06
一息つきたい気分が収まることもなかったので、自販機を探した。ひとまずに東区の一区画を網羅するかのごとく歩き続けて、ようやくに新品の公園を見つけ、その入り口付近で守衛のように立っている様を認めるに至った。誰もいない中、律儀にうなり声をあげながら客を待ち続けた自販機の前に立って、とりあえず、コーヒーで唯一の百円表記である見たこともない銘柄を興味本位で選んでみた。それから迷わずに一口目を味わうものの、これはコーヒー風味ではあるが、まったく別物の甘い飲み物だと結論付けて、今度は百二十円のペットボトルに入った水を買って、喉を潤した。缶コーヒーは排水溝に中身を流してゴミ箱に入れた。公園の時計を見やる。それから一応、腕時計で再確認をすませる。すでに十六時を回って半分を過ぎている。ここまできて帰ろうという気分にはならなかった。事件現場の確認だけはしておきたいのだから、二度手間になるよりは今、苦労しておいて損はない。
「何なんだ、一体」
呟かされるという不快な気分になった。言葉にしなければ納得できないような出来事であり、いらない不安要素を抱え込んでしまったことに対する後悔があるものの、好奇心に対抗できた試しが人生のうちに存在のだから、結局のところ自業自得として悶え、時間の経過とともに治癒を望むしかなかった。
事件現場は東区でも比較的早くに整備が終わった区画で、すでに人の手が入り、汚されていた。しかし、その汚れが馴染むことで、町は住むべきところになっていくのだろう。人通りはまばらであった。住宅地などそうあるべきであって、飛び込みのセールスをしている草臥れたサラリーマンがとぼとぼと歩くさまは哀愁を禁じ得ないものであった。ともあれば、彼もその一人に見られてしかるべき容貌であることに変わりはない。だからこそ、誰に認められることもなく闊歩できるのであって、やましいことは何もしてないのだから、よほど不良などによって行われる親父狩りなどに遭遇でもしなければ、目的地にたどり着くことはたやすいだろうし、不良がたむろしていそうな場所など見当たりはしないくらいには、色々と清掃が行き届いている節がある。
「背中が痒いような、いや、これはなんだろうか」
と呟く程度の刺激が突然生まれた。それとなく痛し痒しと小刻みに駆け回ったことはとても新鮮な違和を生む。
暫くは首をかしげて歩を進めたものの、どういうわけか収まることを知らず、次第に考えたくもないことを思い描く。そうして、心当たりがあるのだ。それは、偶然だったのかはさておいて、解ってしまったのだから、対処を考えなければいけなくなった。
「やはり、気分の良いものではないな」
嘆息とともに、頭をむしった。
出会いというのは偶然だ。それはどうしようもない突発的なものである。当人からするならば予定に入っていないのだから当然のことだが、だからといって相手側とて必ず、それは偶然鉢合わせになる、というわけでもない。
不思議な現象に縁がある。それは、何か引き寄せられるかのように惑わせ、引きずり込んいく。
尾行し、尾行される。気色の悪い経験をこれまで得てきたがゆえの理解であったが、今回ばかりは、不可思議珍妙奇天烈な出来事が立て続けに起こってしまうものだから、感覚と表現して差し支えない部分は、余計と気が立っていた。
背後に、何かがいる。
振り向くことはしなかった。ただ寒心に堪えなくなって、思わず足が前に勢い良く動いた。それは走るという衝動に近い。意識の上でその衝動に抗おうという気が起きることはなく、ただひたすらな解放を願って、彼はようやく心身を共にして、徒競走へと挑み始めていた。
追いかけてくる。もはや気配を消そうだとか、彼に悟られまいとか、そういった配慮のかけらもなく、音を鳴らせて走ってくる。不恰好な駆け足だと思った。
これならば追いつかれることもなく巻けるだろうと、さらにもう一頑張りするつもりで意気込むはずだった身体が、途端に急ブレーキをかけたもので、どうにも全身に痛みがかけた。
「なんだ、なんだ!」
わけもわからず、声を出した。
身体が突然ながら悲鳴をあげてしまうことに、ほとほと驚いた。重くなったといえた。それから息を吐き出そうとして、またすぐに吸い込んで、それにも拘らず苦しさが次々とこみ上げてくる、そこに視界すらも霞んで来て、汗すらも気持ち悪く湧き出てくる。変調に身を焦がしながらも、ペースも考えず数キロも走ってしまっているかのような辛さだった。体力に自信はあったものの、最近はタバコの量も増えていたから、そのせいかと思ってしまえば、とても楽になるのだが、と嘆息ついでに荒々しい息を吐いたり吸ったり繰り返す。焦りはしたがどうにかなる、身体は重いが動く。しかし、うんざりはしている。どうにも厄年ではないのだが、一段落したのならばお払いでもしようと心に誓う。
何かが都合よく追ってくるのを辞める、という好ましい気配はない。けたたましい足音が耳に入る。尾行にしてはおざなりなものであったが、その雑さが、存分に害する気概を発散させていた。少しばかり振り返る余裕でもあれば、尾行者を拝見することもできたが、あいにくとそうしたところで事態が好転するとは考えられず、とにかく、走ることだけが最優先される。東区の土地勘はまったくない。だが、主要道路といった大通りは把握している。そこに出てしまえば、後は人ごみにまぎれてやり過ごすことはたやすい。
背後の気配、その息遣い。それほど距離を引き離せていないことを意味する音のそれらが、まだ耳に入ってくる。だが、一定の感覚を伴って、少しずつではあるが、引き剥がすことに成功しているのではないかという余裕が生まれた。気が落ち着いてきて、そこから身体が余計に重くなった。
いけない。これはダメだ。
不幸続きである、どうしてかこんなにも厄介ごとばかりに巻き込まれてしまうのか。
音が死んだのだ。まるで雪の日のように、ひっそりと、辺りから音を吸い取る何かが充満した。
不味いことになった。これはすでに人生の中において、どういうわけか体験してしまっている現象だ。こういうときは、良くないことが起こる。なぜかといえば、この感覚を知っている。さきほど、ついさっき数十分前だろうか、数時間だろうか、とにかく今日先ほどに陥ったうえ、あのとき、被害者は別にいて当事者になることはなかった。それが、今、全身を持ってして、就きたてられている。まごうことなき当事者である。人を探しているだけの善良なる一般市民を、なにゆえ襲うのだろうか。物盗りだとか、通り魔だとかそんな人間味溢れる犯罪者ならば、こんな状況下において、バタバタと一心不乱に追いかけてくるものか。もはや、目的は絞られている。
時計を見やる。思わずに、それは時さえももしかするならば、止まってしまっているのではないかという不安。幸いなことに、時は刻まれていた。あらぶりながらも何度となく確認を行って、十七時を過ぎた頃合であることを思い知れば、人々の営みがひとまずの区切りになる時間ではないのか。授業は終わり、仕事は終わり、家路を行く人々が雑踏を形成する頃合ではないのか。平日だ、いや、今はゴールデンウィークか、訂正したところで、だからなんだというのだ。休みならば余計とおかしな話になってくる。
アスファルトを蹴ったくる音だけが響く、荒々しい息遣いのみが聞こえてくる。今、この世界には追うものと追われる者しかいないというのか。人々は何処に消えた。脈打つ生活は、雑踏やそれに随伴する自動車の群れ群れは何処にいった。遠く弾ける雑踏もなければ、周りの家々に家人のもたらす生活感すら希薄を通り越してまったくの無とは驚くほかにない。しかしだからといって、足を止める理由にはならない。それは悪手なのだと、いまさらながらにして、生命の危機を認識し始めるあたり、危機感のなさに嘆きたくもなってしまう。さいわいにして、相手の足は遅い。不揃いな駆け足だとわかる。気を抜けば、とたんに押しつぶされてしまいかねない重圧が、身体を縛る。だが、それでも逃げ切れるのだ。足の遅い輩が果たして追いかけてくるのか。そうであるならば、中々に早いと考えるならば薄気味悪さが倍増されて、よくないことに巻き込まれているとより一層、心身が苛まれてしまうことになり、今、まさにそれは、的中してしまう。
唐突であったが、予期していた最悪の事態に追い込まれた。ついにというべきか、身体がいう事を利かなくなった。足が動かず、それこそ指先一つ、毛先ほども動作しない。これは、拒絶ではない。いう事を利かないのではないのだ。脳みそは、身体は必死に動きたがっている。全身が胎動するかのように、震えている。外圧によってこれはまぎれもなく、どうしようもなく、縛られている。呼吸することすらおぼつかない、フルマラソンを走りきった後かと、錯覚する。走りきった事もないのだが、マラソン選手はこんなにも大変な協議に身を投じているのかという場違いな敬意すら覚えたが、現実から目を背けるには至らなかった。
そこは辻。真新しくもあるが、実に見通しの悪い交差点。
四辻の小路であって、中央線などという大層な仕切りも存在しない道。が、そうであろうとも、ミラーは当然のように取り付けられていた。
そこに姿は映る。目線は泳いだ。ミラーを認めるくらいには、視力には自信があった。ど真ん中である。ブロック塀に囲まれた辻なもので、見通しが悪いのだから、余計と大きいミラーがこの際、あり難いのか。ともかく背後の世界が見えた。歪曲しながらも、それなりに鮮明な映像として目を通して脳みそに送りつけてきた。
そこに居たのは、人。
人の形をしている。五月にも拘らずねずみ色のロングコートに、襟までご大層に立ててある。目深の帽子すら律儀に被っており、顔をうかがうことすらおぼつかなかった。解ることは、その異様ないでたちのみであって、どういうわけか、四肢が異様に長い。その上で、猫背であっていかにも、アンバランスという単語が適当な表現であるといえた。そもそも、人間としての肉付きがあまりにも薄いのではないか。ただ、縦に長い。双肩は小刻みに揺れている。
フッー、フゥ、フッ――。
大仰な息遣いが耳障りだ。じりじりと身を焦がす焦燥に拍車をかけている。呼吸による空気の排出が成されているにしては、実に妙なもので、どこか頭の部分ではないのだ。どこか、と考えてから、音の発生源が低いと思えてくる。耳を澄ませて、良く確認してしまえば、やはりと、緊張感をはらん仮説を得てしまった。相手の胸のあたりから、それは、呼吸音とおぼしき音の数々がつむぎだされているのではないか、という疑念。それは、やはり、背後に居る存在がただの人間ではないのではないかという不安を一層に煽るもので、果たして、そんな異物に狙われる覚えを求めざるをえないうえに、否応に無実だと理由もなく叫びたい衝動を抱きながらも、汗を流す程度しかできることがないことへの無念が次々と沸いては呼吸をともに亡失していく。
相手は右腕をおもむろに向けてくる。背中に向けて腕が伸びた。さも当然のように、元々不自然に長かった腕が、さらにそれはもう合成映像だとバカにしてしまえるくらい文字通りに、腕というか、物体Xとも呼称したくなるものが伸びた。距離にしてとてもではないが、届く範囲ではないのにも拘らず触手のようにして、体に巻きついてきたのである。直後、おぞましい感触が服を伝って身体を刺激する。寒気が全身を駆け巡り、ずるずると足がすりこまれるかのように、後方へ動いた。自らの意思ではどうすることもできない。目線だけを動かしたところで、何の解決にもならないのだ。何よりもT字路から同じ姿をした何かが、二人、居た。後ろの奴と同じように、腕を彼に向けている。触手のように伸びてはいないものの、動きに合わせて、徐々に近づいてきているし、腕もそれに習って追従してきている様子が見受けられた。
彼は個々に来て、ようやく、すべてを許容した。これが現実だと認めた、認めざるを得なかった。これまではどうにも浮世離れしすぎた。直接な被害をこうむったわけではなかったのだから、危機意識が少々に、思っていた以上に欠落していたのだと後悔した。
信じるにはあまりにも突拍子がなかった。
超能力、異能、魔法、魔術――。
そんな、創作物の中でしか見かけない単語がぐるぐると頭の中を我が物顔で走り回っている。そうして、口をそろえて、ほらみたことかと見下してきている。少なくとも、そう感じざるを得ない。妄想を疎かにしすぎたという言葉には語弊があるものの、かねがね正しくもあるのだ。
まさしく、今、このときを持って善良なる一般市民たる個人に対し、人智を越えた現象が当然ののように行使され、彼の身動きは完膚なきまでに封じ込められてしまったのだ。




