帰りを待つけれど
魅美(妹)視点
「大丈夫かな…」
兄が心配だ。私を助けてくれた兄は、今どこでどうしているのだろう?
私が家に着いてもう2時間経つ。
いつもなら兄の料理を黙って食べ終わって、自分の部屋にいる時間だ。
でも、私はまだリビングにいた。帰って来た兄に礼を言うために。
ガチャリ。玄関のドアを開く音がする。
兄が、帰ってきた。
安堵と焦燥が入り混じる。
兄が無事で良かった。
私のせいで危険な目に合わせてしまった。
二つの感情がぐちゃぐちゃになって、頭の整理がつかなくなる。
ガチャリ。リビングのドアを開く音がする。
「お兄ちゃん…」
兄を呼んでドアの方を見れば、そこに兄の姿はなかった。
「ただいま…て、魅美?どうしたの?」
姉が仕事から帰ってきたようだ。
安堵が、強い焦燥と後悔へ変わる。
私のせいだ。私のせいで兄は不良に捕まった。きっと今頃、"妹さえいなければ"って、そう思ってる。
私が兄に冷たく当たっていた罰なのだろうか。
家の事をなんでもこなし、いつも家族の事を気にかけてくれている兄に、わけもなく反発してしまった。
その時少し気分が悪くて、つい威圧的な態度をとってしまったのだ。
"話しかけないで"。そう言ってしまった。あの時の兄は、どこまでも悲しそうな顔をしていて、いつもの柔らかい雰囲気が、何処かへ飛んでしまっていた。
多分、それからじゃないだろうか。私と兄が口を聞かなくなったのは。
私はあれ以来、兄との接し方がわからず、話しかけることができないでいる。
兄も、私に何も言って来ない。
最初は嫌われたんだと思った。
でも違った。兄は、私の言った"話しかけないで"という言葉を守ってくれていたにすぎないのだ。
今日、やっとそれに気づいた。
兄が私を助けてくれた時に考えた。
何で私を助けたのか。
嫌いなんじゃなかったのか。
話したくないんじゃなかったのか。
いなくなればいいとか、思ってるんじゃ無いのか。
逃げる前に、そんなことを聞こうとした。
でも、出来なかった。
不良と対峙する彼の顔は恐怖で歪み、握り拳は震えていて、おまけに膝も笑っていた。
そんな状態になっても、私を助けるために人を殴り飛ばしたのだ。
優しい兄が。温厚だった兄が。臆病だったはずの兄が、人を殴った。
兄が人を殴ることは小さい頃から何度かあった。
私と姉は、その現場の多くを目撃している。というより、必ずどちらかが目撃しているのだ。
なぜなら、兄が人を殴る時は、必ず家族が関わっていたから。
『妹をいじめるな』『姉ちゃんを悪く言うな』『母さんは悪くない』
兄が怒るのは大抵そんな理由だった。
一度お父さんを殴り飛ばしたこともあったか。お母さんがお父さんにぶたれて、それを見たお兄ちゃんが怒って。
それからあの2人は仲が悪くなった。
そのままお母さんが亡くなって、お父さんは私たち姉妹だけを大切にして、兄は高校にすら行けなかった。
でも、兄は"俺は母さんの代わりに家事をするから"って、笑顔で言ってた。最初はお姉ちゃんと私が手伝っていた。でも、お姉ちゃんが仕事で忙しくなって、私は兄を突き離してしまった。
高校に行かず、家で家事をしている兄に友達など出来るはずも無い。
兄は、1人になってしまったのだ。
話し相手のいない生活。
仲の悪い父親、帰りの遅い姉、冷たくなった私。
こんな3人に囲まれて、兄はどんな気持ちだったのだろう。
暗い気持ちになった時、縋る相手がいない兄はどんな思いで今まで生きて来たのだろう。
私は、なんで気づいてあげられなかったのだろう。
兄のことを考えていたら、目から涙が溢れていた。
「ちょ、魅美?あんた泣いてるじゃない。どうしたのよ?それに…幸希は?」
こうき。久しぶりに、その名前を聞いた気がする。兄の名前だけど、それを呼ぶのは姉くらいのものだ。
「お姉ちゃん…おにっ…ちゃんが…っ…!」
嗚咽が混じって上手く喋れない。
でも、出て来る言葉を止められなかった。
私のせいで兄が不良に捕まった。
それから兄が帰って来ない。
これはきっと私への罰なのだろう。
そう、姉に告げた。言い終える頃には、私は姉に抱きしめられていた。
優しい香りがする。
「あんたのせいじゃない。それに、幸希なら大丈夫よ。昔っから頑丈なんだから。それともう一つ。今回のことがあんたへの罰だったら、それは私への罰でもある。私、仕事で帰り遅いからね…2人にはいつも迷惑かけてるよね。……ごめんね」
姉の頬を涙が伝う。
泣いている。私と同じように。
後悔してる。私と同じように。
謝っている。私とは違って。
「幸希が帰ってきたらさ、2人で謝ろう?今までごめんって。私さ、新しい職場見つけたの。これからは、8時には帰って来れるから。だから、また3人で、ご飯…食べよう?」
「うん…うん…」
姉の言葉に、何度も頷く。
謝ろう。お兄ちゃんなら、多分笑って許してくれる。それから、3人でご飯作って、3人でご飯食べるんだ。
それだけ心に決めて、姉の体を抱きしめる。
お互いの肩に顔を寄せて、私達はそれからしばらく泣き続けた。