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「判ったんです。姉さんはもう、ボクだけの姉さんじゃなかったってことに」
秋人の唇は随分と瑞々しいのか、饒舌につまるところもなく、清流のようになめらかで心地よいテンポを伴っていた。だからというべきか、惹きこまれる印象を彼は酷く植え付けられていて、そこはかとない歯がゆさをかみ締めた。
何かを思う。それは、介在している事象に検討がつきそうでつかないというじれったさであった。かくも、藤堂秋彦という男は過去に思いをはせる余裕などこの場で持ちえていないのだから、その焦燥を突き止めるに至らず、秋人はそんな彼の胸中を当然のように察するわけもなく、その達者な口ぶりを披露するばかりであった。
「両親がボクの父と母を演じているただの他人となってしまったのと同じように、姉さんはボクの姉であることを演じていただけなんです。そのことに、ボクは、嫌でも気づいてしまった。最初は苦しかった、何でなのってむしゃくしゃだってした。けれど、よくよく思いをめぐらせて見ると、それでも良いと判ったんです。苦しかったけれど、姉さんの笑顔はとても眩しくて、ボクに見せてくれるものとはまったく別物だったけれど、だからこそ、姉さんが楽しそうにしていることは、嬉しかった。だから、それでも良かったんです。たとえ偽りでも、同情だとか、哀れみだとか、そんな見下し方をされたって、一緒に過ごせる時間があるだけで良かった――。ホントは、ホントはね。姉さんにいつまでも依存したかった。だって、大好きだから。でもそれはできないよ。姉さんをボクのいないところでいつも誰かが褒めていた。聞こえてくるんです。耳に入ってしまうんです。だからこそ、見てしまう。姉さんはいつも困ったように笑った。嗚呼、ボクが鎖、枷になってしまっているんだって。でも、そんなこといやだった。姉さんは心のどこかでうんざりしていたんじゃないかな。ボクことを嫌っていたのかもしれない。邪魔に想っているかもしれない。それが、それが……どうしようもなく、怖かった。不安で押し潰されそうになった。だから、努力した。ボクはこんなにも立派になったって、ほら、もう姉さんがボクに縛られることはないよ。姉さんの負担になんてなりたくなかったから、身体だって造り替えたんだ。アンドロイドだとかサイボーグにだって改造される覚悟を持っていたし、むしろ、ある日突然、怪しい組織に拉致されて改造人間にされてしまうなんてことだって考えたりもした。それだって構わなかった。だって、そうなれば、姉さんは解放されるから。本当は、ボクが居なくなってしまえば良い。だけど、そうしてしまえば壊れてしまう。せっかく均衡を保っていた世界が、なくなってしまう。それじゃあ、困るんですよ。姉さんが、住良木家がどうなってしまうのか皆目見当もつかない。そんな不安定な世界に姉さんを飛び込ませることなんて、できないじゃないですか。誰でも良い。ボクの背中を押してほしかった。でも、叶わないことだって判ってた。だから、必死だったんですよ。死ぬ気でやったんですよ。出来る限りのことを、ボクに与えた、課した。姉さんが笑ってくれるために、それだけのために。ボクに向けられたものじゃなくてもいい。姉さんがずっと、ずっと気持ちいいままで居てくれたら、それで救われた」
だから、ねぇ、なんで、それなのに――。
この期に及んで、秋人はいまだに泣かなかった。もはや意地であるかと感嘆たる思いを抱くほどに、その華奢な身体をとっさに抱きしめてやりたい衝動すらも生み出された。しかして、そのような暴挙に及んだところで何になるのかを理解する程度には、理性を宿していたもので、大事に至ることはなかった。しかし、彼は歪んでいた。その表情は寝起きの顔ほどに醜いもので、しかして不快ではない情の走りが皺を作っていたのだ。
嘆息を、ひときわ深く、しかし音を極力殺して行った。
ようやくに無感情を装った仮面を破壊することには成功した。本来の姿をさらけ出した。それゆえに、溜め込んでいた感情が徐々に、それでも確かに吐き出している。望むべき答えは持たず、投げかける問いすら、導く大人の言葉すら見つかることはなかった。
思いをはせるだけともいえる。だからこを、考えあぐねた。
「許せない」
秋人はこのとき、無ではなくなっていた。人形のような面持ちは鳴りを潜め、人間らしさである感情がまざまさと浮かんでおり、その言葉は有無を言わせず、自己暗示にも似た脅迫を滲ませていた。
「だから、願った」
続けていった、力強く、しかし、震える声で言葉を放った。それから、ふと、彼は空気の変貌を機敏に感じ取った。しかし、だからといって、秋人の言を止めるには値しなかった。
「消えちゃえって」
軽かった。先ほどの重苦しさが霧散したと錯覚するほどに、薄っぺらいものであったが、異常さは抜きん出ており、思わずに固唾を呑んだ。
拍子抜けした、というわけではないが、彼の顔が少しばかり強張った。意表をつかれたといって良い。
開き直った子供がへらへらと笑っている。が、そこに軽薄さはない。むしろ、痛々しいもので、思わずに彼は天を仰いだ。何を持って、ここまでかたくなに心を突き動かすのかほとほと理解に及ばない。
住良木秋人は泣いている。およそ、表面には浮き出ていないのだが、感情の揺らぎと表現するべき声質は確かに震えている様を隠すのだ。
泣いたとして、誰かが怒るのか。この場において、たったの二人。そも、それは心外であるという気持ちすら湧き起こさせる代物で、だからといって、その事に対して苦言を呈するほどに心酔するわけでもない。ただ、言わせておけば良い。深追いは禁物である。情が移ってしまえば、何かと厄介で、それどころか不幸話は仕事柄聞き飽きている節もあって、耐性はあった。
「消えちゃえって、そしたらあっさりと、願っていたことが叶っちゃってびっくりちゃったよ。何でだろう、本当に消えちゃった」
責任を自覚しながらも、最愛の存在を失ってなお、この軽薄さを演ずる意図がつかめなかった。が、そればかりは本人とてわかっていながらそう行動しているかと判断がつかない。
「まるで太陽が翳ってしまったみたいに、暗くなってしまったんです。もう上ることもない、暗いだけの世界がいつも続いた。なのに、どうしてでしょう。両親は、姉のことなどまるで居なかったかのように振舞った。表向きは必死に探しているそぶりは見せたけれど、実際のところは全部警察に任せて、それでも、自分たちは被害者家族だって、哀れんでもらうことが当然だと思っている。だけれど、普段通りに過ごしていた。ボクが変わらなければ、きっと、姉さんなんて本当にいなかった。初めから存在すらしていなかったと錯覚してしまうくらい、普通の生活が続いた。そんなもの耐え切れなかった。ボクの責任で、ボクのせいで、姉さんが消えてしまった。家族の思い出の中からもはじき出されてしまうかもしれない。怖かった。何よりも、ボク自身がその環境に適応し始めていることが恐ろしかった」
――判りますか?
顔を向けた。苦しみに歪んだ顔があった。この少年は、住良木秋人はどうにも心を病んでいることは確かなことであって、色々な、いうなれば人格がぐちゃぐちゃになって一つの器を、自我という器を取り合っているのではないかと思わせるほどに、ここへきて感情の揺らぎがやたらと大げさになった。常人ではこれでも物静かな印象を抱くであろうが、先ほどの、まるで人形のような佇まいを知っているならば、驚きに目を見張ったことだろう。
「ボクは姉さんの顔がおぼろげになってしまったんですよ。写真を見るとはっきりしているのに、頭の中でこねくり回した姉さんは。全部が曖昧だった。だから、姉さんを忘れたくなかったから」
「そうか」
「やめるつもりはありません」
「止めるつもりはないさ」
そもそも、そこまで突っ込む道理はなかった。
「何も言わないんですね。さっきまで言いたい放題だったのに」
意外とばかりか。しかし、その音色は平坦さを取り戻しつつあった。
「やりたければ好きにすればいい。そこまで深いところまで踏み入れるつもりはない」
「でも、姉さんからの仕事でもあるんじゃないですか」
「信じているのか」
「信じさせてください」
強い決意がその言葉には乗っていた。これを否定するには骨が折れそうで、余計な暴言や批評を受け付けるつもりもなかったので、許容することにした。
だが、問題はそこにない。あるといえば、目の前に広がっているとさえ表現できる。出来ることならば、このまま雑談に興じ、再び道化の化粧を施した秋人を伴って住良木家へと趣き、色々とたまっている鬱憤をさらけ出すかのように金銭を巻き上げる口上をまくし立ててしまいたかった。今回の件に関して、当然のように赤字であるからして、金を得る機会をむざむざ手放すわけにはいかない。つまりは、決して、今の状況を望んだわけではない。
それはやはりどうしようもなく、この場の変質を認めるにいたり、彼女がうつろな風貌すらも曖昧なっていくほどの、白いモヤが立ち込めてきていることに緊張を余儀なくするしかなかった。つまりは、ゴールデンウィークなどと豪勢な名前を冠する休日に、おどろおどろしく、ましてや世間様に用立てもできない諸問題を突きつけられ、それをなんとか許容してきたがゆえに気づいてしまったといえる不都合な現実が再び起こりうることが決まってしまい、見える者と見えざる者となって、防ぎようのない奇奇怪怪の遭遇に際して身構える必要があると急速に肝を冷やしながらも、考えをめぐらさなけれならなくなった。
ジョージのウソつき。と、悪態を吐き出してしまいたいとばかりに顔をしかめてしまった。
空気が冷めている。夜なのだから涼しくなるのも当然ではあって、さも気にも留めない、ということも一理あるが、夜半まじかということであろうとも、唐突に吐き出す呼吸の営みが視界に収まる程度に冷気を伴うだろうかという疑問が瞬間的に発生したところでおかしくはない。先ほどよりも幾分に、それはもう、ロングコートくらいは羽織ったところで不自然ではないやもしれないばかりの寒さが急速に忍び寄ってきていた。
ずしり、と重みが自己主張を始めた。心が、心臓が脈動する。使うことになると、身体が準備を始めていた。胸にしまう――正確に伝えるならば、わき腹に収まるホルスターに収納される凶器の存在が増した。今となっては頼りない。人間ならばこれほど強大な代物を隠し持っているならば、尊大な態度をとったところでおつりが出るだろうが、そうも言っていられないのだから、ほとほとに身に余るとうんざりした。
出会いは突然の遭遇によって介在する事象であるが、迫ってくる異変は求めている。突然、偶然などでは説明できない。あるのは必然だった。張り巡らされた蜘蛛の糸に絡みつかれ、にっちもさっちもいかない状況に陥ったと即断できた。
つまりは、今、背後に存在する何者かについて心当たりが漠然としながらもあるのであって、非常に不味い状況となっていた。
彼は思う。ここで振り向くことは精神衛生上、とてつもなく悪いことが起こるだろう。だが、幸運なことに橋の上であって、振り向くということは後ろを見やる行為に他ならず、それはつまり、川を覗くことに相違はなかった。夜半に街灯もない川を覗くわけもない。だからこそ、機先を制して誘導するという実に紳士的な行動を起こせば、ひとまずに何かしらの変調を隠し通しつつも時間稼ぎが十分に出来るはずである。少なくとも、藤堂秋彦という探偵はそんなところで無理やりにでも希望を見出していた。しかしながら、幸運な思考回路は全ての不確定を排除した結果であって、そこには当然ながら、他者の思考が伴っていない。
あいにくと、非情に心苦しいことであるが、秋人はわからない側であることはもはや疑いようもない。それは何も悪いことではなく、むしろ正常な地球人と呼称するならば実に健全であって、誹謗中傷を受ける立場にはなりえない。しかして、彼は混乱していたのだ。先ほどまで明確に区別していたものなのに、土壇場になって無意識に共有している知識だと逸脱したご都合主義に染まっていた。
この場においてはただただ悪手、というだけであって、しかしながら、見えない者として扱うことをすっかり忘れてしまっていたがために、その普段通りの行動を起こし、非常に拙い事態を引き起こす――それは秋人がゆったりと立ち上がるところから始まった。それはあまりにも自然な動きだった。そして、よし、これから一声かけて左の小路にそれてしまおう、などと虎視眈々たる気持ちでもって彼は息を吸った。
不運なことというならば、彼のたち位置がどうしたって、秋人よりも後方にあって、それはつまり、少なからず対話を行った相手に対する何らかの感情的機敏によって、一言くらいはお礼を言ったところで、いや、むしろ礼節をわきまえようなどと思い直して、居住まいすらもわずかに正す素振りすら見せた秋人は、実にけなげで相応に男児であることを忘れさせるほどの可憐さを振りまいたものだったから、あろうことから、彼は目を奪われた。暗がりの最中、緊急事態、生命の危機すらも容易く投げ捨てたようなもので、ただ、呆けた。秋人が振り返り、スカートがふわりと舞う様に見惚れた。
その少女らしい動作が、どうしようもなく変貌を加速させた。
彼は、夢から覚めたとばかりに顔をゆがめた。それから、間に合わずとも、
「おい、待て!」
と声を振り絞った。とっさのことで、だからこそ余計に、秋人は勢いを持って振り返った。彼を見やるためだった。何のことはない。誰かの矢面に立つために、秋人は普段と変わらない動作を行った。ただ、その先にいた存在は何であったのか。
そこで見たものは一体なんであるのか。
耳をつんざく絶叫が、おぞましい事実を否応にも突きつけてくる。恐怖に顔を歪ませ、感情の全てを吐き出させるかのように声色は引き裂かれる様に、鋭くも容赦がなかった。
弾かれた様に、彼は懐に右手を差し込んだ。冷たい手触りはいつ持ったところで気分が優れない。ましてや使用したことなど訓練の中だけでよかったと、今ですら思ったほどの、されど今更ながら使い慣れている代物に成り果てた回転式拳銃のウッドストックを握り締めていた。所作に澱みはなく、すこぶる快適でなめらかだった。
振り返りながらも凶器を引き抜いた。躊躇はない。引き金を絞るための指先に力が入る、続いて双眸が確かに照準を合わせていく。
それは霧、というにはあまりにも凝り固まっていた。だからといって固形であるかといわれてもそれは判断に困った。ただ、漂っているという認識にだけ確信を抱き、とてつもない異物であるという認識に相違はなく、白い球体だとしか言いようがない。しかし、だからといって白い球体が、目玉を泳がせいる光景は酷く現実味が薄かった。さりとて、鼻を刺すような異臭を撒き散らす汚水が口と言っても過言ではない空洞から滴り落ちて、歪にその唇であろう縁が動き――笑っていた。
ゲラゲラとケタケタと、人間の限界を逸脱した不協和音がこだましていた。寄り添うように聞こえていた秋人の悲鳴は鳴りを潜める。彼は秋人の生命を考慮する余裕など持ち合わせていなかった。だからといって、自分自身の生命がたかだか拳銃だけで守れるなどとうぬぼれてもいなかった上に、走馬灯すら許さぬ事実に気が滅入っていた。
ただ、身体は思ったほど硬直せず、素直であって、それだけは幸運と呼べた。彼は無心とは程遠いものの、化け物に向けて寸分違わず、とはいえ、はずすことすら難しいほどの的であって、もはや目をつぶったところで命中は疑いようもないのだから、命中することが目的ではなく、このときを持って、確かに銃は有効であるかの審判が下る瞬間でしかなかた。乾いた音、酷く場違いにすら思える軽い反響とともに、弾頭は人の目を避けるように素早く、愚直にまい進し、白いモヤの球体へ到達し――それはただ消えていくだけだった。
彼は笑う。ただただ笑う。この世の理不尽に愛想を尽かし、この場において生きることは不可能だという諦観に支配された。
うごめく球体が人の口腔を、無数の手を創造し、怖気の走る壮絶な笑顔を形成し、耳をつんざく名状しがたい嘲笑を響かせて、彼に逡巡する暇すら与えるまでもなく、その異形は襲い掛かった。
彼は、世界が暗く閉ざされるそのひと時を、脳裏へと焼き付けることにだけは、辛うじて成功を収めるに至る。
――ありがとうございました。
確かに化け物はそういった。その声は、聞いたことがある。明瞭なもので、幼すぎる印象を十分に抱かせた。中性的でありながらも、意識のうちで女性だと断ずる根拠を伴って確信した。
住良木真琴は確かに、笑っていた。幻視であるかはさておいて、ひどく場違いな光景を見るに至り、ふっ、と力が抜けて、彼は思う。嗚呼、これで死ぬのかと。
その思いを最後に、意識を混沌へとなげうった。




