03
意気込んで魅せた、そのところで色々と思いが溢れてくる。そうして、やはりすべてが終わってから反省会が始まって、あれとのifが開始される。過ぎたことだというのに、あれこれ考えたところで問題の解決にはならないとわかりながらも、考えは氾濫する。
嘆息ばかりが漏れた。
「一体、何をやっているんだか……」
うそぶけば余計と淋しいもので、何度目かの息衝きだけが、寄り添うかのように漂うだけだった。
依頼人の少女――見た目制服を着ていたことかよもや中学生ではないだろうから、ここは高校生と見積もるとして――結局のところ名前すら判らないまま、帰してしまった。依頼を受ける者としてあるまじき失態といえるが、果たして現実であるかどうかという不安にかられるのも事実であって、どうするべきか逡巡した。利益を考えるならば受ける必要がない。依頼内容からして、普通とは言いがたく、「ワタシを探してほしい」、では目の前にいて発言した少女は何なのか。ワが苗字でタシが名前、という線も中華系であるのだろうかと考えるが、どうにも発音のニュアンスを思い出せば、一人称の私に違いはなく、どうやら本当に私を探してほしいのだということに落ち着いてしまう。
自分を探すのならば探偵ではなく、一人旅にでも出てしまえば事足りる。そのほうが何かを実行した気分になって、青春を満喫できるはずにも拘らず、彼女は何故、ここに着たのか。
興味がある。それに、今後の既得権益獲得にも繋がるかもしれない。女子高生だと過程するならば、そのコミュニティに入り込み、小金を集めることもできるのではないか。よしんば高校生と縁を結ぶに至ったのならば、それはそれで若い女の子との接点が、ごく自然に発生するというのも、悪くはない話に思えてくる。と考えてしまえば、結局のところ答えは依頼を受けた時点で"YES"としか選択肢がなかったともいえるが、そんな過去のことを気にしてはいけないと思い直し、まずは酷く気だるい身体にムチ打つため、風呂に入った。
風呂と言っても、二畳ほどでとてもでないが、寛げるスペースはない。しかし、だからといってシャワーだけですませることを彼は由としない。歳を重ねるごとに、風呂への愛着がましていく。近所に銭湯がないことだけがこの事務所におけるデメリットと公言するほどである。
鏡の前に立って髭を剃る。鏡に映る自分の顔にしかめ面を作らさせてから、初めて醜い顔になっていることに気づいてしまい、ひどく憾んだ。寝起きのそれは女子高生に見せ付けてよい顔ではなかった。鏡越しの彼がうんざりするのだから、他人の気を思えばむしろ申し訳なった。あざ笑う彼女が頭によぎった。それは恥ずかしくもあるのだが、これがまた、胸躍る淫靡な笑顔にも脳みそが自動的に変換しているおかげで、興奮が身体を巡ってしまった。
仕事に対して意気揚々などこれまでなかったが、ここにきて世界がいっぺんしてしまったのだと錯覚するほどだった。興奮を抱くということが、これまで人生に直結してしまうことに十分な満足を覚える。
冷めてもはや硬くなってしまっているサンドウイッチと、苦く酸化してしまったコーヒーを口に含んで不味いと呟き、昨日完了した真っ黒く染まった調査報告書をどうするべきかと悩んだ末に、これまたぞんざいに扱うのも憚れるものの、手渡しは心情的に嫌気がさしていたので郵送という手段に打って出た。
ひとまず用件を片付けた。
デスクの上に供え物のように置かれている冷めきったサンドウィッチの残りを口に放り込んで、一気にコーヒーであった遺物とともに胃へと押し込んだ。丁度良い眠気覚ましである。
消臭剤をスーツに吹き込み、クローゼットにかけると、隣にあったグレーのスーツの袖を通す。一通り、一般的なサラリーマン風味に仕上げた後、一階に降りて喫茶店『汀』へと入店した。
客は居ない。お昼時にもそれなりに客入りがあるが、もっぱら閑散としているのが汀の日常であり、しかし、だからといって閑古鳥というわけでもない。新規の客いないだけだ。居るとするならば、別件の仕事口になってしまう。
カウンター席に落ち着いて、空になった食器を置いた。
「おはようございます、アキさん」
「おはよう、マスター」
「今日は、随分とご機嫌ですね」
「ん。そんなつもりはなかったが――」
「早朝のことですがね誰かが騒ぎを起こしていたようで、随分と外がうるさかったようですが、気づきましたか?」
「そうなのか。まったく気づかなかったな。しかし、酒も飲んでいたから仕方がない」
「深酒はダメですよ」
「はいはい」
世間話を皮切りにマスターはほかの食器とともに洗い始める。店内にはジャズの音色が漂っている。
「仕事を請けた」
「おや、珍しいですね」
「ちょっとした縁でね」
事情を説明すると、マスターはいつもどおりとも言える呆れを露骨に表現する顔を作った。
「契約書もなしに依頼をうけるというのも過去にもありましたね。それがアキさんらしいといえば聞こえはいいかもしれませんが、私としてはやはり感心できません。お仕事なんですから、しっかりしませんと」
返す言葉もないので反論はせず、要件をまとめてつげてしまう。どうやら、マスターの紹介ではないことは確定したが、過去に女子高生からの依頼を間接的に受けた記憶が仄かに残っているので、もしかするならば、その近辺から辿られたとも考えられる。しかし、たかが女子高生がそこまでの行動力を探偵に見せ付けるというのも不自然であり、気持ちが悪い。ともすると、やはり突発的な出会いを経たことが起因しているのだろう。
つまりは、女子高生にあろうことか尾行を受けてしまった、というおよそ数年程度とはいえ、刑事時代も含め長年尾行などという職務を行った経験を誇る大の男とは思えない体たらくの結果が、こうして徒労になるかもしれない仕事を請けなければならない原因であるということになり、つまりは、自業自得なのであった。
「遠慮しておくよ。貯金がなくなってしまう」
「従業員ということで二割引くらい、と考えていましたが、残念です」
二割引だろうと、貯金が消えることに変わりはないだろうことは、良く存じているので苦笑しか出てこなかった。
「依頼人のことなんだが、外見は――」
制服のデザインを告げるとマスターは「そうですか」と間を持たせて、回答を用意した。
女子高生は光洋学園大学付属高校の生徒で、リボンの色は緑。それはつまるところ二年生の証、光洋高校はリボンの色で学年を識別しているようだった。さらに特徴的であるというべきか、ショートボブから、スパッツにいかにもなスポーツ系少女だという個人的な見識を述べてみれば、マスターは長い溜息をみせつけてから、
「また援助交際で紙面を飾るなんてことは、やめてくださいよ」
などといわれてしまえば、誤解のある発言をやめてくれと懇願するしかなかった。しかしながら、マスターはやはり情報通であって、所作卓越した喫茶店マスター業の身からは想像もできないほどに博識である。今回の一件も、情報料金を支払うことになろうとも、有益な真実がもたらされることになって、ひとまずのところ、事態の進展があったことに落ち着いた。
喫茶店のマスターがなぜ、在校生のみならずOB連中も含めた関係者の一覧および、顔写真を保管しているのかという疑問が湧くが、パンドラの箱という話もあるとおり、いや、この場合はやぶへびという言葉が適当なのか、ともかくとして、凄みをましたマスターの笑顔で、冷や汗をかくハメになってしまったことを後悔しながらも、降って沸いた話題によって、意識の矛先を変えてしまう。
「住良木家のお嬢さんですね」
「スメラギ?」
「えぇ、最近話が私にもはいってきてますよ。東区の豪邸に住んでいる一家ですね。父親は外資系企業の重役で、母親は主婦業に専念しているようですよ」
「金持ちの家のお嬢さんか。しかし、そうは見えなかったな。身なりは確かに整っていたのだが、お嬢様という雰囲気に溢れてはいなかった」
「いまどきそんな絵に描いたような人はいませんよ。よしんば、本当にいるならとても貴重な存在ではないでしょうかね。もちろん、私の耳にだって素早く流れてくるでしょう。ですが、残念なことに違いますよ。ただの財産家ならば、私の耳には入りません。そりゃ、裏であくどいことやってるならいの一番にってことにはなりますけれどね。あそこは、ちょっと別件ですよ」
「別件?」
「住良木家に関して仕事を流したことがあります」
「差し支えなければ、教えてもらっても?」
「そうですね。問題はないでしょう。隠し立てするほどでもありませんし、関連している依頼と判断できなくもないですから……ではまず、訂正しておくことから始めましょうか」
一拍空ける空気の変化に、おのずと顔がマスターを真正面に見やるまでに動く。
「アキさんの元へ依頼を運んできた依頼人は、住良木秋人」
「アキ。そりゃ、随分と男みたいな名前だ」
「そう、彼女は男の子なんですよ」
「――はい?」
一体何を言い出すのか。
そもそもとして、あれは確かに女の風貌で女子高生の制服を着ていたし、スパッツもあれば胸のふくらみだってつつましやかであっても健全に主張してきていたことを大変よく存じているのだ。忘れるはずもない。脳裏に焼きついて、夢にまで精巧なプロポーションで登場くらいに入れ込んでしまっているのだから、それを男だと理解するなど、それはもう天地がひっくり返るほどの出来事が起こって記憶を上書きでもしなければ、到底無理な相談であった。
「ご愁傷様でした」
「な、何が」
「まっ、傷を抉る真似をするつもりはありません。私だって彼女と評しているのだから、当然、そこには理由がありますよ」
「……理由」
気を取り直す。もはや、彼女、彼であるということはこの際置いておく。つまりは先送り、先延ばし、どちらの意味でもなんら問題はない。むしろ、どういうわけか彼であることに対して新鮮なる好奇心と劣情を催してしまったことに対する嫌悪をひた隠すために表情を整え、ホットミルクに口をつけて耳をすます。そこから、ふと判った。マスターは何故、いつものコーヒーではなく、今日に限って、いや、二日酔いなどのときもそうだ。そのつど、身体や心に合うであろう飲食物を出してきていたのか。
この甘ったるいミルクと熱量が、どういうわけか無性に美味しく感じられた。マスターは洗いを続けながらも、そっと、柔和な笑みを浮かべていた。