15.魔剣"正義"
(どうするどうするどうしよう!? 透明になるとか聞いてないんですけど……! 言ってないもんね! 誰も言わないわよねそんなの!)
(もうこれ勝ち目なくね? 無理じゃね?)
一撃を入れ合った二人だが、だがそのたった一撃だけで互いに動揺していた。
想定外は常に心を乱すものだが、戦いにおいてはそれが命取りになりかねない。互いに動揺したことは、奇しくも互いに命を拾う結果になったのかもしれない。
「ふ、ふっふっふ……あなたの能力、見切ったわ! さあ謝りなさい懺悔なさい! 慌てて騒いで弱音を吐いて、後悔しながらひれ伏しなさい! あなたたちが何を企んでいるのか、この街に張り巡らされている魔術は何なのか、それを教えれば――そうすれば、寛大な心で許してあげても良くってよ!」
「嫌なこったって言ったろ。というか、知らねえよ。おれは雇われただけだし、趣味と実益を兼ねて、言われた通り人を殺してただけだ」
「……あっそ。じゃ、殺すわ」
「やってみろ。魔術の種がばれたからといって破られたわけではない。おれのナイフはまだお前に向いてるんだよお」
そして二人はその乱れを隠していた。ゆえに二人が相手の動揺を見破ることはなかったものの。
が、心中の乱れが消えたわけではないためそれを落ち着かせようと頭を回していた。
(落ち着きなさい私。大丈夫、敵は見えないだけ。相性は悪いけど、何ともならないほどじゃない。多分)
(大丈夫だ、奴は言った。勝てない敵と戦わせはしないと。よくわからないが、その言葉は絶対らしい……なら、この女は殺せない相手じゃないはずだ)
彼らはすぐに心を切り替えていく。
いつまでもぐるぐると動揺したままならば、敵に隙を晒し続ける羽目になってしまう。
そして次に考えるのは、どうやって敵を倒すかという一点のみ。
(魔術、使ってなくて正解だったかも。ちょっとだけ相性が悪いわ、ちょっとだけ。ちょっとね)
基本的に、攻撃というものは"敵が見えること"が前提となる。当然だろう。目の前に立つ相手を倒すための方法が攻撃であり、攻撃を行うためのための手段こそが武術であったり魔術であったり、あるいは武器や兵器といった道具であったり。それらこそが、攻撃という敵を害するための方法なのだ。
見える敵を倒す。これは戦闘の本質でもなんでもなく、ただ当たり前の前提である。
無論、盲目の戦士など敵が見えないことを前提として戦うものもいるだろうが、それは少数派でしかないだろう。もっとも、『幽怪乱歩』は発動中に術者の音や魔力反応までもあやふやに隠してしまうため、兎角が仮に盲目の戦士であったならより苦労することになっていただろう。
結局のところ、敵が見えなければ攻撃するもしないもない……というのが現実だろう。後ろから不意を打たれれば、たいていの人間はなすすべもなく倒される。
(もっとも、そういう前提を根っこから覆しちゃうのが魔術ってもんなのだけど。けど、私の魔術ってどちらかというと得意なのは一対一なのよね)
透明化に動揺してしまったのは、つまりそういうことだ。すなわち、彼女の魔術もまた見える敵を前提とした魔術であるということ。
見えない悪と戦うことが想定された魔術ではなかったのだ。
(だが、一撃で殺せなかったのは正直痛かった。おれははっきり言って、手札を多く持っている魔術師じゃない。この『幽怪乱歩』だけが唯一の武器だ)
対する男が攻めあぐねている理由もまた単純なものであった。
殺人魔術。つまり、人を殺すための魔術。
だが、それは誰であっても殺せるということを意味しているわけではない。
(ああそうさ。昨日の餓鬼が言っていたことは的を射ている。おれは、同じ魔術師を殺せるほどの強さは持ってねえ)
正確には「戦う魔術師を」だ。
『幽怪乱歩』は人を殺すための魔術。だが、男は戦うための魔術師ではないのだ。すなわち、この固有魔術もまた戦うための魔術ではない。
これは、人を殺すためのもの。
男よりも弱い、非魔術師を殺すためのもの。男にとっては、今も手に持っているナイフと同じ。魔術もただの凶器と同じなのだ。
仮に、魔術が戦闘力に則ってランク付けされているとしたならば、『幽怪乱歩』は決して高い位置にある固有魔術ではないだろう。つまり、男の固有魔術は決して強い戦闘力を持っているわけではない。
だが目の前に立つ女は、正義の味方を名乗ったことからも分かる通り戦うための魔術師なのだ。その固有魔術も恐らく戦うために特化されており、男のものとは別物だろう。
男にとっては、戦う魔術師はできる限り戦いたくない、いいや遭遇したくもない相手だった。
(だがやるしかねえ。それが契約だってなら、やってやるしかないんだ)
だが、それでも相性は存在している。
(見えない敵は、簡単には斬れないわよね)
透明な敵を攻撃する手段を、兎角は持っていない。
(……いえ、ちょっと違うわね。まともな手段がないだけで、方法はある)
兎角の力は一対一専用の固有魔術。それは周囲一帯を攻撃することが当然の魔術ではないということを意味するだけだ。
辺り一帯を攻撃する方法が、ないわけではない。
(だけど、少し賭けになっちゃうのよね。こいつは、できれば確実に、100%、絶対、ここで確殺しておきたい。だから、賭けに出るなら最後の手段にしたいのよね)
殺人鬼を野放しにはしたくない。よって、兎角がここで自分に求めるのは目の前の悪を必ずここで仕留めること。
ならば求めるものは十割の手段。八割、九割ではまだ足りない。
(だって、こいつ、私が自分を今すぐ殺せる方法を持ってると知ったら、たぶん逃げるでしょ)
昨日もそうだった。少し形勢が不利になっただけで、この男は迷わず逃げた。
ならば仕留め損なった場合のことを考えると、この方法はまだ使えない。
(それに、魔力もあまり使いたくないしね)
そして、理由はもう一つある。
一対一が前提となる戦闘用魔術である以上、周囲を攻撃するような方法をとればそれだけ多くの魔力が必要となるのは道理だ。魔力は常に体内で生成されるが、生成量よりも消費量の方が当たり前に多い。
彼女は、ここで多くの魔力を消費したくない理由があった。
(あのアイバイザーの男)
――劉・黒龍。彼女はその名を知らないが、この街にまだ悪の魔術師がいるということは知っている。
以前の夜、彼女は偶然見つけた黒龍を追走し、そして見失っている。目の前の魔術師はどう見てもただの卑怯者でしかないが、おそらくあの男は戦う魔術師なのだろう。
ならば、正義の味方として悪を討たない理由はない。もう一戦するために、ここで使用する魔力はできる限り抑えておきたい。
(だから、逃げられないようにしないと)
もっとも、男は黒龍たちとの契約のせいでどうしても勝てないと判断した場合以外、逃げることはできないのだが……兎角がそのことを知る由はない。
攻めあぐねているのは兎角も同じだ。
(おれがこいつを殺すためには、どうにか接近するしかねえんだよなあ)
男の魔術はそのためのもの。虚像を囮にし、透明と化した実像が対象に接近する。
言葉にすればそれだけの魔術であり、いかに『幽怪乱歩』が戦闘用ではないということがわかるだろう。
これはひとえに、殺人鬼から逃げたはずなのに逃げた先で殺される被害者の無様さを笑い殺すための魔術なのだから。
しかし、それでも方法はそれしかない。
種がバレているため、虚像の動きに彼女は惑わされないだろう。だが、虚像の動きと実像の動きは少しだけだがズレを生むことができる。必ずいつも、二つの像は動きが100%リンクしているわけではない。それを利用して、どうにか少しでも近づく。
ジリ、ジリと。少しずつ位置を移動する。
(少しずつ。少し、ずつ)
汗が男の額から地に垂れる。男はそれを拭うこともできない。
それだけ、彼はこの膠着状態に集中していた。
(この男の魔術、その弱点。それを見破ることが肝要よね)
果たして、そんなものがあるのか。
ある。
これは九割方断言できることだろう。兎角は、その確信を既に掴んでいた。
それは昨日、彼女が男と邂逅した時に言った台詞。
――"「聞いて見なさい知りなさい! 通りすがりの魔法使い、灰久森 兎角――私が! 参上! 大・参・上!!」"
その台詞を聞いて、男は何と返したか。
――"「魔法使い……ということは、おれのお仲間かあ。お前も魔術師なんだなあ!」"
男は、そう返したのだ。
(不用意なことは言うもんじゃないわね、悪党)
魔術師と魔法使い。
魔術と、魔法。
兎角は言った。
魔術と魔法は、違うものだと。
術とは元となる法から使えるものだけを抜き取って、限定的に使用するもの。この差は途轍もなく大きいのだ。
例えば、海からコップ一杯の水を掬ったとする。果たしてこの二つの水は同じものだと言えるだろうか? 答えは当然、否だろう。海には様々な生物が生息しており、まだ未知の部分も大きく残っている生命の母。だが、コップに入っている水は海からとった海水だとしても、しょせん海ではなくただの水だ。そんなものを、同じものだとはとても言えない。
そう、この魔術界において"魔法使い"とは、たった一人にのみ名乗ることを許された称号なのだから。
あえて彼女は、それを名乗った。
そこに反応しなかったということがどういう意味を持つのか。魔術師にとって常識レベルの知識を持っていなかったということ。それはつまり、この男が魔術師としてまだ未熟者であるということなのだ。
そしてただの人殺しにしか魔術を使ってこなかっただろう男の使う魔術に、欠陥がないわけがない。
(案外、赫狩くんの言っていたことは正しかったのかもね)
兎角の介入がなければ、自分はあいつに勝っていたと彼は言った。彼は特に根拠がなくても同じことを言いそうだが、しかし、もしもちゃんとした根拠があったとしたら。既に彼は、男の弱点を見破っていたのだとすれば。
(私が助けに入る前から、彼はこの男と渡り合っているようだった。魔術師ではなかった赫狩くんが、曲がりなりにも魔術師であるこいつを相手に生き残ったということは、つまりこの魔術の弱点を見切って、攻撃を避けられたからってことなんじゃないかしら)
そしてもしもそうならば、この男の弱点とは魔術師でなくても見つけられる程度のものだということになる。
ならば。自分にも見つけられるはずだ。
条件は揃っている。先ほど交差した時の違和感、男の魔術師としての未熟さ、その情報を容易く掴ませてくれたこと、そして通常の世界とは位相の異なるこの領域空間……。
(どうして、あいつは動かねえ)
互いに敵を探り合いながら膠着するこの状態。
男が動けないわけは簡単だ。男の魔術に今すぐ状況を変えることができるような効果がない以上、兎角の隙を突いて近づきその手のナイフを突き立てるしかないからだ。
だが、彼女はなぜ?
兎角が動かないのは、男の弱点を見切り、男を確実に殺すためなのだが、男にはそれがわからない。
(魔術に発動条件がある……とかか?)
ゆえに男は、そう勘違いをした。兎角の魔術には発動するための条件があり、だから今女は魔術を使えない。だから姿の見えない自分を攻撃する手段がない。
兎角の魔術にそんなものはない。だが、男はそう思った。いや、そう思いたかった。
男には自分と同格以上である魔術師と相対し命のやり取りをした経験がない。つまり今のこの状態は男にとって大きなストレスなのだ。そのストレスから逃げたいがため、男は自分に都合のいい想像をするしかない。
女は今魔術を使えない。なら、今攻撃すれば女を倒せるのではないか……と。
そしてそれは、今を逃せば女に魔術を使われて自分が追いつめられるかもしれないという焦燥へと逆に変わっていく。
ストレスから逃げるための想像が、次第にストレスを与えてくる想像へと姿を変えるのだ。
膠着した状態で対象を延々と狙い続けるのは、その道のプロでも精神的に来るものだ。だというのに、男はただの快楽殺人者。この状態に、長く耐え続けられるわけはない。
だから。
「――――っ!!」
男は動いた。自分にできる限りの魔力を使い、虚像と実像の行動連結をズラした。
これで、虚像の動きに合わせて兎角が迎撃を行っても実像を倒すことはできない。視覚にも聴覚にも頼れない、正面から騙し殺すための魔術。これを使って、この魔術師を殺す。
女も動いた。男が走り始めた以上、悠長に待ち構える理由はない。
ただし今度はさっきと違い、女はその場から動かない。
そして。
「――――――光!!」
彼女は魔術を使用した。
光源の汎用魔術。名前もそのまま、光という名。
魔力込めるほど強い光を放つ、ただそれだけの魔術。人の目を潰せるような強力な光を放つことはできないが、暗闇を眩く照らすだけの効果はある。
彼女はそれを、少し離れた自分の背後へと使用した。
男がどこにいるのかはわからない。だが、見当はつく。ただの殺人者が、まさか馬鹿正直に目の前から迫ってくるわけがない。背後か、もしくはせいぜい横からだ。
そしてそれがわかっていれば、予測のついた『幽怪乱歩』の弱点を突くことは容易かった。
そして突如現れた光源に従い――兎角の背後から影が伸びた。
「な!?」
それは男でも、最近になってようやく、薄々気づき始めていた弱点だった。
魔力に覆われた別位相、"領域"。その中は、品質にもよるがある程度薄暗いのだ。もちろん視界の妨げになるようなものではないし、どれだけ暗くても天気が曇りの昼という程度。だが、それが男の弱点をまさしく雲のように覆っていた。
兎角が始めに感じた違和。
それは、男の魔術が高速移動ではないと気付いたことではない。
その前。その直前に違和感があったからこそ、この力は高速化ではないと気付いたのだ。その一つこそが、すなわちこれだ。
光源によって伸びた影。
虚像には、影が無かったのだ。
いや無かったというよりは、普通以上に薄かったと言うべきか。この薄明るい領域内では大して気にもならない程度の、ほんの僅かな違和感。だがそれに気づいた時、それが男の弱点へと繋がった。
つまり、実像である本物には「まだ影がくっついているのではないか?」ということ。
殺人魔術『幽怪乱歩』。その本当の絡繰りは、自分を透明化させているわけではなかった。もちろん、幻覚を見せているわけでもない。
相手の目に映る自分の像だけを、別の場所に移動させる。すなわち彼の魔術とは、速度向上でも敵手攪乱でもない。"光景干渉"こそが、この魔術の正体だったのだ。
ゆえに強力な光を浴びてしまえば、まだ彼の魔術師としての腕では移動しきれずに残っていた足元の僅かな影が浮き彫りになる。領域内では気づきにくかった、だが光があればはっきりと見えるようになるその影を目印にすれば、彼の位置を把握することが可能になるのである。
「ちく、しょう!」
だが、まだだ。まだ自分は負けていない――男はそう思いながら駆ける。
攻撃を仕掛けたのは自分が先だ。まだ、自分が一手速いはず。
しかも自分は背後から攻撃している。女がこちらに振り向いてから迎撃を仕掛ける前に、殺してしまえば自分の勝ちだ。
そう、男は考えた。だが。
「――残念だけど、一手じゃ遅い」
一歩も動かずとも、十分だ。
兎角が今まで男を倒せなかったのは「確実に倒したいから」そして「あまり魔力を使いたくなかったから」。だがそれを抜きにして、兎角がここまで待ったのは単に「男の正確な位置がわからなかったから」だ。
それさえわかれば、十分だった。もはや男を倒すのに何の準備も必要としない。
背後から伸び、自分の目にまで映る影。これを頼りに、男の現在位置を把握する。
そして兎角は、魔力を練った。
「"跳び斬れ"」
それは自己への絶対命令。
自己に流れる魔力を使いこなし、"固有魔術"へと姿を変えるための、自己へ命じる起動解言。
これを以って、魔術は外界へと解き放たれる。
個の信仰を。個の圧倒を。
形にすべく、ここに命じる。
命じよ、命ぜよ。お前が何をすべきか命じよ。お前の力の正体を名ぜよ。
流れる魔力を手繰り、溢れる力を制御して、放つ"魔"の名をここに唱えよ。
――その名は。
「『三日朏玉兎』」
そして、男の体から鮮血が飛び散った。
「えっ」
男が目を下に向ければ、自分の体が真一文字に斬られているのがわかる。どうして、あの女は自分を向いていなくて、まだ接触すらしていないのに。
どうして……。と、男がよろよろ揺れ、走っていた足を止める。
わけがわからない。これが、この女の魔術なのか。自分とは違う、本物の。相手を殺すための、魔術。
兎角は手に持っていた短剣を横に振りぬいていた。それだけで、男に致死の一撃を与えた。
その魔術とは、一体どういうものなのか。
「あなたがどこに居ようと関係ない。弧を描く私の斬撃は、決してあなたを逃がさない。あなたがどこに居ようとも、あなたがどこまで逃げようと。私の剣は必ずあなたの元まで駆けて斬り裂き、悪の御許を散らしてみせる。この手が握る刃に宿る、月の光は兎の形。
ゆえに――」
魔剣"正義"。
「私の剣は、三日朏玉兎」
三日月から別の玉兎が跳び出て、彼女の悪を斬り殺す"遠隔斬撃"。
それこそが、"正義の味方"灰久森 兎角の魔術である。