18.邂逅二連
現れたその少年を見て、黒龍は当然の疑問を持った。誰だ、と。
顔立ちは悪くない。身長もそこそこ。が、目つきだけが鋭く、その視線はまるで刃物を思わせる。漂う雰囲気もまるで抜身のまま野晒になった刀剣のようで、まともな神経を持った人間ならば今のこの少年に近づこうとはしないだろう。それほどまでに、この少年が纏うものは剣呑な雰囲気だった。
一見すれば不良のようだが、しかし断じてただの不良ごときではあるまい。
そして思い出す。この少年は確か、自分たちが利用しているあの少女と口喧嘩を交わしていた人物ではないかと。
「誰ダイ、君。俺は君みたいな少年を知り合いに持った覚えはないんだケド」
しかしそれ以上のことは知らないので、とりあえずストレートに誰だと尋ねる黒龍。
「当たり前だろ、初対面なんだから。俺だってお前のことなんか知らねえよ」
魔力を感じることから、おそらくはこの少年も魔術師であろうことはわかる。
ならばこいつは、あの時自分を追っていた少女の味方なのか、自分たちを邪魔しに来たのか、それとも。
「つーかよ、ほんとはあの三下野郎をぶっ飛ばしたかったんだけどなあ。この俺に舐めた口をきいてくれやがった返礼、まだ済ませてなかったし」
「三下……? ……アア、君、彼の報告にあった少年か」
その一言で、少年が誰なのかその謎は解けたらしい。黒龍は納得し、道理で魔力を感じるはずだと思う。三下で通じたあたり、彼があの殺人鬼をいかに軽く見ていたかがわかる。
しかし誰なのかがわかっても、彼がなぜこの場にいるのかの説明はつかない。
「……で、結局は何しに来タノ、君」
黒龍を見つけられたのは、いくら街が広くても駆けずり回れば見つけられることはあるだろう。あるいは偶然見つけた可能性もあるかもしれない。
まさか確信を持って、最初からこの場所を目指したわけではないだろうが……。
ともかく、まずはここの来た理由だ。
「言ったろ、ぶっ飛ばしたかったってよ」
カガリは、あの殺人鬼に見下されたことをまだ許しているわけではない。ゆえに彼を殴り飛ばすために探していたのだが……。
「あの正義女に付いていけば見つけやすいかなと思って嘘までついたのに、あの女が断るもんだから……仕方なく自力で探そうと思ってよ、愛東中学の辺りは集団下校で人がいたし、四丁目辺りは警察が巡回中。んで人が少ないとこ集中的に探してみて……苦労したのに見つかったのは別人。クソったれ」
カガリがあの時、嘘までついて兎角についていこうとしたのは最初からそのためだった。自分を見下した、あの男をぶっ飛ばす。
そのためには、兎角のそばにいた方が都合がいいと思ったのだ。
もっとも、当の男はすでに兎角が倒してしまったので、もうカガリが彼に報復できるチャンスはないのだが。
「まあ、お前でもいいんだ。お前、ちょっと付き合ってくれよ、この俺の慣らし運転にさあ」
見つからないものは仕方ない。だからお前で我慢してやると、カガリはあの黒龍に向けて堂々と言ってのけた。
「キハッ」
面白いと、黒龍はそう感じる。しかし。
「聞いていた以上に高慢な奴ダ! 鼻っ柱が折れるとコロ、見てみたいナア」
「やってみるかよ、できるもんなら」
だが面白いと感じながらも、黒龍は今、遊びに興じるつもりはなかった。
「やめておクヨ。遊んでいるほど暇じゃないンダ」
「……遊びだあ?」
そう、遊びだ。黒龍にとっては、ここでカガリと戯れることは遊び以上のどんな意味も持ちえない。
カガリにとっては、ここで戦うことは貴重な経験を得られるチャンスなのかもしれない。だが黒龍にとってはそうではない。ここで戦っても時間を潰されるだけだし、たかが魔術師になったばかりの男と戦ったところで得られるものなど何もない。
「それに、ネエ。君ごときの才能じゃあ俺には到底届かなイヨ」
黒龍のその言葉を聞いて。
「じゃあ……」
カガリはふっと息を吐き。
「その気にさせてやるよ――」
駆け出す。前方で笑みを浮かべ続ける、しかし上半分の表情はアイバイザーで隠されていて見えない男へ。
技も何もなく、ただ右の拳を突き出す。アイバイザーの男――黒龍はカガリよりも背が高いため、少しばかり狙いにくい顔面よりはその下、胸元あたりを狙う。
本当はこのアイバイザーを砕いて、このニヤケ面を歪ませたいとも思ったが我慢だ。
だが、掌に拳が受け止められた小気味のいい音が響き、当然のごとく拳は受け止められる。
魔術師はその身に流れる特異流素――すなわち魔力の質によって、その身の能力を引き上げることができる。
動きも、力も、そして反応も。
ただの拳ごとき、わざわざ食らってやる黒龍ではない。
「おいオイ、いきなり物騒ダナ」
そのままカガリの手を掴んだ黒龍は少年を逃がさないようにその場へ固定し、手を引いてカガリを引き寄せながら膝を上げる。
腹部に黒龍の膝が突き刺さる寸前、今度はカガリが左手でそれを受け止める。手に衝撃が響くものの、痛みは無視して握力を込める。
瞬間、カガリの体が宙へと浮く。視界は逆さになり、黒龍の笑みも逆さまに映る。
握ったままの拳を支点に、黒龍が投げたのだ。
宙ではろくに動くこともできない。そのままカガリは背から地へと叩き落とされる。
寸前、カガリは何も焦ることなくオーバーヘッドキックのように、叩き落される前に爪先を先に黒龍の顔面へ向かって落とす。
アイバイザーを砕いて、歪んだ表情を拝んでやろうという目論見はまだ諦めたわけではない。
「思ったんだケド、これ通り魔とそう変わらなくなイカ?」
「お前が言うなよ」
自分のトレードマークを壊されるわけにはいかないため、黒龍はカガリの手を放し瞬間的に顔を後ろへ引く。紙一重で爪先は躱される。
支えを失い頭から地面に落ちるカガリは、地に着いた両手で自身の体重を支えそのまま半回転。カポエラのように、そのまま曲芸染みながらも蹴りを続行する。
しかし既に数歩離脱していた黒龍はその場にいないため、蹴りは空振り。
数秒ぶりに地に立ったカガリは、再び彼と対峙する。
「やルゥ」
「クソ、面は拝めなかったか」
今の応酬は魔術も使わず、共に魔力もほとんど活性化させていないただの小競り合いでしかなかったために、両者とも何ら手ごたえは感じていない。
しかしそれだけでも黒龍は感じ取っていた。目の前に立つ少年に――才能がないことを。
「君、努力型の人間ダロ? わかるわカル。そういう気配がスル。どのくらい頑張ッター?」
本格的に「戦った」わけではないが、それでも十分その程度は感じられる。目の前の少年は、才能のあるタイプではない。
届かない星を追いかけて、必死にもがきながら手を伸ばす人間はこの世に山ほどいる。当然だろう、世界には才能のある人間よりも才能のない人間の方が多い。この少年もその一人というだけだ。
いいや、もちろん才能などなくとも伸ばした星に手が届くようになることもあるだろうが、しかし手を届かせよう届かせようと必死に足掻いているということに変わりはない。
そういう人間と同じ。努力の痕跡が見えるから。
――そういう種類の人間など、もうとっくに山ほど潰してきたのだ。今更、何の面白みもない。
「正直もうそんな連中には興味ないんだヨネ。関わったところで時間の無駄みたイナ? こっちも時間が無限にあるわけじゃないンダ。いくら魔術師っていってモネ。だったら関わる奴ハ、少しでも選別したいダロ? マア、君は少しは面白そうだケド……成りたてじゃあネエ」
だからまあ、今すぐ潰すか逃げるかしてこの場からおさらばしたいというのが黒龍の本音だ。
今お喋りしているのは、そのどちらを取るか悩んでいるだけに過ぎない。
だが。
「……はぁぁ」
だがカガリは、黒龍の言葉を聞いて大きなため息をついた。
「……?」
黒龍はそれに訝しむ。
はて、自分は何かおかしなことを言っただろうかと。
「出た出た。才能才能……どいつもこいつもどうして、くっだらねえ。うちの母親の方がまだマシだ。あの人もあの人で何言ってっかわかんねえ時はあるけど」
カガリの母――アリア。
超越種としての高視点から来る無意識的な差別意識を常に持っており、無才どころか天才すらも見下している。常人とは思考ルーチンが違うため、時折理解不能な理屈を持ち出してくることもある。
そして目の前の彼は、自らの能力と世の凡人たちを比べたうえで、はっきりと結論付けている。無才など、どうでもいい存在であると。
事実として、今までに何人も叩き潰してきたのだろう。そうでなければそんなことは言えやしまい。そして逆を言うなら、今までに何人も叩き潰してきたからこそ言えるのだともとれる。
というよりは、現実的に凡人は弱いと見切りをつけているだけか。戦闘狂が弱者に興味を示さぬように、金持ちは貧乏人に用がないように。
厳然とした事実として、才能の壁というのは現実的に存在する。
同じ時間だけ学業に励んでも点数に差が出たり、同じ時間だけ走りこんでも運動力に差が出たり。どれだけ頑張ったかも自らの能力に大きく関わってくるのはもちろん当然だが、しかしチームのメンバーに選ばれるのは積み上げた努力だけでなく確かな才能も保有している人物が多いというのも事実だろう。
例えば体格などは自分の努力だけではコントロールするのが難しい、目に見える才能だ。
努力する天才に、ただ努力だけで勝つのは相当な難易度であり、だから誰にもできることではない偉業とされるのである。
……しかし、カガリの持論は少し違った。
「才能ってのはさ、要するにアレだろ。成長するってのを、崖をよじ登る行為に例えるとしたら、その崖にかけられた階段、あるいは梯子のことを言うんだろ。才能のない奴は当然、手で必死に突起とか掴んで登るしかねえよなあ……」
黒龍はカガリの言葉を清聴していた。悪の味方は悪を味方する者であるが、同時に悪を行使する者でもある。
よって、己が楽しめるかもしれないものに対しては興味を抱いてしまうのだ。
「ンで、才能のある奴ってのは崖に階段か梯子をかけられるんだ。そしたら、登るのは当然楽になる。登攀するより、歩く方がそりゃ速えもんな」
そうするとどうなるか。登る速度に差があるなら、登れる距離にも当然差が出る。
それが天才と凡人の差であり、埋めようもない「成長効率」の壁だ。
――で? それが?
だがカガリは、だからどうしたとばかりに鼻で笑う。
そんなことは、昔から百も承知である。
事実は一つ、そう――。
「ソウ、それが才能というものダヨ。そレデ? 君には才能がナイ。だから弱イ……違うのカナ?」
あの名もない殺人鬼は、黒龍の手ほどきを受けたとはいえ固有魔術に目覚めるのも比較的早かった。
ゆえに、実のところ彼には才能があったといえる。だが、結果はどうだ。魔術に目覚めたという事実に酔い、才能を磨くということをしなかった。その結果が敗北と、そして死だ。
才能が有ってなお、そうなのだ。ならば凡人が何をどうして、どうやって戦うというのだ?
――この、劉・黒龍と。
「力の差を理解した雑魚ハ、理解と同時に泣いていタヨ?」
「ハッ、性根がザコい奴らはそれだから羨ましいよなあ。――自分が弱いのを、才能のせいにできる。やっぱりちっとも羨ましくねえわ」
その点に関してだけは、彼は母親と同意見だった。
「強さに才能は……関係ないとは言えねえが、言い訳にはならねえだろ。勝てるようになるまで前に進めばいいんだから」
「キハハ! 君たちお得意ノ、諦めなければ夢は叶ウ! ってやつカァ!? 叶うといいナア、叶えさせねえけどナァ!」
気づけば黒龍は彼と会話を交わしてしまっている。
悪の味方は悪ゆえに、興味がないと言いながらも悪たる性根を疼かせてしまう。分不相応な人間に対しては、才能の面から責め立てるという風に。カガリのような自信家に対しては、煽るような口調をとるように。そうせずにはおられない。
もっとも、彼は小心者ゆえに、誰にでも同じことをするわけではないが。
「はあ?」
そしてカガリは、黒龍の想定する人物像を容易く引きちぎって上を行く。
「諦めない? 何の話だ?」
カガリは黒龍の言った言葉の意味が、本気で分からなかった。
カガリには才能がない。それは事実。
"心"を司る彼の母親からのお墨付きだ。彼には、才能がない。
だが彼は諦めなかった。常に前を向いて、前進する。諦めずに走ることを止めなければ、どんな強敵にでもいつか勝てるようになる。なってみせる。そのために、努力を重ねる。才能がある人間にだって、諦めずに食らいつけば、希望の星が見えずとも、自分の手で掴んでみせると信じている。
――わけではなかった。
「諦めないなんて当たり前の話だろうが。大前提だ。いちいち言葉にするようなことじゃねえだろ」
カガリは前へ前へと進む。そこに諦めないなんて言葉が挟まる余地はない。
「気持ちで負けてちゃ話にならねえってよく言うだろ。選ぶ気がなくたって、弱気な選択肢を選ぶような余地がもし自分の中にあったら、その選択肢を持っていない人間には気持ちで勝てないってことになるだろうが。それは、負けだ。敗北だ。認められねえし、認めていいわけもねえ。まず気持ちで勝ちたいのなら、心の中は常に強気で埋めなくちゃならねえ」
だから彼は、諦めるという言葉を持ちたくないのだ。
「だから諦めるだのめないだの、そんな選択に直面してる時点で論外だ。生まれる前からやり直してろタコ野郎」
それは己を鼓舞する言葉でもあった。自分に対して「持つな」と言い聞かせる言葉でもあった。
もしかしたら、勝てないかもしれない。
もしかしたら、実現できないかもしれない。
もしかしたら、届かないかもしれない。
そのような中途半端な思考をしていて、誰が勝利を掴めるという。
一度勝つと決意したなら、後は直進するだけだ。振り返らない。全身全霊全力で、目指した場所まで駆け抜ける。
――そうしなければ、あの宿星には届かないから。
――――奴には決して、届かないから。
別にカガリは、格好をつけているわけではない。ただ、信じているのだ。
そうまでしなければ、そうまで思わなければ勝てない人間が、この世には存在するのだと。
そう信じているがために、悩む時間など僅かばかりもないというだけの話なのだ。
ゆえに、氷月 赫狩は傲慢である。
超越種アリアの血を引き継いでいるだけはある。子は親に似ると言うが、カガリもまた、無意識のうちにある種の傲慢さを抱えている。
そこで、黒龍は一つの違和感を覚えた。
はてこの少年、こんな性格だったか? ――と。
名も無き殺人鬼から報告を受けた。魔術もなしに、魔術師を倒せると言ってのけた餓鬼がいたと。
事実として、魔力によって強化された魔術師をただの人間が打倒するのは難しい。あの殺人鬼のような低位の魔術師ならば、強力な現代兵器でも持っていれば倒せるかもしれないが、一定以上の強さを持つ魔術師はもはや単なる人間とは呼べない。
まあ、そのことを魔術師でもない人間は知らないのだから、そう言っても完全に不思議……ではない。ないのだが、しかしその少年は魔術師としての身体能力と魔術を見てもそう豪語したと言う。しかし最初からそうだったわけではなく、最初はどうするべきかカガリは悩んでいた。
黒龍は見た。あの少女と口論をしていた少年の姿を。自分と勝負しろ、などと言い張り続ける彼の姿を見た。話によると、もうずっと長い間同じことを続けているという。
この二例の少年が同じ人物――目の前の彼であることに間違いはないだろう。
この二例、どちらも高慢だ。高慢ちきだ。およそ普通の少年とは逸脱した性格をしており、自分自身を高い位置に置いているのは間違いない。
しかし……今の、目の前のこの少年。少しばかり過激ではないか?
出会い頭にすぐ喧嘩を売ってきた積極性。諦めないという美徳、その先を自分は行くと言った今の発言。
どちらも、高慢というより傲慢だ。まるで、少しずつタガが外れていっているような、そんな違和感が彼を包んでいる。
もっともこれらはほんのわずかな違和感であり、気のせいと言われたなら気のせいと済ませることができる程度の些細なものだが。違和感があったところで、だからどうしたという話でもある。
「別に諦めないって言葉を馬鹿にしたいわけじゃねえがな。ただ、この俺は選ばねえというだけの話だ」
黒龍の違和感をよそに、カガリは話を続けている。
カガリもその言葉を否定したいわけではない。
よって彼の結論とは、つまるところ。
これは気持ちの問題じゃあない。決まりきった結論を、諦めないなんて言葉で表現はできないだろう。もう、とっくに、彼は決めている。彼が決めた、よってそれは決まりきった摂理である。
それこそが、一匹の少年としての生き方ではないのか。
「ああ、だからつまり、何を言いたいかっていうとな。要、する、に」
よって、結論。
「――俺に才能があろうとなかろうと、この俺が最強となる理屈に変わりはない。三番以下を永劫争え、踏み台」
後、この俺を見下すんじゃあない。
そしてその言葉を受けて、黒龍を先ほどまでの違和感をどこかへ吹き飛ばし、今までのものとは別種の笑みを浮かべた。
「――面白イ」
それはいつものような嗜虐的な笑みではない。
この面白いとは、いつものような笑えるものを見つけた時の言葉ではない。
人をからかうのが好きな黒龍はしかしこの時、久しぶりに、別の楽しみを思い出していた。
「キ、ハハ。いイナ、良イゾ、お前。気に入ッタ」
魔力が高まる。魔力が体中を高速で循環している。魔術発動の準備が整う。
暴力を、ただひたすらに暴力を。
こんな気持ちは久しぶりだった。
人を虐め、からかうようないつもの魔術の使い方ではない。純粋に力を求めて、己が異能を開帳するのはいつ以来だろうか。
誉めてやろう、愚かな少年。宣言通りだ、お前は俺をその気にさせた。
諦めないことを踏みつけにするその在り方は、少々自分の趣味ではないが、しかしその傲慢さは中々ソソる。
いいだろういいだろう、俺をその気にさせたのはお前だ。ならば、お前は責任を取らねばなるまい。ああいや、お前は最初からその気だったな。
笑みが零れる。思わずタってしまいそう。ああ、いいだろう。
――戦ってやろう。
「名乗レヨ、少年。ここから先は"悪の味方"劉・黒龍ではナイ――"竜をも落とす"劉・黒龍とシテ、相手をしてヤル」
「氷月 赫狩だ。お前を殺す男の名だが、冥途の土産にはしなくていい――お前が死ぬまで覚えておけ」
黒龍はますます笑みを深くする。悪の魔術師ではなく、戦う魔術師としての笑み。
久しく味わっていなかった戦場の緊張感を息とともに吸い込み、吐き出す。
一触即発な空気の中、黒龍は魔術を起動すべく口を開こうとして――。
――"「術師の卵がもしいたら、できれば殺さないでおいてくれ」"
ピタリと、その動きを止めていた。
「……」
「――?」
完全に静止した黒龍を前に、何のつもりだと疑問を感じるカガリ。
しかし、黒龍をそれどころではなかった。
せっかく久しぶりに滾っていたのに、最悪のタイミングで少女の言葉を思い出していたから。
別に構わないと了承してしまったその言葉。
ここでこの少年と戦えば、どちらかは確実に死ぬだろう。もちろん黒龍には負ける気も死ぬ気もないため、戦って死ぬのはこの少年ということになる。
そうすれば、あの少女との約束は破ることになる。
別に破るのは構わない。あの少女と自分、より高い位置にいるのはこの自分だ。だがそれとは逆に、博爵が企む実験の最終段階を握っているのは彼女だ。
彼女との約束を破ることで、もし彼女に何かしら不都合があれば実験に影響が出てしまうかもしれない。そうなっては困る。
それに、この後やりたいこともある。負ける気はないが、深手を負ってしまうリスクまでは否定できない。
つまりどう考えてもこの場で戦うのは得策ではなく、ゆえに……。
「……悪イナ、ヤメダ」
「はあ!?」
カガリからすれば唐突すぎてわけがわからないだろう。しかし、黒龍はここで衝動に心身を任せるわけにはいかない。
「勝負は預ケタ。また機会があったらにしヨウ」
しかしこのまま黙って去るのも趣味が悪い。
ああ、そうだな、よし。
「――この場はあの女の言葉に免じて見逃してヤル。こう言った方ガ、お前には効くのだロウ?」
そう言って、男の姿はまるで煙のように消えていた。
カガリは男が残した最後の言葉に、やはり怒りを燃やしていて。
「上ッッ等だよヘイロォォン……!」
いつか絶対に殺そう。お前がその時まで生きていれば。
そう決めたカガリは、踵を返す。
だがあるいは、これで良かったのかもしれない。今にして思えば、本番前の前哨戦で多大なる消耗をすることはないだろう。
今はそう納得して、カガリはぽそりと呟いた。
「くれてやるよ、正義の味方。仮面野郎は、あんたの獲物だ」
***
「サテ」
やることをやってしまおうと、さっきまでカガリと邂逅していた場所とは別の場所にいる黒龍が、博爵の実験たる魔術結界を強化すべく哀れな生け贄を捧げようと周囲を見回していたところで。
そこで、"領域"が作動した。
「……ナニ?」
周囲の空間が変わる。先ほどまであった人の気配が、彼らを残してすべて消える。
通常の現実と次元のズレた別位相。魔術がまかり間違っても一般人には見られないようにするため、稀代の錬金術師によって開発された傑作。
正式名称"魔術仕掛けの戦場領域"。使い捨ての魔道具。
この領域は、黒龍が使用したものではない。
ならばいったい誰がと黒龍は考えたが、しかし考えるまでもないだろう。
今この街を徘徊する、魔力を宿した登場人物は三名――残りはそれぞれの居場所から身動きしていない――すなわち、黒龍とカガリ。
そして最後の一人は。
「また会ったわね! 悪党!」
甲高い声が道に響く。
いつものように、彼女は叫ぶ。まるでそれが、己の義務なのだと言わんばかりに。
「何の因果か、縁があったか! ここで会ったが百年目! ってこういう時よく言うけれど、そんなに経ってないわよね! せいぜいお久しぶりくらい。そして永遠の別れとしたいわ! いったい私は誰かって? 私の名前は何かって? もちろん答えてあげましょう! 聞かれなくても答えましょう! 正々堂々正義道、それが私の生きる道!! 正義の名乗りはお約束、私も名乗るわヒーローだもの! ご覧よご覧ご覧あれっ。ここに来たるは通りすがりの正義の魔術師! さあさ皆さんご一緒に!」
そこに現れるのは、当然彼女以外にあり得ない。
「灰久森、兎角! 大・参・上っっ!!!」
「……出現早々喧しい女ダ」
"正義の味方"を名乗る女と、"悪の味方"と呼ばれる男が、ここに再び対決する。