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01

書きながら煮詰めていければ良いな、と思っています。が、唐突に畳むことも起こりうるやもしれません。ご了承ください。

 馴染みの部屋の明かりを落とし、その薄暗い中でただひたすらに彼は悶えた。

 ノイズ交じりの音色を朗々とラジオが小音量で垂れ流し、それを子守唄としつつ、誰にも邪魔されることなく、ひたすらうつぶせにふさぎこみ、ただ時を浪費する。

 なじみのデスクの一角には、一階の喫茶店で購入してきたサンドウィッチとコーヒーが熱を奪われながら放置されているが、その傍らにあるグラスには露がこぼれ、薄い琥珀色がグラスの底を染めている。酔っていることは確かなことであるが、だからといって眠りにつくわけでもなく、目は開いたり閉じたりを不規則に行って、夢と現実を往来しながらも、ただこうしてじっと、それこそ居心地を悪さをかみ締めている。

 身体はひどく疲れていることは判る。光洋町の都市計画で整備されつつある東区への仕事は、久しぶりに足が棒になるほど歩いたものだから、風呂に入ってゆっくりしたいと願ってさえいるものの、動く元気がない。仕事の書類や道具は乱雑に応接用のソファとテーブルの上に乗っていた。

「……何で俺は、あんなことをしたのか。いや、できなかったのか」

 妄想癖、というべきか、いまだに果たしてそうなのかと悩みはじめてみれば、とうに三十も十二分に飛び越えてしまった。けれども一向に治まる気配はない。馬鹿馬鹿しいと思いながらも悪いことじゃないとふてくされる。

 いつまでも高望みしたところで理想はあくまでも理想にすぎず、ただ心を痛めるだけだというのに、こりもせずにあれこそと空想に耽ってしまうのは、大人として実に気持ちの悪いものではないだろうか。正常とはとてもではないが、思えない。しかし、これほどまでに心を焦がしたことがあっただろうか。

 行動を冒して幾ばくかもしないうちに、"あれ"とifの別世界を空想しては、着地点の心の中で反省会を開いて酒を呷るしかできないというのに、頭では妄想が脈絡なく大風呂敷を広げて充実感すら滲み出す始末。ふと、酒の効果が切れてしまえば、押し寄せる後悔と自己嫌悪の漣に心は見事に抉り取られ、自尊心は深淵へと流され置き去りされて、かといって綺麗さっぱり忘れることができるわけでもなく、延々とあの時、こうしていればよかったと嘆息を仰々しく吐き出すしかないのだ。だからこそ、彼は一人でに悶えている。今日ばかりは渦巻く羞恥が胸にこびりつき、かと思えば燻る火種のような肉欲が体中を巡って熱を帯びていた。後悔は頭の中ですでに済ましており、その方向性が珍しく積極的に動くべきだったという悔恨の念が十重二十重と石抱きを受けているかのような鈍痛を与え、彼をなじった。

 もう少し、ほんのちょっぴり、キザったらしい男らしさ、あるいは純然たる善意、軟派な下心だって良かった。何か一つでもピースががちりとはめ込まれてしまえば、後悔するにしたってここまで欲に焦がれることなかったはずだ。

 時は戻らない。幾ら願ったところで元通りには行かないのだから、仕方がない。頭は常に冷静だったし、そんな頭脳が彼にとってひどくうっとしいものだった。はたして頭蓋骨の中で悠々と身体に命令を送りつけている物体は自分自身なのかと憤るほど、心身に隔絶を覚えてしまった。

「――終わったことだ。これからを考えよう。それが良い」

 ひ弱だと、顔をゆがめる。これほどまでに弱くなったものか、椅子に座っていることが幸いでしかない。もし立ったままであれば、きっと腰を抜かして起き上がることすらままならない。

 心が、疲れていた。己の行いに、嫌気がさしていた。けれども、起こした行動を忘れることなどできなかった。

 日付が変わる午前零時。雑居ビルの三階に、看板すら掲げずひっそりと存在する藤堂探偵事務所の門戸もんこを叩く輩はいない。彼は三時間にも渡って何をするわけでもなく、悶々と興奮をせき止めつつも、必死になって過去となった出会いを振り返ることを繰り返していた。

 雨が窓を叩く。そうだ、三時間前から何も変わらない雨音だった。偶然だったのか、いや、どこか予感があった。昔から時折冴えて、身を滅ぼすことにも繋がった勘に弄ばれたに違いない。

 明日からはゴールデンウィークであって、誰もかれもが浮かれていた夜半のことである。視線の先に、立っていた。ふと視線が固定されて、辻の街灯の元、あれを映し出していた。雨に濡れたあれは、ただ儚げで淡かった。見れば見るほどに惹き付けられ、壊れてしまいそうなほど精巧に容作られたガラス細工ではないかと疑ってしまえるほどだった。

 街灯がスポットライトの仕事を引き受けていた。四辻が急ごしらえで味わい深い壇上となって、そこへふらりと近づくにつれて、演者として舞台にあがることへの緊張感や愉悦を伴った奇妙な高揚があった。

 髪をむしる。ぞんざいに扱って、音を立てて痛みを受ける。

「悔しい」という気持ちがあった。

 今頃、あれはどうしているだろうか。家に帰ったのか、はたまたまだあの辻にいるのだろうか。もしかするならば、いや、あるのだろう。嗚呼、何故に俺は、声をかけなかったのだ。雨宿りにこいといわなかった。いや、どこか店に入って、善意の仮面を被って真摯に相談を受ける場を設けるべきだったか。あれは今、別の男とともにあるのか。人通りは少なかった。しかし、だからこそ、あれは目立つのだから、輩が通れば声をかけるに決まっている。俺がそうだったのだから、軟派な男なら飛びつくに違いない。何故、あんなところにいたのだろうか。まっていたのか、男に声をかけられ、ついていくことを望んでいたのか。いや、きっと違う。何かやむまれない事情であそこにいたのだ。あるいは初めから男がいたと考えるのが自然だろうし、あれを放っておく若者など男ではない。しかし、雨の降りしきる中で傘もささずに、男を待つものか。嗚呼、あれはフラれたに違いないのだ。あれは、その悲しみを隠すため、まだ冷たい初夏の夜中、雨に打たれていたに違いないのだ。

 何度となく、まるで念仏でも唱えるかのように、彼は彼自身の言霊に縛られていく。

 浮気調査の終わりというのも、関係していた。妙齢の女性が夫とは別の男に体を許した様を調べ上げるのだ。依頼人の夫には男として同情を禁じえない報告をせねばならないことへの陰鬱さもあったが、今では変質して久しい気分である。事前にたくましい妄想が存分に発揮されていた。そうでなければ、一回りも違う少女にこれほどまでに悶えることがあってよいのか。

 だが、あれは一体なんだったのだろうか、と幻想を抱いて心をときめかす。美人であったかといえば、断言はできなかっただろうものの、妄想の中であれは美化を受けて女優やモデルのような高嶺の花へと昇華してしまっている。健全ならば、それもまた若者に区分されない男の妄想として嘲笑の的になるだけであろうが、よりにもよって抱く気持ちが不純であって、それを自覚してしまっていることによる果てしない嫌悪に苦しんだ。

 脳みそは容赦なく想像豊かだった。あの華奢な身体にまとう制服をさも当然のように消し去ってしまう。三十幾年をも間、培ってきた女の裸体サンプルを深みから惜しみなくサルベージして、合成させていく。胸は大きすぎないものだ、そうに違いないと確信を持ては、すぐに移ろい始めて、活発な少女らしい黒髪のショートボブが、小さな顔立ちに良く似合っていたと感じ入る。雨の湿り気で小麦の肌に張り付くさまの扇情は、学生らしからぬものがあった。すらりと伸びた四肢はしなやかで、スカートからスパッツの黒がやたらとまぶしく顔を覗かして、スポーツをしていますと強烈な自己主張を醸すとともに、視線誘導を否応なくされてしまい、網膜に焼き付いて離れはしない。裸体ではないのだ。あれの魅力は着衣あって充満する少女と女の二面性の介在に他ならない。

 あの、スパッツの下は――。

 肉欲の高まりは静まることを覚えないのだから、一つ発散してしまえば楽になるだろうが、かといって存分にしてしまえば、脆そうなあれに霞みをかけて、妄想に煌々と輝く神聖さすら纏わせた欲が堕落し、穢れてしまうのではないかという純情な不安が駆けた。まるで、童貞の少年だった。欲情には不純さが寄り添っているものである。それを自覚していながらもなお、出会いに健全を求めてしまった。恋愛という蓋をかぶせ何もみていないふりをする。自嘲も何度となく漏れた。しかし、それこそ間違ってはいないのだ。心は少年のそれを残していたのだと、開き直り、これはやはり、間違いなく少年の抱く恋とは程遠いものだと自覚している。

 彼は、ひたすらに悶えることを選んでいる。そうすることで、忘れえない過去を現実のものと空想できる。後悔して、自ら立ち止まる。

 二度と戻れないのだから、これ以上先に進みたくはない。今の位置から、最高級の記憶を強烈なまま、一身に受け止めていたい。

 せめて精根尽きて眠るまで、彼は夢の中と夢想し猛烈な欲情とともに忘れ得ない出会いを享受することを厭わない。

 ただ一人でいるこの場の特権だと、己を偽り納得させながら、童貞の頃へ戻り、性欲の覚えを思い出して刺激的な哀愁を催す過去へと逃げることしかできないくらいに追い込まれ、かつて経験した栄華たる学生時代の恋愛に焦がれている。枯れたと自称して独り身で良いと虚勢を張ったところで、無意識化において、重々に泥濘の中へ隠しておいた情欲が消えてしまったわけではないことを、今宵の出会いを持って自覚してしまった。

 若い女、その容姿、肉付き、醸す色気――。

 幻想だ。けれども事実だ。彼の頭脳が過分に美化しようとも、感覚は研ぎ澄まされて、恋人ではない、もっと深く、もっと単純でありたいと騒いでいる。昔の女に取って代わり、無遠慮に侵して行く。

「しかし、眠い。嗚呼、寝よう――」

 と、彼は無残にも懇願に振るえて、雑念を切り捨てることしかできなかった。


メリハリをつけたいという思いから、投稿しつつ完結を目指そうと考えています。

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