17
修正予定。時間とれず
ここが、どこであるのか。
いったい何が起こり、どうなってしまったのか。
およそ物語の冒頭部分に発生するであろう文言をまさかその脳裏に抱くことになろうとは露にも思わず、さりとて、現実的に考えてみるとそう思わざるを得ないのだから始末が悪く、彼は顔を歪めて嫌悪を見せた。仕方なしに、人間の優秀な記憶力へ悪態をつく。嫌なことほど、どういうわけか思い出すもので、今回のそれは化け物に襲われ、飲み込まれたことをおぼろげに、だが、それは事実であるとわかる程度には認識させてくる。それから眠気眼でいるのは拙いと焦って途端に目が覚めた。周りを見回す余裕を得て、その行動への後悔を胸にとめどなく溢れさせるほどの光景を目の当たりにしてしまった。
暗闇というほどに黒くはなく、かといってはっきりと、何かを認識できるほどに明るくはない。ただ、底抜けのようであると言える闇が固形物として認識できる程度に空間の範囲を定めており、そのことから、ここは室内と呼べなくもない。ただ、圧倒的に変質的な空間と表現できる何かが、それこそ壁紙として採用されてしまってがために、とてもではないが心を落ち着けて状況整理を、という気分を阻害する。
それは泳いでいると評することができる。彼は水族館の記憶が逡巡を持って駆け巡った。ガラス越しに、魚の泳ぐ姿を見つめたことがある。そのとき、魚を得てして、側面から眺めるのが常であるが、今はまさにそれである。マグロのような大型魚群が好き勝手動いていると想起させたくらいには、目玉が活き良く動き回って、しかし、だからといって全ての視線がまぎれもなく彼に向けられているのだから、しいて言うのならば、非常に心苦しいまでも、見世物になっているのは壁に仕切られた内に存在する人類、ということに落ち着いてしまうのだった。
観察されているというだけで気分はすこぶるよろしくない。ただし、そこに危害を加えてくるという衝動はないようで、やはり、水族館の魚を観賞する客たちの好奇な目線だと思い知る。
それはまるで壇上に注がれているに等しく、いやらしくも暗がりからいくつかの光源がさっと姿を見せると、ある一点を淡く照らした。
住良木秋人は黒い床に包まれていた。スポットライトに照らされているかのように、今をもって、足に力をこめたところでびくともしない床と呼称できる黒い面、そこからわずかに隆起して作られているそれはいかにも寝台のようであって、死んだように横たわっていた。
その秋人を見守るように、住良木真琴は傍らで腰を下ろしていた。髪をとかすかのように、頭を撫でていた。秋人は、おそらくに意識を失っているようで微動だにしていない様子が良く見えた。常人というカテゴリーに属するものとの違いを、今、非情なまでに感じ取った。
「藤堂さん」
真琴は彼に問うた。
「ん」
「ありがとうございました」
「……いや、別に」
平然と流れていく会話に違和を拭い去ることは出来ないものだったが、思いをめぐらせてしまえば、納得できなくもない。
周りを見回せば異常が世界を覆っている。真琴は既に、ここの住人だった。ただそれだけなのだ。
「お礼はありませんけれど」
「予想は、していたさ」
「怒らないんですね」
「怒る理由はないだろう。子供の家出を大人が探す。そこまでへんちくりんではない」
「家出、そう。家出ですね」
「それで、帰る決心はついたか?」
真琴は淋しげに笑みを深めた。
演目は何であるのか、などと彼は思い、続いて果たしてこの場において観客でいることができるのか、とそこまで考えをめぐらせてから、肩を竦めた。重苦しい諦観に苛まれた。この場全てが壇上であって、ここでは確かに登場人物が上がっている。つまりは、彼も演者であらねばならなかった。それを望み、強制される立場に身を置いてしまったものだから、努めて平静を保つことに終始しながらも、彼は見事に大人を演じきっていた。
「アキはね」
真琴は囁く。
仕草は変わらず、腰を下ろし、膝立ちの姿勢で弟である秋人を愛でいた。対面に立ち尽くす彼を見ようという素振りはない、だからこそ、余計と独白ではないかと思わせた。
声色は優しく、語り掛けているようにも取れたが、微塵も心は動かない。それはやはり、愛称としては秋人に向けられてしかるべきものなのだから、当然のことである。しかしながら、良く聞けと、そう告げた意味合いだとして彼は理解し、耳を傾ける。
そして、口を挟むことをやめる。もはや、住良木真琴の可憐さが、あの日見た少女の魅惑が、今となっては哀れに見えた。見えてしまった。それから、危ういという気持ちに嘘はないとわかった。危うい、その衝動的な危機感は真琴に対しての心配ではなかった。あれは、自らに課すべき危機感という警鐘であったのだ。
「本当に身体が弱かったんだ」
身じろぎをする余裕もなかった。この場、不用意に動いてどんな心証に基づいて裁きが下されるのか判断がつかない。命はやはり、どうしたって惜しいのだから、下手に動きたくはなかった。つまりは、結局のところ変わらない。これはやはり聞くのだ。全てを聞かされるのだと、うんざりしながらも受け止めることにするしかないと彼は、わずかに肩を落としてしまった。そうして、聞き手としての役割を与えられるためだけに、この依頼を請けてしまったことへの深い後悔だけが、心をひたすらに汚し、さりとて、生きる希望の糧とするかのように、烈しい激情を持って咀嚼する。今はただ、静聴することが正しい演技であると信ずることで、異様な空間で心を惑わすことなく切り抜けることだと固く覚悟を決めた。
壁が動く。目玉が動く。愉快そうに歪を作る。まるで望むかのように、毒を吐き出すのを待っていたかのように、喜々とした表現を惜しまない。どこかでクスクスと笑い声が滲む。実に不愉快なもので、彼の表情はこわばっていた。意図せずに、一歩、前に進み出た。それから、床に足がくっつくような感覚が発生して、見下ろすとそれは白い手だった。その手が、しっかりと彼の足をつかんでいた。それから、目が浮き出て、口が浮かび上がり、実に楽しそうな表情を作り出した。悪寒をもよおすだとかのレベルを容易く振り切って、しかし、恐怖に震え気絶してしまえる、というわけではなく、確かに湧いたのはやり場のない怒りだった。この空間は、多くの人が見ている。不特定多数の視聴者が、登場人物を望み、感想を言って、喜怒哀楽を垂れ流す。自宅で寛ぎテレビを観賞している様はまさしくかような化け物がとる仕草に順ずるようで、だからこそ、余計と身に覚えがあったためにどうしたって決まりが悪く、それゆえか憤怒が煮えたぐる。
理不尽だ、などと叫ぶことは容易い。しかし、だからこそどうにもできなかった。不甲斐ない。それでも、彼は見つめるのだ。それくらいしかやることがない。許される行動はそれのみである。
もはや、絶対的強者に蹂躙されつつある現実に際して、矮小であると断言できてしまうたかが地球人のただ一人のみ。この場を打破できるとは夢にすら思えないのだから、身を状況にゆだねることで延命するしか道はなかった。
だからこそ、彼は思う。
住良木真琴を眺めて物思いに耽る。その仕草、その表情。全てを加味して、
「美しい」
とつぶやくに至った。あの時の劣情に偽りはなかったというまぎれもない安堵とともに、人の美しさへ初めての畏敬すら抱いた。人ならざるものとなりながら、かといってだからこその造形美を構築させたと、妙に偏屈な感想が脳裏を走ったようで、それでも表情は豊かに諦観を作ってしまった。
すると、ここで足をつかんでいたであろう化け物が、不機嫌そうに口を尖らせては床に消えた。拘束を失ったものの、彼はそのことに気づくこともなく、壇上で躍動する怪演たる真琴の独白を拝聴するのであった。
「生まれたときから、アキは病室で過ごした」
黒が変貌を遂げる。苦々しく彼はそれを見た。厭らしい笑い声が響いて、病室が浮かび上がった。他人の記憶を覗いているようで、これはすこぶる不愉快なものだと腸が煮えくり返った。だからこそ、化け物は喜々とした。目が三日月のように細くなる、口角がつりあがって、やけに白い歯をむき出しにさせ、汚物を垂らした。
喜んでいる。気色悪いことこの上ないが、否応にも理解が追いつく。化け物は悪感情によって突き動かされているのだ。なんというおぞましい存在だろうか。人の悪意に反応し、それだけではなく誘導すらも平然と行って、愉悦をかみ締めている。
察してしまった、という後悔は感情の波に消えた。彼にとって、琴線の触れた相手を冒涜するような行動を行っている化け物、自分自身では太刀打ちできないその超常現象的存在に対する憎悪を防ぐことは不可能だった。
「私は手がかからなくて助かったと言った母の言葉。それは集中治療室で、五歳まで生きることが出来るかも怪しいといわれたからこその苦労が滲んだ言葉だと思う。でも、そこにあったのは、家族に向けていいものだったのかな。だってあれは、絶対に私にも向けたことのない憎悪だったから。だからなのかな。入退院を繰り返して、それでもなんとか生きている、生きようとしている弟を世話するようになった本当のきっかけはそれなんだろうね。初めてのことはもう覚えていないの。だって、本当に物心ついたときにはもう、アキの世話係っていう立派な役割を両親から授かっていたから。厄介払い、自分たちの手を煩わせることもないから大助かりだったんでしょうけど、それでも良かった。車椅子を押すことだってしたの。それで、周りの人は、偉いねって。そう言ってくれた。両親が一言も言ってくれなかったその言葉。嬉しかったな――」
真琴は笑った。楽しそうで、悲しそうで、泣いているようだった。釣られるように、連動するかのように、しかして、そこに存在する感情の揺らぎはどうしようもない悪意に満ちた、愉悦と嘲笑を兼ね備えたおぞましい笑い声が寄り添って、だからどうしたといわんばかりに、まるで聞こえていない態度で真琴は言葉を続けた。
本当に、もしかするならば、もはや聞こえる状態ですらないのかもしれず、思えば思うほどに疲労が体に蓄積し、境遇を哀れむことしかできない歯がゆさが癪が触った。
「本当に、その一言で、えらいね、大変でしょう、がんばってね。皆が言ってくれた。上辺だけでも良いの。それだけで、胸があったかくなって、嗚呼、頑張ろうって。私はおねえちゃんとしてしっかりとしようって、そんな気持ちになれたの。なんだってやれた。介護みたいに、アキの面倒を見た。アキはすごく懐いた。当然でしょうね。両親は当たり障りのないことばかりに手を焼いて、肝心の世話をやらなかった。金銭だけを面倒見て、他の手間は姉の私に押し付けていた。母だけは、家にいるから、アキと接点があったようだけれど、それにしたって、おざなりな家事ばかりで、アキの身の回りを整えたのはいつも私。でも、良いの。両親が初めて褒めてくれたんだ。アキの世話をしてね。ちょうど、家に父の企業の偉い人たちが来たとき、アキが熱を出してしまったの。本当はいつものことだったけれど、父はものすごく焦っていた。だって、いつも私に頼りきっていたから、あの人は何もできないのがわかっていたから。そして、そんな無能な父親ぶりを見て欲しくなかった。そんな見え透いた虚勢を、私は守ったの。私が父に話をして、父はタダ頷いただけ、それから車で病院に向かうだけでよかった。それだけで、たったその出来事だけで、父は次の日に、私を褒めてくれた。良くやった。これで、俺の評価も高まった。その程度だと思うでしょ。笑っちゃうでしょう? でもね、私にはとても嬉しかった。泣いてしまうくらいにね。だってそうでしょう。あの時だけは家族だった。アキは点滴を貰ってすぐに部屋のベッドで眠っていたけれど、あの場にいた私は、家族であることを、たまらなく実感できた。だからもっともっと。アキを世話しようって思ったの。もっともっと、褒めて欲しいから、良いお姉さんであろうとした。勉強だって、頑張った。学校で、弟に教えるために頑張る姿を皆に見せた。運動だってそう、弟にいつか一緒になって運動するからって、いいことばかりを並べ立てて必死になって努力した。皆がほめた、皆が応援してくれた。マコちゃんは偉いねって。ほら、アンタのマコちゃんみたいにがんばりなさいって。皆の手本みたいな存在として、誰からも笑顔を向けられた。頼られた、そして、私は当然のように手を差し伸べた。そうすることで、幸福だった。無常の喜びってこういうことなんだってわかったの。誰かから尊敬を集めることがどれだけ楽しく、悶えるほどに嬉しいかったことか」
――なのに、なんでだろうね。
薄ら寒さが肌を駆け抜けた。それは、声色のためか。しかし、今、確実に風のそよぎを体験したもので、眉をひそめた。ひょっとするならば、ここは完全なる密室ではないのではないか。そこまで思案すると、その猶予を待っていたかのように、真琴は底冷えを催す言葉をつむぎだす。
「一番手塩にかけて世話してあげたのに。どうして、私を裏切るような真似をしたのかな。いえ、そんな恩をあだで返すようなことをしでかせたのかな。アキはね、私を拒んだ。私の慈悲を、糧を奪った。どんどんと健康的で、男の子なっていった。私の全てを無に還すかのように、根こそぎね。私の存在すらも、奪っていった。許せなかった。両親は安堵していたわ。それこそ、手間の掛からない子供になった。これでようやく負担が減ったと本気で思っていたの。私が行っていた役割は初めから存在していないことになりつつあった。いつも一緒で行動しているから、アキの嫌な部分が沸いてきた。それだって、我慢できた。私が居なければ何も出来ない、どうしようもないくらい惨めで弱い弟を寛大な心を持って支えてあげる。それが私、敬われ、親しまれる。高校に入ってから、全てが変わってしまった。アキは必死になって勉強して、私の高校にくっついてきた。私立だけれど、文武両道を掲げる校風であって、私にはとても似合っている学校だった。相応しいとさえ思った。学年で主席こそ逃したけれど、上位五番以内には入ってみせるくらいには努力を重ねて、運動だって必死になった。部活動ばかりは弟の世話という体の良い逃げ道があって束縛されることはなかったから、余計に課外活動として周知されるように、走ることを目的として行動した。学校は私の領域だった。皆が私を見て、褒めてくれた。その領域に、アキは土足で上がりこんできたの。判る? 判らないわ、こんな気持ち。わかってほしくもない。この気持ちを例えることは難しい。けれど、スポットライトがさっと別の場所を照らし出したかのようだった、と思ったの。真っ暗闇の中で、スポットライトを浴びていたアキはね。とても、楽しそうだったの。私にだけ見せていた笑顔が、誰とも知らない連中に向けられていた。何で楽しそうにしているの。私を差し置いて、何で勝手に嬉しそうに笑っているの。どうして、自分勝手に行動しているのかな。有り得なかった。こんなことあってたまるもんかって、むしゃくしゃした。アキは、何も知らないって顔で私と接するようになった。私と同じ立場に居ると思い上がっていたのよ。増長して、慢心して有頂天で、天狗だったの。
どうして、私だけこんな目にあわなければならなかったの。目をかけてきた。尽くしてきた。それなのに、こんなのってあんまりじゃない。
アキは、怒ってる? なんて聞いてきたの。有り得ない。理解していなかったのよ、あの子は。自分が何をしでかしているのかすら判らなかったの。バカでしかない。だから、何を言ってもムダだと思った。だけど、ほとぼりが冷めてくると、やっぱり自分が愚かだったんじゃないかって、それくらいなら判るかなって、そんな甘いことを考えていた。ホントに、バカみたい。
アキは愚図で何も出来ない子なのに、表面だけはよろしくなってしまったから、私もすっかりそれに騙されていただけだったの」
彼女は言う。「だから、だから」と、それは自らに言い聞かせる暗示のようであり、「私は悪くないの」と、その言葉は先ほどの恨みなど微塵も感じさせず、搾り出したと思われるかすれた声だった。
「なのに、どうして?」
続けて言う。懇願のようでもあり、ただ哀愁を伴って、言葉が漏れている。
「私はどうして、こんなにも苦しい思いをしなければならなかったの?」
――嫌だよ。もうこんなの嫌。
空気の澱みが気になった。彼は思わずに袖で口を覆った。そこにあったのは黒い何かであった。発生元は人であった、彼女であった、住良木真琴であり、横たわる住良木秋人を包む寝台となる。それは黒い、世界を容作る宇宙のように無限を体現するかのような圧倒的な漆黒を生み出し始めていた。呼応する。まさしく喜々として目玉の群れは元気に揺れた。
「戻りたい。また、あの頃に戻りたいの。アキが病弱で、両親は上辺だけの父と母を演じているだけで十分で、私はただ、姉であればよかった。簡単で美味しい世界に戻って欲しいよ。だから、助けてください。誰か、誰か。私を救ってください。今まで散々、誰かのためにやってきました。それはこんなときのためなんです。本当は誰かに助けて欲しかったんです。それなのに、どうして誰も手を差し伸べてはくれないの。どうして、私じゃなく、アキにばかり手を差し伸べるの。私を見捨てたやつなのに、私を捨てたのに」
――バカみたい。
全てを吐き出した真琴はそんなことをつぶやいた。そこで、全てが止まる。黒い歪な世界の膨張がはたと消え、時の流れすら疑わしくなってしまって、しかし、それゆえに目玉の驚きに満ち足りた揺らめきが、気持ち悪いほどに目だって仕方がなかった。
「もう、戻れないのに」
洗いざらいぶちまけて、それからやはり悲しげに、けれども確かに涙を流すこともできないほどの沈痛な面持ちで持って、だが、言葉とは裏腹に、秋人を愛でるその仕草に憎悪はなかったのだ。
そこにいたのは、紛れもなく姉である。弟を気にかけた、家族の形。
「ダメなお姉ちゃんでごめんね」
これは、懺悔だ。憎んで、恨んで、その先にたどり着いた理解は後悔のみを生んで、だからこその理不尽に悶えている。
結局、甘えて居たかった。家族を模倣するだけの環境で、やはり姉を演ずる材料が必要だった。本当に、都合の良い弟という存在は、彼女にとってなくてはならない存在だった。無償の慈悲は、裏返せば強制する善意であって、しかしだからといって非難できる事柄では到底有り得ない。むしろ、やはり、その行いは称えられてしかるべきであって、その心情に芽生えた優越を侮蔑することなど出来はしない。
人は、誰かを蹴落とし、見下ろしたいと願っている。誰からも注目され、褒められて良い気分になりたいと嘯くことすら憚られているから、胸に澱んだ願望を溜め込んでいく。そうして、日々のうちで徐々に発散させていくものであって、何も悪いこと、不思議なことではないはずだ。
ただ、住良木家は違った。住良木真琴も、秋人だって、普通の環境ではなかったし、当然のように異常の中で育った二人は、異常な精神を成熟させていくことに繋がってしまった。
「私は一体、何をしていたんでしょうかね。こんなにも、好かれていたのに、慕われていたのに、私は、自分の手で厚意を振り払っていた。捨ててしまえばいいと思っていた。こんなもいらないと信じていた。あの時、怒ったアキを見つめて、殺してしまいたいと思ったんです。こんなヤツいらないって。死んじゃえって」
真琴を見る。線を結ぶ。弱々しく、拒絶されることを恐れているかのように、まっすぐにというわけにはいかないまでも、そこに色濃く残る希望を、彼はどこかで見たのだ。あれはどこだったか。虚言を吐き散らすかのように目を背ける。心の中でウソをつく。しかし、現実は求められている。彼は答えるのだ。一つとして間違いはなく、その行動が正しいのだと身体が熱を帯びた。遠い日に感じた熱情であり、破滅した元凶が、今再び訪れた。
「恨んでいたんです」
真琴は、眼を背けた。しかし、声色の指向性が向けられた先には確かに聞き手が存在するようになった。
「私が居なくなって、アキはどうしているだろう。きっと、そう、清々しているんだろうなって。そしたら、ホントーに、心が疼いた。めちゃくちゃにしてやりたいって。それでも、私はどうすることも出来なかった」
力なく真琴は笑みを浮かべ、面と向かうことになった。弱々しくも可憐な顔を望み、そこに悲痛さがありありと見て取れるものだから、胸が締め付けられた。少女の泣き顔を望むことが、これほどまでに心情の揺さぶりを伴うことなど、初体験のことで、余計と同情とは無縁である妙な男気というべきか、果たして本当に、これで仕舞いで良いのか、何か、出来ることはないのだろうか。という焦燥すら沸いた。このまま、終わったいいのか、救いは、一切の救済もなく、ただ己の愚かを呪って朽ちる少女と心中するだけが残された道であって良いのか、などと自問はすれど答えは見えない。ただ、じっと、真琴の視線を受け止めることしか出来なかったのだ。
「あなたに見つかったとき。本当に、嬉しかったの。嗚呼、これでなんとかなるかもしれない。この幸運を逃す手はないって。ついていくことだけは出来た、今ではもう無理だけれど、出来る範囲で最大限の努力を行った。だから、本当に嬉しかった。私なんかのお願いを聞いてくれて。あしらわれて終わりだったかもしれない。ううん、それだけじゃない。もしかすると偶然、見えただけだったのかもしれないだとか、不安ばかりが積もっていたから、嬉しかったの。本当に、ありがとう。私が、どんなに愚かな存在だったかを知らしめてくれて。馬鹿なまま消えてしまうこともなく、後悔して自分だけを恨んで――」
真琴の瞳から涙が落ちた。はらはらと透明な液体が、はっきりと見えた。幻覚だと断ずるは容易い。それはもはや、真琴の正体が人ではないからこそであって、加えて述べるならば、彼の経験はまさに人ならざる者との出会いも多くあると脳裏が囁くものだから、この期に及んで、ようやくに理解は及ぶ。藤堂秋彦とて、異物であることのであって、だからこそ、近似しているからこその共鳴を呼んだのは紛れもない事実である。しかし、だからといって肯定はせず、あっけらかんに彼は妄想を優先させた。それは理由として十分でもあるからだ。
女が泣いたのだ。泣いていて、なおのことその瞳に写るのは彼であって、
「助けて」
などとうそぶく少女に対して、何を今更、などと罵詈雑言を吐きつけるほどの当事者なりえていないものだから、その願いはとても胸を打つ。心に響き、耳にこびりつく。過去と現在に介在するかのように、懇願はしみこんできた。
「助けて、ください」
彼女は願い、媚びる。その仕草は、自分可愛さにではない。彼女は、秋人を抱え込もうと必死で、それが叶わなかったのだ。先ほどまでずっと撫でていたその動作、そぶり。それはもう、感触も覚束ないばかりで、それでも、ただ撫でていたかったからこその、演技に他ならなかった。
真琴は、姉であろうとしている。ならば、どうすべきかと愚問を並べ立てる時間も惜しいもので、彼は特段の覚悟も持たず、さりとて一歩、確かに前へ出た。それから障害が立ちはだかることもなく、すんなりと、それこそ覚悟していた死すらも肩透かしを食らったものの、ただただ心臓の高鳴りだけが緊張感を演出していた。歩み寄っただけである。それだけですら、この異空間では偉業であると称えて欲しいとすら思えてきたが、彼は面に出さず、無言で秋人を抱え込んだ。肩を抱き、膝裏から腕を通した。そうすると、寝台が溶けた。目玉がせわしなく動き、異臭が巡り巡って、鼻をつんざく。
世界は変貌しつつあって、徐々にではあるが、足を取られる吸引力を覚えるに至った。地響きが起こり、うなり声が上がった。まるで予定通りに進まないからイラだっている会社員か、それとも、思い通りにならない子供がぐずついているのか。どちらにしても悪天候には変わりない。
目の前に泣いている少女がいる。酷く心が疼く。興奮していた。性癖としてであったならば、それこそ、笑い話にできたかもしれない。しかし、状況がそれを許さない。彼の心にあったのは既視感だった。嫌なことを思い出そうとした。それでも、必死になってせき止めた。過去なんてものはいくらでも思い出せる。重要なことは今なのだと奮起した。
彼の足取りは行き先も覚束ないながらも、確かであった。




