20.正義の味方 vs 悪の味方
黒龍は囚われた瞬間に"領域"からの脱出を図ったが、しかし逃げることはできなかった。
(……別効果を付加された特殊"領域"カ?)
彼はそう予測した。いやそもそもそれ以前に――なぜここにこの女がいるのだ?
この結界は、特定の場所で人を殺すことで成長する。そう博爵が設定したからだ。
それを、この女が見破ったとでも? ……馬鹿な。そう思ったところで、彼は一つの言葉をまたも思い出していた。
――"「仕方なく自力で探そうと思ってよ、愛東中学の辺りは集団下校で人がいたし、四丁目辺りは警察が巡回中。んで人が少ないとこ集中的に探してみて……」"
(……あの餓鬼カ?)
確か、そんなことを言っていた。自分は結界を成長させるためのポイントから残っているものを無作為に選んだつもりだったが、そうではなかったとしたら。
もしもあの言葉に、人のいないポイントへとさりげなく誘導されていたのだとしたら。あの少年がこの女に連絡して、自分を待っていたのだとしたら。
(……いや、考えすぎだロウ)
だが黒龍はその考えを払拭した。この考えには穴があるからだ。
それは、あの少年が結界の成長ポイントを知っていなければならないということ。博爵が長年かけて造り上げた結界魔術。その重要点を、どうしてたかが魔術師になったばかりの少年に見破れるというのだ。
まあ、もし少年のそばに途轍もなく凄腕の魔術師でもいれば話は別だが。しかしもしもそんな人物がいたのなら、少年はもっと早くに魔術師へとなっていなければおかしいのだし、やはり考えすぎなのだろう。
黒龍は馬鹿な考えをすべて捨て去り、目下の問題である領域へと集中する。
領域にはただ魔術の存在が明るみにならないよう魔術師たちの存在を世界から隠すだけでなく、使用者にとって有利に働くような効果がわずかに付与されているものも存在するのだ。
「ふっふっふ、逃げることはできないわよ。前回は逃げられたからね、今度は逃げられないよう特別に使わせてもらったわ――すっごく! 高かった!」
だが値段は高かったらしい。
「俺ごときのためにわざわざ用意してくれるなんて太っ腹だナァ。ああイヤ、これは女性に対しては不適切な言葉だったカナ」
「あら、意外と紳士なのね」
「当然ダヨ」
だがそうした特殊な領域は当然、下手に売りさばけば悪用されることは必至であるために、売られる場合は購入者の信用が必要となる。錬金術師たちは領域を善人悪人問わず売却するが、特殊領域だけは別だった。基本的に、善人にしか売られない。
そうしてそれを使用しているということは、彼女が信用を得ているということを意味する。
……もっとも、「まあこいつなら売っても大丈夫だろ」となめられている可能性もあるが。
「キヒヒ、それで君は俺になんのご用件なのカナ?」
「しらばっくれても駄目駄目駄目よ。あんたなんでしょう、あの結界を張ったのは」
街を丸ごと覆っている巨大な結界。人の目には見えないが、魔術師ならば魔力を探ることでそれがそこにあるのだということは感じ取ることができる。
「人の死で成長する……悪趣味よね。そんなものを用意しておいて、自分は悪党じゃありませんなんて通用すると思っているの!?」
「しないヨネ~。キハハハ! でも証拠はあるのかナア、俺がやったって証拠はサァ」
黒龍も言い逃れをするつもりはない。
しかし彼は探偵に追い詰められた犯人の常套句を吐きながら、言い逃れを続行していた。
"悪の味方"はからかい好きだ。彼個人の性として、相手をからかわずにはおられない。
「証拠ですって?」
そんな彼のからかいに、だが真面目な兎角はしっかりと受け答えを行う。
「そんなものは必要ないわ。私を何だと思っているの? 警察? 検察? それともまさか探偵かしら? そんなわけはないわよね。私はヒーロー、正義の味方。証拠を必要とするのは、相手を捕まえたい人たちだけよ。私はね、あんたを捕まえに来たんじゃないの――この世に蔓延る悪党を、この剣で斬り裂きに来たのだから。そのために必要なのはこの剣と、あんたが悪党だという確信だけよ」
「なるホド、一理アル」
その点、黒龍は見た目も挙動もどう見ても怪しさ丸出しの人間である。加えて、今から人を殺す気も満々だった。兎角が殺害を躊躇する必要はどこにもないだろう。
「けれど、五体を地べたに投げ出して、百ぺん謝るなら許してあげなくなくもないわ。牢獄にぶち込むだけで済ませてあげる。――私からはだけどね!」
「キヒヒ。遠慮しヨウ。ああそレト、この結界魔術を造ったのは俺ではなイヨ、俺はただの雇われ護衛だかラネ」
さらりと黒幕の存在をカミングアウトする黒龍。博爵の存在を最後まで隠し通そうという気が彼にはまるでなかった。というよりは、この段階で彼の存在を明かしたところで実験の推移に支障はないという判断か。
「護衛? その割には、あなたの傍には誰もいないようだけど」
「本当ダ、確かに誰もいないネエ。キヒ、キヒ、キヒ」
どこまでも怪しい男だったが、しかし観念するつもりはないようだ。
ならばこれ以上押し問答を続けるのは無駄だろう。兎角は腰にさしていた短剣を抜き、逆手に持って腰を落とし、いつでも飛び出せるよう構えをとる。
「キヒヒ……さっきの少年とイイ、君とイイ、餓鬼ってのはどいつもこいつも俺に喧嘩を売らなきゃ気が済まないノカ?」
アイバイザーの奥で彼がどんな目をしているのか推し量ることはできないが、しかしなんとなく……恐らくは、いや確実に、彼は彼女を嗤っている。
哀れな女だと下に見て、彼は嘲笑しているのだ。
「マア仕方ナイ。逃げることもできないようダシ、そんナニ、そんなにも俺と戦いというのナラ、いいトモ。望みどおりにしてやロウ」
そう言って、彼はズボンのポケットに手を入れたまま片足をゆっくりと持ち上げる。足はほぼ垂直に持ち上げられ、脚が顔についてしまいそうだ。
まるでそれは、龍が口を開くように。
まるで、龍が牙を見せるように。
魔力が高まる。魔力が流れる。
先ほどはアゲハとの約束に縛られて見せることができなかった――劉・黒龍の魔術が発動する。
それは自己への変革宣言。
自己に流れる魔力を使いこなし、"固有魔術"へと姿を変えるための起動解言。
――しかし、今更命じるまでもない。
劉・黒龍は高位魔術師。無名だった男ごときと、一緒にしてはならないのだ。
「――"変身"――」
瞬間、兎角は高速で魔術を回した。自分にできる精いっぱいの速さで魔術を発動。
「"跳び斬れ"――『三日朏玉兎』ッッ」
刃を振るう。彼女の遠隔斬撃魔術が起動する。確実に相手を殺すため、瞬間的に込められる最大の魔力を込めて短剣を補強。切断力を上昇。
三日月から黒龍を斬り殺すために、もう一つの玉兎が跳び出る。
こう聞くと語弊が生じるかもしれないが、『三日朏玉兎』は正確に言うと遠距離攻撃系の魔術ではない。斬撃が跳び出るというのは、あくまで言葉の例えに過ぎない。
その本質は、むしろ全く違うもの。彼女が斬撃を振るった刃から、もう一つの斬撃が飛び出て敵を急襲する飛ぶ斬撃――ではないのだ。
彼女が指定する任意の座標から、彼女が振るう斬撃と同威力かつ同太刀筋の斬撃を発生させる魔術なのだ。
すなわち、遠距離攻撃ではなく距離無視攻撃。斬撃放出でも斬撃拡張でもないために、二つの斬撃の間に一切のタイムラグは存在しない。三日月と玉兎の二つは、まったく同時に振るわれる。
しかも彼女が今まで行ってきた努力の賜物により、距離だけでなく角度と高低すら無視できるようになっている。
これにより、敵は思わぬ場所から見えない刃で斬られるという錯覚を味わうこととなり、ゆえ回避することは非常に困難。敵は前にいるのに、なぜか後ろにいる見えない敵に斬られるようなものなのだから。
欠点として斬撃一回一回に魔力を使用してしまうが、何度も使用しない限りはそうそう魔力が尽きることもないため燃費も良好。
――彼女が信頼するそんな唯一の武器を、速攻で彼女は開帳した。
対殺人鬼の時にすぐこれを使わなかったのは相手の様子を見るためだったが、今は違った。様子を見ている余裕などなかった。
なぜか? 悟ってしまったからだ。彼が魔術を使用しようとした瞬間に、彼が魔力を回した瞬間に。「あ、格上だ」……と。
そして、黒龍は持ち上げた足を振り下ろしていた。
まるで龍が口を閉じるように、大地を蹴り壊すかのような勢いで。
衝撃と光で塵煙が舞う。少しの間、彼の姿が隠される。
兎角は手ごたえのなさから、回避困難なはずの『三日朏玉兎』が躱されたことを悟った。
煙の向こうから、一言。魔術の発動を告げる声が、響いて。
「『虹霓悪骑士』」
彼の異能が、その姿を見せる。
【――危格識別等級・黄金階梯――】
魔術、起動完了。
「サア、どこからでもかかって来るとイイ……先達とシテ、胸を貸してあげヨウ。マア、鱗が刺ささらない保証はしないガネ。奇覇爬」
現れた黒龍の姿は、驚くほど変貌していた。
鎧のように、龍を模した外殻を全身に纏っている。彼の象徴とも言えたアイバイザーは、そのまま外殻の眼として取り込まれており不気味な光を宿していた。
元の姿はほとんど隠されており、人間だとわかる身の部分はほとんど見えない。せいぜい、開いたときに見える咥内くらいか。
魔術の効果も、見ればわかる通りだろう。おそらくは、身体機能の上昇。攻撃と防御ともに、飛躍的に上昇しているはずだ。
まるで戦う魔術師そのものの……一目瞭然な武闘派魔術がそこにあった。
「シィッ」
だが驚くのも束の間。一瞬で意識を切り替えた兎角は、後ろへ跳んで下がりつつもう一度刃を振るう。
今度は特別魔力も込めていない、普通の斬撃。
「フンフンフ~ン」
だが、斬撃は黒龍の外殻に弾かれた。
跳び出る玉兎の切断力は、彼女の手元で振るわれる三日月の刃に依存する。というか、一切の違いなく同じ威力だ。ゆえに三日月の切断力を魔力で高めなければ、玉兎の方も相応の力しか持つことはできない。
次は魔力を込めた斬撃。横薙ぎに刃を振るう。黒龍の数十センチメートル程度後方の座標を起点に斬撃が同時に発生し、彼に向って見えない刃が進んでいく。
が、躱された。
見えないはずの刃が、どこから現れるかもわからない魔術が、いとも簡単に。しかも彼は迷うことなく、半身になることで紙一重に躱したのだ。兎角は短剣を横なぎに振るっていたのに、発生した斬撃が縦方向のものだとわかっているかのようだった。
この二つの斬撃で、二つ、兎角は分かったことがある。
一つは、彼はこちらの見えない刃を回避することができるということ。そしてもう一つは、二つ目の斬撃を彼は避けたことと一つ目の斬撃は弾かれたことから、魔力を強く込めなければあの外殻を斬ることはできないということだ。
こちらを惑わすために、あえて強い斬撃も回避した可能性はあるが、それは考えないことにする。
いや、なぜか最初から彼がこちらの斬撃を回避できた――つまりこちらの魔術をなぜか知っていたことも含めると三つか。
「不思議なことじゃあなイヨ」
龍は笑う。無駄に足掻く少女を、笑う。
「さっきの戦いは見ていたかラネ。ああイヤ、さっき知ったかラネ? 初見だったら斬られてたかもしれないケド、知っていれば躱すことは難しくなイサ」
簡単に言ってのけた。見えない攻撃を躱すことが、どう簡単だというのだ。
無名の殺人鬼が使用した『幽怪乱歩』も、見えない攻撃という点では『三日朏玉兎』と同様だが、本体が見えなくなる男の魔術と見えない攻撃を繰り出す少女の魔術とではその本質がまるで違う。
男の魔術は、実像の動きとある程度リンクして虚像も同時に動いてしまうために脅威性は低かった。しかし少女の魔術は、見えない攻撃が予期せぬ場所から何度も襲い来るというもの。兎角が剣を振るわねば斬撃は発生しないが、しかし兎角の手元にある剣の動きに注視してしまうと逆に騙されてしまう。
それは非攻撃用魔術と攻撃用魔術との差であり、男と彼女の魔術師としての差だ。
しかしどちらであろうと、黒龍には通じなかった。
「遠隔斬撃、確かに便利で強そうだケド、発生した斬撃にも魔力が宿っテル。ならそれを感知してしまエバ、斬撃の発生地点と切断方向もわカル――ホラ、簡単ダロ?」
そんなわけはない。
確かに黒龍の言った通り、玉兎には魔力がある。魔術によって生み出された刃であるため、それは当然だ。
しかし例えそれを瞬時に感知できたところで、その時にはもう攻撃は始まっているのだ。これを回避するというのなら、感知からの回避は一瞬以下の極短時間で行わなければならない。どこから来たか、どこへ行くか、どこまで行くのかまでを計算した上で、だ。
およそ並みの反応ではないだろう。あの鎧は、彼の反射神経までも向上させているのか。あるいは、元々それだけの能力が彼にはあるのか。
だがこれだけでも、黒龍という男が平均的な使い手ではないことがわかる。
強敵だった。まぎれもなく、先ほどとは比べ物にならないほどの。
「言ってくれるわね……!」
玉兎発生。黒龍回避。
しかも、前戦に続いて相性も良いとは言えない。『三日朏玉兎』が持つ距離を無視できるという最大の利点が、あの反応力と硬い外殻のせいでほぼほぼ封じられているのだから。
兎角は連続で刃を動かす。距離、角度、高低を無視するという特性上、兎角の剣に技術はたいして必要ない。
なぜなら近くの敵に剣を当てるという、剣戟におけるその前提をあまり考えなくていいからだ。距離を無視するという攻撃には、それだけの力がある。
よってこの連続攻撃も、ただ剣を振り回しているだけ。しかし、この振り回しているだけの攻撃が脅威となる。相手が、並みの魔術師であれば。
「効かない効かナイ」
四つの剣がすべて躱される。どうやら、ただ我武者羅に振っただけの剣は通用しないらしかった。
並みの魔術師なら、これだけで肉を大きく削がれていてもおかしくはない。神出鬼没の刃に噛まれ、普通は全身を切り刻まれる。
しかし、黒龍は違う。
その実力の高さと、硬い外殻が彼女の刃を通さないのだ。
「デモ、躱すだけというのもつまらないナア」
黒龍は、魔術発動から今まで攻撃を一度も行っていない。舐めている。油断している。なのに、押されているのは兎角の方。
彼には余裕があるのだ。兎角の攻撃が通用しない以上、彼には焦る理由がないから。そして、だから兎角には余裕がない。自分の攻撃が通用しない以上、どう攻めるかを考えなくてはならないから。
「ちょっと行ってみルカ」
兎角の眼前に、鎧纏う黒龍が現れていた。
「――!?」
こうなることを恐れて戦闘開始後すぐに後ろへと飛び退いたというのに、黒龍の速度は彼女の予想を上回っていた。
「ヨッコイ……」
黒龍が足を動かす。これに蹴られればどうなるかなど、馬や鹿でもわかるというもの。
だから近づかれたくなかった。
鎧を付けた人間とそうでない人間の差など、非魔術師同士であったとしても歴然だ。ましてや黒龍は魔術師。
いけない、避けねば。
「……っショ」
無造作な蹴り。油断している人間が全力で攻撃を撃つわけはないが、しかしこれは全力なのだと信じたかった。
ただの蹴り一発で、背後にあった家屋が文字通り"半"壊していたのだから。
「――っぷはぁ!」
兎角は何とか、龍の足跡から逃れ出ることに成功していた。
最初から彼の一撃をずっと警戒していたからこそだった。受ければただでは済まないと、見たまま直感していたからだ。だから落ち着いて躱すことができた。
しかし、それでも馬鹿らしくなるほどの威力差だ。
兎角の攻撃はすべて短剣から発生する。
しかし、どれほど魔力を込めようとただの斬撃である以上、そこには限界がある。彼女はなんでも切り裂けるような剣士ではないから。
が、黒龍の方はただの蹴り一つでこれだ。
両者が持つ魔術の特性差が顕著に表れていると言えるだろう。
「ま、それでも諦めるなんて選択肢はない兎角さんなのでした!」
「キヒヒ、そうそうそれで良いんダヨ」
戦闘は続く。
近づけば黒龍の一撃に翻弄され、遠ざかれば兎角は一方的に攻撃ができる。
……男が手加減をしていることはわかっている。さっきの一撃に限った話ではない。
あれだけの力を持っているならば、たとえ離れていようともこちらを攻撃できる手段は模索できるはずだ。しかし敢えてそれをせず、離れた距離はこちらに譲っている。これを手加減と呼ばずして何と言うのか。
だが好都合だ。せいぜい油断をしているといい。
その隙に、この剣が奴の心臓へ届けばこちらの勝利なのだから。
(……とでも思っているのかナア)
本当にそう思っているなら、それは彼女の勘違いだ。黒龍は苦笑を浮かべる。
確かに黒龍は現状手加減しているし、彼女の見えない斬撃を躱すことも容易にできる。しかし、それと躱し続けることができるかは別の問題なのだ。
銃弾を回避できるからといって、じゃあ機関銃を躱してみろなどと言われたところで素直に頷けるだろうか。
見えない斬撃一つなら、彼にとっては確かに容易いことである。しかし、それが二本、三本、四本五本と次々襲い来るとなるとどうなるか。
ただでさえ注意を払わねば回避できない攻撃なのだ。しかも向こうは魔力を使った強い攻撃を混ぜる頻度を上げている。
魔力の発生点を察知し、そこから斬撃が来る方向を見極めることはまだできているが、それが強い攻撃なのか回避しなくてもいいような弱い攻撃なのかを見極める余裕まではない。
ゆえに彼は今、すべての攻撃を回避し続けている。黒龍の攻撃回数が少ないのは、彼が本気を出していないというのももちろんあるが、攻撃に回る余裕がないという理由も含まれているのだ。
(コレ、他の魔術師ならどう対処するのカナ)
例えば攻撃することに特化した魔術師ならば、先手を打って少女の回転をまずは封じるだろうか。
例えばあの少女なら、そもそもこの程度の斬撃はすべて防ぎきるだろうか。
(でも最初っから手加減しちゃったシナー)
鎧は何もしなくても身を守れるのが利点だが、鎧の硬度を上回る攻撃には無力というのが欠点だ。
先ほど彼女は自分の切断力と黒龍の威力を比べたが、しかしそれは誤りである。
拳と剣では、そもそも求められる攻撃の威力が違う。拳は相手を確実に砕くためにより大きな破壊力が求められるが、剣に求められるのは切れ味だ。何せ人間は心臓を一突きされただけで、咽喉を引き裂かれただけで死ぬのだから。
(破壊力の差とか、そんなの気にしてる時点でまだまだ二流なんだヨネ)
黒龍にはまだ余裕がある。回避し続けるのが難しいと……確かにそれは事実。だが不可能かと問われれば、特にそんなことはない。
そもそも彼にとって、これは戦闘ではないのだから。
兎角にとってはともかく、彼にとってこんなものは所詮ただの余興である。ノーダメージで圧倒してみようとか、そういう、からかいながら少女の相手をする遊戯。
自ら縛りを入れているのだから、精神的な余裕はともかく動きに余裕などあるわけもない。
「ねえネエ、正義の味方ァ」
しかし黒龍は余裕心たっぷりに口を開く。
「君の魔術、それサア、ホントに正義の味方用? どう見たって暗殺向きジャン」
彼は少女にとって突かれたくないだろうところを突く。
趣味で。
「ていウカ、なんで影からこっそり俺を攻撃しなかっタノ? 不意打ちじゃあさすがに俺も一発は食らってたかモヨ?」
遠隔斬撃魔術。距離を無視できるというその特性があれば、そもそも敵の前にわざわざ出てくる必要がないのだ。
物影からこっそりと相手を攻撃し続ける。それを延々と繰り返せば、安全に敵を撃破できるはずなのだから。しかもただの狙撃手と違って、攻撃の出どころはわからない。
なぜなら『三日朏玉兎』の厄介な点は、距離を無視する以上に角度を無視するところだから。縦かと思えば横、横かと思えば斜め、まさしく縦横無尽に駆け回る兎のように、この魔術は次から次へと切断する角度を変えていく。
「固有魔術ハ、五割の心象と五割の思想から形造られるとイウ。さてサテ、君の魔術はどうなのカナ」
この魔術が例えば直進方向にしか斬撃を飛ばせないとか、同一角度でしか切断できないとか、それだけならまだ簡単だ。兎角が握る剣を見れば、斬られる方向が分かる。しかし角度を無視する以上そうはいかない。むしろ兎角の手元を注視してしまえば、そこに引っ張られてしまい本来の斬撃を躱せなくなってしまう。
距離も角度も無視する斬撃。どこから斬られるのか、どこを斬られるのか、それを悟らせない魔術。
なるほど確かに暗殺向きだろう。むしろ、暗殺でこそ真価を発揮するといえる魔術だ。
兎角の「遠くに悪が逃げようと必ず殺す」という正義が形となった魔術であるが、しかしこうした暗殺向きという薄暗い面はいったいどこから来たのか。
だが今はそれが語られることはなく、そして、兎角はこの魔術を影から使うようなことはしない。
「だってそんなことしたら、こっちが悪役みたいじゃないの」
理由はいたってシンプルだ。彼女が正義の味方だから。
「卑怯落橋上等よ、けれど私はそうしない。正義の味方は、誰にも恥じない戦いをしなければならない。どんな手段でも使って勝てばいい? 綺麗事ね。そんなの、自分は真っ当な勝ち方ができない弱虫ですって言ってるようなもんじゃないの。正面からならともかく、物影からこっそり暗殺なんて正義のやり方じゃないわ」
正義には美学が必要なのだ。別に他者へと押し付ける気はないが、だからこそ自分にはその拘りを押し付ける。
正義は必ず勝つ――だとしても、勝ち方は選ばねばならないだろう。そうでなければならないはずだ。
なぜなら汚い手段で勝ったとして、それは正義と言えるのか?
青臭い? 人を守るためにはそんなこと言ってられない時もある? ――わかっている。わかっているのだ、そんなことは。けれど、それを納得できるかどうかは全く別の問題だろう。
結構じゃないか、青臭くても。
少なくとも、後ろめたさを抱えながら戦うよりはずっと立派だ。
こそこそ戦って、こそこそ這い回るような生き方で、自分は正義なのだと胸を張って言えるわけがないだろう。
「正義の味方がせめて、せめて正々堂々戦わなきゃ、誰が綺麗な背中を見せるっていうのよ……!」
明日を夢見る子供たちに、誇れる立ち姿を。
それもまた、ヒーローの仕事だと思うから。
……所詮は悪党と同じ穴の狢、人殺し風情の背中だけど。
血に汚れて、とても綺麗だとは言えないかもしれないけど。
それでも彼女は正義の味方だから。真っすぐ戦い、真っすぐ勝つ。そこを譲るわけにはいかないのだ。
「だから私は、暗殺なんてしないのよ。残念ね、悪党。私があんたの同類じゃなくて」
「キハハ。アア、残念ダヨ……君がその程度の小物なら、遠慮なくそこをからかったノニ」
なら、これはどうだろう。
「じゃあ質問ダ――二人の悪党にとられた人質。一方は大切な一人きりの家族、一方は見も知らぬ十人の他人、さあ君はどっちを助けるノカ。もちろんどっちも絶対助けるなんて曖昧な答えは」
なしだと、言い切る前に。
「愚問ね。人質が殺される前に、悪党を二人とも殺せばそれで済む話じゃない」
兎角は答えを言い切っていた。
「――素晴らシイ」
なるほど確かにまったくもってその通り。どうやら彼女は本物の正義の味方であるらしい。
人を助ける、それが正義の使命である。しかし助けるばかりが正義の味方の仕事ではない。時には、血に塗れる覚悟も必要となる。
助けなければならない存在が二つあって、どちらか一つしか助けることができない。一方は大切な一つ、一方は大切ではない多数。
どちらを助けるのか?
当然、こういう意見もあるだろう。正義ならば、たとえ大切な少数を切り捨ててでもより多くの人間を助けるべきだと。犠牲なくして正義はない、だから助けるべきは大切ではない多数だと。
反対に、こういう意見もあるだろう。正義ならば、大切なものを助けることができずしていったい何を守れるというのかと。愛なくして正義はない、だから助けるべきは大切な少数なのだと。
どちらも正しく、間違ってはいないのだろう。
だが同時に、兎角はこうも思うのだ。
――「いやいやちょっと待ってよ。なんで犠牲になるのが罪もない一般人だと決まっているのが前提なの?」
と。
まず前提からして間違っているじゃないか。犠牲になる、いや、必ず誰かが命を奪われるというのなら、それは悪党の方であるべきだろう。
そんな当たり前のことを無視して、なぜ罪もない誰かが死ぬと決めつけているのだ? それが兎角には皆目わからない。
そして兎角の魔術は、それが可能だ。射程を無視した遠隔斬撃なら、離れた悪党を殺すことができる。そういう正義が、表れている魔術なのだから。
ゆえに彼女は正義の味方なのだ。
人のために、皆のために、自分以外の誰かのために。
「だから、今死ぬべきはあんたよね、悪党」
「そうなっちゃうナァ。でも死ぬのは嫌なんだよネエ」
黒龍は死にたくない。死ぬのは御免だ。黒龍はどれだけ他人を虐げようと、自分が殺されるのは嫌なのだ。
わがままだって? 当然だ。悪とはわがままであるべきなのだから。
兎角が二度、刃を振るう。
「ン――うおット!」
黒龍はずっと繰り返していたように躱そうとして、しかし。
「危ない危ナイ。そういうこともできるノカ」
「ちっ」
兎角の本命は二振り目の玉兎。一振り目はわざと避けさせて、本命を当てる策。
しかし当然、普通に攻撃しても黒龍は平然と回避する。決して当たることはないだろう。だから兎角はわざと魔術発動のタイミングを遅らせる、つまり刃を振っている途中から魔術を発動。これにより、黒龍は回避のタイミングをズラされ、回避をし終えた瞬間という無防備な一瞬を晒すところだった。
その一瞬を狙い、兎角は攻撃の途中から魔術を発動させる。一瞬を狙って玉兎が出現し、黒龍を急襲。
影から不意は打たないが、正面からなら打つという兎角の強かさが現れた攻撃だった。
しかし、それでも黒龍はギリギリで回避。かりにこれが互角の戦闘だったなら間一髪で斬られていたかもしれないが、今黒龍は回避に集中するゲームを行っていた。だからこそ、その縛りに救われた形と言えるだろう。
「思っていたよりやるじゃなイカ」
さすがは正義の味方だと、黒龍は素直に目の前の女を褒めた。
「あんたに褒められても嬉しくはないわね。どうせ、心にも思っていないことじゃないの?」
「いやいやそんなことはなイサ。ちゃんと心に思っているトモ」
なぜなら――。
「俺ハ、正義の味方をこそ最も厄介な敵だと思っているんだかラネ」
それは彼の本心だった。彼は心から、正義の味方という存在を厄介な存在だと思っている。
「意外ね。敵の強いとかどうだとか、気になんてしないタイプと思っていたけれど」
「するトモ。だって敵が俺より強かったら死んじゃうダロ?」
黒龍の開かれた五指が兎角を襲う。兎角は冷静に短剣を動かし、魔力を練る。
三日月に連動して玉兎が現れ、横から黒龍を切り裂かんと迫る。黒龍は攻撃を中断し、玉兎へ対処せざるを得ない。
射程を無視する斬撃を前にすれば、およそほとんどの異能は後手に回ってしまう。
「随分とまあ勝手なこと!」
黒龍は戦うことが好きだ。人をからかうのが大好きだ。
だが、どちらも死んでしまってはできなくなってしまう。ゆえに死が恐ろしい。ごく当たり前に、死が怖い。
魔術師だって人間だ。死が怖いという当たり前の感情は有している。それは彼だって例外ではない。死を恐れないのは一部の外れた変人のみで、彼は自分をそうではないと自認していた。
しかし黒龍という男は悪党なのである。死が怖くて、悪はできない。それが難儀だった。
悪党は悪ゆえに、悪事を働いていかねば生きていくことはできない。当然、それは黒龍も。だからどれだけ死を恐れていても、彼は悪を必ず行ってしまう。
だが悪を行うということは、それはすなわち正義の敵になるということなのだ。
一般社会ならば罪を犯せば警察に追われるようになるように、魔術界においてもそれは同様。悪いことをすれば、必ずそれを追う者は現れる。ちょうど、今の彼女のように。
悪を犯せば犯すほど、悪を追うものは強くなっていくだろう。
そうして、いつか悪は討ち滅ぼされてしまうのだ。
悪が栄えたためしはあれど、悪を野放す法はない。
黒龍の元にも、いずれ必ず死神は現れる。……それは避けられないことかもしれない。だが、しかしだ。それがいつかやってくるのだとしても、その訪れを引き延ばすことはできるのではないか?
彼は、そう考えたのだ。
「キヒヒ」
これは「優先順位」の問題である。
先ほど黒龍があっさりと博爵の存在を仄めかしたのも然り。彼は自分の元へと死神が訪れるのを引き延ばすべく、自分のことを考えながら活動している。
だから本来、彼女のような正義の味方に狙われるのは大変不本意なことなのだ。
正義の味方は警戒しなければならない。なぜなら……。
「君たち正義の味方というもノハ、諦めない限り何度でも立ち上がるという特性を持っているんだカラ」
守るべき人がいる限り、助けを求める声がある限り、彼らは何度でも立ち上がり、必ず悪に勝利する。
そんな理不尽な存在がいる。そんな理不尽な存在が自分を狙っている。これはまさしく恐怖だろう。
勝利を求めて邁進し続ける光の剣、栄光の使者。
どんな状況になっても諦めない。敗亡の淵に追い込まれたとしても、前へ前へと進み続ける。決して止まりなどしない。
光を、勝利を、輝きを、明日を未来をと信じながら絶対に立ち止まることをしない。
なえなら、助けを求める人がいるから。
悪に虐げられようとしている人々がいるから。
彼らを助けるそのためならば、どれだけ血に流そうとも構わない。
正義の味方になるのが難しいのは、そうした隔絶の精神を持つことから始めねばならないという条件がまず難題だからという面があるのだ。
「そんな奴ラ、絶対に戦いたくなんてないダロ?」
「じゃあ――やっぱりあんたは、ここで私に殺される定めじゃないの!」
兎角は、黒龍に向かって駆けた。このままではらちが明かない。
このまま遠くからチマチマ攻撃していても、この男は絶対に倒せない。自分の魔力が尽きるか、この男に殺されるか、どちらかが確実に訪れる。それは避けなければならない。
お前が正義の味方を恐れるというなら、いいだろう。望みに反して斬り殺してやろうじゃないか。
「なンダ?」
そんな近づいてくる兎角を見て、当然悪の味方は困惑を覚える。
なぜなら近づけば、凶器以上に凶悪な黒龍の強化された四肢が待っている。
いまだ全力ではない彼だが、しかしだとしても兎角を殺すには十分すぎるほどの膂力が彼には宿っているのだ。
近くにいる彼女をひき肉と変えるのに、秒もかかるまい。
そう感じながら、しかして男は腕を引き絞る。
「『三日朏玉兎』――応用編」
そう、らちが明かないのならば。無理矢理にでも状況を動かす他にはない。
兎角にはそれができる。
見せてやろう、正義の力を――。
そして兎角は、秘する奥の手を発動した。
「『百千望月』」
――固有魔術とは、戦う魔術師にとって唯一無二にして最大の武装である。
超常の力を持ち、種類によっては物の概念すら塗り替えかねないほどの絶対的象徴。
彼らはそんな自分の魔術に頼り、用いて敵と戦う。
汎用魔術が使いにくくまた使えるものもほとんどない分、自分に馴染みやすい固有魔術へと傾倒していくのは当然の道理と言えるだろう。
だが逆にそれは、その固有魔術が通じなくなってしまった場合、一気に危機へと陥ってしまうことも意味しているのだ。
なにせ自分に持てる最大の力が通じないのだ。そんなの、危機以外になんと言い表せばいい。
そんな時、どうすればいいのか。
戦う魔術師たちは戦う者である以上、戦っていけば必ずそういった問題に直面する。
そんな時、もう取れる手段がありませんじゃ話にならない。
だが固有魔術は基本原則として一人につき一つずつだ。二つ目の固有魔術なんて用意はできない。
だから、彼ら魔術師たちは、そんな時のために技を用意するのだ。
一人一つの専用魔術。その数が変えられないというのなら、変えないまま手札を増やすしか道はない。
つまり、出来うる範囲で、固有魔術を改革したり、応用することで攻撃手段を増やしたり。魔術師たちはそうして、自分だけの"魔術"を構築していくのだ。
兎角が角度や高低を無視できるようになったのもこれだ。最初はもっと制限の多い魔術だったが、努力することで月の形を変えたのだ。『三日朏玉兎』は彼女の下で、力を増し続けている。
そしてこれもまた、彼女が力を磨いた証。彼女の奥の手、その一つだ。
「終わりよ――!」
短剣が振るわれる。滑らかに、滑るように。狙いは、関節か。鎧のように、継ぎ目を狙えば効果はあると思ったのだろうか。
甘い、と言わざるを得ない。『虹霓悪骑士』は魔術である。普通の鎧と、一緒にされては困る。
だが彼は、甘かったのは自分だとすぐに気づくことになる。
――後方で魔力が発生。すなわち、玉兎が出現した。
今まで繰り返してきた反応から、彼は思わず反射的にそれを身をよじって回避する。
だがそこに、金属がこすれ合う音が響いた。
「なんダト?」
彼女の短剣が、彼が纏う龍型の外殻を斬っていたのだ。
「……そういうこトカ」
彼が呟いている間も、彼女は短剣を動かしている。一閃、二閃、三閃四閃五閃――。
まだまだ、短剣の回転率は上昇する。そしてそのすべてに、等しく魔力が込められていた。連続で刃を振るえば振るうほど消耗も大きくなるが、構わない。ここで全部出し切る勢いで、彼女は連撃を続行していく。
三日月が煌めくたびに、玉兎が出現する。玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現玉兎出現。
同時に、三日月もまた煌めいている。
三日月が、玉兎が、次々黒龍の外殻に剣を突き立てていた。
「アアアァァァァ――!」
兎角の奥の手とは一体どのようなものなのか。
彼女の魔術は言うまでもなく、射程を無視して敵のもとへと斬撃を届かせる異能だ。つまり、手元の斬撃である三日月と、敵の元に出現する玉兎の斬撃。彼女は基本的に、玉兎で攻撃を行う。
離れて攻撃する方が、敵の一挙一動も見極めやすいし、相手の攻撃だって回避しやすい。
だから玉兎での攻撃が主だった攻撃手段。
だがしかし、かといって三日月の斬撃は消えたわけではないのだ。
ただ敵を斬ることが基本的にないだけ。彼女の魔術は基点として短剣で空中を斬るというワンアクションがあり、その斬撃は別に切れ味が落ちているということもない。
二つで一つの『三日朏玉兎』。
確かにこの魔術が真価を発揮するのは暗殺だ。
けれど彼女は、その真価を自ら捨てている。自分の拘りを守るために。
ならば、その代わりとなる新たな真価を手に入れなければならないだろう。力を一つ捨てたなら、新しく力でその穴を埋めなければならない。
それこそが、これだ。
『三日朏玉兎』は距離無視斬撃。だが短剣の切れ味が向こうに転送されているわけではない。二つで一つの斬撃。二つで、一つ。
なら……この斬撃が、二つとも。相手に届けばどうなるだろう。
結果が、これだ。
「――ッ!」
単純に、手数が二倍になるのだ。
それだけではない。
言ったように、彼女の跳び出た兎の剣は距離も、高低も、角度だって無視してしまう。
近づいてきた兎角に対して、敵は兎角が握る短剣に注視してしまう。そうしなければ斬られてしまうのだから当然だ。遠距離から攻撃されていた時には注意する必要もなかった、兎角の手から太刀筋を読むという剣戟における当たり前の土俵が生まれてしまう。そこに引きずり込まれてしまう。
だが、太刀筋ばかりに注目してしまえば、今度はどこから現れるかわからない兎を見失ってしまうのだ。
縦横無尽の刃は、出所を掴んで回避するのに細心の注意を必要とする。それが三日月によってかく乱されてしまえば、玉兎を探せなくなる。
どちらかに注視してしまえばどちらかへの対応が疎かになりどちらかに斬られ、ならばとどちらへも対応しようとするとどちらにも斬られる。
彼女の腕を掴もうにも、腕の回転率が速いうえに玉兎がそれを邪魔するように展開されるためその隙も中々見つからない。
姿を見せなかった新月がついに姿を見せ望月となり、数多の刃に翻弄されることとなる。
この魔術が最も真価を発揮するのは暗殺である。
だが、この遠隔魔術が最も戦闘能力を発揮するのは――近接戦なのである。
「キヒ、キハハ……!」
しかしそれでも、黒龍は落ちない。
もう既に幾らも斬られているというのに、だが重傷となるような斬撃だけは避け続けている。
龍はまだそこにいる。まだ一手、届かない。
奥の手を切っても、灰久森 兎角では真価を見せてすらいない黒龍にも届かないのだ。
だから、彼女は。
「これでえええぇぇぇ!!」
兎角は思いっきり強く地を踏みしめて、この戦闘で最高の斬撃を繰り出す。
二つの斬撃が黒龍を襲って――。
「無駄ダァ」
ついに、兎角の腕が黒龍に捕らえられ、玉兎の斬撃は黒龍のもう片方の手で粉砕されていた。
どう足掻いても、実力で兎角は黒龍には絶対に届かない。
「――ゲホッ……!」
――だから、この勝負は"正義の味方"灰久森 兎角の勝ちなのだ。
「ア、アァ?」
黒龍の口から、そして心臓の真上である胸部から血が垂れる。
馬鹿な、攻撃はすべて防ぎ切ったはずなのに。
「正義は勝つ――覚えておきなさい!」
奥の手が一つしかないとは――兎角は言っていないのだから。
黒龍は地に倒れ、血を流し続けている。心臓が破壊されたのだ、魔術師も人間である以上生きてはいられない。
そして戦いは終わった。黒龍は、最後まで油断しきっていたのが敗因だ。
「舐めんじゃないっての」
とはいえ兎角もこの戦闘でだいぶ魔力を使ってしまった。
しかし黒龍の言う分には、まだ黒幕なる人物が残っているようである、急いでその人物を探し出し、この結界魔術を解除させなければならない。
この残りの魔力でそれができるだろうか。いや、やらねばならないのだ。
とにかく、街のどこに潜んでいるのかはわからないが、確実に街のどこかにはいるはずだ。
もしくは、街を少し外れたどこかにか。
それがどこなのかを、まずは考えなければならない。
すぐにはわからないだろうが、わからないからといって諦めるわけにもいかない。兎角はとにかく動きだそうとして、瞬間。
パチ、パチ、パチ。
それは、拍手の音だった。誰かが兎角へ向けて拍手をしている。そして、彼女を称賛していた。
………………………………誰…………が?
「いや~まさかホントに勝っちゃうとは思わなかったナア」
誰? 誰だ? まさか。あり得ない。だってここに倒れているもの。
「というか殺されるなんて思ってもみなかっタヨ」
「油断油断さ油断が敗因、けれど彼女が勝ったのは事実じゃなイカ」
「油断なんて言い訳にもならないかラネ」
「言い訳なんてかっこ悪いことだしネエ」
「だから彼女の健闘と勝利を称え潔く我が敗北を認めヨウ」
「「「「おめでトウ、正義の味方。これは紛れもなく君の勝利ダヨ」」」」
「………………………………………………………………………………………………は?」
キハ、キヒハハハ。
キハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!!!!
この、人を食ったような不快な笑い声。
いかにも怪しげな訛った日本語。しかも、なぜか重なって聞こえて。
まさか、いいやそんなわけはない。しかし、このような喋り方をする人物を、兎角は現状一人しか知らなかった。
だがそれこそあり得ないと言い張り叫ぶ心の声の中、彼が魔術の真価を見せていなかったと冷静に判断――冷静なふりをして判断する自分がいることも確かで。
兎角が後ろを、振り向くと。
人影。
あの男が壊した、家屋の上に。
幾人もの、龍殻纏う人影。
「とこロデ……俺が死んだッテ、どこの誰が保証しタノ?」
"悪の味方"劉・黒龍が――何人にも増えて、生きていた。
「――――――」
兎角は現実についていけそうになかった。なんだこれは、どういうことだ。兄弟? クローン? サイボーグ? なぜ、奴が増えている、なぜ生きている。
その疑問に答えるならば、たった二文字で事足りる。
すなわち、"魔術"。
「言っただロウ。俺は正義の味方を何より警戒していルト」
「お前たちは何があっても諦めない不屈の精神を持っていルト」
「諦めない諦めナイ、何があっても立ち上ガル」
「凄いよナア、強いよナア。とっても羨ましいよナァ」
「だカラ……俺モ、君たちの力が欲しくなったンダ」
"正義の味方"は諦めない。どんな逆境にも負けず、何があっても必ず立ち上がる特性を持っている。
そんな存在を警戒する男の能力が、ただの変身魔術であるはずがない。
言ったはずだ、忘れてはならない。
この男は高位魔術師。たかだか普通の魔術師と、一緒にしてはならないのだと。
"正義の味方"は必ず立ち上がる。だから、彼も同じように立ち上がる。
何があっても、どんな危機に陥っても。そう、例えば……その命が消え、死んだとしても。
立ち上がる、立ち上がる。死なない、死なない。龍は落ちない。
「アア、こういう時って何て言えばいいんダッケ…………ああぁ思い出シタ」
黒龍はニヤリと、口を三日月のように裂いて笑って。
「そう――マダダ」
"正義の味方"の特性を模倣して、再現する。
それこそが悪の味方――否。
それこそが、"悪の味方"――劉・黒龍の持つ不滅遍在魔術。『虹霓悪骑士』である。
ダークまだだ。