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2.少女の朝

 ふと目が覚めれば、そこはいつも通り自分の部屋だった。大して物も置かれていない、伽藍堂な部屋。目を開ければ見えるのは、何も変わらないいつもの天井。

 掛け布団も何もない、最低限の寝心地だけが保証されたベッドから上体を起こせば、見えるのは装飾も何もない部屋を借りた時に購入したかけ時計。

 壁に飾られたその時計は、この部屋にある数少ない備品だった。正確な時間がわからなければ不便だろうと思って買っただけのものだったが、時間がわからなくて不便になるような生活を送っていないということに気付いたのは時計を買ってからだいぶ経った後のことだった。

 無いよりはマシなのかもしれないが、大して役に立っているとも思えない。彼女が寝起きの薄ら眼でそれを見れば、時計の二つある針がいつもと同じ時間を指し示していた。午前の六時。日がゆっくりと昇り始める早朝。


「……まだ、眠いな」


 彼女はいつも通り、毎朝、この時間に目を覚ます。

 ほとんどの日を決まったルーチン通りに、決まった時間に寝て決まった時間に目を覚ます。その生活リズムを守るのは、別に健康志向だとか早起きは三文の徳になるからだとか、そういう健康的な考えが理由なのではなかった。

 特にやることもないから、暇を避けるために。だからさっさと寝る……それだけの理由でしかなく、時間を有意義に使うという思考からかけ離れた女なのだ。

 彼女はそうした、ある意味不健全な生活を送っている。だから自然と、このくらいの時間に目を覚ますというだけのことだった。

 テレビすらないこの部屋では暇をつぶせるものなど、それこそ就寝くらいしかないのである。

 寝ればただ目を瞑っているだけで、それだけで数時間の時を潰すことができる。

 彼女にとって睡眠とは、毎日しても飽きが来ない究極の暇潰しだった。

 本当は寝ずに日々を過ごすこともできるのだが、深夜をずっと時計の針が動く音を聞きながら朝まで呆けているだけの生活を送るのもそれはそれで面倒だと言えるだろう。

 だから寝よう、寝るしかない。

 そうして彼女は夜早くに眠りへとつくのだ。


「面倒だけど、起きるか。ああ、怠い……面倒くさい……。もう帰りたい、まだ出かけてないけど」


 ぼやきながら頭をカリカリと掻く。

 面倒だからと最低限以上は整えることもしていない髪がその手に触れる。


「毎日のことだけれど、どうしてこう朝起きて家を出るだけの行動がここまでうっとーしいんだ……イラつくなぁ」


 のそりと起き上がった体を、窓を遮るカーテンのわずかな隙間から差し込む光がほんのりと照らす。

 決して豊満ではない肉体。平均的な胸部。動くのに邪魔な肉も脂も必要ではないからと彼女自身はこれ以上の成長を望んではいなかったが、しかし彼女のスタイルが悪いというわけでは決してなかった。

 少女を抜け青年の挟間に差し掛かろうとしているそんな彼女の肢体を覆うのは、今は上下揃った下着類のみ。

 彼女は就寝する際に寝間着を着ないタイプだった。というよりも、この部屋に寝間着として使用できるものがほとんど存在しないのだ。

 唯一そのために着ることもできるだろう、学園で使うためのジャージは一切使われることもなく部屋の床のさらに隅っこで無造作に放置されている。

 いちいち着替えるのが面倒だからという理由で、いつからか着替えずに眠るようになってしまっていた。

 布団も被らず、服も着ず、それでも寒いと思うこともなく彼女は毎夜下着姿のままで眠っている。


「あぁ、それにしても。嫌な夢を見た、ような」


 目覚めの気分は爽快とは言えなかった。むしろ最悪に近い気分。

 それは、彼女が子供の頃の、遠い記憶の夢だった。



 まだ小さな、齢も二桁に届いていない少女が揺らぐ海を歩いている光景。

 少女がまだ何も知らない小女だった時に、その身に降ってわいた不幸の記憶。

 何度も何度も夢に見た、飽き果てても尚瞼の裏にこびりついているらしい、つまらない夢。

 繰り返し見続けているというのに、この夢は決して自分の思い通りになることはなかった。

 もうとっくの昔に終わってしまったことだから、夢の中だとしても今更手を加えて何かを変えてみようなどとは欠片も思わないが、しかし何度も見せ続けられるのは純粋に不快だった。

 それでも瞼を閉じるという行動の概念が無いこの夢の世界で、少女はこの小女を見続けることしかできない。

 その夢で、小女はどこにも辿り着くことはないその二つの足を懸命に動かしていた。

 そんな様子を見せられるものだから「やめろ」と、そう言いたくなったが、やめた。無駄なのだと何度言っても、あのガキ(子供)にその声が届くことはないのだから。

 ならば口を開くのも億劫だ。このまま黙って、このつまらない景色を目が覚めるまで眺め続ける。


(また、この夢)


 もう、小さなころから何度も何度も繰り返し見た夢。こんな夢を未だにこの齢になっても見続けているということが、もう自分ではとっくの前に振り切ったつもりでいるこの過去をいいや未だに振り切れてはいないのだと証明されているようで。まるで自分がこの過去にまだ囚われているということを見せつけられているようで、癪だった。


(不、快、だ)


 小さな女は焼けた大地の跡を裸足で歩きながら、何かを探しているかのように首を横に動かしている。何を探しているのだろう、何を探していたのだろうか。

 記憶に留めようとも思わなかった思い出の残滓はかき消えてしまっており、もはや思い出せることはない。

 それが証拠に小女の声は一つも少女に届いていない。炎の燃える音にかき消されているわけではなく、本当に聞こえていないのだ――もはや、忘れてしまった残照であるから。

 夢の彼方にすら残っていない、擦り切れた小さな感情(こえ)を聞くことなど出来るわけもなかった。

 だが察することくらいは出来るだろう。幼い子供が泣きながら探し迷うものなんてものは、古今東西を見渡してもその数は限られている。


(親……)


 幼児の傍らにいない二人の親の姿。もはや顔や姿どころか名前すら覚えていないが、そんな存在が過去自分にもいたのだろうということだけはかろうじて記憶してある。ならばこそ両親の存在に関して彼女が思う感情は“どうでもいい”の一言で尽きるのだが、当時の小女にとっては違ったのだろう。

 子供の狭い世界観では、親というのは神にも等しい存在だ。

 そして結局、両親が見つかることはない。

 少女はそれを知っている。なぜなら自分は親のことを覚えていない。

 覚えてもいないものが見つかったはずももないだろう。或いは、もしここで自分が親と再会できていたならば自分はまた今とは違う別の未来を歩んでいたのかもしれないが、そんなものは今考えても妄想にすらならない。

 現に自分が見る夢とはこのクソがつくほどくだらない、赤い記憶でしかないのだ。

 もしもあの時こうなっていたならば、そんなイフを夢想したことなど一度としてなかった。

 自分は現実というものに一切の希望を抱いていない。それはつまり、夢というものへの期待もまた同様に一片も持ち合わせていないということだから。

 ――炎の海を小女が歩く。

 何も知らないまま両の足を懸命に動かしている。

 熱さに焼かれながら、痛みに震えながら、孤独と寂しさに涙しながら。飽きを感じるほど繰り返し見た過去の自分への不快感は止まらず、彼女は早く目を覚ましたい気持ちでいっぱいだった。


(くだらない)


 まるで茶番じみた喜劇を見せつけられるほど面白くないものはないだろう。

 なぜなら彼女は知っているから。この小さな女が、いいや自分がこれからどんな道を生きていくのか。

 どのようにして今に至るのかを。正しく、自分のことなのだから。

 ならばこのような夢に意味などない。

 自分はこの時から今になるまで、罪悪感など抱いた覚えもなければ現状を悔しいと思ったこともない。

 だからこそ、こんな(かこ)にこだわる自分の脳みそのことがさっぱり理解できないと彼女は思っている。

 ……だが、それもどうでもいいことだろう。

 もうすぐ朝が来る。所詮、こんなものは夢に過ぎない。

 起きれば、忘れてしまえばいいだけなのだから。



 それが彼女の見た悪夢だった。

 嫌でも思い出してしまう不快感を、頭を振って頭から追い出す。

 軽くため息を吐いた後、ベッドの上から床に足をつけて立ち上がる。そのままゆったりと歩けば、ハンガーラックにかけられた制服を一式手に取ってそのまま着替えだす。

 ハンガーラックにかかっているのは全て上下揃った制服のセットだけで、それ以外の衣服はほとんどすべて存在しなかった。

 仮にも女として如何なのかと問いたくもなる話だが、私服の入ったタンス類の家具すらこの部屋の中には存在しない。

 外へと出かけるという行動をほとんどとらないため、外出用の私服などあったところで彼女にとっては無用の長物なのだ。

 自らを着飾ることもせず、学生なのだから制服さえあれば服などそれで十分だろうと。

 制服と、ジャージ。それが幾つか。それだけあれば日常において何の問題もありはしないと彼女は何の疑問もなく思っている。


「行くか……」


 憂鬱だった、限りなく。なぜなら学校にはアレがいる。

 アレにまた今日も会わなければならないのかと考えると、夢の不快感すらどこかへと飛んで行ってしまいそうだった。

 それくらいには、彼女はそれと顔を合わせることに対して得体のしれない感情を抱いている。

 嫌だ。嫌だが、しかし、学校へ行かないという選択肢は自分には存在しない。学生たる自分はあの学校へと登校するしかないのだから。

 表情を歪めて嫌々ながら床の上へ無造作に放り出されている学生用鞄を手に掴み、玄関の扉を開けて外へと出る。

 気分の問題でしかないが、実際に重く感じる足を引きずるように持ち上げながら外へと踏み出して、少女は今日も世界を目にする。


「おはよう。また今日もつまらない世界」


 その眼に灰色(・・)世界(そら)を映しながら、彼女は学校へと向かう。


 ――ああ、いつから……いつからこの瞳には、すべての色が映らなくなってしまったのか。


***


 雑音が聞こえる。


「おgdfよう」


 雑音が聞こえる。


「ねfjkねえ、djishdのドhjhマmogmdoys」


 雑音が聞こえる。

 雑音が聞こえる。

 雑音が聞こえる。


 すべての音が霞んで聞こえる。

 鳥の歌声を美しいものとして感じることはない。道路に響く足音が、車の走る音が、すべてすべて霞んで聞こえる。

 その音を一言で例えれば雑音だろう。

 すべての音が健常に聞こえないのであれば、それが日常に奏でられる音楽として感じられるはずもない。

 目覚めた後も不快だったならば、外へ出ても不快なままだ。今すぐ引き返して帰りたいほどに。

 あの部屋で横になりながら目を瞑っている時だけが、唯一、生きていて比較的心休まる時間なのだ。時計の針もゆっくり回転する型のものを購入してあるから、チクタクといった余計な音も入り込まない。

 彼女は耳に飛び込んでくる音の意味を正確に認識している。会話も、しようと思えば勿論できる。

 別に、音そのものが異質なものに変化しているわけでもなければ、雑音としてしか認識できないわけでもないのだ。音は正確に、ちゃんと彼女の耳に届いている。

 現実として、彼女の耳に届く音が変化しているということはない。音は正常なまま彼女の耳に入っている。

 ならば彼女の耳がおかしいのかと言われれば、それもまた違う。彼女の身体は健康そのものであり、また何か障害を負っているということもない。

 ただ彼女が、音を濁っているとしか感じられないだけなのだ。

 例えば反抗期の子供がいたとして、その子供を思う母や教師の言葉が余計なお世話だとしか感じられないような。

 そういう、言葉の意味が心に届く前に歪んでしまう現象が極端になったようなもの。つまりは受け取り方の問題だ。

 その原因は彼女の身体ではなく、彼女の心の在り様にこそ問題があった。


「――――」


 そして音よりも何よりも、彼女の目に映る灰色の景色こそが、何よりも彼女を人間足らしめない原因に他ならなかった。


(今日も、灰色。いつもと同じ)


 比喩でなく、彼女はその目に映すすべてのモノの色を認識できていない。

 赤も青も、緑も黄も紫も。彼女の目から失われて久しかった。

 いつからこうなっていたかは、彼女も覚えていなかった。だが、ここ一、二年のことではないのは確かだ。

 もうずっと、それこそ数年以上……あるいは十年以上もの間、この灰色の世界の中を生きていたかもしれない。

 それは気が狂うほどのストレスを幼い彼女に与えていたかもしれなかったが、しかし彼女は壊れず今もこうして生きている。

 あるいは、とっくにくるっているのかもしれなかったが。狂った証拠が、この灰色の世界なのかもしれなかったが。

 しかし彼女は自分を狂人だとは思っていない。ならば、彼女は狂人ではないのだろう。少なくとも、この灰色の世界においては。

 輪郭だけは認識できるため、目の前を歩いているのが自分と同じ人間なのだということは理解できる。

 けれど、同じ世界観を共有できないという事実は、目の前の人間と自分は違う生き物なのだという誤った実感を強制的に自分へと与えてくる。

 それはどちらが上でどちらが下かという上位種としての実感ではなく、自分の方が常識的ではないのだろうという事実だ。

 他人と視界に映る光景すらきょうゆうできないようなら、それはもやは違う生物だろう。

 もうこの灰色の空を見ても何の感慨も湧いてこないし、この眼を今更どうこうしようとも思わない。

 この眼が肺の世界しか映さないようになった頃はどうだったか、治れ治れと念じていたようないなかったような、やはりあやふやな記憶しかない。

 渇いている、というよりも冷え切っているのだろう。心が渇いているだけならば、砂漠ならばまだ風と砂がある。風が吹けば砂が飛び、そこには何かしら心の変化が発生するものだ。

 風とは心の動き。渇いていたとしても、刺激があれば人は反応する。それは味であったり、光であったり、何であれそれらはそこから起こる強烈な刺激であり、世界からのある種の攻撃と言ってもいいかもしれない。

 肉体ではなく精神に直接与えられる一撃は否応なく反応を呼ぶ。その反応が風となり、心の中にある砂漠の砂を飛ばして砂塵を起こすだろう。

 しかし彼女の世界には、砂も風も何もない。そこにあるのは虚ろな空。

 外界からの刺激に対する反応もあるにはある。だが、それも極端に少ないもの。何故なら彼女にとって、目に見える世界のすべてが単純に意味を持たないからだ。

 目に映るものは灰色で、耳に届く音は霞んで聞こえ、何を口にしても感動がない。

 生きながらに死んだ心。

 空っぽなだけならまだ何かが生まれる余地もあるが、既に何かが生まれた跡地から色が失われた世界には、新しく何かが生まれる余剰もないのだ。


 学校に到着しても、何かが変わることもない。

 教室に必ず置かれてある黒板も、彼女にしてみれば少し色が濃いだけの灰板だ。

 何が黒なのか、この学校に通った一年間、彼女にはわからないままだった。

 教室の扉を開けてまっすぐ自分の席へと向かう。左側の窓際。その更に一番後ろの、一番端っこの席。

 まだ誰も登校していない。いつも通り、一番乗り。

 席替えでこの席を引いた生徒は、通常なら喜ぶだろう席。

 しかしそれは、このクラスの厄介者である彼女を押し込めておくために、彼女に与えられた場所だった。

 この学校で不良少女として名が通っている少女は、不良として少し怖れられていたから。実はヤクザの娘であるとか、喧嘩で100人を半殺しにしたとか、そういった根も葉もないうわさまで流れている。

 その大半はもちろん、無気力の塊であるかのような少女なのだから尾ひれどころか全身の鱗もつくような噂にすぎないのだが、彼女に関わりを持たない生徒たちにとってその真偽はどうでもいいものだ。

 怖いから、近寄らない。その理由として、恐ろしい噂というものは充分に機能を果たす。

 触らぬ神に祟りがないように、触らぬ蛇から毒を受けることもない。

 この席の位置は、そのためにこのクラスができる数少ない抵抗なのだった。

 もっとも、彼女はこの教室にほとんどいることはないためにまり意味を成しているとは言い難い抵抗なのだが。

 彼女は自分の机に鞄をかけると、そのまま椅子に座る……ことはなくすたすたと教室を出て行った。

 人気のまだ少ない廊下を渡ると階段を上がり、登り切った先にある屋上の扉を開ける。昼休みの時間以外は立ち入り禁止となっているその場所に、何の遠慮もなく入れば転落防止用の柵のそばに置かれたベンチへと座り、そのまま首を傾けて空を眺める。

 ……なぜ彼女は屋上に来たのか。

 そう、それはもちろん授業を受ける気が全く無いからである。

 高校二年生、春。この一年間、彼女が真面目に授業を受けたことは、ただの一度もなかった。


(暇……)


 ただ空を眺めるだけの時間。それはただ普通に授業を受けるよりも遥かに苦痛で退屈な時間だったが、一年間ずっとこの日々を送っている彼女にしてみればもはや慣れたものだ。

 退屈ならば授業を受ければいい話ではないのか、と言いたくもなる話だが彼女に授業を受ける気はない。一切ない。ゼロである。

 雲が動く様を眺めながら、ただただひたすらに彼女はぼーっとして座ったまま。

 眺める空も、当然灰色。雲だけは元の色が白であるためか他と比べてまだまともな色をしているが、それでも限りなく白に近い灰というだけで結局灰色であることに変わりはなかった。

 灰色の雲がゆっくりと動く。雲の観察はこの場所にある数少ない暇つぶしの一つであるものの、灰色しかない空を見続けることは普通の人にとって見れば拷問に近しいものだろうが、元々無気力な彼女には暇つぶしに過ぎなかった。

 しばらくそんな空を見ていたが、やはりというべきか、やがてすぐに飽きたらしく今度は下をうつむき始める。


(退屈だ。学校にテロリストでもやってくれば少しは暇でもなくなるだろうか)


 遠く校庭の方から生徒たちが朝練をしているらしき声が聞こえる。

 もっとも、彼女の耳には霞んで聞こえるため、青春の熱き雄たけびもその耳には空しく響くのみであったが。

 そちらにチラリと一瞬だけ視線を向けると、野球部だろうか。ユニフォームを着た生徒たちがグラウンドを走っている。

 もうそろそろ他の生徒たちが登校してくるこの時間になると、彼らはいつも最後に少し走って自分たちも授業を受ける準部をし始める。

 少女はすぐに視線を外し、また俯く。


(私も少し走ってみようか……やめておくか、面倒くさい)


 暇つぶしに走ってみるのもいいかと僅かに思ったが、やめた。何が悲しくて屋上に一人で走る姿を見せなければならないのか。当然、グラウンドまで降りるという発想はない。

 やはりこのまま座っていよう。そう思い、彼女はだらりと脱力する。


 カツ……。


(何が楽しいんだか。毎日毎日、ご苦労なことだな)


 カツ……。


(まあ、奴らにとっては楽しいんだろうな。でなきゃ耐えられんだろう。強制的に従事させられているならともかく、自主的にあんな労働じみた作業)


 カツ、カツ。


(勝つ喜びがそんなにまでして欲しいのか。理解できないな、私には)


 カツカツカツ。


(……あぁ……そろそろか?)


 もういい加減、耳をそらすのはやめよう。

 音が聞こえる。階段を、誰かが、昇る、音。

 毎日のことだった。自分が屋上に来て、しばらくしたら奴が来る。

 それはこの一年間続けられた日常だった。

 いつものことだ。毎日懲りないことといえば、こちらもそうだった。毎日毎日飽きもせず、よくも続けていられるものだと思う。

 あいつも楽しんでやっているわけでもないのだろう。お互いに一切の笑顔も見せあわず、むしろ仏頂面を晒しながらまるで日課のように毎日顔を合わせるのだ。

 お互い、飽き果てているだろうに。

 けれど、この日課擬きはそれでも続く。きっとたぶん、どちらかの根が尽きるまで。そしてどちらの根も尽きることがないものだから、延々と続いている始末だった。

 彼女はため息をつきたい気分だったが、耐えた。奴に面倒な姿をできるだけ晒したくなかったから。

 屋上の扉が開く音と、そして閉まる音が聞こえた。奴がすぐそこにいる。

 そして。


 ――――声が、聞こえる。


「やっぱり、今日もまたここにいたか。葵賊院(きぞくいん)


「……いちゃ悪いかよ、氷月(ひなづき)


 ゆっくりと、顔を上げる。そして必然、そうすれば目に入るものがある。

 声の主が、すぐそこにいるのだから。

 だから、“紺色(・・)のズボン(・・・・)が、目に映るのだ。


 葵賊院(きぞくいん) 陽鳳(あげは)の目に映る、一つの()がそこにある。

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