05
事件を調べるには現場を調べるに限る。というのはドラマなどで言葉違いでありながら多用される文言であり、絶対的に演出上の誇張というわけではない。しかし、だからといってプロ集団が調べ上げた現場を引退したも同然の探偵がたった一人で再調査というよりは見学という言葉が正しいのだろう。しかし、だからといって手がかりがないのだから、まずは東区に向かうのはいたし方がないことであり、最悪の場合住良木家へアポをとって話を聞く、程度の行動はしておくべきだ。
彼は幽霊を信じているわけではないが、だからといって、幽霊が怖いわけじゃない。刑事などという仕事をしていたわけで、死体を拝むのが日常ともいえたので、余計と薄ら寒い現実の中、無念の死を迎えたその情念が一体、どこへ消えてしまうのかと考えてしまい、眠れなくなったことも少しはあるだから、万が一のことを、いらぬ心配事ととして抱え込んだところで不思議ではない。何よりもまず、前提として彼は知っている。
人の怖さを垣間見た経験が、人の恐ろしさと凶暴性を知っている。だからこそ、壊れている人がどんな行動を起こすか判らない以上、巻き込まれたのでうんざりしているだけではダメなのだと判っている。
危険とともに、何とかしてやりたいという気持ちもネコの額ほどの面積を持って感情を占有していることも事実である。決して、性別において嫌悪して職務を放棄するなどという怠慢をしでかし、なおかつ男だからむしろ興奮するだとかいう性癖もない、単なる同情や、事件に関する類稀なる関心に引きずられて、仕事をするだけである。
そこで、マスターの話を思い出す。東区へ徒歩移動、その暇をもてあそぶかのように、整理する。反すうしながら話を振り返り、それから当事者のことを考える。姉、住良木真琴を想像する。どんな環境だったのか、どういう人物だったのか。そして、弟、住良木秋人のことを想像する。女装し、姉を演じてひたすらに明るく振舞って、自分を殺し続けているのか。そうしなければならないのかを深く、深く考えていく。答えのない問いかけだ、だが、どうにも気になった。人はそこまで自分を殺せるものなのか。血縁者だろうと、とどのつまり別人に変わりはない。その人は個として確立されているのであって、それに成り代わることはできないのではないか、しかし、自分を殺す事態を容易に許容し実践している高校生がいる。
ニャア、と挨拶代わりに三毛猫が鳴いて、それからブロック塀へと飛び乗ってから民家の隙間へ消えていくさまを観察しながら、東区へ伸びるように群れる住宅街の中を散策する。小山の麓をなぞるかのように楕円を持って連なる古町並みの先に、頭一つ、いや、二つ分だろうか、とにかくよく見える高層ビル群があった。
狭い道は町の隙間を縫い合わせていると思う程度に細い、しかも素人の腕前であってまっすぐなところは少ない。だが、その乱雑さが返って目新しい世界観を作り、分譲住宅などで発生する無個性で箱庭的な趣とは一線を画し、生活の息遣いが生々しく愉快である。
白山吹の花びらが誰とも知らない石垣をそろえた民家から顔を覗かせている。開かれた庭をもつ家にはアネモネが豊かに咲き誇り、その鮮明な色合いを存分に太陽の元で見せつけてくる。多様な顔を見せる小路を進めば、別の世界に繋がってしますのではないか。そんな期待と高揚を抱く雰囲気すら醸しだしている。
ブロック塀の上を優雅に歩くネコに威嚇され、軒先で将棋をしている老人を横目に、珍しくも懐かしさを覚えた豆腐屋のラッパを耳に入れながら古臭い道を進めば、ひび割れが目立ち、所によって隆起し、あるいは陥没すらも見受けられた小路は、おもむろにその装いを真新しい黒にしっとりと着色されたアスファルトへと変貌していった。
区画整備、都市計画、乾ききっていない塗料の臭いが鼻をついた気がしたが、それほどに新しい町だと思える景色が目の前に広がっていく。町と町の繋がり、交じり合い、継ぎ接ぎ、溶接だらけのギクシャクとした活気ある曖昧な世界だ。振り返れば遅く、前へ向き直れば早い。下を望めば、止まれの白色が爛々としていた。
時間をまたぐ気分をおこさせる――。
マスターの影響からして映画の見すぎとうそぶくものの、苦笑を浮かべて肩をすくめる余裕はなかった。
東区への往来は決して、少なくなかった。さすがは東区というべきか、近年ではベッドタウンでもあるからして大型ショッピングモールなどの複合施設に困ることもない。人々は新しい家に住まう小金持ちから、集合住宅に根を張る学生が大挙して喧騒を生み出している。得てして人の集まる場所というのは、金回りが良い。隙間産業めいている探偵として、大なり小なりニーズに応える姿勢を生みやすく、また、人の繋がりも希薄とあっては、藤堂秋彦という人物としても、やはり住みやすい土地でもあるからして、時間旅行気分に浸ったことはないのだから、不思議と身を硬くした。
ふと、何かを感じる。
それはある種の既視を覚える代物で、探偵という隙間産業に身をおくよりも以前の、それこそ正義の犬を夢見た警官時代に持ちえた鋭利でありすぎた勘――その、成れの果て。
自嘲を生ませ身体を解きほぐした。感覚の鋭さは特技といえるが、だからといって助かることよりかは苦労した記憶ばかりが駆け巡るもので、それはやはり落ちぶれた原因もまた、勘であった。とはいえ、警官になったことも勘のおかげであるからして、平等なものだと付き合い方もこなれているつもりである。
その感覚は、今日においてはどういうわけか冴えていた。
何もかも、それは音や生命さえも、集束されていく気分になった。
足は動く。破滅へ向かったときと何ら変わりなく、けれども、後悔など、もはや起こらない。軽率で、馬鹿馬鹿しい。だが、これこそ本質だった。子供のころから変わらない。危険に好奇が勝ることは間々あった。代わり映えがない、これはまるで誘導されているのだ。疑いようもない。そうして、視界は開けていく。そこは何の変哲もない、しかし、だからこそ不自然な空き地だった。まるで取り残された、認知されていない土地。区画整備によって生まれてしまった家を建てるには小さく、かといって邪魔になるような立地でもなければ、公園にしてしまうほどの予算もないのだろう。良くて資材置き場といえる異空間が広がっていた。
一陣の風が吹いた――吹かされたというべきか、人工的に発生したと容認できる量ではないものの、明らかな人的行動によって発生してしまったところを運悪く、本当にそれはどうしようもなく、ありえないと叫びそうになるくらいには不運であると思わざるを得ない現場を目撃してしまった。
風は爆風だった。弾ける音に風が寄り添っていた。その爆発音とともに耳へ滑り込んできた何かしらの金属同士がぶつかり合ったであろう金切り声のけたたましさも随伴させていた。加えて言えば男たちの喚き声が、次第に、それも急速に悲鳴へと変わり、幾ばくかもせずに声は止んだ。
男たちは消えてしまった――。
実に不味いことであるにも拘らず、真っ先に目線が動いて固定されてしまった場所は、まごう事なき白い布切れであってそれは、俗に言うパンツだった。
パンツという単語はボトムス呼称でもあるが、日本ではおもに下着に用いられるものである。男女問わずに纏う肌着であって、下半身を隠すものだが、そのパンツの中でも三角形を模るパンツといえば、やはり女性用下着といえるのではないか。ブリーフということも考えられるが、男性器を包み込むふくらみがそれにはなく、すらりと肌を覆う純白の飾り下のない地味目の刺繍を施された下着は、紛れもなく女性用下着でしかなく、発生した旋風によって勢い良く衣服が舞いあがって、露見してしまっていたことによって、男として偽らざる幸運として拝むことになった。
ほかに見つめるべき、重大な光景が広がっていたはずだったが、あまりにも現実味がない光景を望むよりはむしろ、パンツを拝むことのほうが健全であるという現実逃避を目指して、じっくりと観賞したとも言えるが、だからといって無限にパンツが露見し続けることは不可能であって、否応にも現実を受け止める時はやってくる。
うんざりする気分すら霧散させる、異常から逃れる術はないのだと悟るのに、時間は必要なかった。
白い。パンツも白いが、風の落ち着きにさいして隠れてしまった太ももに加え、すらりと伸びた四肢、そのすべてが白く、だからこそ余計に異様なほどに艶やかな光沢すら持っている、長くそれこそ腰まで届いている黒い髪の毛のたなびきが目立っていた。
悪寒が走った。決して寒風に負けたという軟弱な代物ではない。素直に、心のそこから湧き出た不快感。それは恐ろしいと思えるほどに、似合っている風貌。作り物であってほしいとさえ感じてしまったくらいに精巧に形作られた、人間――少女という言葉を連想させる人物像そのものがそこに存在し、なおかつに動いていた。白いワンピースの揺らめき、黒いロングのたなびき、それらすべてが台本でも用意されているかのように思えてならないほど、可憐に揺れた。
得体の知れない嫌悪が生まれ、次に恐ろしい、だった。
少女に恐怖が介在している異常。それは、佇まいだけではない。どうして風が吹いたのか。先ほどまで無風、不自然なほどに死んでいた風が、まるで見計らったかのように、吹いたのは何故だ。思い出すまでもない、およそ街中の工事現場ですら聞き及ばない騒音が伴っていたではないか。
少女は、常軌を逸している。
原理など、彼の内蔵している記憶をかき回したところで当てはまる事象は存在せず、あるとするならば、非現実においてのみ該当するであろう事項、しかし、それすらも完全一致とはいかない。ただ、似ているような描写が、文章で、絵で、映像で表現されていた気がするだけだ。娯楽物の中に存在したものが、現実に飛び出してこられたところで、観客は彼一人でしかなく、いや、一応のところ数に入れるというのならば、五人ほど先客がいたのだが、すべて消えてしまった。結局としてこの場において彼一人ということに相違はないうえに、おどろおどろしいホラー描写がリアルさを強調させているのだから、現実に創作物を実現させたところで、メリットはないのではないかという専門家気取りの批評すら考えてしまうくらいに、彼は混乱の渦中にいた。
何故、大の男――五月にも拘らずロングコートに山高帽を被っている――がわけもなく宙に浮いていたのだろうか。そもそもとして、少女は何故、男に向かって右手を差し出すかのように伸ばしていたのか。そうすることによって、まさか、少女が男を浮かしていたのか。その程度ならば、マジックか何か、いや、昨今めっきりなくなってしまった素人参加のドッキリではないかと疑うことも、あるいは現実逃避気味に考えが及んだかもしれない。だが、男が小さくなるというのは、いささか理解が追いつかなかった。そもそも、何か、恐ろしく見えにくい半透明上であると思われる壁に押し込まれるような形で、男は徐々に身体を折りたたまれていき、それはもう飴玉のようにも思えてくる球体ほどに小さくなっていったのだ。半透明の何かが、赤黒くなって、男の悲鳴も、その肉体もすべてを包み込み、少女の手元に飛んだ。万有引力とも譬えるべきか、その飴玉が宇宙にまたたぐ星々の成れの果てであるのかは不明であるが、少女はなんともなしに、それこそ容貌に沿った、今までの惨劇を知らなければ、その妖艶に見入られ目を奪われていてもおかしくはない挙動をもってして、飴玉を、その口に放り込み、咀嚼した。
息が詰まるとはまさにこのことか。圧縮されていく、世界がそうならざるをえないという幻想に囚われ、幻視を伴い、空き地に引きずりこまれる錯覚に陥った。一歩、致命的で仕様のない後退をして、音がなった。引きずるようにアスファルトを踏み抜いた。だから、さも当然のように少女は、彼を一瞥し対峙し、全貌を露わにする。
日本人だった――。
何故に日本人の容貌だと即断できたのだろうか。街中で普遍的に群れる日本人女性を見ているからなのか、とも思えばそうではない。陶器のような白さを持ち、輪郭は丸みを持って愛嬌があり、そこに瞳は茶の混じった黒が慎ましやかに並び、桜紅ともいえる小さな口元が艶かしく動いている様を、果たして常日頃から見飽きているという日本人など居まい。
神事や祭事でもあったのだろうかと錯覚する。なるほど、そうなれば見慣れているとも言えるし、記憶に残る。やんごとなき行事など、テレビで毎年、全国津々浦々からの映像を拝めるのだ。ならばこそ、目の前の少女はまさに日本の人であって、さらに言ってしまえば、日本人形だと認識させるべく化粧をした少女。
真正面から改めて望むに至り、先ほどの身震い、人ではないという違和を覚えた意味はアンバランスゆえかと理解する。あまりにも日本人形じみているにも拘らず、装いはワンピース。ちぐはぐとした格好は、服に着られてるもので、だからこそ身の毛がよだつ。
頭の中で、着せ替え人形というフレーズが生まれた。
平静を装った――。
「お取り込み中、すみません。少々、お時間のほど、頂けませんか?」
なるほど、人間、土壇場になればなるほど、やけに大胆となってしまうのは、諦めて神妙になるとかではなく、諦めたゆえに、もうどうでもいいという諦観めいたものに加えて、もしかするとなんとかなるのではないかという圧倒的に、どうしようもない楽観によって引き起こされる普遍的な、その人の日常を模倣する反射的行動だったのだと悟るに至る。
「私、探偵をしておりまして、えぇ、名前は藤堂といいます。人探しの依頼を受けていまして、今、近辺を捜索しているところなのですよ。ご近所にお住まいの方でしょうか。それでしたのなら、少々お話をお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
相手の警戒心を刺激しないように、笑顔を貼り付けて、申し訳なさそうに腰を折って下手に出ながら、そこはかとなく、断るのも忍びなく思えてきて、なおかつ、探偵という肩書きによって、相手の好奇心をくすぐって、話だけでも聞いてみようかという気分に持ち込んでいく。彼の日常が今、常軌を逸した少女を前にして投影された。
このときばかりは、日ごろ、いや、探偵業に感謝することができた。
少女の反応は、決して最悪の状況に持ち込まれているわけではなかった。悪くない。少なくとも、危険が及ぶ雰囲気はないということは実に好ましい事態。興味をもたれていないことは、彼女の能面が物語っている。ただ、ひたすらに口を動かしている。ボリボリと、それこそ、飴玉を噛んでいる少女の図がそこにはあった。
「名前は住良木真琴。光洋学園大学付属高校に通う二年生の女子高生で、住まいのスに良い木と書いて住良木、真琴は真新しいのマに、楽器のコトとと書いて真琴だそうです。お心当たりありませんか。最近、誰にも行き先を告げずに失踪、してしまったのですよ」
凝視されることは慣れている。探偵なんて仕事は警察とは違って疑われることも職務の一つであって、仕方のないことではあるが、だからといって人形のようなヒトガタ的存在から感情を読み取ることもできないながらも、確固たる意思を持って見つめられているという経験などないのだから、背中から気持ち悪くなる程度の汗が滲み、滴り落ちるのも少なくとも、納得して我慢できる。
少女は首を横に振るという動作で、知らないという意思を表明してくれた。そのことで、決して話の判らない狂人でないという安堵が生まれた。
「帰る」
まさか、少女が突然、ごく当たり前のように喋って、しかも、自分のこれから起こす行動を告げてきたということがまた、どうしようもなく予想外だった。少女は決して、彼を無視しているわけではなかった。何故、声をかけてくれたのかはまったくもって理解できないが、帰るというのなら、帰るのだろうし、それを邪魔するつもりもない。メリットのないリスクを請け負う必要はないので、素直に、笑顔を貼り付けて少女を見送る。人によっては烈しく好みが分かれるであろう性格ではないか。唯我独尊という空気を醸し、言動においては行動を重視するタイプだ。あの手の人間は懐くも時間が掛かるし、懐かれることも珍しい。その容貌が特出しているがゆえに、余計と、社会の中で浮いた存在になっているのではないか。少女は、きっと周囲からの理解を得られることに対して、相応の苦労をするのではないか。少女に対する人物評価もそこそこに、浮世離れした現実に直面したことが、ひどく夢なのではないかという気にさせられ、身体の重苦しさを覚えた。徒労に終わった仕事の時間に苛まれるもので、そういえば、今回もやはり、仕事中であったことを思い出す。先ほどの、営業スタイルが、いかに自分の中に染み付いていたものだったかを自覚するに至り、どうしようもない自嘲がもれてしまった。
「……自販機でも探すか」
気分転換が必要である。




