11月、あのラーメン屋にて
夕方四時。11月に入り全く寒くなかったのが嘘かと思えるように今日は寒かった。いつもの感覚で薄着をしていたらまさかこうなるとは思いもしなかった。一歩ずつというよりかは何も動かなかったのに急に目の前に居るかのように冬は近づいてきた。
腹が減った、何か食おうと鞄に手を伸ばしはたと気付く。今朝も同じように腹が減ったからと鞄の中を漁り、財布がないと悟った。昨日少ないカネでどうにかやりくりしようと財布の中身をひっくり返していた。ひっくり返された財布はそのまま自室にある。がっくりと肩を落とし、空腹を紛らわしながら最低賃金のバイトへと向かった。そのバイト帰りにまた財布がないことに…いや、待てよ。
大丈夫だ。心配はない。財布はないが、とごそごそ鞄を漁るとそれは出てきた。預金通帳だ。給料が入っている通帳が裸のままで鞄から這いずり上がってきた。
目の前には牛丼屋。向かいには銀行。しめた、と足取り軽く銀行へと小走りする。預金を下ろすことに一瞬ためらいを感じた。それは昨日お金のやりくりをして財布を忘れた事実を思い出し、ただでさえ苦しい生活をこんな牛丼ごときに無碍にするのかという思い、ではなく、単純に通帳のみでカネを下ろせるのかひやひやしていたからだ。
通帳がゆっくり吸い込まれる。ディスプレイに映る「カードがある際にはカードをお入れ下さい」の文字。その直後十桁の番号の画面に変わった。暗証番号を慣れた手つきで押すともう一度画面が変わる。
よかった。金額をカードなしで下ろすことができた。少ない少ない預金から千五百円を手に入れた。これだけあれば牛丼をたらふく、いや、牛丼どころかハンバーグ定食だって食べられる。ラッキー。ハンバーグを食べる幸せを感じられるなんて。
牛丼屋の前には新発売のハンバーグ定食の写真のある看板がこちらを誘うように掲げられている。いざ入ろうかと思った踵を返して違う方向へと立ち去った。
どうしてか。以前ハンバーグ定食を食い終わった瞬間にとてつもない後悔に襲われたからだ。牛丼は確かに安い。だが貧乏人の俺からしたら630円のハンバーグ定食は高い。牛丼屋のハンバーグなんてレンジでチンしただけじゃないか。それを目の前で見せつけられて630円。何の価値がある?すぐ近くにはランチでそれ以下の値段の定食屋がある。そっちに行けばよかったと激しく後悔したのは先週末だ。
だったらどこに行く?ランチはもうさすがにやっていないだろう。風が横殴りに吹き付ける。サラリーマンは縮こまり、女性は落ち着いた色のコートを着てその風から必死に自分の身体を守ろうとしている。紅葉が始まった街路樹からの落ち葉が風で舞い上がっている。
こんな寒い時には、何か温かいものが食べたい。
ふと浮かんだのは友達の言葉だった。偶然近くの会社で正社員として働いている友達はいつも先輩にチェーン経営のラーメン屋に連れて行かれる、もう飽きたから食いたくないとこの牛丼屋の前で話していた。
俺は飽きていない!ならばそこのラーメン屋に行こう!
でも待て。まずは場所を調べなければ。スマホの地図アプリを開いて店の名前を入れる。「ラーメン嵐山」京都府嵐山が尋常ならざるスピードで映し出される。このポンコツ!地元へ地図をスワイプさせるがそれらしい場所は見つからない。
友達が嘘を話していた?そんな訳はない。多分。じゃあ機械が嘘をつくのか?……そちらの方があり得そうだ。
何となくこちらかなと自分の勘を信じて歩いて行く。繁華街、その途中に興味をそそられる店は幾つか出てくる。
焼き鳥居酒屋。夕方にはやってない。
餃子専門店。ちょっとお高い気がする。
別チェーンの牛丼店。あそこは高い割にまずい。
ラーメン嵐山。うん、案外簡単に見つかったな。
しかしこのラーメン店、実際に入ったことのあるのは家から歩いて5分の店しかない。バイト先は結構都会にあるのでここがどんな店か分からない。店先には地元とは違ったメニューのランチが載っている。残念ながら午後4時には出せないらしいが。
自動ドアをくぐると案外店内が狭いことに気付く。テーブル席が四つ、あとはカウンターだ。席には客がいない。独り占めか。とりあえずカウンター席に座った。店員の日本語がなまっている。例によって外国人か。地元にはそんな人はいないのに。やはり都会だから仕方ないか。
メニューをじろじろ見回して結局牛丼屋のハンバーグ定食と変わらない値段の醤油ラーメンにしよう。店員さんに声を上げたが調理具の音と異常に五月蠅い有線のせいで一度では声が聞こえなかった。
なんとか注文を終えるとすぐにスマホをいじる。ツイッターを見る。ネット上の知り合いがどうでもいい情報を全世界に垂れ流している。地図アプリは後でアンインストールしておこう。地図も読めない地図はただの紙切れだ。
「オマタセシマシター」とズレた発音で醤油ラーメンが運ばれてきた。いつものラーメンと大差ない。
何も言わずにすすり始める。味も変わらない。チェーン店はこういうもんだ。こういうもんだから行きたくなるのかもしれない。
有線からは日頃毛嫌いしているバンドの最新曲が流れる。多分毛嫌いしているのは今だけだ。本当はこのバンドの事はどうでもいい。天の邪鬼になっているだけだ。この曲が良いかどうかはよく分からないが、少なくとも人気があることには変わりない。ラーメンを半分食べ終わると次に話題のドラマの主題歌が流れてきた。今時珍しく歌謡曲を使っているなんて面白いドラマだ。ただそのドラマのテーマ曲だということと歌謡曲だということしか分からない。歌詞もさっぱり入ってこない。厨房でぐらぐら煮えたぎっているスープや換気扇の音が段々強くなってきて音楽が少しずつかき消される。
でもこんなのもいいのかもしれない。ただ一人、自分の欲望のままにラーメンをすする。来月になったら忘れているであろう今しか聴く事のない曲を聴きながら。
ラーメンはいつも通りだった。メンマが全く入ってないことを除くが。あの外国人、手抜きしやがったな。
「ロッピャクサンジュウエンデス」
財布も無いから仕方なくポケットの中に入れた千円札を手渡し、おつりをポケットに突っ込んだ。
外に出ると案の定寒い。だけど繁華街の人間の多さか、あるいは光の多さからか、ちょっとだけ寒さを忘れることができた。
それと同時に自分は何故財布の中の小銭一枚を気にしていたのにこんなどこにいっても変わらない味のラーメンを、外国人がメンマ抜きにしやがったラーメンにカネを出したのだろうかという虚無感に襲われた。俺の身体で稼いだ最低賃金のほとんどがあのどうでもいい味のラーメンに消えたなんて。
でも何故だろう。あのどうでもいい味のラーメンと、どうでもいい曲が流れている店と、二度と会うことのない外国人がいたあの店が、何故だか印象に残っている。
単純にあがいているだけなのかもしれない。無駄金を使ったと認めたく無いのかも知れない。でも今だけは何故かあの場所は物凄く幸せな場所だったのかもしれないなと今は思う。
また明日も稼ごう。そう意気込んで力強く歩き出し、急に近づいてきた冬にやられて大きなくしゃみを二回した。