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翌朝、もとい、すでに昼を回るくらい盛大に寝過ごしたと言える時間に目を覚まし、だるい身体を持ち上げたところから始まった一日ほど憂鬱なものはなかった。
いつの間にか寝ていた、という表現が良く似合う状況であったが、久方ぶりに疲労が残ったことで、いつも以上に気だるいばかりかタバコを吸う気もおきなかった。夢を見ていたのは事実であって、それはとても悲しく、胸が引き裂かれるほどの辛さがあった痕跡だけが身体に残っているようで、加速度的に、それはどうしようもないほどの億劫な気分を発生させていた。よからぬことの前兆である。こればかりは経験則といわざるを得ない。身体の不調は何らかのサインであって、思い当たる節などここ数日余りある。
仕事に没頭するよりかは、周りの変化に身が持たない。不安ばかりがよぎる。これでは身動きもいずれ取れなくなると危機感すら覚えた。
身支度を済ませると、重い体を引きずった。休んでおきたいところであったが、今は異常事態であって、こんなことを長引かせることはごめんだという気持ちが疲労を凌駕した。
とはいえ、食事はすませることにして、とにかく汀へ入店をすませてしまう。まばらな客が目に入りつつも、格好を気にすることも面倒になったので、なるべく視界に映らないであろう奥まったカウンター席に腰を落ち着けた。
マスターからの一瞥を貰ったものの、素直にコーヒーとサンドウィッチ、サラダを頼んだ。いつものメニューである。中身はマスターの気分で変わるので飽きることもない万能メニューだった。
「アキさん。今の件、終わりそうかな」
カウンターに出来たばかりのサンドウィッチを置きながら、マスターはそんなことを言ったものだから、これは別件が押しているのだと勘付いた。しかしながら、その問いに対して非常に心苦しく、かといってすぐさま切り捨てて、別件を優先しろと命令されない程度の進展状況をにおわすために、まずは連続失踪事件に今回が絡んでいることまでを当たり障りなく説明した。全て話したところで、それは信じてもらえるだろうか、などという不安は微塵もない。あるのは危機感であって、それはマスターがやはり、映画が大好きだというその一点のみに集約されるのである。それから、本丸でも突いてみようという思惑を話すつもりだったが、マスターは口を挟み、
「そうですか。なら大丈夫。そっちに専念してくださいね。何、こちらもそれに噛んでいるようだから」
などと不穏な言葉を残した。すかさず追求すると、隠すものではないとばかりに軽く言う。
「ヤクザがね。一人消えてしまったようですから、こちらにもお話が来た、というわけなんですよ」
「そりゃ、また。上役でも?」
「そこまでは、まだ。あちらさんも、動きかねているんでしょうね。警察も動いてますから、下手に刺激したくはないのでしょう。しかし、どっちも手が早いものですよ」
「そうかい」
つまりはそのヤクザも、住良木真琴も、同じであると、本業同士が勘付いたというわけだった。事件性であるとマスターですら認めているうえに、そうであると告げたのだから当然のことであるが、だからこそ、マスターはあえて、何も問いたださなかった代わりに、ヤクザの話をしたのである。
この一件、連鎖的な解決の糸口を持っていると判断されての放任。責任感がどういうわけか、望んでも居ないのにむこうから飛んできて背中に勝手気ままな粘着を見せているようなもので、酷く不快な気分に陥った。
そういったわけで、ますますに宇宙人、などという荒唐無稽を漢字三文字で表現してしまうような言葉を出すわけにもいかないので、早々に飲食をすませると店を後にした。
やるべきことは決まっている。
仕事をすませてしまえば良い。今一度、やるべきことを反すうするならば、住良木真琴を探すことである。
失踪現場は新市街の小路であって、彼女が存在した痕跡こそあれど、人物そのものが見当たらない。行き先も告げず、しかし、死んでいるのではと臭わせるほどに何か凶事が起こったことを示唆する血痕。
目撃者は居るが、どれも弟である住良木秋人とともに居たと証言するばかり。喧嘩をしていたと本人が語ったようであるが、その目撃情報はない。
ならば、どうだろうか。普通のところを見落とすほど近しい間柄では到底ありえない立場に立っているものだから、セオリーとして、弟の秋人は何かを隠している、と考える。それが何かはわからないが、例えば犯人を庇う、それどころか当事者であって、もちろん秋人が犯人である可能性だってある。
かといって、警察が捜査する過程でそこを洗わないのは不自然だ。身近なものこそ犯人である可能性が高いのだ。身内、恋人、友人、近隣住民。些細なことが積み重なって凶行へと変貌を遂げると知らない警察はいない。しかし、だからといって警察とて万能ではない。ひいては警察の捜査を全面的に信頼しては仕事が立ち行かなくなる上に、精神衛生上、贔屓することができないものだから、結局のところ向かう先は現場ということになる。
今では異境ではなかろうかという悪態すらもれた。しかし、彼は歩く。なぜかと問われてしまえば、車移動の大変さがまとわりつく。光洋町は広いが、狭い。その道々はまるで篭城戦を想定しているかのように複雑怪奇な小路の坩堝。主要道路を外れてしまえば、迷路として娯楽にすら転用できそうなのだから、それゆえに、だからこそ、面倒くさく、面白い町である。
東区に入ってから喉が渇いたので自販機でもと求めていると、新品の公園を見つけ、其の入り口付近に守衛のように立っている様を認めるに至った。誰も居ない中、律儀にうあり声をあげながらも客を待ち続けている自販機の前に立って、とりあえず、コーヒーで唯一の百円表記である見たこともない銘柄を興味本位で選んでみて、それから、一口目を味わうものの、間髪入れず一気に飲み込んだ。これはコーヒー風味ではあるが、まったく別物の甘い飲み物だと結論付けて、今度は百二十円のペットボトルに入った水を買って、喉を潤した。で、気を取り直し、重い足取りを伴って進み始めてまもなくの頃だった。
見たことのある制服が揺れていたことを認め、それから交差点で信号待ちをしていることが実に都合よく、対岸を望むかのようにじっとりと観察してみれば、なるほど、颯爽と歩く様まさしく二度に渡ってその姿を拝むに至った住良木秋人であったのだ。
こんなところに何故、それもゴールデンウィークの最中、制服姿で闊歩しているのか、と思えば、そもそも目的地が住良木家周辺だったということで、これは偶然というには少々、強引さを覚える。
住良木家の問題すら、今はそれとなく把握しているものだから、女装している事実もあって異様なる懐疑を向けるわけでもない。これは、必然の中で発生した偶発的遭遇かつその装いに間違いはない、と考えを改めて、そこからどういうわけか、彼、あるいはこの場合は彼女と呼ぶほうが正しいのだろうかと悩むくらいには正常な判断力を伴って、ともかくに住良木秋人を尾行する真似をすることにしたのであった。
最初から尾行するつもりはなかった。
姿を認め、思わず青信号に変わった横断歩道を小走りに渡りきり、その背中に向けて、おもむろに手を挙げ――それから胡散臭くその手を頭に行かせ、乱暴にむしって見せた。
声をかけてどうするつもりか、後先を考えずに行動をする悪い例だ。何を話すべきか頭をひねったが、何も出てこなかった。依頼者に依頼を手伝って欲しいと頼むことはこれまでにも幾度か経験しているものの、今回に限って強く求めるものではないばかりか、ここで積極的に交流を持って良いものかという自制が生まれる。
依頼人をつけまわすなど、よほどの事情を持ってして行うものであろう。少なくとも今しがた、なんともなしに交差点で信号待ちをしていたときに見たあの横顔を思い出して、それから、やはり女の子にしか見えない、というおよそ性別を間違えたことは汚点ではなく必然だったと、なおさら力説的な納得を覚え、さて、つまるところ何処に行くのかという興味にそそられてしまったから、よし、尾行するか。などと軽々しく行うものではないだろう。
そもそもこれは偶然である。出会いは偶発的なものであったかもしれないが、たまたま、同じ道を、同じ進行方向へ歩いているだけであって、何も一定の距離を保っていることに他意はないのだ。
つまり、正当性を持っている。見つかったのならば平然とコンタクトに踏み切ってしまえば問題は発生し得ない。
それからはよく馴染んだ。雑多な人ごみの中にまぎれることはとても容易い。
彼女、あるいは彼――は道草を食うわけでもなく、かといって別段急ぎというそぶりも見せず、淡々と、しかし、確実に住宅街へとそれるように移動していく。
その姿、後ろ姿はどういうわけか写真、あるいは動画の中抜きを一つ見せ付けられているような錯覚に陥るほど、鑑賞する行動じみて仕方がなかった。一枚一枚、それはストップモーションですらあった。
東区のとりわけ端ということもあってか、新旧の町並みが曖昧な立ち位置にいる住良木秋人という人物を除外しているのか、それとも、本人がすでにこの光洋町そのものを拒絶しているかは定かではないものの、ただ独り舞台にたって、延々と一人芝居に打ち込む演者のごとく、誰にも関心されず、かと思えば別段にして、当人がそれを望みかつ周囲に反応を求めているわけではない。たとえ周囲から嫌われ、見放されようとも、関知しないのではないか。
あれは本物なのか、ともする疑惑がふって湧いたことに対する忌避はまるでない。むしろ当然の帰結であるとさえ思えてくる。
確かに女性的であるのは否めない。それは悔しくもあるが、否定したくもない、煮え切らないものである。が、それは性別の話であって、人物の個に関してはどうであるのか。
果たして、あれはあの雨降る夜に出会った少女なのか。あれは、明朝に押しかけてきた快活、なれど含みある陰を見せた佳人であるのか。
日常の最中に観察するならば、劇的な印象を植え付けた出会い、夢うつつの朝においては美化が多分に加わっていたと思えてくる。本来ならば、愛嬌はあれど、ひそかに求めてしまうもどかしさを覚えるほどではないのだ。ともすれば、胸をすく思いは安堵である。かどわかされていたなどと自虐的に捉えていたものだから、こうして正常であると外面から判断を突きつけられてしまえば、よほどに信用にたるもので、自己暗示による強引な解決を見出す苦行に陥ることもない。
性別という観点からしてみても、住良木秋人は歴とした男であることを、咀嚼することは叶わずとも把握していた。まさか、男とわかってなお、恋慕に等しい劣情を催すほどに飢えている様子はなく、女性らしい姿ではあるが、あれは男だ、と判断できている。すこぶる正常であることが証明されて、今は尾行などという行為の最中にあってなお、心は実に晴れ晴れとしていた。
住良木秋人は紛れもない男である。
そんな特異な男が仮装をしている、それはやはり、姉である住良木真琴になりきることでで辛い現実から目をそらし、比較的落ち着いていると見受けることができる心情を維持することに執心しなければ到底、人並みの生活を行えないのではないか。ならば、ひどく善意的にみても彼女と称するほうが、健全であるのではないか。たとえ同情として見下したとしても、対面を果たさなければ向けられることのない哀れみを抱こうと問題はないはずだ。そう結論づけた頃合には、すでに腕時計にして十五分ばかりが経過していた。その際、中々の移動距離を誇っていたのだが、住良木秋人の行動原理は不明といえる。寄り道はまったくしない上に、制服姿ということもあって、学校へ向かうのかと一考したが、今は大型休暇の最中であってか可能性は薄いと思い直す。しかしながら、家に帰るのならば移動している方向はまさに真逆へと舵取り寸分違わずといったところで、そこに迷いの一切はない。
家や学校ではない目的地があるのだと判る行動であって、彼は気になった。心を痛めた彼女が、一体どこを目指すというのか。最悪の場合は、どこぞの新興宗教にのめり込んでしまっている可能性だってあるものだから、そこはまっとうな大人として、前途多難たる彼女の行く末を見守るがごとく、さも、それが当然のように、女装した男児を尾行する行動と存在を肯定するのであった。
彼女は迷いなく歩く。其の足取りには明確な意思がある。それほどに彼女は歩いた。繁華街をとうに通り越し、人ごみが薄くなって、それから住宅地の真新しさも落ち着き、閑静な住宅街と銘打つに相応しい空間が場を包み込み始める。そうして、あるところで立ち止まった。人通りのまったくない小路が、彼女の左手に開かれており、そこへ足を踏みいれた。ついていこうにも小路は見るからに狭い。そも、小路といえるのだろうか。顔をほんのちょっぴり出している金属製の棒はいかにも道の真ん中に立っており、それは手すりだとわかった。ならば、階段だ。手すりの色合いは真新しい白銀の光沢を放っている。そこに堂々と入り込んではどうにも怪しい。ごまかすにしても状況が芳しくないならば、心象の悪さで、今後の活動に支障も起きかねない。だからこそ、其の小路に足を踏み入れることに強い抵抗を示すほかになく、仕方なくあたりを見回し不審者になりえないと確認をとってから、やむにまれず、顔を覗かせるといういかにも通報されてしまいそうな行動をとってしまった。急がなければ彼女を見失ってしまうと焦ったのだが、元をたどり、そもそも彼女を追いかける都合はなにもないわけで、ここに踵を返し、素直な気持ちで姉のほうを探そうというまっとうな勤労精神を米粒ほどのサイズも持ち合わせていたのならば良かったが、あいにくと、彼は好奇心旺盛で、それはまるで幼子のようにたくましくも卑しいともいえる代物であった。何処へ向かうのか、其の確認を取るのに、少しの時間も必要とせず、彼女は視界に映った。
小路はやはり階段になっていた。左手に折れてしまえば、そこからずっと小川が付き添うように流れている。その小川には各々、辻の通行を行う橋であったり、家に通ずる私道であったりと多くが架かっていた。
そのうちの一つ、信号も当然のようにない。一目瞭然である、ここは自動車が入り込んで良い道ではない小さな辻の右手の橋に、彼女は立っていた。幸いなことに見下ろす形をとっていたので、こちらの不審者には気づいていない様子であった。
違和を覚えた。それは何故か、という自問に答えはない。ただ、少しばかり世界の様子が変わったのではないかなどと、素っ頓狂な気持ちが湧いたものの、すぐに切り替えた。馬鹿なことを考えるものではないと素面を貫く。
彼女はしばし、水面をじっと見つめていたが、それからおもむろに周囲を警戒でもするかのように観察し始めたものだから、彼は慌てて首を引っ込める。こちらとしても、あまりにもおざなりな行動だったため、今一度、周囲を確認してみるが、野良猫がじっとこちらをにらんでいる程度で、ほっと、安堵のため息を漏らした。それから、十秒ほどを胸中で数え、そろそろとまた、顔を出すのと同じ機会に小川で飛沫が音ともに弾けた。何か小さいものが小川に落ちたのだと思う程度の音で、小石など投げいれたようである。
彼女はすでに横顔になっていた。小川に背を向け、こちらから見て右手の小路へと消えていった。彼女は再び町を彷徨うことを始めたのだった。姿が見えなくなるのに合わせてからようやく小路へと滑り込み、なにげなく、いかにも散歩でもしていますよという体であると言い聞かせながら、橋の上に立った。そして、
「なるほど」と、理解が湧いた。
ここで、住良木秋人は、姉である真琴と別れたのだと。
彼女はここに来て、ただひたすらな後悔を味わった。最後の別れを、何度も追憶しているのだと、確信的に思った。
思わずに彼女の背中を見た。すでに影も形もない。しかし、それでもうっすらと見えてくる。
空気が止まると、音が波打つことを忘れてしまう。それから、世界の彩りは骨休めを始めていた。セピア色と評するべきか、どこか古ぼけた無声映画が始まった。それも視界一杯という大パノラマで上映される。
自覚したからなのか。果たしてこの地の想いが強いからなのか。しかし、だからといって、制御などできるはずはない。事実を知っただけで認めたわけではない。つまり、いつもどおりの結果しか生み出さない。
――彼は、夢を見た。
そこにあった。確かにあった。過去のものとして、漠然としながらも存在した。
夕暮れである。十六時を回った頃合、十七時に届かない程度の午後だった世界は早着替えを済ませていたようだ。
学校指定の、それは男子制服の黒く堅苦しい装いを着こなしていた少年の小さな背中が遠ざかっていく。
おもむろに一瞥を横に向けると、もう一人の当事者が立っていた。
唖然とした、あるいはもっと別の感情を張り付かせた顔だったのだろうか。しかし、ただ、顔の見えない学校指定の女子制服に身を包んだ少女が取り残され、立ち尽くしていた。面を下げ、小刻みに震え、それからやはり、悲しんでいるのだと思った。どれほど立ち尽くしたのか、ただ無気力だと一目でわかる重い足取りをもって、階段を下り始めていた。家に帰るのではなく、まるで意思がなく、ただ重力に負けてずるずると下っていく道を選んだように見えた。
幻影はやがて、逢魔時に溶けた。
事実であろうとも、この今を持って、それは終了した。妄想に近しい出来事を経て、二人の別れが喧嘩であったことを改めて理解するに至った。
おもむろに階段の下を覗く。橋の手すりを握りながら、見つめてみた。流れにそうように階段が途切れ途切れに段を成す。町並みが溢れ、遠くに母なる海がどこまでも続いている。
太陽は傾けど天にある。空は青い。何もかもが元に戻っている。世界が再び動き出したことは疑いようもない。
ではどうしてだろうか。このまま下っていけば奈落へと通ずると思うほどに、薄ら寒い階段に思えてしまった。明るいのに、まるで何も見えてこないかのような錯覚に襲われる。
時間もよろしくはない。気分も悪い。タイミングが良すぎた。信じていないが、怖がることはできるうえに、知識として回避することができない程度には蓄積されてしまっている。彼は足踏みして、それから嘆息を盛大に吐き出してから、仕方がないとばかりに遠い影を追って住良木家を目指した。
詰まった。




