23.R × B
魔力の最も濃い場所を目指してたどり着いた先、兎角の目の前にいたのは、まだ若い少女だ。だが、まさかこんな少女が……などという油断は決してしない。何せ自分も彼女と同年代なのだから、見かけで判断はできないだろう。
それでも、まさかこんな少女が今回の黒幕というわけでもないだろうが、油断だけはしないように様子を伺う。
少女はベンチに座ったまま虚空を見つめている。まるでそこにいるのが当然だとでもいう風に、そこが彼女の居場所であるのは自然であるというようなほど、彼女はその場所に馴染んでいた。
彼女は毎日、この場所から学園へ魔術を僅か少しずつかけ続けてきたのだから、それも当然と言えるのかもしれない。
「あなた、あの男の仲間?」
兎角は回りくどいことはせず、率直に問う。
だがその問いかけに返答はなく、まったくの無反応。こちらのことなど眼中にないとばかりに、彼女は口を開こうとすらしない。
どころか、兎角のことを見てすらいなかった。
「……ちょっと? あなた?」
まさか死んでいるのではないだろうなと思わず疑ってしまうほど、ピクリとも動かなかった彼女はそこでようやく視点をゆっくりと兎角に合わせた。
短く息を吐く様は、面倒だから無視しようと思ってたのにこのままだとしつこく聞いてきそうだから仕方ないしさっさと答えてやるか、とでも言いたげな表情だ。表情といっても、彼女の顔は一目見た時から依然真顔で、無表情と呼べるものから逸脱した変化は見られない。
まるで、氷で出来た彫刻のようだと兎角は思った。氷で出来ていると思ってしまうほど、その顔には色がない――心が感じられない。
その様子からも、この少女……アゲハが、兎角のことなどどうでもいいのだと思っていることがわかる。
「……なんだよお前……人にものを訪ねたいならまず自分の名前を名乗れよ……礼儀のなってないクズが……あいつだってそれくらいはできたぞ……。まあそれ以外の礼儀はなってなかった、というかクソ以下だったけど……」
アゲハはこれ以上ないくらいに気だるげだった。どうでもいい人間との会話など、彼女にとっては億劫なものでしかない。彼女の瞳には、正義の味方すらも灰色にしか映らない。
本来はずっと無視していたいくらいなのに、会話をしてやるから感謝しろとすら……いや、思ってはいない。人からの感謝すら、彼女にとってはどうでもいいものだからだ。
他人から感謝などもらっところで、何に使えばいいのかわからない。ならもらったところでどうしようもない。そう感じているから。
「これは失礼したわね。私の名前は――」
「ああやっぱりいい。言わなくていい。なんだかお前は、一度喋らせると余計なことまでベラベラ喋りそうな気がする。黙れ」
しかして彼女は傍若無人。一度名乗れと言っておきながら、やはりやめろと言い直す。そもそも彼女にとっては他人の名前などどうでもいいものの筆頭なのだから、聞くに値しないのは当然のことなのだろう。
それを知らぬ兎角はしかし、最近どこかでこんな学生を見たなと、どこかの少年を思い出していた。
「どうせあれだろ。大方、あのクズにここまで連れてこられた口でしょ……生け贄役おめでとう。良かったな、間抜け」
そんなアゲハの言葉に、兎角は「しまった」と己の迂闊さを呪った。
思えば当然のことではないか。この結界は、人の命を吸って成長する。途中経過がそうであるならば、最後の最後、魔術の発動もまた人の命を吸って行うのではないかとどうして思い至らなかったのか。
事ここにきてはもう遅いが、なぜあの黒龍が彼女を殺さず弄ぶような真似をしたのかの合点がようやくいった。
あの男は、兎角を殺す気がなかった。それはつまり、兎角を生かす必要があったということ。兎角を生かし、何らかの目的に利用するつもりがあったということではないのか。
そこには彼の趣味だけではなく、きちんとした目的があったのだ。
つまり、この結界の発動条件は。
「あなたが、ここで魔術師を一人殺すことか……!」
魔術師の人命を、結界の中心点であるこの場所で捧げること。そうすることで、結界は起動し仕込まれている魔術は発動する。そして、アゲハの身は彼らとの契約によって完全に自由となるのだ。
「あのクズ、余計なことしやがって。餞別のつもりかよ……私がこの程度の相手に苦戦とか、するとでも思っているの」
怠そうに息を吐く少女は、既に戦闘態勢となった兎角を見てもまだ屋上端に据えられたベンチに座ったままだ。
そこからは徹底的にやる気が感じられない。――彼女が自由となるための、チャンスが目の前にあるというのに、だ。
……だが、見方によっては当然なのかもしれない。何せ目の前にいるのはどう見てもボロボロな女が一人。負ける理由がない以上、そこに熱は宿らないかもしれない。
「おいそこの……あぁ、誰だっけ……まあ、いいや。お前、今すぐ背を見せて逃げるというならそのまま見逃してやる。帰ってもいいぞ、私はお前なんかに興味は欠片もないんだよ」
しかし彼女は驚くべきことに、むしろ帰ってもいいと、見逃すとすら言っていた。
確かに彼女は自由になることへの拘りは少ないように見えていたが、それでも自由になりたくないわけではなかったはずなのに。
自由を捨ててしまえるほど、やる気がないということなのか。
「おいオイ、頼むよ少女。ちゃんとやってくれなきゃ困るんだカラ」
「何、心配はいらないよリウくん。彼女はあれで、やる時はきっちりやる人間なんだから」
黒龍の分身一人を媒体に、地下拠点から学園の屋上を覗き見る諸悪の二人。
博爵は知っていた。やる気のないように見えて、彼女はあの時確かに自由への拘りを見せていた。それは無いよりは有る方がマシだという程度のものなのかもしれないが、だが拘っていたのは事実だろう。
二人は自分たちの実験が、アゲハによって成就される瞬間を見届けるべく、こうして遠くから見物している。
「そういうわけにはいかないの。悪いけど、あなたを止めさせてもらうわ」
そうとは知らず、短剣を取り出して構える兎角。
魔力の余裕はもうほとんどない、玉兎は撃ててあと一度か二度だろう。しかし、それでも諦めるという選択肢は存在しない。正義の味方を志す者として、それだけは譲れないのだから。
「あっそ……」
そこでようやく、アゲハはゆっくりと立ち上がる。
「じゃあ勝手にしろよ。……やだなぁ……無駄な魔力使うの」
――そして、その勝負は順当な結果を迎える。
何の捻りもなく、当たり前に兎角は倒れ、それをそばでアゲハが見下ろしている。
これは当然の結果である。すでにギリギリの状態だった兎角が、何の消耗もしていない者に勝てるわけがないのだ。もしも兎角が万全だったらとか、そういう「たられば」は無駄な話。黒龍によって志に傷をつけられた兎角では、やはり無傷のアゲハを打倒するのは難しかっただろう。
そのうえで、黒龍によって極限まで消耗させられているのだから。そんな様で、勝てる道理はどこにもない。
(く、そ……!)
それでも兎角は悔しかった。彼女は正義の味方なのだから。正義を成せない、それはたまらなく悔しいことで……この街が魔術の発動によってこれからどうなるのかも、見届けることすらできないのだから。
彼らは何を企んでいたのか。この街の人々を皆殺しにする気だったのか、それとも奴隷にでもする気だったのか。何もわからないまま、兎角の人生はここで終わるのだ。
ごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。
そう謝罪して、兎角は訪れるだろう衝撃を予感しながらぎゅっと目を瞑り――。
黒龍と博爵は、訪れる実験の結末への期待に胸を躍らせながら口角を釣り上げ。
彼女のそばに立つアゲハの手が振り下ろされて、彼女の人生は終了する。
…………
……
…
***
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――はずであった。
(………………………………あれ?)
ところが、訪れるはずの衝撃も、痛みも、何もやって来ない。
なぜだ? ここで自分が殺されることは、確かに結界魔術の発動条件であるはずなのに。それは間違いないはずなのに。
兎角は困惑した。自分はまだ――生きている。
(なぜ?)
おそるおそる、兎角は目を開いた。そして、自分のそばには誰も立っていないことを確認すると、視線を動かす。
――そこにあったのは、すたすたとベンチに向かって無言で立ち去っていくアゲハの姿だった。
「え?」
「ハ?」
「何?」
今アゲハに倒された兎角、この場を覗き見ている博爵と黒龍、三者は三者ともアゲハのその行動に驚愕を覚えた。
呆気にとられたと言い換えてもいいだろう。予想外の行動、まさか彼女が何もせずにそのまま獲物を放置するなど、思ってもみなかったから。
まさか本当に、興味は欠片もないと言った通り。彼女は兎角に、何の興味もなかったというのか。
「……心配が何ダッテ? ドクトル?」
「いやぁ……何だろうね?」
彼らの驚きを無視して、アゲハは自らの定位置に戻るとそのまま腰を下ろす。
そしてまた宙を見つめて、いつものように何でもない時間を過ごしていた。
だが何かを思い出しかのようにアゲハは兎角を見ると、まるでそれが勝者の権利であるかのごとく、当然のように問いかけた。
「なあお前。星空というのは、そんなに綺麗なものなのか?」
「え……?」
兎角はますます困惑する。見逃されたかと思えば、今度は突拍子もない質問をされたのだから。
一体なにが狙いで、どんな意図がある質問なのかは分からなかったが……兎角は性格上、思わず答えてしまう。“領域”のおかげか、街の光に邪魔されずよく見える星空を感じながら。
「……綺麗、だと……思うわよ……?」
「ふーん……そう」
その答えに何を思ったのか。何も思わなかったのか。アゲハはちらりと、灰色の塵が散らかった灰色の空を見つめると、すぐに視線を戻す。
それきり彼女は、今度こそ本当に興味が完全に無くなったのだろう。兎角のことをもはや存在ごと無視してしまい、二度と問いかけることもなかった。もしかしたら、目の前にいるというのにその存在を忘れ去ってすらいるのかもしれない。
だがそんなアゲハ自身はともかく、他三名はいまだに困惑したままだ。
(今の質問に何の意味が……? というか、本当に何がしたいのこの子……!?)
――――――カツン。
まさかこの場で自分の命を奪うことが発動条件だという推察が間違っていたのかと思い直したが、しかし仮にそうだとしても敵である自分の命を放置する意味がわからない。
不殺主義なのかとも兎角は考えたが、それはない。アゲハはもう何人もの命を奪っている。幼い頃から、その精神的色盲にすらなってしまうほどの達観した精神ゆえに、人の命を奪ったとしても傷つくことなど何もなかった。
だから兎角のことを哀れんだとか、そういうことはまずないだろう。
――――カツン。
(まさか本当に裏切ったトカ? イヤ、しかしあの恨みなどととは無縁そうな女が俺たちを裏切るノカ? 自由になってからならともカク、このタイミングで今更?)
アゲハに彼らを裏切るような気概はない。彼女自身もそう言っていたし、黒龍もそう判断した。それは彼女が、憎悪という感情すらどうでもいいと思っているような、無痛症にも似た心の持ち主だと黒龍は思っていたからだ。
そして何よりも、タイミングがわからない。裏切るなら自由の身となってから、こちらを殺しに来るという方が現実的な考えではないのか。
仮に彼女が裏切ったとしても、実験が完成する直前というこのタイミングで裏切る意味とは何なのか。確かに直前で実験が失敗すればこちら側のショックは大きいだろう。特に博爵にとっては長年かけた実験なのだから。
しかしだからこそ、実験を完成させる保険の手段を用意していると予測できない彼女ではないだろう。
黒龍がアゲハを殺す――アゲハがここで兎角を殺すメイン手段より僅か不確実にはなるが、そういう手段も可能なのだから。
(どうスル? 殺ルカ? あちらの俺に意識を移セバ、今すぐにデモ)
黒龍がアゲハを殺すことも視野に入れ始める。
――――カツン、カツン。
(いや、もう少し待ってみよう。彼女には彼女なりの考えが……いや、それが何かはわからないが、あるのかもしれない。とにかく君が彼女を殺すのは最後の手段だ。彼女との契約のこともある)
そんな黒龍を博爵が手で制す。黒龍が彼女をここで殺してしまえば、彼女との解放という約束を果たす直前で彼女を殺すこととなる。そうなれば、彼の固有魔術を使用する条件の一つである「約束は守らねばならない」に、下手をすると違反してしまいかねない。
もちろん彼女がこちらとの約束を果たさなかったからという言い訳が立つ状況ではあるが、もし彼女がここから約束を守る気だったならば、こちらから約束を破る形になってしまう。しばらく、ここは待たねばならないだろう。
――カツンカツン、カツン。
(何を考えてるの?)
(どういうつもリダ?)
(一体何がしたい?)
目の前に転がっている、自由になるための生け贄。それを放置してまで、一体彼女は何を待っているのか。
――カツン。
そして――おもむろに、アゲハは立ち上がる。
それは、彼女がこの時間で初めて見せた積極的な行動だった。
誰のことも眼中に入れなかった。どんな事にもどうでもいいと言って関心を持たなかった。そんな彼女が自分から行動を起こす理由、そして理由となる人物。それは、一人しかあり得ない。
一年前のあの日から、ずっと。彼女の瞳に、唯一映っているものは――。
(そういえば、立って出迎えるのは初めてだっけ)
なぜ立ち上がったのか。座っていると、また文句を言われるかもしれないから。あんな変な理由で、二度もイチャモンをつけられたくはなかったから。
……あいつがここに来ることはわかっていた。何せこの一年間、ずっと毎日、私が来て奴がここに来なかった日は無かったのだから。
……あいつが来たこともわかっている。何せこの一年間、毎日毎日聞かされた足音なのだから。
わかっているとも。喜べよ、ようやく願いが叶う時だ。
風が吹く。あの日のように。
扉が開いた先、そこにいたのは見慣れた姿だ。
何度ここで会話をしただろう。何度ここで罵り合っただろう。それは思い出にはほど遠く、けれど、悪夢からもかけ離れた記憶。
彼女は依然として無表情のまま。けれど、何故だろうか。それは何だか、先ほど兎角が例えたような、氷で出来た彫刻だとはとても思えず……。
二人は互いに、今いる場所から数歩進んで。
「よお葵賊院」
「よお、氷月」
当然のように、二人はこの場所で向かい合っていた。
そう。これは、必然ではなく当然だ。彼らがこうしているのは、もはや当たり前のことである。
今までと違うのは、彼女がこうして立ち上がっていること。
そして、今から起こることが――口喧嘩ではないことだろう。
ならば何が起こるというのか。無論、特別なことではなく、言わずと知れたことである。
「お前にしては、来るのが遅かったんじゃあないか?」
「ああ、だから――手っ取り早く、始めよう」
氷月 赫狩と葵賊院 陽鳳の、戦いが始まる。