11.回想R
自分の一番古い記憶はどんなものかと問われて答えられる人間は、おそらく少ないだろう。
記憶とは古いものになればなるほど他の記憶に埋もれて消えるものであるため、古いものになればなるほどなかなか覚えてはいられない。昨日は何を食べたのか、そんなことまで人は忘れてしまうものなのだから。
ゆえにその質問に答えるならば、自分が覚えている中で一番古いものを答えるしかない。
そして、彼は覚えている。
もっとも古い記憶。己の原初。
周囲すべてが火の海で包まれていた、炎の記憶を。
そこで彼はいったい、どんな思いを抱いたのだろうか。
***
――夢を見ている。彼は今、遠いいつかの夢を見ている。目を覚ませば忘れてしまう、遠い日の夢。
そこには、一人の少年がいた。
「赫狩、赫狩。愛しい愛しい我の赫狩」
その少年の耳に、声が聞こえた。声の主は女性であるようだった。
声には少年への確かな愛情が込められており、幼い彼を慈しむ優しさに満ちていた。あるいは、聖母すら思わせるほどに。
幼い――まだ、齢十歳にも届いていないだろう。背丈もまだ低く、まだ子供だった頃のカガリがそこにいた。
「おはよう、赫狩」
おはようと、彼女の言葉にカガリも挨拶を返す。
そんな当たり前のやり取りがたまらなく嬉しいといった様子で、女がうんうんと頷いているような気配が感じられる。
……感じられるだけだ。少年の視点からは、女の姿はどこにも見えない。
ここはどこなのだろうか。カガリの周囲は真っ暗闇で、女の声以外はすべてが静寂。不気味な静けさを保つ闇の中で、女の声だけが強い音として響いている。
いや、そもそも周囲というものがあるのかすら不明瞭な空間だった。距離という当たり前の概念すら不確かであいまい。先が見えないからという理由で周囲が感じられないだけだと、そう錯覚しているだけなのではないかという疑問すら思い浮かばないほどに、ここは不気味な場所だった。
「さあ、赫狩。始めましょう。あなたの望んだことを、あなたが願ったことを」
望み……自分は、いったい何を望んだのだったか。カガリは薄ぼんやりとした頭で考える。
どうにも思考がはっきりとしない。頭の中でくらくらと邪魔なノイズが走り、何も定まらない。
「忘れてしまったのですか? あなたの望んだことなのに? ……いえ、それとも我が悪いのでしょうか。やはり加減というものはよくわかりませんね。やるからには全力で、それ以下のことをしたことがないこの身を思わず呪ってしまいそう。ほら、皆殺しって基本でしょう? 中途半端はいけないわ。ですけれど、今となってはそれが仇となってしまったのでしょうか」
女が何かを言っている。
幼いカガリには彼女が何を言っているのかがわからない。
もっとも、ごく普通の人間が聞いても彼女が何を言っているから理解したくはない言葉ではあったかもしれないが。
「ですが、ええ、けれど、別に構わないでしょう。忘れてしまったなら、忘れてしまったで。男の子の決意とは、そう簡単に変わるものではないと聞き及んでいます。でしたらそのうち思い出すことでしょう。でなくばあなたの決意もその程度のことだったというだけのことですし……それならそれで我は構わないのですけれど……。ええ、けれど、我は聞きました、我の耳で聞きました。愛しい赫狩、あなたの言葉を。ですので遠慮はしませんよ赫狩、これはあなたが言ったことなのだから」
俺が言ったこと。何を、言ったのだったか。
カガリは記憶を辿ろうとするが、この空間と同様に自身の記憶すらなぜかあいまいだ。まだ寝ぼけて、いるのだろうか。頭がくらくらとして、やはり思考が定まらない。
「ふふふ。こういったことは初めてで、ドキドキしてしまいますね。他人に教える、なんて。今までにない体験です」
教える? 自分は教えを乞うたのか? 他人なんかに?
「けれど、勘違いをしてはいけませんよ赫狩。我があなたに教えるのはあくまで……そう、あくまで気構えとか、ありようだとか、その程度の話ですから。それ以上のことは、あなたに何一つだって話はしませんとも。何一つ、何一つとて、あなたにはそれ以上、何も教えることはありません。そんな我だから、あなたも我に頼んだのでしょう?」
女は笑顔で話している。いや、笑顔なのかどうか実際に見えるわけではないのだが、間違いなく笑顔なのだろう。なぜかそれが確信できる。
それもとびっきりの、花のような笑みなのだろう。
「拳の握り方とか、間合いの測り方だとか、ええ、何も言いません。だってあなたにそんなものは必要ないですもの。ブジュツとか、ケンポーとか、そんな不純物は成長の妨げにしかなりません」
通常、人間が強くなるための手段を女は不純物だと切って捨てる。
混じり気のない確信は、自分の言葉に何の疑いも持っていない者特有の純粋な笑顔。
カガリの成長に、そんなものは必要ない。何の役にも立ちはしないと。
なぜならそれは、弱者が強者に成長するための道具でしかないからだ。足りぬ足りぬ、それでは足りぬ。強者で止まるな、超人になれ。
巨人はいちいち拳を握るか? 神がいちいち間合いを測るか? しないだろう、そんなこと。だったらそれは必要がないものなのだ。
彼女はつまり、人間が自分たちを磨き上げてるために蓄積してきた武の歴史をくだらないものだと言っている。
弱者も強者も人間も、女はすべてを下に見ている。
けれど、それでも例外はある。
「ふふ、ふふふ。夢のような人を見たことがあります。人に頼らず、自分に驕らず……自分だけの力で、誰よりも強くなって見せた人を」
遠い日の記憶を懐かしみながら、彼女は語る。
「ええ、ええ。あの人はすごかった。とてもとてもにんげんなんかとは思えないくらいに。努力と努力と努力と根性、それだけで頂点にまで上り詰めた人。大したものよね、本当に、それだけで強くなったんだから。いいえ、だからこそ強くなれたと言うべきかしら。とにかくあの人は他の人と違いました。まるで、太陽と石ころくらいの差がありました。ふふふ、見なければわからない凄まじさというものは往々にしてあるものですが……あの人も、その一つでしたね」
彼女は思い出の人物を嫌味なく褒め称える。
本当に、途方もない人物だったのだろう。少なくとも、彼女にとっては。だから彼女はここまで素直に、その人物を称賛することができるのだ。
そして。
「……だから本当、生意気よねえ」
一瞬、最後の一瞬だけ、女は笑顔以外の表情を見せた気がしたが……すぐに、元の雰囲気を取り戻していた。
その一瞬に見せたのは果たしてどんな顔だったのか、あるいはそれが彼女の素顔なのかもしれなかったが……子供のカガリにはその変化は気づけず、ただ黙って女の話を聞き続けている。
「ええ。ですから、我は思ったのです。にんげんが強くなるのに他人なんて必要ないわね、と。そもそも我には弱者から強者に成長するという過程の意味がよく理解できないですけど……まあ、それでも必要ないものなのに変わりはないのでしょう。だってあの人は自分一人で強くなっていたのですから。ええ、そもそも自らの成長に他者の手を借りるというのがそもそも不自然ではないですか? 他人の手を借りるということは、つまりその人に自分の限界を決められるということでしょう? その人にそういった意思があろうとなかろうと関係ありません。人の教えを受けてしまえば、まずはその人物を超えるところから始めなくてはいけない」
他人に目標を決められて、いざその目標に達してもまだすぐそばに壁がある。そこを越えなければ、スタートラインに立てないのだ。
もちろん、明確な目標が建てられるというのは、何かを目指すうえで欠かせない要素ではあるのだろうが……しかし、女はこう思う。
――なんて、面倒なことなのだろうか。
「でしたらそもそも、そんなもの最初からない方が話は簡単ではないですか。要りません要りません、目標なんて。先生なんて。そのような中途半端な到達点があるから、ほとんどのにんげんは中途半端な場所にしか辿り着けないのです」
すなわち、彼女の理屈とはこういうものだ。
ここまで到達できれば一流、などといった線を引くよりも――どこまで成長すればいいかわからない状態の方が、より強くなれるだろう……と。
「事実、あの人はそうだった。どこまで強くなればいいのかわからなかったから、どこまでも強くなってしまった怪物。ええ、ええ。ほらやっぱり、目標なんてない方がいいじゃないですか。だって、ほら、――屑虫なんてたいていが半端な生き物なんですから、そんなものを目指したって強くなれるわけないじゃないですか、ねえ?」
心底、嫌味はない。
褒めるのも、貶すのも。
彼女は自身の言葉に嫌味を含ませるなんて細かい真似はしない。
「だからみんな、我々のように進化ないんですよ。人はいつも、歩くのが遅い」
やはりそれでも、花のように女は笑っている。
陽を浴びて咲く花のように――花が毒を、持つように。
だがこの女の嘲笑は、力を手に入れから力を持っていない人を下に見ているのではない。彼女はそのような小さな存在ではない。
最初から人を見下せる存在だから、力を持っている。そういう、始まりから違っている存在なのだと……幼いカガリは、理解したわけではないが朧げに悟る。
やはり、この女はそうなのだ。
「まあ、もっとも……目指すのが我のようなモノであれば、話は別かもしれませんが……ああ、けれど赫狩、あなたは我を目指してはいけませんよ。あなたと我は同族であるとは思いますが、きっと種別は違っている。あなたは自分の道を走るべきです」
それは、悪意と呼ばれるものに属する感情ではなかった。
当たり前のことではあるが、誰がわざわざ虫ケラごときを相手に悪意を以て蔑み、見下し、賤しむほどの関心を示すという。
「赫狩、赫狩。あなたは違う、きっと違う。あなたが多くの屑虫たちとは、きっと違うはずですよね。あなたの光は、きっと屑虫のそれよりも、ずっと大きく輝けますよね? ――ね、赫狩?」
事実、彼女にとって人間と虫との間に大きな差異はなかった。
どちらも等しく小さな生き物なのだ。物理的な大きさではなく、存在としての小ささ。
「あなたは我に言ってくれたのですから。まさしく、我があなたに期待していたものと同じ言葉を、言ってくれたのですから」
これは凡そすべての人類を見下している。現行人類の中で一,二を争う醜劣な心を持つ女がそこにいる。
誰からも嫌われていた。誰からも腫れもの扱いを受けた。誰からも汚がられた。
誰からも誰からも誰からも。
そして、その全てを一切意に介さなかった。
「赫狩、赫狩赫狩赫狩。愛しい愛しい我の赫狩」
これは、そういう女なのだ。
誰かを見下すのが楽しくて悪意を持つのではない。彼女にとって、そもそも悪意というものは自分から持つものではない。彼女にとって悪意とは、いつも向けるものではなく向けられるものであった。
悪意を宿しているのが自然体である……いや、そもそも悪意など彼女にとってはあってもなくても同じものだ。人は虫を自分よりも下の生物だと思っている。それは意識して下に見ているのではなく無意識のもので、生物として自分たちが上位に立っているという霊長としての自覚である。
常に人類を蔑んでいるということは、つまり生物として人間の上に立っているということに他ならない。そういう風に生まれたから、そういう自分というものに納得している。
魚が鰓で呼吸をするようなものだ。そういう生き物だから、そういう風に生きているという話。
だから、この女は違うのだ。力を手に入れた程度のことで、他者を見下し始めるような小さな生物とはすべてが一線を画している。
だから、醜悪。
自然の側に立てば、人間という種は環境を汚染しながら破壊する醜い破壊者であるという。
ゆえに、醜悪。
同じことだ。人間の側に立てば、この女は醜い破壊者。
すなわち――彼女は、生まれつき心が醜いのだ。
花のように、笑顔を撒いて。毒のように、汚臭を流してきた。
「あなたは言った、我に言った。だったらあとは始めるだけですよね。だからあなたは輝いてくれますよね。わかっています、わかっていますよ。ですから我は、あなたにすべてを用意してあげましょう。ええ、ええ。何も教えず、何も与えず、何も師事せず……けれど、環境だけはとびっっきりのものをあなたに差し上げましょう」
しかしその醜さ一色な心の中で、幼子への別な感情を強く強く輝かせながら、魔女は笑っている。
声には少年への期待を。
そしてその笑みには――溢れんばかりの愛情を。
そして、幼いカガリは思い出す。
自分が何を、この女に頼んだのか。何を、この女に言ったのか。
難しいことではない。単に一言、彼はこう言ったのだ。
強くなりたい、と。
「ええ、ええ! なれますよ赫狩! あなたならきっと、どこまでも! だってあなたには、あなたにも――」
――才能が、欠片も無いのだから。




