20
ここで終わり。
住良木秋人が目を覚ましたのは一週間後であった。
唐突に目を覚まし、すこぶる快活な様子だった。知らぬ間に、とはいえ接触する時期の多いジョージとすぐに仲良くなって、さらにはアリスですら秋人と会話をするようになっているものだから、彼の知りえる秋人という人物像との乖離にえらく衝撃を受けつつも、生還したという比ゆではない表現を持った安堵を確かに感じながら、平凡な日常へ別れを告げるはめになっていた。
「アキ君。仕事」
翁が言った。口頭で伝える。ただ、電話越しに聞いたばかりのもので、あいにくと対面するゆとりはなかった。
藤堂秋彦はおろか、いや、決して彼が仕事放棄を行ったというわけではなく、あくまでも相互に会うことを憚る事態に陥っていた。
喫茶店は盛況であって、連絡事項も今では携帯電話が主流になった。彼の特等席には見知らぬ男が座っており、コーヒーをすすっては恍惚な表情を浮かべて、メイド服を着こなす住良木秋人を追っていた。
「ジョージからだよ。用件はネコ探しだって。メールで内容転送しますよ」
彼の日常は死んだ。平和であった探偵業は、喧騒渦巻く地元で話題の喫茶店に飲み込まれたのである。あろうことかコスプレをしてアルバイトを始めた秋人は、特殊性癖たる一団を見事、常連客に押し上げていた。いや、上客である。喫茶店『汀』はかつてないほどに売れた。知らぬ間にアルバイトが秋人のほかにもう一人増えていることにも驚いたのだが、何を隠そう、アリスである。何を馬鹿な、と始めてこそまさに目をこすってみたり、頬を抓って見たりしたものの、現実だったのだ。
差し金はジョージである。社会実習の一環と聞こえはいいが、実のところ、秋人の経過観察および警護、くわえて藤堂探偵事務所への相互協力体制の強化もあいまって、汀を含めた雑居ビル内の経済はまさにバブルを迎えていた。
問題は山積した。身一つで仕事をこなすわけであるが、喫茶店に引き寄せられて、仕事が急増した。悪いことではないと他人は羨むことで、それはやはりジョージこそが、いつもの笑みを浮かべて軽口を叩いたほどには、繁盛は幸福な事態だという認識が世間一般で蔓延している錯覚であって、当事者たる彼は泥濘の中をもがきながら、心と身体をすりつぶしていたのであって、ほとほとに、羨ましいなどちう羨望や妬みの小言に、殺意を抱くことも辞さない程度にはスレてしまっていた。
個人で複数の案件を掛け持ちするほどに、彼は優秀でもなければ、当然のように勤勉ではない。そもそも勤勉であるならば探偵業などスポンサーが居たところで、個人でやっていこうなどと考えないものである。やましく、世間様に顔向けできない経験があればこそ、同類の行動原理を直感的に察知して、それこそが、人探しにも繋がっている。その程度だ。誰しもが、パソコンを使って電脳世界に入り浸り、無尽蔵に構築されていく情報を閲覧できる環境におかれているのだから、個人の努力次第では、中々に探偵顔負けの収集を発揮することも不可能ではないわけであって、けれども、そこは人間、怠惰こそ、甘美な趣味というわけでもあるのだから、他者にまる投げして、ただひたすらに喜々として結果を待つという利己たる行動で完結してしまう依頼者こそが増えてしまったところで、それは別段なところ不思議ではない。ただ、彼の処理能力ではこなせなくなり、依頼人をぞんざいに扱ったり、話を聞いて断ることも億劫になって、居留守なども駆使して、はてはジョージの屋敷にお邪魔して、惰眠をむさぼるなど、世間に取り残されることを臨むかのように、彼は集まった喧騒から逃れることに多大な労力を払っていた。
彼は何も働きたくないから逃げているわけではない。事実、マスターを通じての仕事を請けている上、ジョージとの仕事もこなしているのだから、ニートというよりかはフリーターに近しい環境には辛うじて足を残しているような状態ではあった。
彼は携帯電話を操作してジョージと連絡をとった。
「メールは読んだかい?」
「ジョージの声を聞きたかったんだよ」
「アキ君は多趣味なようだね」
「どこから遠くに行きたい気分だよ」
「いいことだ。ボクも旅を経験してみたいよ。あいにくとこの地の守護が仕事だからおいそれと出歩けないのだから、残念だ」
「代わりに俺が行くよ」
「墓参りを旅というかはわからないけれど、行くというのならば、融通は利かせる用意はあるさ」
「すまないな、旅費までもらえるだなんて」
「ハッハッハー。相当に堪えているようだね。その打ち合わせも兼ねてボクも手早く動こうか。汀でいいかな?」
「あいにくと予約をしてなくてね」
「残念だ。アリスの仕事を見学しようと思ったのだがね」
「そっちに向かうよ」
「そうかい。なら、ボクもすぐに帰参しようじゃあないか」
「合鍵で勝手に入るぞ」
「いやいや、それには及ばないさ。ボクは待っているよ。アキ君は時間がかかりそうであるからね」
「縁起でもないことを言わないでくれ」
ジョージは快活に笑った。憎たらしくも脱力をもたらす魔力を宿した魅惑の声だった。
電話を切る。ベルが鳴り、ドアが開かれた。秋人がメイド服で立っていた。嘆息を漏らす。彼、あるいは彼女の双眸は確かに彼を望み、端麗たるその容姿が笑みを作りだしたかと思えば、その行動は男女の関係をたまらず周囲に示威するようでしらじらしく腕に抱きつくという恐ろしいものであった。
何事か、考えるまでもない。おもちゃにされる男になるなど予想もしていなかっただけに、彼にとって今は何物よりも新鮮で、徒労に苛まれて孤独感すら味わうものだった。視線の雨あられは剣山のように統一された鋭利を兼ね備え、情け容赦がなく、さりとてその猛襲を防ぐ手立てを講じるとしたところで、強引に振りほどく、軽口で煙に巻くなど色男の技を習得しているわけではないものだから、泥沼にはまるがごとく、次なる一手の前では、草臥れた探偵タダ一人など、カモでしかない。
「最近、全然寄ってくれないじゃないですか」
秋人がのたまい、小さな化け物が追随するかのようにドアに寄る。白皙たる陶磁器のような艶を持った造形物が人間の真似事をしながらも、その実、まさに見本足りえるほどに卓越した所作を見せびらかして、悪目立ちに拍車をかけてくる。ジョージの影響を多分に受けた白い悪魔たるアリスは、どういうわけか厭らしい笑みを浮かべると、空いている片側の腕を凝視したかと思えば、悲痛なる男の「ま、待て」という懇願を容易くすり抜けて、「うふ」などと気持ちの悪い言葉を添えてくっついてきたものだから、彼は地獄の番人に連行される罪人のような感覚に陥って、もはや生きる気力すらも失いかけたほどであった。
両者の言い合いが耳に張り込んでは、足早に過ぎていく。
考えることをやめた。
「解放してくれ。これから仕事なんだ」
「あら、そうなんですか。ほら、アリスちゃん。おじさん仕事だって」
「――おじさん、仕事か。おじさん、それは仕方がない。そうだとも、おじさん。きっちり働けよ」
「おじさんを連呼するな……」
「もう、アリスちゃん。言葉遣い」
「うふ」
「流行ってるの?」
「マイブーム」
「……もういいか?」
「はい。いってらっしゃいませ。ご主人様」
笑顔を一瞥し、踵を返す。
馬鹿だ。独り言がもれた。
劣情を催す男の悲しい性に苦しみながら、もはや諦めた。彼は認めた。そうせざるをえず、これ以上の精神汚染を防ぐことは叶わないと理解したからだった。
心の底から漏れ出た告白を持って、彼は新たな藤堂秋彦となった。
変態だと認めてしまえば、まだまだ変態度は他者に劣るだろうと、どこからか湧いた安心感に心が涼やかになった。
俺は変態だ、どうしようもなく。残念なことに。
腕にしみついた感触が、今になって淫靡なものとして、彼の胸を襲った。性欲だった。怖気の中に、深い絶望と、諦観が交じり合って、それでも彼は腕を摩った。ただただ手のひらで感触を押しのけようとして、それから、勃起したことによる吐き気に顔をしかめてた。
寒気の表現は怪奇な行動として、どうしようもなく人の目をひきつけていた。
初期プロットだと、主人公が大学生だったりするんですけれど。そっちも載せる予定ではあります。
この話のプロットみたいなものも載せます。




