02
藤堂秋彦という警察官が、諸々の警察内部の膿となって摘出されたことを果たして世間は覚えているのだろうか。
運も時期も、能力すらも悪かった。若かったとは思わない二十代のどん詰まりのこと、正義感のために走りきったつもりなど到底ありもせず、そのころにはもはや諦めと惰性でのみ、職務を全うしていたに過ぎないものだった。それでも、不幸にも、見てはいけないものを見て、触れ、その結果は懲戒免職ということで全国にさらし上げられた。誹謗中傷を避けるため、これまでの人生をすべて捨て去り、異国ともいえる地方に居を構え、ひっそりと息を潜めた。
自堕落な生活を送り、転々と居場所を求めるかのように彷徨った。三年、そろそろ日の当たる場に出たところでマスコミが嗅ぎつけてくることもないと高をくくって、警察官を辞したのならば次なる職業は、なんともするべきかと、妄想は得意だがなまじリアルを想像するのは不得手を通り越して苦行となった。
明確な意識を伴ったきっかけはない。ただ、そのときの精神状態をかんがみるならば、馬鹿なことを世間様に顔向けできる範囲で行ってみるのも良いのではないか、という他者の目を伺うもので、ひとまずは喫茶店で煮詰まるのも悪くないと感じただけだった。それは、喫茶店『汀』の外見が、彼をひきつけるほどに浮世離れし、城下町の趣を残した旧市街と呼ばれる光洋町西区において、西洋風味の外観の見栄えに強く惹き付けられたからだ。それはある種、非現実の世界へ通ずる扉という妄想をくすぐってきたからでもあるが、その喫茶店『汀』のマスターこそが、藤堂秋彦という社会悪的な矮小物を覚えていたのだ。それで、始まりである。サンドウィッチにコーヒーを頼み、静かに考えを巡らせる隙すら与えなかった。後は根掘り葉掘り、骨の髄までしゃぶられるがごとく、個人情報は流れに流れ、マスターに蓄積され、そのままに彼は探偵へと転身を遂げたのである。
「だって、あなた元警察官でしょう、刑事さんでしょう。だったら探偵するしかないんじゃないですか。えぇ、もちろん、私は応援しますよ。事務所だってここの三階が空いてますからつかってくれて構いません。ただし、私のお店をご利用いただくのが条件に入りますがね」
道楽を心底楽しむ喫茶店のマスターは、彼の悩みを聞く相談者の一人であり、探偵なんぞに興味を持たせ、誘導させた張本人である。
「私にとって小さな夢が叶います。藤堂さんには感謝しますよ」
モノクルなどという時代遅れの装飾具をシンプルに付け慣れている老人だった。女子のような物腰のやわらかさもあって、随分と老人でありながら性別を即断できない柔和さがあるものの、背筋はしゃんとしており、細身ながら貧相には見えず、黒いベストにおそろいのロングエプロンは様になっていた。
「夢?」
「えぇ、しがない探偵が、窓際の……そうですね、あそこですか。ちょうど隅っこ、あ、いえ、中央でもいいですね。とにかく窓際です。そのボックス席でコーヒーを飲みながら依頼者の話を聞く場面をひっそりと、ただし、何食わぬ顔ですべて聞きながらタイミング良く、飲食を提供するのです」
「マスターは、映画やドラマが好きなんですね」
「内装に気を使ったのはすべてこのためだったと確信してますから、いやぁ、本当にアキさんには夢を持ち込んでもらって、感謝しますよ。どうせなら、私が所長になりましょうか。それもいいですね。事務所はここの三階が空いていますから、そこを拠点にしますよ。いやぁ、年甲斐もなく興奮してきましたよ」
いやいや、まだやるなんて一言も――。
その日のうちに、あなたが、藤堂さんに代わって、しまいにはアキさんなどと愛称まで名づけられてしまい、勢いそのままに手荷物と三階事務所の鍵を渡された。
小説、DVD、果てはビデオテープを重層に衣装ケースへ詰め込んで、顔には満面の笑みを張り付かせたマスターに対して、嫌です、などと口が裂けても言えなかった。何よりも、マスターの情報網は末恐ろしく、敵に回すのはよろしくないと、彼の経験が警鐘をならした。彼はやはり元警察官で、マスターに何か思うところを嗅ぎ取ったのだが、今はもはや正義の番犬を演じることもないのであって、マスターとてそれを承知で自ら厄介ごとを抱え込もうとしたのだから、こればっかりは感謝しなければならず、幾分ながら今まで積もりに積もった鬱憤が楽になったのでは確かであった。
「やることは世間様からみても別段変わりませんよ。それに、しがらみがないって良い事だと思いますよ。組織の中で、強制されては逃げ道も、その時間も狭く、短いものでしょう。逃げたって良い。後回しにしたって良い事案だってたくさん転がっているのが人生ですからね、それを忘れてしまうほどに没頭するのは危険だと、私は思いますよ。むろん、あなたを存じ上げているからこそ、というのも加えておきますけれども。いいじゃないですか、探偵。おすすめですよ。似合っている。コネも実力も、地位だって必要ない。裸一貫、今のあなたにはおそらくに、怖いものはないんでじゃないですかね」
「所長がマスターだってことが、今のところ一番怖いかな」
「びしびし仕事を回しますから覚悟してくださいね。これでも、人脈はあるほうですから」
「すでに縛られ始めちゃってるじゃないか」
「いえいえ、ノルマとか強制とか、そんなことはしませんから、ね」
こうして様式美といえるくらいすんなりとはまった警察から探偵へのシフトチェンジ。
転職という自称で傷を舐めた。海千山千、有償無償の仕事を繰り返しては、ずるずると活動の場を持つに至り、今年で五年目を迎えてすでに二ヶ月が経過していた。
今は五月の初夏と呼ぶにふさわしい瑞々しさが世界を芳しくさせるゴールデンウィークの中で、彼は平凡たる生活に身を置くことに、あえて疲れていると捉えながらもそこから逃げ出すことも億劫で、ただストレスを溜め込み、事務所となっている雑居ビル三階に篭って滾る鬱憤をその密室へさらに溜め込み、呼吸すればまた吸い込むかのごとき負の循環に巻き込まれている。
そこそこに居心地が良いと慰め、環境の変化を考えながらも、今知る世界で妥協をしている。探偵は実入りが良いわけでもないと自負しているし、マスターの仕事で黒い仕事にも手を染めてしまっていた。
良い生活を送りたいと駄々をこねたい気分にさせられるのだが、知らぬ世界に飛び込む勇気など、当の昔、それこそ警察になった時分に、すべて捨てさてしまった。
歳をとりすぎたと、何をやるにしても歳が悪いと体の良い逃げ道へそそくさと走っていく。そのくせに口は達者で、何かあれば世を非難し、仕事でも愚痴ばかりが浮かんではため息となって静かに消えるだけの生活を続けていたはずであったが、ふとしたことでその生活は崩れてしまった。
出会いはいつだって突然だ。それは突発的で、身構えることすら許さない。仕事上、良くも悪くも経験してきていたことだ。少なくとも、昨夜までは、無意識にそう思い込んでいた。世界は出会いで満ちていることを自覚しながらも、どこかで、褪めていたのだ。
傘だけを渡した。傘だけを突き出して、それからお礼の言葉だとか、その逆に進んで声をかけるだとかそんなことの一切を放棄して、まるで初恋でもしてしまったかのように、初々しくも身体を熱して早足でその場から逃げてしまった。なぜか、といえば、一目ぼれに近いだろうか。だが、果たしてそれだけなのか。わからない。
気になった。その一言が、正しい。
ひどく劇的だった。劇的で、それも歌劇的な変貌を伴って、彼の目の前を艶やかにそそのかしたのだ。褪めていた世界に、乱暴な染色が強攻され、彼の心は抵抗することもできずに陥落したのである。
悪い冗談だとあざ笑ってほしいと思いつつ、実際に笑われては不快に顔をしかめるだろう。
今日の彼は目覚めもすこぶる不服なものだった。
浅い眠りに入ったのだろうが、随分と長い間そうして転寝に近いことをしていた気分になった。どうにも、何か、落ち着かない。寝床が悪いのは百も承知だが、別段ながら今日をもって初めてデスクで寝てしまったというわけではない。
ラジオから抑揚ある声を伴ってアナウンサーがニュースを伝えてきていた。行方不明事件などという、朝から耳に挟むには気分が落ち込む内容を朗々と読み上げている。近頃、頻発していると巷でも話題に挙がる事件であって、警察は一切の手がかりをつかめていないと週刊誌が書きなぐっていた。
日光がブラインドカーテンの隙間から進入していることが背中から差し込む光や温かみで伝わる。日の出はとうに迎えているようだった。
左腕を回して顔に当てるのように近づけて、カシオの安い時計を見やれば七時を回ってもう半周に差し掛かった頃合だ。
重い瞼を開けた。身体がどうにも苦しく硬いのは、デスクにうつぶせになっていつのまにか意識を手放していたからで、大きくあくびをかいて、それから上体を起き上げて背伸びをした。痛みが血流を幻視させながら、そのままついでに壁にそなえつけられた時計で改めて確認をして室内を見やった。
頭をむしる。時間に齟齬はない。ただ、まだ寝ぼけていると断ずる。
異質なもの、本来はないはずものがそこにあった。どうにも意識は異変によって目覚めたというのに、認めたくはなかった。
あきれてしまうくらいに、夢の続きなのだから、堪らない羞恥に目も背けたくなった。ここまで堕ちたかと落涙はあくびとともに滴り落ちて、肩を落とした拍子に身体が崩れた。そのまま、先ほどまで座っていた椅子の背もたれが盛大に軋みを上げた。気にもせず、椅子を力任せに引き下げて、乱暴に足をデスクに叩き置き、けだるくもはっきりと舌打ちを響かせてしまう。神域を望まずに踏みにじられた気分になった。幻想が一人歩きして、彼は夢の中で、何をするわけでもなくひたすらに現実へ戻ろうかと意識を集中させた。そうだというのに、目覚めるそぶりはない。思い切り目を瞑った。それからこれはダメだと悟り、タバコに火をつける。
夢の中では、大抵の不自由が身体を縛り付けるものだが、どうして今日に限ってはこうも粗相がないのか。不思議なものだ。ともすれば、あれか、万が一にも喋ったりするのだろうか。声を聞いていないのだから、夢というものは経験の蓄積であって、無音映画を視聴する体で、音色を想像するしかないし、思うに経験から似合う声色を持つ人物に心当たりがないのだから、結局は口を開いてくれたところで、心はときめくこともなく侘しさだけが、胸をつくのではないか。いっそ、純粋に再び会えたことを喜ぶべきなのだろうが、これ以上、己の不甲斐なさを直視するには身体が、心がもたない。いくら夢であろうとも、女に乱暴しようという欲まかせて、襲い掛かっては、それこそ毒を食らうに等しいもので、だからこそ、自制して、頑固な拒絶を閉めざるを得ないので、
「さて、夢であるならばすみやかなる覚醒を望みたいところだが……」
などと言葉にしてみれば、よほど滑稽であると返って胸がすいた。
朝という時間も幸いだった。半覚醒という逢魔時に、夢現の中間を千鳥足で練り歩く。さっさとおきてしまえば自己嫌悪から記憶を消してほしいと町を徘徊することになるのだが、存外に思い悩めば身体は重く、囚人の手かせ足かせを伴って、牢獄に繋ぎ止められていることに幸福を覚える体たらくを誰にも見せることなく、今まで平穏無事に過ごしてきていたのだけれど、それも今日でお仕舞いであったし、何よりも、それは、とても悲しくあった。そうでなければ、あまりにもあれは、魅力的なのだ。ギャップ、落差。なんとでもいえてしまうだろう。憂いを帯びた表情よりも、快活な笑みを貼り付けて少々不遜な態度を見せているほうが、枠に嵌っているのだから、気分が良くて、それがきっと己との再会によるものだとどうしたって、期待してしまう。
「私は、貴方に対して仕事があってここにいる。頼みたいこと、依頼したいこと、やってほしいこと。大切な、大切なお仕事の話をしにきました」
幻聴、幻覚。あるいは妄想か。どちらにしても、予想を超えて幼い音色が口を滑った。すべてを見透かす余裕すら含む抑揚ある声がまぎれもなく、彼の耳に入ってきた。幻滅に近しくも清純で透き通るその音色は、中性的で無性に心を騒がせ、心に火を点す。
脳みそが、ふいにかつての栄華をさっと写すほどの声だった。子供の声だ。懐かしく姦しい、けれども、どうしたって気持ちが良い。学生時代が走馬灯のように走っては闇に消えた。何もかもがあいまいで人物の顔など影しかなかったが、おぼろげに、偶発的な過去との邂逅を果たしたことで、エンジンがやっとのことで始動した。
発声練習をするかのように、ただやみくもな『あ』を流し続けて顔は上を向いた。面倒くさいこととともに、気恥ずかしさがもれてしまう。年甲斐にもなく恋愛に近しい息苦しくも興奮するやりとりを、えらく、いたく、幸福だとかみしめてしまった。
「仕事……仕事ですか」
すこぶる努め始めた。彼の中にある探偵とはつまるところ、マスターの描く探偵像そのもので、ニヒルでハードボイルド、それにそこはかとなく漂わせるダーティーな雰囲気であるべきであり、理想を実現させようといまさらながら、緊張感を持って演じ始めていた。嫌いではない。むしろ、毒されているからこそ、演じれば演じるほど、身に入る。
タバコはすでに根元まで迫っていた。口からはずし、灰皿に押し付けようとして、それから灰皿が汚いことに少しばかり顔をしかめながらも、気にせず山に押し付ける。幾本か灰皿から吸殻が落ちたが、もはや構わない。それこそ、ハードボイルドだと思い込んで、素直に二本目へ火を点す。
「仕事です」
見まごうことのない、昨夜のあれがそこには居た。躍る内面とは裏腹に、凝り固まった外面を取り繕うに苦心するしかないのだから、背中に嫌な汗も流れ出す。巧くやれるかどうか。街灯に衒うかのように浮かんでいた容姿と打って変わり、繊細さを醸す朝の薄明かりを吸い込む様は、儚げな佇まいから射幸心をくすぐる。この先を、延長を、思い描きそうになる。
華奢で活動的な印象を与えてくるアンバランスが、よほど魔風を伴うものだから気が気ではない。思わず眉間に皺を寄せ、気を張り詰めざるをえなかった。
「どのような、依頼になりますか。ウチは探偵ですから、しかし独り身ゆえに出来ることは酷く限定的で狭い。加えて忠告を入れてしまうと、女子高生の貴方が、私のような探偵の事務所へ一人、それも朝方に訪れるというのは、いささか常軌を逸していると言えなくもない」
雑居ビルに、看板はない。ただの事務所。何が、誰が、どんなことをしでかしているのかを知る者は、少ない。意図的に遮断し、好奇心をくすぐり、ふらりと吸い寄せられる被害者たちに向けて、多少割高な駄賃を要求し、解決しようと一応は努力を見せる。それが、藤堂探偵事務所の本質であるものの、果たして目の前の女子高生は、どうやってこの事務所を探し出したのか。マスターの伝手であるという線が一般的であるが、どうにも、あの温厚で常識を知るマスターがこのような朝から事務所へ向かうことを教えるだろうか。ともすれば、女子高生が忠告を聞かなかったという線が濃厚とも判断がつく。
「傘を差し出してくれて、何も言わずに立ち去ってしまう人が、危害を加えてくるとは、私には思えません」
痛いところを的確に攻撃されてしまった。赤面していないか気が気でないとばかりに、付けたばかりのタバコを灰皿に追いやって三本目に火を点す。
目線を挙げれば、無駄なあがきだと諦めもつく快活な笑みが相手に張り付いていた。
「私を――」
口を開く。鈴の音のような凛とした鋭利さを伴って、良く通る。それは、清々しい若葉の力強さを感じた。
「私を、探してください」
深く言い切った目の前の少女はやはり夢の中の住人であって、ひどく淡く、あの夜と同じようなほどに危なげな儚さをまとっていた。