる女は、予想以上だという喜びの驚きを持った。強くなることを期待して、ちょっとした賭けで彼に強くなるための環境を提供したが、まさか本当にやってくれるとは半信半疑だったからだ。
この戦いに関わっている全員が、それぞれの驚きを持った。……たった一人を除いては。
「ああ……そうだろうな」
たった一人だけ。彼が自身の宿敵と見定めている少女は、何の驚きも持たなかった。なぜなら、彼女は知っていたのだから。
この男は、今まで自分を倒すために。ただそのためだけに今まで生き続けてきた。だから、このくらいは当然なのだ。
「お前が私を倒すための牙を研いでいたことなんて、当然なんだから」
何ら驚くには値しない。
「――ォォォオオアァァッ!!」
ゆえに、アゲハは目の前に突然現れた少年に反応しきれず。
今度はその衝撃を殺しきれずに、階下へ叩き落された。